安藤馨さんが見る国旗損壊罪の有害性 国民統合の役割を自己破壊する
「憲法季評」安藤馨・一橋大学教授(法哲学)
国旗損壊罪法が施行されて数日がたった。本法の成立に至るまでには、主としてその合憲性を巡って多くの議論と指摘がなされた。内心の自由に配慮して「侮辱の目的」が本罪の要件から外されたとされるが、処罰される損壊事例とそうでない損壊事例の差異――「国旗を大切に思う国民感情」を害するか否か――が、損壊行為によって表現される意味内容に依存することに変わりはなく、表現の自由(憲法21条)に対する内容規制として、本法は違憲の疑いを帯びたままである。
国旗保護法制を表現の自由に対する制約として繰り返し違憲と断じてきた米国憲法判例の歴史はこの疑いを支持するものとして極めて示唆的である。他方、米国憲法における表現の自由(修正1条)の憲法的地位は特異に強力なものでもあり、政治献金の総額や医薬品広告の規制までもが表現の自由に対する不当な制約として違憲とされる。表現の自由の理解において米国に倣うことが真に賢明かは疑問なしとしない。だが、表現の自由を措(お)くとしても本法の問題は解決されないだろう。
自由な社会の古典的な基本原理である危害原理は次のように主張する。国家の実力的強制の目的は、多様な諸個人に共通してその自由な幸福追求の基盤となり、それゆえ自他の人生にとってのその重要性がお互いに承認されるべき、生命身体財産といった個人の具体的利益に対する危害を防ぐことに限定されるべきである。だが、当該感情の侵害をこうした危害に位置づけることは容易ではない。現代的立法は騒音や悪臭の不快など、古典的な危害にはあたらない程度の不快の防止をも正当な立法目的とする傾向にあるが(不快原理)、不快の範囲を無制約に広げれば時々の多数派の好悪の強制がそのまま正当な立法目的として許容され、自由な社会が損なわれる。そこで、防止されるべき「不快」についても生理的な共通基盤を有する嫌悪感(悪臭、騒音)にとどめ、国旗焼却を目にすることによる嫌悪感といった個々人の特定の価値観や信念に強く媒介される類いの嫌悪感自体の防止は正当な立法目的から除外しておくことが賢明である。
他方で、信念に媒介される感情の保護を目的とする表現規制の実例として礼拝所不敬罪(刑法188条1項)を挙げることもできる。人々が礼拝所不敬――周知の通り冒瀆(ぼうとく)行為は高度の政治的表現たりうる――の規制を国旗損壊の規制と同様には問題にしなかったのだとすれば、国旗損壊を巡る政治的問題の本丸は表現の自由や感情の保護にはなかったということなのだろう。
国民が「国旗を大切に思う」としても、「物」としての国旗や日章旗という意匠そのものではなく、それが象徴する何事かのゆえにそれを大切に思うのであり、保護されるべきは感情自体ではなく象徴の対象である。先の国会での議論に欠けていたのは、日本国旗が何を象徴しているのかを巡る正面からの論議であった。日章旗が他国旗のように自由、平等、友愛といった「人類の普遍的価値」を象徴していないことをあげつらうつもりはない。戦前戦後の国体変動を生き延びた日章旗は、国体変動を貫く歴史的な日本国民の国民統合を象徴し、かつ「普遍的理念」をあえて象徴しない(ことにより、価値に関する特定の見解を民主的論議と象徴の対象から排除しないという利点を有する)ものとして理解されうる。
本欄でこれまでにも指摘した通り、国民への服従要求を含む民主政の正統性と健全性は、個人の尊重と生への配慮、及び困窮による政治的認知の歪(ゆが)みの回避を基盤とし、それゆえ福祉国家を要請する。福祉国家は国民統合抜きには維持し得ないから、民主政国家は国民統合の維持に正当な関心を有している。過去・現在・未来にわたる国民の共同体とその問題を「我がこと」として引き受ける態度こそが――それなくして「戦前の反省」も成立し得まい――民主政の基盤として、それゆえ市民が備えるべき徳として要請されうる。
最大の問題は、国旗損壊罪法が、それが本来目的とすべき国民統合の象徴的保護を達成し得ないことにある。刑罰的威嚇は自発性を毀損(きそん)する。奴隷が「勤勉」であると評価され得ないように、強制された「徳」はもはや徳の名に値しない。共同体とその歴史の「我がこと」としての引き受けは、他律的強制によっては達成しがたい。刑罰のおかげで損壊されずに存在する国旗は自発的に引き受けられた国民統合の存在を伝達しない。国旗損壊罪は自己破壊的であり、余計かつ有害である。
ただし、国旗損壊罪の自己破壊性の問題は国民共同体の自発的引き受けを要請されない外国人には生じない。もし仮に、外国人の国旗損壊によって国民の排外的意識が醸成され、国民統合をゆがめる危険――本来、同胞の重視は異邦人への敵意を意味しない――が真にあるのだとすれば、本法は外国人のみには正当に適用されうるのかもしれない。日本国民の外国国章損壊が国家の外交作用を害するというのであれば(そしてそれに伴う表現規制が合憲だというのであれば)、外国人の日本国旗損壊も国民の排外意識を醸成することで国家の外交作用を害しうる。国旗損壊罪は、対象を外国人に限定するならば、外国国章損壊罪と同種の法益を正当に保護するものなのかもしれない。だが、この限定がグロテスクな代物でないかの判断は読者に委ねよう。
安藤馨さん
あんどう・かおる 1982年生まれ。一橋大学教授。専門は法哲学。著書に「統治と功利」、共著に「法哲学と法哲学の対話」など。
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- 森本あんり国際基督教大名誉教授=神学・米国研究提案
深い共感をもって読みました。法律の目的は「物」としての国旗ではなくてその象徴を保護することなのに、その議論はなかったし、それが何を象徴しているかはあえて公の議論で特定しないことが日章旗の利点であるとすれば、この法律ははじめから矛盾を抱えていることになります。 「国旗を大切に思う国民感情」を保護するという目的が刑罰による強制では達成できないのなら、これはたしかに「余計かつ有害」な法律ですね。わたしが国旗を尊重するのが、まるで刑罰を怖れてのことであるかのようで、わたしの国民感情は傷つきます。 施行後3年を目途として加えられる検討に期待します。
2026年8月19日 11:03