伊藤博文と幕末・明治、明治天皇(大室寅之祐)と二人三脚のはずが


 明治という時代は伊藤博文と明治天皇(大室寅之祐)の二人
の時代であった。伊藤博文は1841年、天保12年、周防国の熊毛
郡に生まれた。貧窮で12歳頃から若党奉公に出ていたという。
14歳で足軽の伊藤直右衛門の養子となったが、俊輔(博文)を
見込んだ藩士・来原良蔵に鍛えられ、まず下忍(忍者的な武士)
となったという。それで16歳で松下村塾の門下生になり、吉田
松蔭の教えを受けると、たまたま大室寅之祐の家と近かったと
いう縁で松蔭から「玉」の大室寅之祐の傅役を命じられた。こ
れが明治時代を規定したのである。気心の知れた大室寅之祐を
南朝の流れを引くとして明治天皇にした。維新まで伊藤は多く
の殺害事件に関わった。1858年に山型小助(有朋)らと京に
諜報活動のために入る、1859年、桂小五郎と江戸に、松蔭が
刑死、遺骸を小塚原回向院に埋葬、1862年、高杉晋作らとイギ
リス公使館を焼き討ち、山尾庸三らと国学者、塙次郎を斬殺。
1863年に井上聞多らとイギリスに内密に留学、士分に取り立て
られる。1864年帰国、講和に奔走、奇兵隊の力士隊を率いて
高杉晋作の挙兵に呼応した。1866年、孝明天皇の暗殺、その後
、南朝の系譜の長州藩の囲っていた大室寅之祐を明治天皇とし
た。孝明天皇暗殺までは帰省の歴史家も認めることはあるが、
明治天皇が南朝革命の結果の大室寅之祐とは官民挙げての歴史
封印、左右挙げての歴史偽造で真実がなお、明らかにされてな
い。明治憲法制定は伊藤博文が中心だったが、「万世一系」
としいながら「南朝正統」を織り込まず、結果は支離滅裂の
ゴマカシになった。

 1865年、慶応元年長崎出張時代、
中央は高杉晋作、右が伊藤俊輔、左は従僕の高島

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 1868年、明治二年、横浜で、左から伊藤俊輔、中井弘、
大隈重信、久世喜弘、井上馨

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 イギリス留学時代。左手前から井上馨、遠藤謹助、井上勝
、山尾庸三、伊藤博文

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 明治4年、岩倉欧州使節団、サンフランシスコで

 木戸孝允、外務少輔の山口尚文、ちょんまげの岩倉、
伊藤博文、大久保利通

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 明治16年、家族と

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 明治32年

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 後の明治天皇、大室寅之祐を囲む維新の志士たち、長崎で撮影

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 明治天皇となった大室寅之祐


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