知識人「言論男社会」の深すぎる闇…「呉座勇一事件」の背景にあったもの

「呉座勇一事件」の衝撃

2021年2月、ベストセラー『応仁の乱』(中公新書、2016年)の著者・呉座勇一が、シェイクスピアを中心とする文学の研究者で、『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』(書肆侃侃房、2019年)などのフェミニズム批評でも知られる北村紗衣をはじめ、多数の女性や「フェミニスト」「リベラル派」と目される学者や知識人への誹謗中傷を、4000人以上のフォロワーを抱えているツイッターの非公開アカウントで大量に行っていたことが、フォロワーから北村への「告発」で発覚しました。

元々は北村が、『観応の擾乱』(中公新書、2017年)の著者である亀田俊和が、高名な歴史学者である網野善彦に対して「日本が嫌いそう」「レフティ」などといった評価を行ったことに対して北村が「冷笑的」と批判したことで一悶着あったことに端を発する議論から、様々な経緯があって発覚したものですが、呉座のツイートには、女性研究者や「リベラル」と目されるライターへの誹謗中傷で、呉座のみならず日本中世史の研究者や出版業界の関係者など多くの人間(その大多数が男性です)が盛り上がっていたということがますます衝撃的でした。

〔PHOTO〕iStock
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しかし衝撃的なのはそれだけではありません。

北村が受けてきたオンラインハラスメントが発覚して以降、一方的なハラスメントの被害者である北村に対して、「仲介役」を買って出ようとする研究者(こちらも大多数が男性です)が次々と現れました。中には「直接会って論争すべきだ」という人間まで現れました。

言うまでもないことですが、一方的なハラスメント被害者に対して、「中立的」(実際には、中立と見せかけた加害者側の代弁者と言った方がいいのですが)な立場の人びとが勝手に「仲裁」を買って出ることは、むしろ被害者側を余計に萎縮させるものでしかありません。

ここで注目すべきは、「仲裁者」や「中立的」と見せかけて呉座の側に立ったような言説を展開する人の多くが男性であったこと、また多くが学者などの「知識人」であったことです。

私はいままで様々なところで言論における「リベラル」バッシングやネットにおける女性差別・反フェミニズムなどを検証してきましたが、その中で、アカデミズムから出版界、さらにはインターネットに至るまでの男性中心主義的な「知」のあり方が問題なのではないかという問題意識が常にありました。また、そういった傾向に対する違和感は少なからぬ研究者(特に女性)から散発的にツイッターなどで表明されてきました。

だから、この呉座の事件を受けて、北村ほか数名によって発表された声明文「女性差別的な文化を脱するために:研究・教育・言論・メディアにかかわるすべての人へ」は、とても画期的なものでした。呉座から北村に対するハラスメントを生み出した「構造」について、極めて体系的にまとまった形で書かれていたからです。

ここで指摘されているのは、呉座から北村などに対するハラスメントが「会話」や「掛け合い」といった「遊び」の中で強化されていったこと、性差別や性暴力に反対する特に女性の言説に対する戯画化です。

そしてこういった構造は、先の声明文でも指摘されているとおり、女性のみならず、在日コリアンやトランスジェンダーの人びとに対する差別に関しても同様の構造を持っていると言えます。

そして次のように、批判の対象はネット上のコミュニケーションのみならず、学会や言論、メディアの世界にも向けられます。

ネット上のコミュニケーション様式と、アカデミアや言論、メディア業界の双方にある男性中心主義文化が結びつき、それによって差別的言動への抵抗感が麻痺させられる仕組みがあったことが、今回の一件をうんだと私たちは考えています。呉座氏は謝罪し処分を受けることになりましたが、彼と「遊び」彼を「煽っていた」人びとはその責任を問われることなく同様の活動を続け、そこから利益を得ているケースもあります。このような仕組みが残る限り、また同じことが別の誰かによって繰り返されるでしょう。( https://sites.google.com/view/againstm/home
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私としてはこの声明文に付け足したいものはほとんどないのですが、こういったコミュニケーションを生み出したものとしての、出版業界からネットに至るまでの「リベラル」や社会運動への歪んだ視線と、それが「コード」として蔓延してしまっているという問題をここでは採り上げたいと思います。

