元風俗嬢が教える、本当の性犯罪被害者とハニトラ加害者の見分け方について
結論を端的に書くと「見分けることなんてできない」。
これが全てである。
釣りだとお怒りの方もいらっしゃるかもしれないが、私は最初から「見分け方について」と書いており、具体的な見分け方を説明するなどとは言っていないのだ。
とはいえ、誘導のためにあえて誤読しやすいタイトルをつけたのは事実なので、今度こそちゃんと約束させていただきたい。
私はこの記事で「見分けることなんてできない、ゆえに被害者の話を一方的に聞き入れて信じるべきだ」などという安易な結論には走ったりしない。
逃げでもなんでもなく、密室で起きたことなんて、どうやったって見分けられないものは見分けられないのである。
この世には、理解を放棄することで動き始める議論もある
世間では「疑うのは被害者への二次加害だ」という声と「安易に信じるのは愚かだ」という声が衝突し、双方が自分こそを正義だと信じて疑っていない。
だが、私はその光景を見るたびに、どうしても拭えない違和感を覚える。
それは、どちらが正しいか分からないといった曖昧さに対する典型的な不安ではない。
「私たちは、本当にそこまで、性犯罪について分かっているのだろうか?」
そもそも、第三者である私たちが分かるはずだと思い込んでいること自体が間違っているのではないか、という疑問である。
なので、特定の事件の真相を暴きたい人や、誰かを擁護もしくは断罪したいと思ってこの記事を開いた人には申し訳ないが、きっと私の説明は何の役にも立たないと思う。
なぜならこの記事を書いている私の目的は「なぜ私たちには分からないのか」そして「分からないまま強い言葉を使い続けることが、どんな結果を生むのか」を、トラウマという視点から説明することだからだ。
その断罪は、なぜ不毛なのか
ネット上の議論がここまで過熱する理由は、単純な正義感だけでは説明できない。
そもそも人の脳は、構造として、分からない状態に長く耐えられる設計になっていないのだ。
原始のころから、人類は正体不明の脅威に対して意味づけを試みることで、何とか生き延びてきた。
同じ理屈で、「被害かもしれない」「冤罪かもしれない」という宙吊りの状態を放置すると、不安を生む。
正体不明の脅威があると、結論をどちらかに決めたくなる。
判断することで、世界を再び単純な構図に戻したくなる。
これは善悪ではなく、複雑すぎる世界で、人間が発狂することなく一生を終えるための生存戦略のようなものだ。
そして、ここに見落とされがちな前提がある。
性犯罪というテーマにおいて、被害者(とされる人)の言動は、私たちが想像するよりもはるかに多様で、はるかに不合理になりうるという事実だ。
ネット上の議論ではしばしば、こんな基準が暗黙のうちに使われる。
「すぐに警察に行ったか」
「証言は一貫しているか」
そして極めつけに「その行動や感情は、被害者として模範的で、違和感を感じさせないか」。
そして、その基準から少しでも外れた瞬間、
「嘘ではないか」「話が怪しい」「ハニトラではないか」という疑念が噴き出す。
だが、もしその被害者らしさという基準自体が、現実の人間から切り離されたフィクションだとしたらどうだろう?
私たちが信じている常識こそが、真実を見えなくしている可能性はないだろうか?
性犯罪の被害者はどんな姿をしているべきか
性犯罪の被害者について考えるとき、無意識のうちに一つの「完成された姿」を思い浮かべている人は多いのではないだろうか。
被害に遭った直後、動揺しながらも警察に行く。
手を震わせながら被害を訴える。
捜査過程では勇気を出して、より一貫した証言を行い、ためらいながらも細部まで正確に語る。
心の底では深く傷つき、涙を流し、日常生活もままならない。
だからこそ、加害者を強く処罰してほしいと願っている、健気な被害者――。
もちろん、そうした反応を示す人も実際に存在する。
だが問題は、その姿だけを本物の被害者像だと信じてしまうことだ。
被害者像に対する信念が強固であればあるほど、被害者(とされた人)の言動が、このイメージから少しでも外れた瞬間に急に疑い深く感じてしまう。
冷静すぎるのではないか。
楽しそうに見えるのではないか。
なぜすぐ警察に行かなかったのか。
なぜ話がころころ変わるのか。
しかし、その問いかけは本当に合理的な疑問なのだろうか?
