第三話 愛の不在

第三話 愛の不在


 玄靂げんりゃく十九年 六月四日


 矢を射られた右の太腿がずくずくと痛んだ。膿んでこそいない。傷口は酒で清められて、血をあらかた流してから、晒で巻いてある。

 あえて血を止めずに流させたのは、そのほうが膿まないからだ。けっして、この神和魅の大地に縫合の概念がないわけではない。

 すでにそうした舶来医療は持ち込まれている。

 ただ、早くに傷を塞ぐと、溢れた血が肉の内側で腐り、とんでもないことになることを、禰涅はしっていた。


 離れの作業小屋の二階に、禰涅は移された。

 当初は拷問、ないし、その場で殺されることも覚悟した。

 しかし実際には、手厚い保護がまっていた。


 ――人生最大の失敗をした。汚点と言っていい。

 負けた事自体はいい。そもそも忍びには勝ちも負けもない。勝ち負けに拘る忍びは早晩死ぬと決まっているし、そういう同輩を何人も見てきた。

 ただ、捕らえられた挙句自害もできぬ状況がまずい。

 いや――その自由があるのに、自害をしない、状況おのれか。

(決して自惚れていたわけではないが、五尾の私が敵わぬとはな)

 なつめの強さ、だ。

 ぐっぱと手を閉じたり開いたりする。

(なまったか?)

 などと考えていると――。


「なあ、名前は。いい加減、お前とかでは都合が悪い」

「貴様の都合など知るか」

 己を射抜き、そして手当した玄慈とかいう餓鬼が声をかけてきた。

 彼が放った矢は太い血管を避けており、幸い、日が経てば歩けそうではあった。とはいえ十日はまともに歩けないだろう。

 その状態で放置すれば良いのに、この親子は妙に甘い。

 己を殺そうとした女に対し、なつめは「手当して。治ったら帰してあげて」と言うだけで、それ以上なんの追及もしてこなかった。

(村八分ハジキというのもあながち嘘ではないか)


 なつめの旦那は獣狩だという。獣狩は本来群れず、馴れ合わず、その職に能う同業者と山のみを頼りにするのだ。そう考えると、むしろ厄介の種など、共同体むらとしてはさっさと手放したいだろう。

 つまりこの行為は、なつめらが禰涅に恩義を売るとかそういうことに端を発しているのではない。

 ――「ここではなにもなかった」

 そういう態度を取っているのだ。なにもなかったから、これ以上の悶着を起こすなということである。


 しかし。

 玄慈はなぜか関わりを持とうとしてきた。

「飯。味噌粥。食えるか?」

「……勝手に喰らう。煩わしい餓鬼だ」

「玄慈。俺にも名くらいある」

「知らぬ」

「お前の名は? あるんだろ。天験者ってのも嘘なんだから」

「真弓」

「嘘だろう。目が嘲ってる」


 本当に煩わしい餓鬼だ――。

「名を教えてやらんでもない。だが、その後、こちらの問いにも答えろ。これでどうだ」

「わかった」

禰涅ねくろ、だ。家名は捨てた」

産号うまれごうはあるのだろう? いみなは聞かんが」

「……闇駆子やみがけのこの、だ」


 禰涅は味噌粥をすすった。彼女は猫又であった。今は、無理な人化け術を解き、猫の耳と五本ある尾をあらわにしている。

 ネギと干菜を刻んだ粥には、滋養のためかほろほろになるまで柔らかく煮た猪肉も入っている。

 妖怪としてうちは、その種族が苦手とする食べ物――獣系の多くであればネギやなんかの毒気に当てられる者もいる。が、禰涅くらいになれば平気だ。たとえば鬼なんかはイワシがこれに該当する。


 とうてい、命を狙った暗殺者へ供する飯ではない。

 ――なんなのだ、こやつらは。


「ではこちらから問う」

 禰涅は金色の目を、玄慈という若造の翡翠の目に向けた。

「なぜ私を始末せぬ。禍根であろう」

「庭先に骸を埋めて、気持ちよく寝られるほど、獣狩は血に飢えちゃいない」

 なるほど。

 確かに今の禰涅を殺すのは容易かろう。一方でその骸を埋めるほうが難儀だ。死骸なんぞ長い間担いでいたいものでもないし、まして、枕の近くに埋めたいなどという奇人変人など、めったにいない。

