第三話 父から子
第三話 父から子
樹洞から赤子が取り上げられて、十数年の歳月が流れた。
その子が十五歳の年の初夏。
――玄靂十六年の七月であった。
和真となつめの夫婦、その子らが暮らす桜之丞岳には、桜月獣狩流狩猟術を教えるための特別な修練場がある。
長い間新人を鍛えることがなかった桜月流の修練場は薄汚れているだろうと思える。すっかり蔦が絡んでしまった狭い洞穴道を進む。そのときまだ十五歳の玄慈は、男とも女とも言えぬ、独特な美貌の子だった。
元服は済ませていた。今年の頭に、初詣と同じ頃慎ましやかに行った。
いま、玄慈は静かに暮らしている。山奥の、あの庵で。
いっときは人里の手習い舎にも通っていたのだが、彼が持つ異質な雰囲気や見た目が、どうも、周りにあらぬ欲心を抱かせてしまうらしい。
大抵は玄慈の玄妙さを前に気圧され一歩下がるのが大体だ。しかし中途半端な功名心や悪戯心が働くと、凄惨な虐めとなった。
一度ならず玄慈は残酷な目にあっている。
そのときの、虐めなどという言葉では済まされない行いで、一歩間違えば望まぬ子を肚に宿すようなことになっていたのだ。
和真もこれには我慢がならず、去年の暮には手習い舎をやめさせ、以来、自宅で長女の山舞姫、そして次男の志郎兵衛とともに勉学させている。
和真たちはあれから子を授かった。玄慈という子と、長女、次男を。
玄慈は二つの性を持っていたが、本人は強く男だと自覚しているようだった。なので、神社の社殿氏子帳(今で言う戸籍票)には長男として届け出を出している。
「玄慈、獣狩の修行は十人の体力自慢が挑んで、一人でも生きながらえられれば、それだけで天慈颶雅毘売様からの大御祝ありとされる程のお祝いごとだぞ」
「わかっております。そして、その永らえた一人でさえ、獣狩となれるかは、その後の気の持ち方だと」
「そうだ。獣狩とは誰かに認められてなるものではない。常に己に問い続け、獣狩か否か、正しいかどうかと自問する日々なのだ」
「俺は獣狩になりたい。――いえ、なるのです。迷わぬように生きるには、迷う余地などないほどの暮らしに身を投じねばなりません」
和真は目元にシワを寄せる。その顔立ちは、十数年前のそれより老けてこんでいる。
妖怪はある程度の歳月がすぎると、肉体的な加齢が止まる。
和真は三十後半、四十路前後ほどの頃合いで加齢が止まっていた。男としては一番渋い頃だろう。
しかしそのせいで、もともと気難しい顔が、余計にらしくなっていた。
我が事ながら、なぜこんな偏屈そうな顔になったのかと思ってしまう。
「父上、余計なことをお考えでは」
「すまん、歳を食ったことを嘆いていた」
「それは、百年生きた妖怪の台詞だと母上から聞きましたが。父上はまだお若いでしょうに」
「世辞か? 褒めても修練は易くならんぞ」
「そんなつもりはありません」
「……そうだな、修練場は近いぞ」
二人は洞を抜けた。
先には、開けた土地がある。
ちょうど、天井が抜けた岩山のようであった。
日が当たるところには、無数の獣狩カラクリが設置されている。
「これは……」
「一つ言っておく」
周囲の異様な光景にあっけにとられる玄慈を前に、和真は冷徹な心を呼び起こして、声を発した。
「獣狩になるのだな」
「……はい」
「なるのだな? その割には声が小さいが?」
「なる! 父上、俺は二度と、己に迷いたくない!」
いっそ、悲痛な覚悟だった。
和真はまぶたを閉じる。
己の幼い頃が脳裏を駆けていった。
幼少の時分。空から落ちて大怪我をしていた若い神使を助けた。
その神使は天狗で、師匠で、今では己の妻だ。