ここで採り上げた文章はすべて同一の構造から出てきているものだと私は捉えます。そのため「自分とは関係ない」と突き放す(後述しますが、これもまた言論の「コード」の一つです)前に、このような「言論」こそが我々が生きる社会の残酷な一側面を反映しているものとして考えるべきときが来ているのです。

社会問題より「リベラル」が気になる

私が2020年9月に「現代ビジネス」に寄稿した「安倍長期政権を『担ぎ上げた』のは誰か? 『論壇』から読み解く」でも触れましたが、2000年代から現在にかけて、特に「若手」と呼ばれる知識人や論客の間で流行している言論として「左派」や「リベラル」への「逆張り」があります。同記事からの引用となってしまいますが、いくつかの著者を採り上げて次のように述べました。

例えば、小見出しに「真説」「まじめに考える」が頻繁に使われている(それまでの歴史の見方は「まじめ」「真」ではなかったということでしょうか)、與那覇潤『中国化する日本』(文藝春秋、2011年)の、2014年に刊行された文庫版においては宇野常寛との対談が収録されていますが、與那覇が《朝日新聞的な従来的な政府批判の媒体》(p.357)の見方を問題視し、それを受けて宇野も《とにかくアンチ自民であることを優先するオールド・リベラルの言葉》と表現し、與那覇の著書は《安倍自民党かオールド・リベラルかの二者択一しかない》(p.358)という見方に新しい軸を与えてくれると絶賛しています。
その後には「若手論壇リベラル」という言葉が出てきます。
また、城繁幸『3年で辞めた若者はどこへ行ったのか』(ちくま新書、2008年)においては、「左派は若者の味方であること」を「昭和的価値観」として斬り捨て、佐々木俊尚『当事者の時代』(光文社新書、2011年)においては旧来の「市民派」マスメディアにおける「マイノリティ憑依」を問題視するなど、古い左派は「若者」ないし「若手論客」的ではないものとして排撃の対象になっていました。

また、呉座の周囲で北村や「北守」こと藤崎剛人を中傷し、後に自身が代表を務める会社のリリースで謝罪することとなった平林緑萌もまた、2019年の「令和」への改元のときに、日本には改元によって「リセット」するという機能があるという、いわば「日本凄い」論を述べていました。

そういや、左翼の方が伝統芸能のように「改元ごときでお祭り騒ぎになるチョロい国民性」とか言ってるのが散見されますが、東アジアはおろか、世界で改元できる国ってもう日本だけなのよ。むしろ、改元というリセット機能を頑なに保持してきたと評価すべきで、それがわからない限り政治的に勝てないよ。
https://twitter.com/moegi_hira/status/1123559558083796992
元号が生まれた経緯についてはここに書いたので、わけもわからず批判してるお左翼の方は課金して勉強していただきたい。
https://twitter.com/moegi_hira/status/1123560228795047936

この「お左翼」という表現は、左派を嘲笑するときによく使われるものです。

「正しいリベラル」を自称する立場の人による左派批判の問題意識は「それでは選挙に勝てない」というものですが、他にも2021年2月に当時立憲民主党の鎌田圭輔が、同党で質疑に立った女性議員がアメリカにおける女性参政権運動のシンボルである白いスーツで質疑に立った( https://twitter.com/cdp_kokkai/status/1358935782644326403 )ことを次のように嘲笑しております。

いっぺん岡山の県北から農村や山間地を歩き、話聞いてみたらいい。
「森会長の発言、どう思いますか?」と、白いスーツでドヤ顔で。
地域の人々の暮らしの感覚と浮世離れしていることに、いつになれば気付くのか。
今日の感覚は、私は不快だ。
地域に根差す。
それをしないから、感覚を間違える。
https://twitter.com/KeisukeKamada/status/1359026975604580356

