水草を掴む
本編終了から半年を過ぎた頃、ふたりがすごした五日間。
水難事故に関する呪霊の祓除依頼を受けたフリー術師の日車と、トラウマを抱えながらも依頼に協力する日下部の話。
以下、注意事項。
※原作未読の方にとってのネタバレが存分に含まれております。
※フラッシュバック、過呼吸、振戦等の描写がございます。
※児童虐待等の話題が会話劇の中にございます。
※家庭環境、家族構成、年齢、及び過去に関する描写全て捏造です。本編とは一切関わりはございません。
/表紙は『装丁カフェ』様にて作成いたしました。ありがとうございます。
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一
屋台の金魚の平均寿命は約十年だという。個体によっては、三から五年で死んでしまうものもあるそうだ。
日下部篤也が飼っている金魚は、十一年いきている。正確には今年の夏で十二年となる三匹の金魚はお祭りの屋台で妹が掬ってきたものだった。水色の簡易的なプールで泳がされていた金魚たちは、ちいさな水槽に居住まいを変え、毎朝日下部から貰う餌を食べに水面に上がって口を開いている。
初めて金魚が家に来たころ小学生に成りたてだった甥っ子の歳すらも越えて、未だ水槽の中でぷくぷくと水泡を出して泳いでいた。
カーテンの隙間から漏れ出る朝日を受けて、日下部はのっそりと身体を起こす。欠伸をして、時刻を確認すると、午前六時半を過ぎたところだった。本日は昼から座学が入っていることと、学長不在で溜まった仕事の処理、ああ、夕方にはシン・陰の門弟への指導も……そこまで考えてやめた。朝からナイーヴになることはないと思い直したのだ。
冷蔵庫から二つ、卵をだして、油の引いたフライパンの上で割る。白身に浮いたカラザを丁寧に菜箸でとり、中くらいの透明な耐熱ボウルに避けた。フライパンに火をつけると、じゅう、じゅう、と音を立てる。その間に、予め沸かしておいた薬缶のお湯をボウルの中のカラザに注ぐ。白いカラザが凝固して、濁った白色に変わったのを確認してから、フライパンの上の二つの目玉を皿に移した。黄身はまだ固まりきっておらず、半熟の状態だった。
使いさしのフライパンの上でソーセージを適当に転がして、目玉焼きの隣に並べてから、レンジで出来るパックご飯を温め、食卓――という名の折りたたみのテーブル――に並べた。
日下部用に作ったプレートのふたまわりほど小さい皿に同じく、もうひとつ。目玉焼きとポークビッツを添えたプレートを、形ばかりの供物台の上へ置いて、写真に向かって手を合わす。
最後に湯煎をしたカラザを金魚が泳ぐ、日下部の手首から肘までほどの大きさの水槽の中に、小さくちぎって入れる。同時に、ボトルに入っている市販の顆粒餌もさらさらと浮かべると、三匹の金魚は水面に浮かんだままのそれらを求めるように、口をはくはくと開閉させながら、水上へむけて一心にひれを動かしていた。
日下部は、ガラス越しに金魚の様子をみていた。餌に食いつくその瞬間まで、目を離すことなく、じいっと。
そうして日下部が自身の朝食にありつけたのは、パックご飯がすっかり冷めきった後だった。いつもの事なので、さほど気にすることもない。
箸で黄身に穴を開け、ソーセージにつけて食べる。妹や甥がいた時には、気持ちが悪いだの、行儀がなっていないだの、散々な言われ方をした食べ方だ。今は誰の小言を聞くこともなく、静かに食べることができる。一本目をすぐに食べきって、二本目に手をつける頃には午前七時を過ぎていた。
顔を洗い歯を磨いたのちに、食器をシンクの中に突っ込んで、社会にでるための身支度を始める。シャツに腕を通し、スラックスのベルトを締め、ネクタイを通す。ジャケットを手に取ったところで、渡さなければならない書類の存在を思い出して、憂鬱になった。なんとか誤魔化すことはできないだろうか。考えるだけ、無駄なのだが。
