いわゆる「エロ広告規制立法」を「見たくない権利」論で正当化するのは相当に悪手。憲法的には完全に独自の見解です。
①そもそも判例も通説も、この「自分にとって不快なものを見たくない権利」の権利性には極めて消極。「エロが不快」から「暴力が不快」「すね毛が不快」まで、歯止めは主観の数だけどんどん増え、気づいた時には表現の自由は「毒にも薬にもならない表現の自由」になってしまう。誰かにとって不快な表現こそ保障しないと保障の意味がないのです。
②もちろん「囚われの聴衆」論は無関係ではないけれど、スマホにはほぼ当てはまりません。逃げ場のない車内放送と違い、スマホはスクロール・ブロック・フィルタリング、およそ指一本で逃げ出せます。米連邦最高裁も、不快な表現には「目をそらせばよい」と負担を見る側に置いています(コーエン判決)。
③それでもなお「表現の自由」が単なる不快を超えて名誉感情を傷つけたり侮辱したりするオーバーラインがあった場合には救済すべきですが、その手前で「不快の線引き」を委託された民間団体は過剰制約の責任をとれるのでしょうか。
④過剰な制約は、表現の送り手と受け手(見たい人もいる)双方の自由を奪うだけでなく、国民から自律的な判断力を、産業から創造性を、国から国力を、個人からQOLを奪います。守るべきは「不快なら見ない」各自の選択の自由であって、他人の表現を消す権利には極めて慎重であるべき。
⑤つまるところ個人の「見たくない権利」を国が立法で保障してあげるのは筋が悪いし、行き過ぎた国親思想そのもの。「見ない自由」は自力救済が原則です。不快と共存できる強さがないと、めちゃくちゃ息苦しい社会になると思うけどなあ。
いずれにせよこの法案は、政治的意思と法的技術の両方が欠けているから小手先の修正は難しいと思う。これ以上傷を広げず、一旦回収したらいいのにね。
- ずっと国民民主党を与党に代わりうる建設的で健全な野党として応援してきましたが、本件でそれが誤りだと分かりました。 表現の自由、民主主義とは脆く、儚いものです。ですが何より貴重でかけがえのないものです。それが理解できない党を支持することはできません。
- 創作に対して、きれいな表現だけで満足する人間のほうが少数。 「不愉快」の限界値が下がり、規制の前例が増えれば、大多数の人はもはや規制を無視して法が形骸化します。 そして、創作物を違法に提供するブラックマーケットが栄えるでしょう。禁酒法のように。