様々な記憶が、山野を駆け巡った思い出が一つの答えに収束する。
「修行中にお前が命を落としたら」
和真は、その言葉をごまかさずに口にした。
「その骸は、山へと返す。それが獣狩の弔いだ」
「はい」
和真はあたりをぐるり見回した。
「では修行だ。まずは設備を動かさねばならん。邪魔な枝葉を落とし、錆を磨く。油も注さねばなるまい」
「山刀などどこに?」
「石があるだろう。叩いて割れ。常に恵まれた道具があるなどと思うな」
厳しすぎるだろうか? しかし和真も、こうして鍛えられた――なつめから。
玄慈をまっすぐ睨む。
「やめるなら今だぞ」
「やめたりはしない! 惑わすな、父上!」
「狩場では誘惑が連続する。ここで水を飲めば、酒を飲めば、飯を食う暇もあろう――などとな。そして大抵、誘惑に負けたやつは、死ぬ」
「…………」
「お前は一つ誘惑をはねのけた。一日、永らえた」
和真は「石にも種類がある」と話を変えた。
「種類?」
「そう。ギヤマン――硝子のような素質のものが、石器には適している。緊密な組成のものなんかがいい」
玄慈は言われたとおりのものを探す。
石を叩いたり割ったりしながら、手頃な大きさのものを二つ見つけた。
「こういうのですか。少し削った感じ、鋭い石片になりました」
「うん。打ったところから下へ剥離させていくんだ。打つ、圧力を加えつつ擦るような感覚だ。そうやって、石を削り、刃物へ変える」
玄慈は元来真面目だ。こういうときふざけたりしないのは、己の性質がうつったのか、なつめのモノの教え方がうまいのか、両方か。
ちなみに、次男志郎兵衛はといえば、兄を侮辱したものを成敗するなどと息巻いて、名乗りを上げたうえで仇討ちまでしでかしている。
相手は腕を折る大怪我。これには和真も仕置きしたいところだが、兄弟思いな弟のことを思えば、せいぜい小一時間ことを説いて、線香が燃え尽きるまで水を満たした椀を両手に立たせる――くらいが関の山だった。
さらにいえば、非は玄慈に乱暴をした向こうにある。
むずかしいが、なつめが「兄を思う心意気はよし、しかし何事も腕に物言わすのは最後の砦と心得なさい」と叱りつけてくれた。
志郎兵衛は「俺は間違ってねえ!」と鼻を荒く鳴らして、それから「侍になる。間違った道理などがまかり通る世にはしない」と、肩を怒らせた。
長女の山舞姫はなつめ昔日のお役目であった神使を志している。その心は「いずれ兄上と弟が道に迷ったとき、標となるため」であった。
兄弟がみな違う道を、けれども親の背中を追いかけているようで、なんとも心強い。
さても、玄慈は真剣に石剣を作っていた。
「まあ、こんなところか」
空はすっかり夕暮れである。
「ここには沢もあるし、猛獣などまず入ってこない。まあたまに狼は出るが、それは自分でなんとかしろ」
「は――修行は?」
「だから修行だ。設備を直すまでのな。そうだな、秋まで待つ。その二ヶ月を生き延び、設備を最低一箇所は整えろ。できねばその時点で見切る。言い訳無用」
「――わかった。わかりました。かならず、新品同様にしてみせます」
玄慈は力強く言い放った。世間の悪意に叩かれねじ伏せられてもなお、その心が折れることはない。
実際、――玄慈にとっての和真とは父親として十分以上の存在感であった。和真自身にはそれを知るすべがないが、これは後年、わかることだった。
腹を立てるということはまずない。いや、内心「この野郎が」と舌を打ちたくなることもある。だが、口について出そうになったとき、和真は「阿呆らしい」と屁の一つでもこいて笑いを誘って、寝転がるだけだ。