それとも、私たち自身が安心するために作り上げた都合のいい物語を守ろうとしているだけなのだろうか?
そもそも、人が極度の恐怖や屈辱、混乱に晒されたときに、模範的な被害者として振る舞える方が不自然だという考え方もできる。
もしその理想の被害者像が、実際には虚像なのだとしたら。
おかしいのは被害者ではなく、信頼性が高いはずのニュースや啓発ポスターが作り出してしまった、被害者像というフィクションの方なのかもしれない。
では、性犯罪の被害者は本当はどんな姿をしているか
現実の臨床現場ではどうだろうか。
性犯罪の被害に遭った人は、実際にはどんな振る舞いを見せるのだろう?
これが、驚くほど多様で、驚くほど一貫性がないのである。
被害に遭った直後、あまりの緊急事態ゆえに逆に落ち着き払い、すぐ警察に行ける人もいる。
一方で、強いパニックを起こし、街中で保護される人もいる。
出来事そのものを記憶から切り離して凍結させることで、何事もなかったかのように家に戻ってしまう人もいる。
「右手で触られましたか」と聞かれたとき、本当は左手だったとしても、それが本人にとって被害を語る上で取るに足らない情報であれば、記憶の中で光景が差し替えられ、「はい」と答えてしまう人もいる。
警察での証言を終えたあと、被害を観察していた別の自分が「それは違う、訂正しなければ」と思ったせいで、引き返して先ほどとは異なる話を始めてしまう人もいる。
捜査がある程度進んでから、苦しみのあまり急にすべてを投げ出したくなり、「全部うそです。お金のためでした」と語り出す人もいる。
出来事をフィクション的な悲劇として処理するため、陶酔したポエム口調で体験を語り始める人もいる。
自分の身を守りたいがあまり、加害者と同じ属性の集団に対して過度に攻撃的になる人もいる。
これ以上傷つくのを恐れるがあまり、情緒的な側面を失い、ロボットのようなコミュニケーションしかできなくなる人もいる。
被害を認めたくないがために、「あれは自分が望んだことだった」と、周囲に明るく語り始める人もいる。
一度穢れた自分は、さらに穢れるべきだと信じ込み、犯罪や非行に近づいていく人もいる。
自分の身体を汚れたものだと感じ、頑なな性嫌悪に陥る人もいる。
まるで過去の自分を忘れて、別人になってしまったかのように、生き生きと恋人探しを始める人もいる。
被害を「多少のお金を盗まれたようなものだ」と無理やり処理するために、風俗の世界に身を投じる人もいる。
これらは、外から見れば整合性の取れない態度でしかないだろう。
だが、ここで強調しておきたいのは、これらの理解不能な行動は、いずれも典型的なトラウマ反応の範疇に収まるという事実だ。
あまり典型的でない、しかし現実に発生しうるトラウマ反応まで含めてよいのなら、性犯罪の被害者のみならず、人間のあらゆる言動は「トラウマ由来かもしれない」という説明が可能になる。
なぜならトラウマとは、あまりにも不合理で、あまりにも過酷な現実に直面したとき、生存本能として人の脳が勝手に取る適応のかたちだからである。
その過程で、合理的な存在であることをやめてしまう人も少なくない。
あるいは逆に、感情を完全に切り離して、異常なほど合理的に振る舞う人も。
つまり、不合理すぎる反応も、合理的すぎる反応も、どちらも同じくらいありふれている。
多くの人が求めているであろう「事実判定に転用できる、被害者の振る舞いの共通部分」は、実は空集合である。
ここまで来ると「どの反応が本物の被害者なのか」という問い自体がすでに答えを持たないことが分かるだろう。
どんな振る舞いであっても、それがトラウマ由来である可能性は常に存在する。
もちろん、単に演技に失敗しただけのハニトラ加害者である可能性も常に存在する。
被害を訴える人の様子や反応といった非言語情報は、事実確認という司法的な手続きに限っていえば、何の役にも立たないのである。
まして第三者であるSNSユーザーが、報道や噂レベルの情報から見分けようとする行為など、最初から成立しないに決まっている。
見分けることへの固執こそが、社会を深刻な対立に導いてしまう
ここまで読んで、それでもなお「いや、それでも見分けるべきだ」と思った人がいるかもしれない。
