すっかり夏になってしまった。
幸い、亜熱帯化の只中にあるこの国にはいくつか涼を取るための手段がある。例えば打ち水がそうだ。これは単に涼を取るための工夫を超えて、夏の風物詩として日本の夏文化の一部となった。こうした例は他にもある。すだれ、風鈴、扇子、川床、そして冷笑だ。
私が普段から好んで使う冷笑語に「感性さん」がある。ここ1年くらいで思いついた概念だ。
感性さんの例を挙げよう。以下はツイッターで拾った事例だが、特定を避けるために一部改変したり伏せ字にしたりしている。特定はやめてほしい。
すごい。
半日で読み切って、そのあとの半日は茫然とした。
一生忘れられないかもしれない。すべての文章を記憶しておきたい。
理解を超越するものに出逢った。名付けられない涙がでた。
すごい。 みんな、この本すごいよ。
ぜったい読んで。
〇〇(作家名)という人が面白そうだと気楽に本屋に寄って、芥川賞候補だったんだ〜ってめくって、4ページ、私は読むのが早いので1分も開いてなかったと思うんだけど、本屋で泣きそうになったので棚に戻して、すごすごとエッセイのほうを買った。
久々に活字に命刈られそうになった。
哲学をやめるって決意しても、大好きだった恋人と別れると決意した時よりは心が穏やかで、そのぶん安心するとともに虚しい
少し壊れたひとが救われる瞬間を唄うのがとても上手で、まなざしがやさしくて、いつも呪いが解かれていくような気持ちになる
夜と本とコーヒーと(添付: 薄暗い部屋で読書灯に照らされるセネカ『人生の短さについて』(岩波文庫)とコーヒーの写真)
布団の中で懐中電灯を点けて読みたいって感じのする本
「読了」とか「積読」って作品をノルマだと思っている感じが通俗的で好きじゃない。特に詩集について使われてるのを見ると馬鹿馬鹿しくなる
本を読んでいるとき、ふと顔を上げたら、なんとなく世界がちょっと色を変えたみたいに見える。あの現象に名前をつけたい
サブカルくねくね男子の多くも(既に含まれているが)ここに追加だ。
以上は感性さんの中でも露骨な事例だが、たとえば「雨上がりに濡れたアスファルトに映る滲んだ影ってじんわり温かい気がする」的な着眼点の斬新さをほのめかす類のあれも感性さんだ。あと、日常のさりげない部分を切り取って感じのよいものとして提示するのもそうだ。また、恋愛についてなにか大層なこだわりをもっていがちなのも感性さんの愛すべき特徴のひとつである。
ツイッター以外の例では、藤本タツキ『ルックバック』*1、川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』、永井玲衣『水中の哲学者たち』も感性さんだ。ヨルシカも感性さんだったが、『二人称』がよかったので排除した。坂道系アイドルの歌のコメント欄にいる男性ファンたちにも感性さんが多い。
さて、感性さんは、自らの感性を明示的に誇示したりはしないんだが、実のところ感性が豊かであることそれじたいにプライドをもっていて、それをツイッターやらなんやらでひけらかしている。当の本人にはひけらかしている自覚すらないので、私のこういう悪口に対しては一貫して被害者ぶるだろうし、しかも苛立たしいことに被害者であるのは事実だ。かれらは何も悪いことをしていないのである。
感性さんの何がそんなに私を苛立たせるのかは長いこと謎のままだったが、最近わかってきた気がする。
まず、私は自分の感性にコンプレックスがある。芸術作品に「魂が震えた」「涙が止まらない」「これを読むために小説を読んできたのだ」「観終わったあとしばらく席を立てなかった」「自分の一部だ」「いちど本を閉じて大きく息を吐くほどだった」「命を刈られた」といった感想をもつことはまずありえない。私の文化的生活のほとんどは、訳の分からない古典を読んでつまんねーと思いながら教養ポイントをゲットして教養レベルをアップさせることにある。私は感性が枯れているのだと思うし、この貧しさのせいで人生をとおして得るべき価値のいくばくかを取り逃がしているとも思っている。
そして、すでに言ったとおり、感性さんは暗に感性が豊かであることにプライドを持っている。本人が否定しようがしまいが、これは私の確たる観察結果であり妥当な想像だ。
私が苛つくのは、感性さんが自らの感性を誇りにおもっていることによって、私が馬鹿にされている気分になるからだと思う。そんなに感性なるものが偉いんなら、じゃあ感性の乏しい俺はなんなんだよ、といきどおるわけだ。そして二重に悪いことに、以下でみるように感性さんは感性に対して大変な思い違いをしており、実のところ他人を見下せるほど高いところにいない。そして三重に悪いことに、当人には見下している自覚すらない。その意味で見下されているというのは被害妄想なんだが、それは大した問題ではない。
では、感性についての大変な思い違いとは何か。
第一に、なんでもない日におセンチな気分になるくらい誰にだってあるんだが、べつにそれをもって感性が豊かになるわけではない。感性は何かが入力されて何かを出力するときのある種の関数みたいなものであって、勝手に感傷的になる分には感性もクソもない。エモ文化は勝手に感傷的になってる感があるんだが、エモに対しては何か感性さんに抱くような苛立ちは覚えない(冷笑はしている。「もうパターン化された“エモ”気持ち悪すぎるんだよ」の構文は傑作だ)。
