「自認する自由」と「他人に承認させる権利」は別である
「自分は女性だと思っている」
ここまでは、その人自身の自己認識の話です。
自分をどう認識するか、どんな服を着るか、どんな名前を名乗るか。これは基本的には本人の自由です。
しかし、
「私は女性だとidentifyしている。だから、あなたも私を女性だと認識しなければならない」
となった瞬間、話の性質が変わります。
それはもう「自分が自分をどう認識するか」だけの問題ではありません。
他人が自分をどう認識するか、どんな言葉を使うか、どんなカテゴリーに分類するかまで要求する問題になります。
たとえば、
* 生物学的性別(sex)では男性だ、と言ってはいけない
* 女性という言葉には、女性をidentifyする男性も含めなければならない
* 女性専用の制度でも女性として扱わなければならない
* それを拒否することは差別である
というところまで要求するなら、単なる「本人の生き方の尊重」では説明できません。
ここには、
「本人の自己認識を、第三者も共有しなければならないのか」
という別の問題があります。
他人の尊厳を尊重することと、その人の世界観を自分の世界観として採用することは同じではありません。
私は、ある人が自分を女性だと認識する自由を否定しなくてもよい。
同時に、
「私は生物学的性別(sex)を基準に男性と女性を区別します」
と言う自由も存在するはずです。
この二つは、本来両立します。
問題になるのは、自己認識の尊重が、いつの間にか「第三者にも同じ認識を持つことを要求する義務」へ変わってしまうことです。
「私はこう認識している」
と、
「あなたも私をそう認識しなければならない」
の間には、大きな一線があります。
思想・信条の自由を考えるなら、この線を曖昧にしてはいけません。
トランスジェンダーの人が存在することそのものと、特定のジェンダー観を社会全体に義務づけることも、分けて議論する必要があります。
自己認識の自由は、他人の認識を支配する権利ではありません。


コメント