私は、それがおかしいこととは全く思わない。
社会の秩序を維持したい、そのために本当の被害者を守りながら嘘の告発による加害を防がなければという危機感は、きわめて妥当なものだろう。
だが、その態度が社会にもたらしているものが何なのかを、私たちは冷静に見直す必要がある。
もしも事実だった場合。
被害者は、理想の被害者像から外れたという理由だけで嘘つき呼ばわりされ、執拗な詮索や中傷に晒される。
このような体験は、被害を回復不能なレベルまで悪化させる。
一方で、虚偽の告発だった場合。
告発された側は、分からないという理由だけで社会的に断罪され、仕事や人間関係、人生そのものを失う。
後から事実が覆ったとしても、失われた時間と信用は戻らない。
はっきりしているのは、どちらの場合であっても、分からないことを分かった気になって断罪する第三者が、取り返しのつかない二次被害を生み出してしまっているということだ。
そして、この構図はすぐに
「男 vs 女」
「被害者擁護派 vs 冤罪懸念派」
といった単純な対立へと回収される。
だが、その対立に費やされる膨大なエネルギーの裏で、本当に議論されるべきこと――つまり、なぜ被害者も告発された側も、ここまで追い詰められる構造が放置されているのかという問題は、置き去りにされてしまう。
結局、社会の溜飲を下げるための断罪は、問題を根本的には解決しない。
ニュースを見て「いつ自分が巻き込まれるか分からない」と危機を感じ、安全な社会を希求する人々が、その善良さゆえに本能的に真実を求めて紛糾する言論空間の中で、唯一得をするとしたら誰か。
混乱に便乗したい真の悪意だけが、今日も身を潜めてニヤニヤしていることだろう。
元風俗嬢――もとい、トラウマゆえになぜか体を売ってしまった私が考えた、性犯罪被害者もハニトラ被害者も見捨てない社会の作り方について
あらためて、ここで誤解のないように言っておきたい。
私は、「被害者の話を100%無条件に信じろ」と主張したいわけではない。
その論理を司法の場に持ち込めば、非常に危険な事態を引き起こすからだ。
司法には、事実の蓋然性を冷酷なほど厳しく検証する役割がある。
それを放棄した瞬間、弱い立場の人間がさらに犠牲になる。
社会の秩序は崩壊する。
「疑わしきは罰せず」
たとえ性犯罪であれ、この原則を歪めてはならない。
一方で、司法においては危険極まりない論理も、心理的ケアの場面では話がまったく違う。
トラウマを背負った人にとって、信じてもらえるかどうかは、生存に直結する問題だ。
疑われながら語る被害体験は、今度こそ回復不能なほどに心を引き裂く。
疑念を向けてしまった人の悪意の有無とは全く関係なく、被害者は疑われた瞬間に、崖から背中を突き落とされたかのような絶望を味わうことになる。
これこそがセカンドレイプの正体であり、それを防ぐための「疑うな、信じろ」なのである。
つまり、心理的ケアの論理が主張しているのは、正確には「被害者に向けてむやみやたらと『本当にそうなの?』と言ってはならない」という話であって、事実かどうかのジャッジは保留にしておいてもよい。
似たような例としては、統合失調症患者が語る妄想の真偽を検証すると悪化に繋がるので、「そんなことがあったんですね」と受け流しておくという原則が挙げられる。
もちろん、性犯罪被害者の話が妄想だという意味ではない。
しかし、自分の身に起こった(ように感じられた)ことを自分でも正確に受け止められないまま、混乱の中で何とかアウトプットしようとしている人に、客観的事実の証明を突きつけるのは単に無理難題なのである。
その点は、実際の被害者だろうが妄想性の疾患だろうが共通している。
事態をややこしくしているのは、社会がこのふたつをほとんど区別してこなかった点にある。
事実としてSNSを見ると、被害者擁護側にせよ加害者擁護側にせよ、本来の意図を理解できないまま「被害者の話を疑うのはセカンドレイプだ」という言葉を司法におけるスローガンとして引用してしまっているケースは非常に多い。
ここで、性犯罪被害者がやたらと示談を選びたがるため、結果として「金目的ではないか」と短絡的に疑われてしまう現象についても軽く触れておこう。