鎌田のこの発言は質疑に立った議員(亀井亜紀子、金子恵美、山本和嘉子)はもとより、自身の選挙区である岡山5区の有権者に対しても、「農村や山間部の有権者は女性の人権問題には関心がない(そんなもので票は取れない)」と決めつける、あまりにも失礼な発言です。しかし、彼らは「アドバイス」をしているつもりなのでしょう。

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現在のような、「中立的」を自称する立場からの「リベラル」批判のテンプレートは、1990年代半ば頃に確立したものと考えられます。

元々左派が想定する「市民」に対して、例えば民俗学で「常民」と呼ぶような市井の人が見えていないのではないかという批判はいろいろなところであったのですが、1990年代半ばに小林よしのりが従軍「慰安婦」問題にコミットしていく中で、元々このような問題意識を持っていた小林が、「敵」を市民主義から「戦後民主主義」に移していく家庭でリベラルの「全否定」に移行し(伊藤昌亮『ネット右派の歴史社会学:アンダーグラウンド平成史1990-2000年代』(青弓社、2019年)pp.95-101)、また当時青少年に対する不安や不信を高めていった中で、左派も右派も若者バッシングをしていたのですが、左派が狼狽する中で右派は戦後民主主義などを明確な「悪」として描きました。

さらにリベラル派と目される知識人の中にも、例えば宮台真司などのように上の世代(特に「団塊の世代」)が若い世代の「現実」が見えていないとして退場を迫りました。2000年代に勃興した「ロスジェネ」論もまた、主に攻撃の対象にしたのは、非正規雇用者を足蹴にする正社員層と、その支持を受けるとされる旧来の労働組合でした。
こうして「若者」に「リベラル」はそぐわない、という風潮が作られ、「リベラル」への嘲笑がカジュアルに語られるようになったものと見られます。

決めつける、歪曲する

このような状況下で行われるのが、自らが思い思いに「リベラル」像をこしらえて叩くというものです。

例えば、COVID-19禍が欧州で広がり、それに対してアジア人差別が激化していた時期においても、「オタク議員」として有名な大田区議の荻野稔は次のように述べています。

人は命の危険や死の恐怖を前にすると、化けの皮が剥がれてしまいますね。
欧米の方々が築き上げてきた人権意識、ポリティカルコネクトレスが行き着く先は今、コロナウイルス騒動で起きているアジア人に対する仕打ちだったのか。
私は悲しい。ポロロン。
https://twitter.com/ogino_otaku/status/1232582050651095040

差別に心を痛め、差別の被害を受けている人に連帯し、差別行為を批判する前に、「ポリティカルコレクトネス」を揶揄し嘲笑することのほうに重きが置かれているように見えます。

しかし、「ポリティカルコレクトネス」(直訳すると「政治的正しさ」だが、実際には「社会的な望ましさ」と表現した方がいい。詳しくはハン・トンヒョン「ポリティカル・コレクトネス:社会的属性の描き方における『社会的な望ましさ』」(『月刊シナリオ』2021年5月号、pp.8-10)参照)は、荻野のような「オタク表現の自由」を唱える人間にとっては「自分たちの消費する表現に対する難癖」程度にしか捉えられていないことに関してはまだ許容するにしても、「ポリティカルコレクトネス」こそがアジア人差別になっているというのは言いがかりでしかないのでしょうか。

そもそも我が国は、欧米諸国においては法律や社会的規範で反差別を整備していったのに対して我が国は差別行為を禁止する法的・社会的枠組みが皆無に等しいです(詳しくは、梁英聖『レイシズムとは何か』(ちくま新書、2020年)を参照)。それにアジア人差別に対する抗議や連帯はありましたし、わが国においても初期のCOVID-19禍において中国人や横浜の中華街に対する差別は行われてきました。

また、「デイリー新潮」経由でYahoo!ニュースに掲載され、社会科学者を中心に多くの批判が起ったコラムですが、古市憲寿が『週刊新潮』2020年4月19日号に寄稿した連載コラム「誰の味方でもありません」の連載第147回も採り上げてみます。「「国家」を信頼していた人たち」と題されたこのコラムにおいて、古市は「緊急事態宣言」の発令を求めていた左派を次のように揶揄しています。

