作家として今これを書くことに敬意を評します。
僕は何度も消したんだけど、勇気を出して書くか。
フィクションで悪い健常者や堕ちてく健常者や極端な健常者を出しても問題にならないのは、実経験やメディアからの疑似体験を通じて「色んな人がいて当たり前」だとみんなが分かっているからだと思います。
しかし、障害者を同じように扱うと、「一般化されたらどうする」「露悪だ」「差別的だ」という批判が集まります。多くの人が障害者に対する実経験や疑似体験が乏しいので、「色んな人がいて当たり前」というイマジネーションや前提が広がっていないことが根本にあるのではないでしょうか。
解決策は
・世間一般が障害者と多く・深く接して、相手の人間性に迫るレベルまでの実経験を当たり前に持てる社会を作る
・世間一般がメディアを通じた疑似体験に多く・深く接して、想像力を養う
なのかな思いますが、正直、どちらも実現は困難です。困難ですが、私は表現に関わるものとして後者のことについて考えます。
障害に関わる専門家や職能者や活動家は、基本的に徹底した最大限の配慮の下で障害者を表現します。あるいは表現することを拒否します。それは障害者に対峙する態度として必要なことだろうし、大変な努力をされていると思う。
ただ、結果として、障害者を巡るリアルが関係者に閉じられ、世間に伝わらない大きな理由でもあると思います。みんな「悪く言えない」「差別の助長になる」と口をつぐみます。そして、そのような立場から、多くの関係者がフィクションなどの表現に対しても同じ視座からの批判や懸念を示します。
作家はそれが分かっているので、基本的に障害者を描きません。理由なく登場することはほぼ皆無でしょう。そして、テーマを持って描いたとしてもそれは「安心して描ける範囲」で描かれることがほとんどです。
「ケーキが切れない非行少年たち」が注目を集めると、「お前ケーキ切れるか?」みたいなことが発生します。「だからこんなタイトルをつけてはいけないし、そもそもそういったことを書くべきではない」みたいなことを言う人が出てきます。
本当にそうなのでしょうか。こういった側面を、タブー視してあまりに表現してこなかったことこそが、世間の理解を阻む原因になってはいないだろうかと、薄々思っていました。この一件以来、そのことをますます考えています。
「ウシジマくん」のほうが批評性があるとはどうしても思えなくて、なのになぜこうも「みい山」は許されずウシジマは許されるのかと考えてみた。というのも自分の感覚だと、露悪の度合いはウシジマのほうが高い。「みい山」は露悪というより「不器用に描かれた現実」に見える。自分はみいちゃんを醜悪だ