これは実は、「お金が欲しいか・欲しくないか」「お金で解決できる程度の苦痛か・そうでないか」という被害者側の事情とはあまり関係ない。
示談を選ばなかった場合、現実には、捜査や裁判の過程で何度も何度も被害を語らされる苦痛や、それでもなお加害者が有罪になるとは限らない絶望が重くのしかかる。
また、日本では長らく、PTSDに対して心理士が行うカウンセリングは、保険適用の対象ですらなかったという問題も、背景のひとつとして挙げられる。
2024年にようやく制度化されたが、保険で受けられるカウンセリングは数も技法も限られており、対応する精神科も少ない。
うつ病や統合失調症等の精神疾患とは異なり、PTSDにおける薬物療法は対症療法以上の意味を持たないことが多い。
本気で回復を目指すなら、自費での心理療法を選ばざるを得ない人も少なくないのだ。
そうした現実の中で「どうせ苦しんでも報われない可能性があるなら、示談金で少しでも生活を立て直したい」と考えるのは、決しておかしくははいだろう。
(念のため明記するが、被害者が示談金を求めるのも当然だという現実は、この世にハニトラが存在しないことを意味しない。構造が歪んでいるからこそ、示談を選ぶ被害者の存在を隠れ蓑にして、ハニトラが容易となる土壌が生まれるのだ)
ここでようやく、問題は個人の倫理ではなく、社会設計の欠陥であることが見えてくる。
私が考える現実的な解決策のひとつは、以下のようなものだ。
①被害の自己申告だけで、トラウマケアを無償で受けられる制度を整える。ただしこれは被害からの回復を目的としたプログラムに限定し、日常生活の愚痴を吐き出すためのカウンセリングとしては利用できないようにする。
②司法の場では感情と切り離し、事実の蓋然性を厳しく検証する。
これらを両立させた設計であれば、存在しない被害をでっち上げるメリットはほとんどないだろう。
同時に、本当に傷ついた人が、ケアを蔑ろにされたまま立証地獄に追い込まれることも減らせるはずだ。
こと、密室というブラックボックスで行われる性犯罪に関しては、被害を見分けて断罪しようとする社会ではなく、分からないことを前提としながらも、同時に傷を放置しない社会を作るしかない。
分からないことを認めるのは、敗北ではない。
自分がいつ被害者(または加害者)にされるかという不安を、悪人に利用されることなく昇華するための、最も現実的な出発点だと私は思う。
(補足)「認知の歪み」という言葉の話
SNSにおける男女論のレスバでは、「認知の歪み」という言葉が「歪んだ思想」くらいの意味合いで軽率に使われがちだが、実はこれは精神医学・心理学の専門用語であり、そんなに軽く扱っていい概念ではないことに触れておきたい。
誰かの言動が本当に認知の歪みに由来するものだった場合、それが加害的な迷惑行為であれ自己犠牲的な献身であれ、第三者が「認知が歪んでるぞ」と指摘して改善するようなものではない(それどころかほとんどの場合は悪化する)。
実は私が「本当の被害者の姿」として列挙した奇妙な振る舞いの数々は、そのすべてがトラウマ由来の認知の歪みか解離症状、もしくは両方に起因するものだ。
そして最も見逃してはならないのが、加害者も少なからず認知の歪みを抱えているケースが存在するという点である。
これは「事情があるから許してやろう」という単純な話ではない。
実際は「事情があっても加害は加害だし罪は罪。それはそれとして、過去の別の体験による認知の歪みは、適切なケアによって改善しない限り再犯を繰り返してしまう」という難しいバランスの上で成り立っているので、その言葉が濫用される世界を見ていると私は頭が痛くなる。
なお、この記事そのものが、筆者である私の「知性化(Intellectualization)」という防衛機制の表出の結果だという可能性は十分に考えられる。
ここまで来るといよいよ、トラウマと解離をめぐる自己認識は、入れ子状で終わりのない無限後退の迷宮だと思って放り投げざるを得ない。
いずれにせよ人間の心は、道徳心や正義感の有無といった単純な指標で語れるほど、分かりやすい作りをしていないのである。
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