しかし不思議なのは一部の「リベラル」や「左翼」だと思われていた人までが声高に「早く緊急事態宣言を出せ」とか「欧米のようにロックダウンをしろ」と主張していたことである。
(略)
筋金入りの国家主義者がこうした統制を歓迎するのは理解可能だ。しかし「安倍総理はヒトラーだ」などと主張し、国家主義を警戒していた人までが「緊急事態宣言」や「ロックダウン」を待望するのはなぜなのか。
もしかしたら、彼らこそ「国家」を信頼していたのかも知れない。過剰に安倍政権を警戒していた人には、「悪い奴ら=実は賢いやつら=何でもできるやつら」という思い込みがあったのではないか。いざとなれば、安倍政権はすぐに戦争を起こしたり、徴兵を開始したり、国民を管理下に置くことができるとでも思っていたのではないか。
その陰謀論を反転させれば、今のコロナを巡る状況も、「国家さえ動けば全て解決する」という楽観論になり得る。だから「国家よ、さっさと何とかしろ」となるわけだ。口先ではいいことを言うものの、結局は先生頼みの「学級委員」にどこか似ている。
(『週刊新潮』2020年4月19日号p.101)
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しかしこの論考においては、第一に当時の国民民主党や立憲民主党、そして共産党などが求めていたのは「保証付きの緊急事態宣言/ロックダウン」であるということで、私権を制限するなら国家としての補償も両輪でなければならないということではなかったのでしょうか。

第二に、確かに《過剰に安倍政権を警戒していた人には、「悪い奴ら=実は賢いやつら=何でもできるやつら」という思い込みがあったのではないか》以降については一方的な決めつけです。

安倍政権に対して左派が行っていたのは、公文書の隠蔽などといった国家の運営に関することで、その点では《彼らこそ「国家」を信頼していたのかも知れない》というのは正しいかもしれないですが、それでも《「悪い奴ら=実は賢いやつら=何でもできるやつら」》と考えていると決めつけるのは追求の内容を考慮しないものです。

ちなみに《口先ではいいことを言うものの、結局は先生頼みの「学級委員」》といった、「学級委員」というのは左派嘲笑でもよく使われるワードです。

また冒頭で紹介した亀田俊和は、網野善彦に「レフティ」「日本が嫌いそう」という評価を下したツイートについては削除し、批判した人に対して自分が間違っていたと「謝罪」していたのですが、後に《ぶっちゃけ、レフテげふげふごほんごほんの方々がネトウヨwをつぶした結果、そうしたもっと極右の方々が漁夫の利を得る形になっているわけですが、それについてレフテげふげふごほんごほんの方々がどう思われているのか伺ってみたいというのはあります。》などと、《レフテげふげふごほんごほん》などといっているように「反省」しているそぶりはなく、むしろ、北村紗衣を初めとするフェミニストや彼が「レフティ」と呼ぶ人たち(恐らく私も含むのでしょう)に批判されたことでむしろ「箔がついた」と思っているかのようでした。

このような「ジャッジ」が行われるのは概ね左派に対してです。左派的なものに対してこのように揶揄や嘲笑を繰り返すという行為は、自らがその問題にコミットせずに、自分は「あいつら」より賢いんだ、視野が広いんだという自意識を手軽に満たせる行為以上のものではありません。

茶化す、騒ぎ立てる、なりすます

差別に反対する主張、特にフェミニズム的な主張は頻繁に揶揄の対象にもなります。

例えば、ルポライターの安田峰俊は、信楽焼の狸の置物の写真を貼って《環境型セクハラの極み。性的部位を異常に強調した巨玉フィギュアを公共の場に大量展示する変態志向に驚愕。フィギュアはいずれも知性の欠片も感じられない表情で、全裸に笠のみを身につけアルコールを持つ倒錯した異常フェティシズム。この危険な街はゲートで囲って隔離すべきだ。表現規制しかない》と述べていますが、これについても安田は本気で男性器を強調するような表現に反対しているのではなく女性をカリカチュアライズした表現に対する批判を揶揄しているだけでしょう。