 こういう、理屈の通った話は納得しやすいから好きだ――、


「それに、俺は殺しが好きというわけではない」

「あ?」

「母上も父上も、良くなれば放っておけとは言う。けれど、それ以上は言わなんだ」

「飯を与えろ、とも?」

「ああ。俺が勝手にしているだけだ」


 禰涅はこの若者の奇特な精神の根底を覗き込みたくなった。

 見たところは女のように見える。肉付きも、胸の膨らみとて、女だ。そこらの女よりずっと美貌であるし、正直禰涅もそそられた。

 だがしかし喉仏があるから声は低いし、なにより、香ってくる匂いの中にはたしかに男のそれが混じっているではないか。

 不思議な青年である。


「俺がどっちなのか気になるのだな」

「ああ。両方の匂いがする。お前は――半月はにわりか?」

「そうだ」


 半月はにわり、すなわち両性具有。玄慈の半生を平坦なものにしなかった大きな要因だ。

 禰涅はそこからはすぐに興味をなくした。彼女にとっては性別など飾りだった。己の女という性に関しても、「忍び働きにおける損得の有無」を物差しに考えている。半月はにわり――男の利得と女の利得が得られるのであれば、いっそ、利用しない手はない――その程度の認識であった。

 なので「ふむ」と言うだけで、禰涅は味噌粥をすする。


 玄慈はその反応が意外であったらしく、「気味悪くはないのか」と聞いてきた。

「気味? なんの? 私にとどめを刺さぬお前ら親子の手ぬるい気味悪さの話か?」

「……お前は変わり者だと言われぬか?」

「こちらの台詞だ」


 禰涅は粥を平らげた。

 ときに、自分がもとも所属していた「ある徒党」の忍びであったなら、今頃自害をしていただろう。が、今は抜忍ぬけにん。自死という札はすぐに切らないし、その必要がない。

 自分には金十枚という最大の武器があるのだ。それは、いつもなら変化術で縮めている、意味のないほどの胸の膨らみの隙間に隠してあった。


「ここには馬は?」

「ない。山では歩鳥ほとりという大柄な、地上を走る鳥を使う」

「銭をやろう。鳥を用意しろ。言い値でいい」まさか、金百枚なんて馬鹿は言うまい。

「いらん。そんなことしなくても城や役人に突き出したりはせん」


 玄慈は作業小屋の一階に降りて、弓の弦を外していた。

 今は昼頃だから、狩りを済ませたのだろう。狩りを済ませ、そのついでに作った飯を持ってきたのだろうか?

 この男(本人の口調やふるまいから見て、自認は男に相違ない)は、昼から畑で働くか、この作業小屋で道具の手入れをする。


「お前のような餓鬼を好きになることはないが、抱かせろというのなら股を開いてもいいぞ」

 大抵、男が自分に――女に優しくする理由はそれだろう。禰涅は知っている。この乱れた世では、なおさらだ。貧すれば鈍すると言うではないか。カネか身体化――そうでなければ、底抜けの阿呆でしかない。

「興味がないといえば……大嘘になるが」

 素直な反応には好感が持てる。だが、なぜ、身体の意思にまかせず自制したのだろう。

「結ばれるなら愛し合う者とがいい」

「愛などあるものか」

「俺は信じている。いや、そのように崇めている」


 禰涅は黙り込んだ。

 こんな甘い男に負けたのか? 血も涙もない、目的のためならば一切の手段も問わなかった、禰涅ともあろう忍びが?

 悔しさに血が沸騰する思いだった。

 右の足が、そのももがじくりと痛む。熱を持って、巻いている包帯から、赤いシミが湧いた。


「愛はない。お前より、おそらく百年も二百年も長生きだが、そんなものはどこにもなかったぞ」

「そんなすぐに見つかってたまるか。生きる理由の一つ、生涯かけて問い続ける難題だ。その答えは家を出て散歩ついでに見つかるようなものではないだろう」


 この男も、おそらくは、愛を疑っている。与えられてはいそうだ。けれど、その受け取り方を知らない。もしくは、疑いを持って接しているように思えた。

 他者からの好意に疑問を持つという精神のカラクリを、禰涅は知らない。

 警戒心から来るのだろうが、その警戒心が何に端を発しているのかを知ることができない。

 幼い頃に経験した裏切り、暴力、あるいは己自身の不義理か?


 いずれにしても、禰涅は愛の不在を嘆いたことはない。だが、この若者が、嘆きや迷い、崇敬すら失ってしまうところを想像すると――。

 我ながら大人げのない愚かな振る舞いをしたと、珍しく自省の念が胸の内側に渦巻いた。

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樹洞の神 三河筆刀齋(三河蕾花) @foxkithune77

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