トレンチコートを雑に羽織ってから、改めて水槽の前に立つ。餌がなくとも一週間は生きることができるという。されど、顆粒餌を手に取った日下部は、水中で気持ちよさそうに泳いでいた三匹を、態々と水面へと呼ぶように餌をやる。空気ごとはくり、はくり、と餌を飲み込む様子を見下ろして、ガラスを指の甲でこつん、と軽く叩いた。
夏至もとうに過ぎ去って七月が顔を見せ始めるこの頃、日が高くなってきた。呪術高専東京校の窓は格子状になっており、差し込む陽が床に美しいひし形を写している。趣深い情景とは現実問題にかえせば、古めかしいともいえる。実際、廊下は古びており、場所によっては鴬張りのような音を立てる有様だ。歩幅の短い者、一歩の力が強い者、不規則な足音を立てる者、それぞれの歩きが床を伝って軋音を生む。
「おうボンクラ。今日は何味よ」
「メロンソーダ」
「うわ、似合わねぇな」
「美味そうだなあ」
「しゃけ」
「おまえら普通に挨拶もできねぇの」
朝から随分なご挨拶をしてくる学生共を取り敢えず持っていたバインダーで叩く。どうして俺らも、と嘆くパンダと狗巻には手心をくわえ、最初に話しかけてきた脳筋には特別に角でお見舞いしてやった。痛てぇなおい、と形だけ痛がった真希が、日下部の脹脛に蹴りを入れる。
「折る気か馬鹿っ、筋肉馬鹿」
「大袈裟だな。加減してやったろ」
「おし、わかった。今日の座学、お前にしか当てないからな」
「やってみろよ。その前に教壇に立てなくしてやるから」
「朝から喧嘩すんなよお」
狗巻の肩に乗ったパンダが、両手をふわふわと振りながら面倒くさそうな声色で止める。その間、狗巻はうとうとと目を細めていた。
「高菜。ツナマヨ、明太子」
「そうだった。日下部、さっき日車に会ったぞ」
狗巻が欠伸を噛み殺しながら言ったおにぎりの具に、何かを思い出したのか、読み取ったのか、パンダが言った。もう一度、今度は弁慶の泣き所あたりを狙って蹴りを繰り出そうとしていた真希もそれに続いて「職員室の方に向かってったよな」と続ける。
「ああ。昨日の任務の報告か。相変わらず早ぇな」
「任務? 日車っていつ高専の術師になったんだ」
「いまも高専所属じゃねぇよ。フリーだ、フリー」
狗巻の欠伸がうつった日下部は、噛み殺すことなく大きな口をあけてくあ、と空気をたべた。
新宿での闘いのあと、高専で反省会をした日車はいちど姿を消した。なんでも、地元である岩手に帰っていたらしい。元の事務所の後始末やら、担当事件の引き継ぎやら、身辺整理をしたあと部下に自らを告発させたという。その辺の話は、日下部も詳しく聞いてはいない。聞く必要も無い、と日下部は思っている。
現在、呪術界は呪霊の手も借りたいほど、人手不足が加速している。一方で、死滅回游時に羂索の手によって生まれた、所謂覚醒型の術師の存在も持て余していた。
覚醒型には三種ある。自身の術式に適応し運用できる者、自身の術式にさえも操られてしまう者、そして術式の力に溺れてしまう者。同じ覚醒型でも日車のように適応できている――日車に関してだけいえば本人が自覚できていないところも含め、できすぎているともいえる――者については問題はないのだが、残りの二種が悩みの種だった。
操られてしまう、つまり、日車的な言い方でいえば「過失が少ない方」の術師の処理は、非常に難しい。
本来呪術師というものは幼少期から主に十代後半までの青年期の間にその力を自覚することが大半である。高専の他にも呪術、呪力操作を身につける受け皿は存在しており、そこで非術師や同術師への加害を防ぐための技術や知識を学ぶことが出来る仕組みとなっている。しかし、今回のように、脳の仕組みを丸ごと変えられて覚醒した者は老若男女問わず、術式があるもの全てが対象だった。力の加減も分からない、そのうえ呪力量にも偏りのある術師からの加害報告が後を立たず、それにもかかわらず今までの呪術規定に照らし合わせることができない……もっと日車らしい語彙に近づけると「善意無過失」である術師の存在は、上層部の意見を両断するに足り得る課題となっている。
