【反論の反論の反論】TUBU氏の「超かぐや姫!はご都合主義の極み。全然ハッピーエンドじゃない(ファンによるガチ批判感想)」について
まず、ご都合主義だという感想の部分に関しては別に感想は個人の自由だと思っています。ご都合主義という言葉自体定義があやふやかつ許容範囲も人によって違うので。拙者が反論しているのは「ヤチヨが感情を複製人格であるために超かぐや姫はハッピーエンドではない」という考察の部分です。
①「人格」を「分身」と解釈するのは単純に強引すぎると思います。さも分身として解釈できるようにおっしゃってますが、日本語としての意味が全然異なるじゃないですか。とありますが、TUBUさんは以前
「仮想空間上に(新たに)用意された人格」、つまり最終盤に映っていたヤチヨは仮想空間上に再現されたヤチヨ本体のコピー・複製・”分身”だとほぼ確実に言えるのではないかと思いますし
と言っていますよね?どういうことなんですか?
とまぁ揚げ足を取ってみましたが、このように大量の文章を書くうえで全ての単語が必ずしも日本語として完全に適正に使用されているとは限らないのですから、文章から単語を切り出しても意図しているニュアンスを正確に読み取れるとは限りません。文脈を無視して単語の辞書的な意味を元に文章を解釈するというのは考察としては確度が高いとは言えない。ですから仮想空間上の人格という単語だけでヤチヨからコピーして作成した複製人格であると言い切るべきではないと言っているのです。(逆に分身であるともこの単語からは言えません)
もちろん最終的に公式が何と言うか次第で、あなたの解釈の方が正しいかもしれないとおっしゃってるとおり、この文章が解釈の割れる余地があるというのは認められていますよね。そのような文章は確定情報として扱うべきではないです。
「複製人格」として読み取れる描写と考察(分身の否定)
(1)この掛け合いだけでは別の記憶を持っているとまでは決めつけられないでしょう。かぐやとして実体を持った状態でやるライブは久々すぎぃ~!と言いつつもまぁヤチヨとしては先週やったばかりなんだけどというジョークであると読み取れます。逆に別人格同士の普通の会話であんな爆笑しないでしょう。あと八千年ぶりの身体でのライブなら緊張や高揚を見せるのは自然に思います。
(2)この場面でわざわざ分身を出している必然性は確かに薄いです。ですがTUBUさんの複製人格説においても実は謎が残ります。というのも、ツクヨミの管理人としての役割を与えられたヤチヨがかぐやのスマホにくっついて同行している理由です。TUBUさんの言う通り彩葉とかぐやは二人で暮らしてツクヨミの管理などは複製のヤチヨに任せると決めたとした場合(これもどっから生えてきた設定なのかは不明ですが)、パブリックな存在である複製ヤチヨを二人のプライベートな登山に連れてきたりするんでしょうか?
どちらの説でもこのシーンって結構謎なんですよね。
(3)これは直接的根拠というより伏線的なものとして言及しました。この作品匂わせ多いので、これも後の展開に向けた何らかの意図を持ってるかなぁと。あとアニメディアの超かぐや姫関連の記事は結構面白いので全部見るのオススメです。
②まぁこれはそちらの言うように感性の違いですね。美味しいパンケーキを食べるために二人で頑張り続けたAとBという二人が居たとしたら、Bがある時点までのAと同じ記憶と感情を持っているA’に対して、今からAにだけパンケーキを食べさせるね、お待たせと言い、それに対してA'が待ち遠しくて堪らないと言うやり取りにTUBUさんは何ら違和感を持たないようです。
③ロケットに乗ってる絵が正確に状況を描写している訳ではないからといって、あえてネジをつけてロボロボしく描いた作劇上の意図までは否定できないでしょう。そして「複製」についてですが上述の通り辞書的な意味に拘泥するべきでもないでしょう。作中では文脈として特別な意味を持った単語として「複製」を使っていますよね?
性格変化の件についてはガイドブックについて誤植扱いしてる方の記事の3)ヤチヨはかぐやに戻れるの?あたりに対するものです。
分身説はヤチヨが分身能力を持つという作中で繰り返し言及された設定を根拠としており、またアニメディア3月号のようにかぐや=ヤチヨは分身能力をたくさんあるやりたいことをやるといった目的のために使うであろうことも示唆されています。素朴に見れば「ああ、分身出来たもんな」と思うでしょう。基本的に素朴に見て分かる解釈が作者の意図であることが多いでしょう。あとこれは拙者自身直接確認していないので根拠には出来ませんが、ウェルカムアナウンスVol.5でかぐやとヤチヨが分身してるのを示唆してるとかなんとか⋯
複製人格説の場合、まず感情と記憶を持った複製という概念が本編にはありません。そしてそれをわざわざ新しく作成する動機もまた示されていません。導線に乏しいのです。
あと複製人格説の最大の否定材料はTUBUさんもおっしゃっている通り「可哀想過ぎる」です。作劇上このような可哀想な存在をあえて作る意義はないでしょう。
TUBUさんの複製人格説は結局のところ「仮想空間上の人格」と「複製」という単語を、文脈や作劇上の意図などを無視して単語の辞書的な意味と自身の感覚から解釈したものから生まれています。そしてそれを前提に作品はキャラを捻じ曲げていると主張しています。
拙者は逆です。
キャラが捻じ曲がっていないかや文脈、作劇上そう設定する意味があるかが優先度の高い上位の概念であり、単語の意味なんかはそれに合わせて解釈を変えるべき下位の概念だと捉えています。作者の書いた文章の意味、ニュアンスがそっくりそのまま読者に一つの揺らぎもなく伝わるなんて訳ないので。
あと書籍の購入および反論は貴方の自由意志に基づく行動です。何ら強制はしていません。



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