一言で言えば度量、度胸が図抜けているのだ。なので、子どもたちも「まあ父上が言うならそうなのだろう」と抵抗なく従えるのであった。
「二ヶ月ぶりの再会が、骸との邂逅にならんようにしてくれ」
「しつこいです。存外、父上のほうが心配しておられるのでは?」
「我が子を心配しない親なぞ、死んでしまえばよいと俺は思っている」
獣狩の師匠として、和真は玄慈を突き放す覚悟があった。
だが、父親としては無理だ。つきっきりで色々教えたい。だが、それでは玄慈のためにならない。
それこそ心を鬼にせねば。
和真はこれ以上の二の句は藪蛇だと思って、くるりと背を向けた。
「必ず成し遂げる!」
玄慈の決意が、和真の背中を押した。心強い子を持てたことを、神に、あの日の白鹿に感謝した。
玄靂十六年 七月七日
玄慈が修練場に居着いて四日――。
即席の釣り針を作った。棘のある木の枝を切る勇気はまだなかった。手指を切って、病の気を入れたくなかった。
なので、とりあえずは怪我をしないことだけを念頭に入れ、そこらに落ちていた小骨を使った簡素な釣り針を用意した。
そこに、羽織を解いて撚り合わせた糸を通し、釣りの道具を作る。
この四日、食ったのは適当に茹でた野草――セリやオオバコ、ヨモギの若葉。サワガニなんかが取れればしめたもので、これを焼けばごちそうだった。
よく焼いてカリカリにしたサワガニを掴んで、ばりばりと食う。
「ふぅ……設備を直すどころか、その日暮らしの泥漁りじゃないか」
ちなみに、和真となつめからは「絶対に茸に手を出すな」と言われている。素人が茸に手を出した末路は、山の民ならば皆耳に胼胝ができるほど聞かされている。
「次の日には茸が体乗っ取ってるって……笑えないな」
玄慈はその凄まじい現場を――一度、見ている。
思い出すと、食ったものが喉から溢れ出しそうになって、あわててかぶりをふった。
「いかん、釣りに集中しろ。小魚でも取れたら宴だ」
いちおう、設備直しも進んでいる。邪魔なツタなんかを根本から切り落としている。そうしたツタも、乾かしてしぶとくしなるやつは縄にできるので、天日で干し、撚り合わせて縄にしていた。
運よく網でも作れれば勝ちだ。その網を沢に仕掛けて、豊漁となれば、当面飯には困らない。
飯探しに費やす時間を省ければ、それだけ、別の作業が進む。そういう算段だった。
「父上も最初はこうだったんだろうな」
釣り糸に神経を集中しながら、つぶやく。
玄慈から見た父・和真は、なんでもできる「すごい妖怪」だった。
鬼らしく厳しい見た目である。身丈はゆうに七尺(二メートル超)近く、大柄だし、顔つきは渋い茶をすすったようなしかつめらしいのが常である。
しかしときどき笑うと、つられて母上が微笑んで、場が和む。
かつては名のある武士の家の出だった――らしいが、今では〝梟福殿〟という、なつめの方の姓を名乗っていた。
以前は桜之丞という、神より賜った姓だったように思うが、よく覚えていない。
と、釣り針がぷつ、と水面下に沈んだ。
「っと、と、かかった」
玄慈は糸を手繰る。これは大きい、と荒くなる域を抑えた。
うまく引っ張りつつ、逃さぬよう糸をたわめつつ。
「ここ」
息を合わせ、糸を引き上げた。
陽光をキラリ、水をしぶかせながら舞い上がったイワナ。
掴まんと手を伸ばしたときだった。
「ホホッ」
嘲笑うような声とともに、一羽のフクロウがイワナを両足で掴んで、去っていった。
「コノヤローっ! 返せよ俺の飯!」
玄慈は普段の厳粛な言葉遣いをかなぐり捨て、十五歳相応の怒声を上げた。
どうも彼の修行は、前途多難である。