そして、もうひとつ。力に溺れてしまう者、言うまでもなく、呪詛師となってしまった者について。こちらは前者と比べると非常にシンプルな話だ。呪術師としても人手も不足しており、そのうえ非術師への呪霊の存在の開示により不安や憶測からの呪いや仮想怨霊の増加に伴い、呪霊被害報告も大幅に増えている。
詰まるところ、覚醒型術師から呪詛師に転じた者への制裁については手が回っていないのが現状だ。力に溺れているといってもたかが知れてるから後回しにされる、その間にも微々たる被害が塵のように積もっていき、非術師からの報告という名のクレームへの対処にも人手が割かれる。悪循環である。
そんな中での日車寛見という覚醒型術師の中の逸材は、呪術界にとって、ひいては呪術高専にとって、喉から手が出るほど欲しい人材だった。呪術師としての素質はもちろんのこと、力を制御しきれていない者への救済も含めた呪術規定の改定にも関わることができる唯一の存在だ。
呪術総監部からくだされた命令は、一言でいえば「日車をなんとしてでも術師として縛り付けろ」ということだった。日下部に決定権はない。次期学長候補だと嬉しくもない辞令を出されたあと、岩手へとすっ飛んで交渉をした。首を縦にふらないどころか、日下部をにらめつけて追い出そうとする日車を半年かけて説得した結果、高専と協力関係を結び、必要な場面のみ依頼をこなしてもらうという契約で落ち着いたのだった。
「まあ、傭兵みたいなもんだな。ギルドまで来て好きな依頼を受け取ってもらって、こっちが報酬だすっていう」
掻い摘んで適当な説明をした日下部に、半分納得したようなパンダ、狗巻とは対照的に煮え切らない様子の真希が首を傾げた。「そんな面倒くせぇことするぐらいだったら、無理にでも高専所属にしちまった方が楽じゃねぇか」
「それができたら苦労しねぇだろうがよ。話聞いてた? ここまで口説き落とすのに半年かかってんだ。しかも、最終的に契約書まで作ってきたのはあいつだぞ」
「契約書?」
「呪力を込めたやつな。縛りと同等の力がある。この条件以外のまねぇって頑固を垂れるやつにそれ以上のことを求められねえっつの」
「頑固とはよく言ったものだな。君こそ毎週岩手まで来て、それはそれは御足労なことだっただろう」
聴きなれた低音が、日下部の背後から皮肉を連ねた。気配を極限まで薄めていたのか、軋音すら聞こえなかった。粟立った腕を擦りながら振り返ると、話題の主が仏頂面を蓄えてそこに立っていた。
「……気配消すの上手くなりましたね?」
「そうか。君が依頼を沢山くれるお陰かもしれないな」
「半分以上、断られてますけど」
「そういう契約だろう。傭兵は選り好みしてはいけないのか」
手汗が滲んでいる日下部にぴしゃりと言い伏せた日車は、三年生三人に朝の挨拶をしたあと、日下部へ目配せをして手元に携えた紙束を渡した。「次の任務についての確認がある」
「ああ、じゃあ資料室わかるか。あそこの鍵とってきてくれ。伊地知か新田あたり捕まえればくれると思う」
「了解した」
「つうわけで、お前らは早く授業行きなさいね。大人は大事なお話があるんで」
「日下部も座学遅れんなよ。三限だぞ」
「ツナマヨ」
「そうだぞ。前みたいに昼寝坊するなよお」
「余計なこと言ってねぇで早く行けや!」
とうとう怒鳴った日下部から楽しそうに逃げる三人の背中を確認して、日下部は呆れたように首を振る。日車は廊下を走るなと軽く声をかけてから、溜息を吐く日下部に、ふ、と笑いを溢した。
「立派な先生だな」
「嫌味ったらしい褒め言葉どうも」
「本音だよ」
学生らの背中が見えなくなったあとも、地続きの床がとたた、と小さく揺れている。教室前でも何か騒ぎを起こしているに違いない。想像しただけでも頭痛がしそうな日下部とは違って、日車はどこか晴れた表情で見えなくなった彼らの行き先を見詰めていた。
資料室に向かうさなか、日下部は日車のスーツの裾が煤けているのに気づいた。白い粉塵、いや、毛だろうか。声を掛けてそれを摘まみ上げると、細くふよふよとした動物の体毛のようなものだった。