第一に焼き物を《フィギュア》と表現していること、このツイートのあとに自著を「バズったから宣伝」していること、そして自らへの批判に対して《バズりに付き物のクソリプやマジリプがよく届く(500RT超えるとよくある)が、本気で怒っちゃう人のプロフ見ると意外と女子大生多い/フェミニズム自体は思想として重要で、学ぶ意味も穏健に社会実装する必要もあると思うが、若いうちから攻撃的なツイフェミ族になるのは人生の幸福に差し支えないか…》と述べている(ちなみに私は当時34歳男性であるが安田の最初のツイートを批判しました)こと、さらにこのツイートの中で批判ツイートに対して《意外と女子大生多い》とジャッジしていること、そして《攻撃的なツイフェミ族》などという、フェミニズムを揶揄・嘲笑する表現である「ツイフェミ」という表現を用いていることが挙げられます。

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このような揶揄や嘲笑ばかりでなく、性差別の存在の指摘にすら過剰に反応する論客もいます。例えば文芸評論家の千野帽子は、上野千鶴子が2019年度の東京大学の入学式において述べたスピーチ(「平成31年度東京大学学部入学式 祝辞」)に対して、《東大入学式出の上野千鶴子さんの祝辞は、男子学生には男であることの罪悪感を、男子女子問わず専業主婦の母を持つ学生にはそういう家庭であることへの恥を植えつける、大規模な洗脳的ハラスメントだった。人を気まずくさせることが人を目覚めさせることだ、という誤解は男子中学生的で気恥ずかしい。》と述べています。

しかし、このスピーチで上野が述べていたことは、各大学の医学部の入試における女性差別をはじめとする男女間の不公平、そして東京大学が女性である自分や、他にも在日コリアンや高卒者、障碍者も教授に登用してきたことに触れ多様性に開かれていること、そして周囲の環境に感謝し、《あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください》と呼びかけることです。

確かに男性と女性の差別に関して触れることは、(特に東京大学に入るような)男子学生に対してはとても頭の痛いことかもしれませんが、《男であることの罪悪感》を植え付けるというのは言い過ぎであり、《男子女子問わず専業主婦の母を持つ学生にはそういう家庭であることへの恥を植えつける》というくだりは該当する箇所すらありません。

場合によっては法規制を求めることもあります。漫画家の山本貴嗣は、《「傷ついた私」は無限に何かを要求できる打ち出の小づちで水戸黄門の印籠だと思ってる「お気持ち真理教」はやく絶滅してほしい。もっともナントカ過激派といっしょで特定の指導者が滅びても似たような他人が引きついで存続するからたぶん滅びない。なんらかの法規制が望まれる。》と述べており、主としてフェミニズムなどの主張は《「傷ついた私」は無限に何かを要求できる打ち出の小づちで水戸黄門の印籠だと思ってる「お気持ち真理教」》(これは、冒頭に挙げた「女性差別的な文化を脱するために」で示されている《性差別的な表現に対する女性たちからの批判を「お気持ち」と揶揄する》というものです)と決めつけて、なんと《なんらかの法規制が望まれる》と述べており、真正面からの表現規制、言論統制を肯定しています。

さらに、最近は特にフェミニストやヴィーガン、それもネット上で揶揄されているような像に適合するような「なりすまし」もあります。

2020年の年末から2021年の年始にかけて、「映画「鬼滅の刃 無限列車編」に女性専用車両の描写がない」「「ミスタードーナツ」は女性差別的だから「ミスドーナツ」にすべき」「ファミリーマートの「お母さん食堂」の使用をやめるよう求める署名に8回署名した」などというツイートを投稿した「綾野辻子@FemininV」というアカウントが話題になりました。