第二に、感性は磨くことが可能なものなんだが、それを感性さんは理解していない。単に敏感であったり着眼点が珍しかったりなんでもない日常の場面にじんわり温かくなったりすること自体は全く偉いものではなく、感性とは自己反省の繰り返しや美的・芸術的な対象に触れたり勉強したりすることで洗練させていくものだ。かつて感動していたものがくだらなく見えたり、よくわからなかったものが急に腹落ちしたりすることは、感性の洗練可能性をあかし立てている。感性さんは自らの洗練させる気すらない感性を、何か偉いもののように感じている点で間違っている。そしてこの間違いに気づくことすらなく、すました顔をしている。これが気に入らない。私はある種のマッチョイズムに毒されているわけだが、だからどうしたという話だ。
第三に、感性が技術と相容れないように思っていそうなのも残念なことだ。
鑑賞の技術でも創作の技術でもいいんだが、技術の習得は自らの感性を洗練させ、かつそれを適切に具象化するためのほとんど唯一の方法だ。自己反省や作品に触れることは技術の涵養のためであり、あるいは教本や芸術史の本がその役目を果たすだろう。第二とも関連するが、技術を等閑視し、なんなら小馬鹿にすらしていそうなのが、私には鼻持ちならない。そんなに自由な鑑賞の自由性を大切にしたいなら、お綺麗なAI生成画像でも見ていればいい。
ところで、現代短歌の少なくない部分は、感性ぶってるくせに、実のところ技術と発想力とトライアンドエラーでゴリ押している*2というのが私の観察だが、そうした実情のもとで新規性ゲームに勤しんでいる歌は私の愛するところだ(工藤玲音「水中では懺悔も口笛もあぶく やまめのようにきみはふりむく」とか)。これは皮肉でもなんでもなく、本当に現代短歌にあるいじらしい哀切さ(せいぜい平凡な感性の発露でありつつもなんとか新しいものを見つけようとしていることにある物悲しさとある種の希望)が好きだ。
第四に、アンチ言語化を標榜しがちなのもムカつきポイントだ。言語化それじたいの機能に由来する捨象の側面は更なる言語化によって補綴されうるし、かつそれでも取りこぼされる感性があったとして、それが言語化をパージする理由にはならないだろう。言語化することによって何かが毀損される気がするのは、言葉にすることでじつはしょうもないことしか”感性”していなかったということに気づくのが怖いからか、あるいは単に技術が足りないからだ。また、言語化で考えが固定されてしまって、そこから取りこぼされる感性を見失ってしまうというのもアンチ言語化の正当化のひとつになりがちだが、それは単に魂が弱いからだ。
感性さんの冷笑ポイントをいくつかみてきた。ここが自分を苛立たせるのだという話をしてきたわけだが、私はべつに被害者になりたいわけではない。被害者になるには加害者になりすぎているからだ。むしろ何も悪いことしてないのに冷笑してごめんねという申し訳なさが大きいが、あらゆる冷笑はこれを無視することに始まるのであり、止める気もさらさらない。倫理的には止めるべきだが、美的には止める理由がないのだ*3。冷笑はすでに私の美的生活の一部を不可逆なしかたで構成している。誰か救ってくれ。いや救わなくていい。
あと、注意すべきことに、苛立たしくない感性さんもいる。noteによくある日記やエッセイの類は感性さんの営みだが、むしろ好んで読んだりする。他人の感性を覗き見している感じが楽しい。いっぽうでツイッターで感性をされているのをみるとイライラする。たぶん、noteの方がひけらかし感がないというのが大きいのだろう。ツイッターのほうがパフォーマンス感が強い。
最後に、エモのしょうもなさと感性さんのしょうもなさはイコールではないということも再度強調しておきたい。おいし水『ファミレスを享受せよ』は感性さんによるエモ作品だと思うが、ふつうに好きだ。単にクオリティが高いからかもしれないが、理由はよくわからない。だが、ここからは私のアンチ感性さんはエモ嫌いから派生したものではない、ということがわかる。これはたぶん重要なことだ。
以上が、私なりの感性さんに対する苛つきの分析だ。
私は美学を専攻している。美学は感性についての学という側面をもつ。大して芸術も美も愛していない私がなんとか破綻せずに美学徒でありつづけていられるのは、そして美的なものを完全に世界や社会の側に還元せずにやっているのは、人間の感性なるものを歪なしかたであっても信じているからなのだろう。これは私に残されたごくわずかな感性のひとつだ。
*1:ルックバックが適切な例かはわからない。というのも、クリエイターによるクリエイト礼賛一般がサムいという価値観(と自分の作れなさについてのコンプレックスを刺激されること)によって負のバイアスがかかっているかもしれないからだ。山田尚子『きみのいろ』が素晴らしい理由のひとつは、主人公にたいしてクリエイトのセンスがないしクリエイトそれじたいにはこだわりをもっていないどころか、ろくに楽器も弾けない点にある。
*2:漱石や山田尚子もこれだ。愛している。
*3:私が反戦のくせに反戦Tシャツを着て街を出歩いたりはしないのとおんなじ理由だ。冷笑をやめることは反戦Tシャツを着るのと同じようにせいぜい超義務的要請であると考えている点で、私は冷笑の悪徳を低く見積もっている。