「ああ、ついてしまっていたか」
「なに、あんたペット飼ってたの」
「俺じゃない。知り合いが……俺の事務所にいた弁護士が預かっているんだ」
「ふうん」
ぎい、ぎい、と鳴っていた音が、一つ先の角を曲がると消え失せた。先の闘いで修繕された棟にさしかかったのだ。床の木目も傷一つなく、学生時代の日下部がつけた刀傷さえもさっぱりと無くなってしまったことだろう。
摺り足気味で後ろを歩く日下部と、一歩をゆったりと、それなのに音なく歩く日車のまばらな歩調が目立った。
「猫、なんだが」
足音のリズムに合わせて日車が言う。「依頼人が飼っていたものでな」
「だから、預かっている、ね」
「ああ」
「いつまで」
「いつまでだろうな。彼が仮釈放されるのは、そう遠くないと思う」
語り口から、懲役何年という類のものではないことを察して、日下部は口内の飴を頬に擦りつけた。
「懐いちまったらどうすんのよ」
「元々は依頼人の所有物だ。返すさ」
「預かってた、弁護士や猫の気持ちも考えずにか」
日車は歩を止めて、振り返る。真顔であるはずなのに、元々下がり気味の眉尻のせいか、悲しんでいるのではないかと錯覚してしまう。あるはずもない動物の表情筋をいい様に読み取る飼い主のような気持ちになった。
「日下部は、猫が好きか」
白い毛をジャケットの一部から引っ張り出して、掌に集めだした日車が言う。もうそれ、ガムテでもつけて取った方がいい。指摘しても無意味だろうが。
「好きでも、嫌いでも」
「詰まらない男だな」
「うっせ」
「ほらみろ。先日会いに行ったんだ」
毛を探していたかと思えば、ポケットからスマートフォンを出して、一匹の三毛猫をショートヘアの女性が抱える画像を日下部に見せた。如何にも野良猫です、といった表情でエメラルドの眼球をきらりと光らせ瞳孔を縦に細めている毛玉は、恐らくスマホを構えた日車を捉えているのだろう。いまにもシャーッと威嚇の構えをしそうな写真に日下部は飴の棒を噛むことで笑いを堪えた。
「この通り。俺には一切気を許してはくれなかった」
「あたりめぇだろ。陰鬱な知らんおっさんが突然現れたら猫でなくても同じ顔するわ」
「……猫だったら必ず好きになるという、液状の餌も持参したのに、手を弾かれてしまった」
思わず飴が口から出そうになって、日下部は咳き込む振りをして棒を押さえた。
スーツのまま、ドラッグストアか、ペットショップの一画をうろうろとして、緑色だとかオレンジ色だとか、総合栄養食だとか書かれている細長いパッケージと睨み合って、結果いろんなお菓子や玩具などを抱えレジへ持っていく日車を想像した。それなのに、餌をちゅるちゅると吸ってももらえず、術師にとって大事な手を肉球付きのするどい爪で蚯蚓腫れを刻まれた日車を続けて想像して、日下部は腹筋をひくつかせた。
「変な想像をしているだろ」
トレンチコートの襟で口許を隠す日下部を、日車は真顔のまま一瞥した。スマホの写真は先ほど見た別の写真とは変わっていて、今度は日車が被写体となったものを写していた。胡坐をかく日車の股座に、眠っている猫をそっと置いたと思われる女性の手が見切れている。
「清水、猫を預かってくれている弁護士が、気を利かせてくれたんだ」
写真上部で眉尻をこれでもかと下げて、武器は持っていない、とでも言うかのように両手を情けなく上げたまま猫を見詰めている日車が困ったように目を見開いている。たっぱのある体躯を縮込ませて、大仏様のように安らかに細目を作るほんの数キログラムの生き物を、どう扱おうかと悩ませている姿は微笑ましさすら感じられた。
「元の飼い主がもどってきても、もどらなくても、居心地がよかったと思える記憶を持ってもらいたいと、清水は言っていた」
そんなのは結局、人間様のエゴだ。人に拾われ、人に生かされ、人の領域に囲い込まれ、人に渡される。それで、居心地のいいなんて、どうして思えよう。寝てしまえるほど気を許しているのではない。生きるために、必死で、保護してくれている人間にその身を預けているだけだ。