特に3つ目の発言については、この発言を根拠に当該署名が不正であると主張する人もいました。しかし有志が調べたところ、ヘッダーが海外で製作されたフェミニズムを揶揄する画像だったりするなど、明らかに「釣り」ではないかという指摘が相次いでいます(「【悲報】フェミニストになりすましたバレバレの釣り垢に釣られる人が続出」)。

さらに、「スターバックスの紙ストローは男性器を想起させる」などというツイートをしたアカウントが画像ツイートで晒されて、そのツイートが1万を超えてリツイートされたことがありますが、当初のツイートについても、そもそもできたばかりのアカウントの最初のツイートからわずか14分後のものであり、さらにそれを「晒し上げた」のが最初のツイートがわずか24分後、さらにストローの画像も拾い物の可能性が高いことなど、明らかに不自然な点が多数ありました(うさまる「馬鹿なツイフェミとストローマン論法」)。

フェミニズム/フェミニストについては、こういう「なりすまし」が横行しているという現状もあり、それに対して反フェミニズムのネットユーザーが次々とリプライをしたり晒し上げを行ったりしているという現状があります。

ここまで見た「歪曲」や「茶化し」や「言いがかり」という行為には、社会問題に関する言説を仲間内で消費し、見下す以上の効果はありません。

社会問題や表現の問題に対し、「左派」「リベラル」「フェミニスト」に対する揶揄や嘲笑をいちいち混ぜ込まないと発言できない/発言しないというのは、彼ら自身が自らの発言とその社会的意義を軽く見ているということに他なりません。

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「活動家嫌悪」という空虚な中心

ここまで、ツイッターを中心にいくつかの反「リベラル」や反フェミニズムに見られるようなコミュニケーションの様式を実例を交えつつ述べてきました。

そして、ここまで見てきたようなコミュニケーションの様式の根幹をなすのは、次のような認識ではないでしょうか。特に上の3つの発言は、2020年秋頃、日本学術会議の任命拒否問題が起っていたときに発せられたものです。

とにかく社会運動している連中の学問というのを僕は信用しません。(中西大輔/ https://twitter.com/daihiko/status/1313839180032565257
なんで、いま、みんな日本学術会議に関心を持っているの?新政権のツッコミどころだからというだけでしょう。もともとほとんど関係ないうえに興味もなかったじゃない。ぼくだってそうで、たぶん1、2回ほど部会のシンポジウムかなにかで話したことあるけれど、はっきり言えば関係ない。(西田亮介/ https://twitter.com/Ryosuke_Nishida/status/1312929611081080832
学術会議や学会リベラル論壇自体とは微妙に距離を置いている大学周辺の人たちの「菅さんのこれ、割とマジに一線超えてる感じするけど、いつもの人たちがいつものノリで乗っかっちゃったのでもう終わりだね。まあ、学術会議自体も問題あったしなあ」みたいな温度感、なんか凄い同情してしまいますね……( https://twitter.com/hershamboyz/status/1313445963059535873
オタクは社会活動なんか心底どうでも良いと思ってますから、オタクからの攻撃がエスカレートしたと思うのならそれはそちらが先に手を出したせいです。(ある大手同人誌即売会で長年スタッフとして参加している人物/ https://twitter.com/Calcijp/status/1197780999859425288

こういった、アカデミアやオタク界隈における「運動家嫌悪」という態度、そしてそういった態度こそが「冷静」「中立的」といった態度です。場合によっては「運動家」たちは自分たちの私的領域に勝手に踏み込んできているだけだという認識も開陳されます(そもそも4個目の発言は、私は一介のコミケ参加者として、勝手に主語を大きくするな、と思います)。

私も、ある同人誌即売会で女性差別に関する研究書(『続・ツイッターにおける女性差別に関する考察』筆者のBOOTH及びBOOK☆WALKER、メロンブックス、とらのあなにて電子書籍が配信中)を頒布していたところ、明らかに私より年上のある男性の一般参加者から「フェミニズムやヴィーガンは自分の心に土足で上がり込んでくるから嫌だ」ということを言われたことがあります(もっとも、同書に対して「よく言ってくれた」という人のほうが多かったのですが)。