「たとえエゴでも、身勝手な献身でも、俺は依頼人の拠り所を護るという意味では、清水の意見に賛成だ」
日下部の考えなぞわかっているとでも言うように、困惑の表情を浮かべていた自身の写真を黒い画面へと変えて、再び前を歩き出した。
「なあ、やっぱり、高専こねぇ?」
「飼われる気はない」
左手を挙げて拒否を示す日車に、日下部は飴の棒を歯で噛んで、威嚇の表情を背中に送った。
資料室に簡易的に置かれた二つのソファの上で二人、ローテーブルを挟んで向かい合っていた。
普段は補助監督しか出入りしない、ハンドル式の書架移動棚が置かれている大きな資料室は、手入れが後回しにされているのか、埃っぽい。座る前にソファを軽く叩くと空に白いものが舞った。ひとつだけ設置されている窓を細く開けて、なるたけ静かに着席すると、日車も後を追うように日下部の前にかけた。
「斡旋された任務について、いくつか質問がある」
廊下で手渡された資料を手にした日下部は、自身のバインダーに挟めたままの書面の内容を思い出す。これは、先に話さねばならない内容だ。途端、気が重くなった。
「その前に。これ」
ええい儘よとバインダーの中身を日車に手渡すと、訝しげに受け取った日車が内容を把握する前に日下部が言った。「呪術規定の改定案だ」
「どうして君がそんな顔をする」
苦虫を噛み潰したような表情で日下部は日車の手元を見詰めた。表情を伺う気には、到底なれなかった。
「現代法との擦り合わせが行われた。呪力操作が不十分な術師による加害状況や、羂索の起こしたテロの被害者数、あとはこちら側の人員も含めての案だ」
「俺が以前に助言したものの一部だな。採用されて然るべきだろう」
「お前が納得のいくようなものじゃない、と、思う」
歯切れの悪い日下部の言葉に何かを察した日車は、長たらしい文言で言い訳が書かれている書面の字を追って、納得したように「そうか」と呟いた。
「法の不遡及に則った改定案だな。実に理性的な判断だ」
「死滅回游開始時の非術師殺害について、いちど現代法での裁きにかけられる余地はあるとなってはいたんだ。だが、お前のように」
「俺のように、嫌疑不十分で不起訴になり、且つ検察審査会への申立てすらも不起訴相当となってしまった場合、新たな証拠が提出されない限りは起訴することができない。現状では、憲法三十八条三項に定められている通り、俺の自白のみで有罪認定を行うことは不可能だ」
「ま、言わんでもわかるわな」
他人事のように法を諳んじた日車は、書面に記されている呪術規定九条、非術師の保護についての改定案を指でなぞっている。
「責任なければ刑罰なし。大鉄則に基づいた案だな」
大きな目が紙面を滑らせるように左右に動く。表情ひとつ変えない日車に日下部は肩透かしを食らった気分になった。
「自首するぐらいだ。認めないかと」
「どういう意味だ」
「元々の規定の五条と九条は、裁かれたいと願うお前にとっては改定しない方が利だったろ」
「俺の話だけでいえば、そうなるな」
やはり眉ひとつ動かすことなく、日車が言う。しかし、と字を追っていた目がぎょろりと日下部を捕らえた。
「今回の一件で、仮に、赤ん坊が呪術を使用できる状態にされていたとして、術式の発動条件が泣くことであったなら。そして、その術式効果により母親を手にかけてしまっていたのならどうする」
唐突に問われた仮説に日下部は面食らって、それから、顎に手を当てて唸った。極端すぎる例だ。もちろん、前例など聞いたことがない。顎に当てた手を咥えたままの飴の棒に滑らせくるくると弄る。術式を持たずに産まれた日下部が持つ知識を総動員して、結局のところ現実的な結論に帰着した。
「赤ん坊に責任能力は問えないだろ」
「では、その赤ん坊が特級クラスの術式をもっていたら? 同様に、呪術規定のみで秘匿死刑を告げられていた、当時未成年の乙骨や虎杖の判例はどうなる。彼らは自身の利益のために、又は他者へ危害を加えるために自ら特級と成ったのか」
「おい。その二人出すのはずりぃよ」
「どこがだ。本来少年法で保護され適正な裁きが与えられるべき対象だったはずだろう」
舐めていた飴が奥歯で擦れて、半分に割れた。日下部は割れた飴を砕き、口をもごもごと動かしながら「あいつらは特殊だろうが」と言った。特級クラスの事案と、未曾有のテロで発生した呪術師の処罰を同列に語るのは、些か乱暴ではないか。思ったまま言葉にすると、日車は「その特例が通っていたこと自体がおかしいと言っているんだ」と続ける。
「保護されるべきは非術師だけでなく、未成年の呪術師も含まれるはずだ。現代法だけでなく呪術規定においても未成年、及び責任の所在がない覚醒型の術師についても定めておかなければ、それこそ赤ん坊のように全てが処罰の対象となりかねない」
「それが、お前自身も含めた覚醒型術師の保護であったとしてもか」
日車はなぞっていた指を止めて、日下部と目を合わせる。「当然だ」澱みのない声色で答えた。
「恣意的に非術師を殺害した俺が、裁きにすらかけられないのは未だ納得がいくものではない。どこかで報いを受けなければならないとは、常に思っている」
日車の持つ紙に皺がよる。くしゃ、と擦れた音に我に返った日車が、指の力を緩めた。
「しかし、それとこれとは話は別だ。法や規定というのは人を罰するためだけにあるものではない。あらゆるリスクから人を護るための最後の要なんだ。そこに俺の私欲を挟めるなんて、間違ってもするものか」
がらんどうとした資料室の空気が揺らぐ。静かな、強い意志だった。
暫くして、改定案と共に綴られていた呪術規定そのものの適用方法の変更点や、司法との連携体制を確立させるためのフロー等を流し見した日車は、ローテーブルに紙を置いた。一文を指さし「こちらの案については、俺も申したいことがある。可決する前に連絡が欲しい旨を伝えてくれ」と、日下部に伝えた。了承を示した日下部は、呪術師をしている時よりも饒舌な日車の胸元を一瞥した。濃紺のスーツのラペルにあいた空白のフラワーホールが、きらりと金色に光って見えた。
「弁護士資格、登録取消できないようにさせたお上に感謝だな」
「それについてはまだ怒っているぞ」
怒っている、なんて稚拙な言葉に変えて眉を顰めた日車は「こちらの意志の尊重もない」と、怒っているというよりは思い通りにいかず駄々をこねている子どものような声色で言った。
岩手で身辺整理をしたあと、日車は弁護士登録の取消を行おうとしたらしい。勿論、総監部の圧力で日車の申請は通らなかった。正確には、申請自体がなかったことにされた、とは後に日車から聞いた話だ。
それが日車の怒髪天を衝いた。申請自体がされていないことを知った日車が、総監部を出せと最大出力の呪力とともに乗り込み、高専内の術師が総動員するはめになったのだ。そして、最終的な対応をおこなったのは現高専内での立場を上に据え置かれている日下部だった。毎週通って陥落寸前だった日車への口説き落としが、水泡に帰すことを悟りながら、鼻皺を寄せた日車と修復中であった高専の工事を数ヶ月先まで伸ばすこととなった話し合いが行われたのは、また別の話である。
日下部は当時のことを思い出しながら、ローテーブルに置かれた書面を手に取り、顔へ向けて扇ぐ。動くたびに宙に舞うちいさな埃が、窓から漏れる光できらきらと輝いていた。
「こんなしち面倒なことに関われるのは、あんたぐらいしかいねぇもん」
「遺憾だな。弁護士ぐらい雇えばいいものを」
「覚醒型の呪術師自身で、且つ宿儺と戦闘経験がある弁護士なんて他にいるかよ」
そんなもの、なんの価値もないだろう。下唇を前歯で軽く食みながら、日車は言う。額を押さえて俯いた日車の周りには、きらきらと舞った埃が漂っていた。
「待たせて悪かったな」