ここで「現代的レイシズム」という概念に触れたいと思います。これに対置される「古典的レイシズム」とは、アメリカにおける黒人など、人種的少数派に対して彼らが道徳的・能力的に劣っているというものです。

これに対して、現代的レイシズムとは、《(1)黒人に対する偏見や差別はすでに存在しておらず、(2)したがって黒人と白人の間の格差は黒人が努力しないことによるものであり、(3)それにもかかわらず黒人は差別に抗議し過剰な要求を行い、(4)本来得るべきもの以上の特権を得ているという、四つの信念である》(高史明『レイシズムを解剖する:在日コリアンへの偏見とインターネット』(勁草書房、2015年)pp.13-14)とされます。「在日特権」という言葉はまさにこれにあたります。

我が国においては、行政や財界、そして消費文化によって差別が「存在しない」もしくは「既に解決された」ものと思われがちです。

例えば女性差別に関しては、1990年代以降、「男女共同参画」や「女性の社会進出」「女性の活躍」という言葉が政府や財界、マスコミによって喧伝される中で、現在も残る性差別などの問題が解決されていないにもかかわらずフェミニズムはすでに「終わったもの」と見なされ(菊池夏野『日本のポストフェミニズム:「女子力」とネオリベラリズム』(大月書店、2018年)参照)、また右派論壇によって政府による「男女共同参画」や「ジェンダーフリー」など政策がフェミニズムによる国家解体の思想だと喧伝されてきました(能川元一、早川タダノリ『憎悪の広告:右派系オピニオン誌「愛国」「嫌中・嫌韓」の系譜』(合同出版、2015年)第7章や、山口智美、斎藤正美「2000年代「バックラッシュ」とは何だったのか」(『エトセトラ』第4号、pp.80-84、エトセトラブックス)を参照)。

そういった社会的背景を基盤として、社会問題に向き合う前に、「運動家」に対する嫌悪や揶揄・嘲笑が先行してしまうという現象があります。このような現象を、既存の左派を「古臭い」と揶揄し「正しいリベラル」というものを称揚してきた出版界、言論界、そしてアカデミアがさらに後押ししているのです。

構造的な問題としてはもうひとつ、「ホモソーシャル」というものが挙げられます。

これは「ホモセクシュアル」と対置される概念で、男性同士の「性的でない」繋がりのことを指し、特にジェンダー研究においては《女性蔑視(ミソジニー)と同性愛嫌悪(ホモフォビア)をベースにした男同士の強固な結びつき、および男たちによる社会の占有》(清田隆之『よかれと思ってやったのに:男たちの「失敗学」入門』(晶文社、2019年)p.151)とされます。

こういったホモソーシャルな社会においては、女性を人間ではなく自分たちの社会の付随物として扱い、また男性同性愛者や「男らしくない」男性も排除します。

小田嶋隆は、現代の「男らしさ」について、《冷静っぽくふるまうことが令和のマチズモだということは、何度強調しても足りないと思っている》《「正しさって麻薬のようだ」であるとか「正義に酔わないようにしたい」みたいな、「ぼくたち冷静だよねムラ」から聞こえてくる合唱も、一周回ったマッチョのシュプレヒコールなわけだよ》と指摘している通り、「冷静」「“正義”から距離を置ける」という態度は、昨今の評論系の言論において重視されてきました。

フェミニズムや左派を叩くことによって自分たちが「冷静」「中立的」であることを確認するという側面があり、それは「知識人」の世界のホモソーシャルそのものです。

社会における差別、それどころか社会問題そのものに向き合うことを忌避する文化は、右派論壇やインターネット上に存在する差別に対して抵抗になるどころか、むしろそれを助長してきたという側面があります。

我々は、冒頭で採り上げた声明文「女性差別的な文化を脱するために」の問題意識を正面から受け止め、そのコミュニケーションのあり方と構造に目を向けるべきときに来ております。

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