長話がすぎたから、と自販機で缶コーヒーを買った日下部が戻ると、日車が窓を全開にして空気の入れ替えをしていたところだった。依然として書架庫特有の籠った空気は残っているが、幾分か息がしやすくなっただろう。日下部は缶コーヒーをテーブルの上にふたつ並べて、再びソファに身を沈めた。舞う埃が、気持ち少なくなったようだ。外に出ている間に、日車が掃除をしてくれていたのかもしれない。
プルタブを開けて呷った日下部は「任務の話だっけ?」と外からの新鮮な風を受けている日車へ問う。
「ああ。それが、五日後の任務先のはなしなんだが」
「ずいぶんと近々のもの選ぶじゃねぇの」
「内容が気になったんだ。そのことについて君にも意見をもらいたかった」
窓際からソファへと戻ってきた日車が、肘置きに置かれていた紙束の数枚を日下部に手渡した。内容は、至ってありがちな水難事故が多発しているという現場の詳細だ。
「発生呪霊は……四級から三級? あんたいくら自己評価が低いからって、これは職務怠慢だろ」
「経験不足を加味しても、報酬をもらっている以上は実力に見合う呪霊等級を低く見積もったりはしない」
「じゃあなんで」
「不可解なんだ」
日車は、日下部に渡さなかった分の資料の内容を読み上げた。
任務先の現場は、X県にある国道沿いに面する湖だった。数年前から、大事に至ることはない程度の観光客の水難事故が頻発していたそうだが、ここ一、二年の間で死亡件数が緩やかに上昇の一途を辿っている。
そこで、白羽の矢が立ったのは、一年前に公表された呪霊の存在だった。東京にしか存在しない、と一般には説明されてはいるものの、それを信じているものは一部の非術師のみだ。公表されてからというもの、政府伝手で回されてくる非術師からの調査、祓除の依頼はいまもなお後をたたない。当初は日下部のデスクの上に山積みにされていた書類も、一旦保留の判子を押されていまはどこかの空き倉庫の中に仕舞われている。
今回の一件も、都外での水難事故だが呪霊の仕業ではないかと高専で祓除依頼を――形だけ――受けたまま放置されていたものだろう。調査後に各等級ごとへのファイルに綴じ忘れ空きデスクに放置されていたものを、日車が許可を貰い請け負ってきたのだという。
「そこまでだとよくある話だが、どうせ他にもあるんだろ」
「死亡したケースを洗ってみると、どれも子どもが、しかも、六、七歳の子どもが被害に遭っているんだ」
「……子どもだけを狙っている?」
「厳密には違うな。三十から四十代の両親や学生の引率をしていた者も共に死亡している。家族旅行中、遠足中、湖畔でのキャンプ中……どれも呪いを刺激するような状況でないのにだ」
日車は持っていた残りの資料を日下部へ向けて、ローテーブルに広げた。高専の資料ではない、これは日車が独自で調べあげまとめたものだと理解したころには、資料内に貼られていた新聞の切り抜き内容を読み終わっていた。
「これ、いつ調べた」
「今日報告書を持ってきた任務を受けた日に、この依頼をみかけていた。その後、地道にな」
「一週間前か。相も変わらず早いこって」
テーブル上に広がる紙の数枚を手に取った日下部は、被害に遭った家族の年齢に丸がつけられている部分を拾い読みした。別紙には、年齢層、事故に遭った状況、日時等の事実をひとつの表にまとめられたものが載っており、その下にはどこから調べたのか遺体の損傷状況まで記されている。
「溺死はいいとして、子どもの手首に皮下出血ね」
「何者かが握りこんだような、まるで湖に引き摺るような痣だったと死体検案書に記されていた」
「どこで手に入れたのそんなもん」
「内緒だ」
「まあた悪いこと覚えて」
緩く丸めた書類に深く息を吐いた日下部は、額にかいた脂汗を日車にバレないように拭った。年齢の欄を見るたびに、自身の意思では止められない汗が吹き出しては、日下部の身体を冷やしていた。
平然とした表情を作りながら日下部は書類を完全に丸めきって、ローテーブルに置かれた資料の端を叩く。
「みるに、ただの水難事故じゃねぇっちゅーことは確かだな」
「発生呪霊が三から四級なのは発生したての呪霊、または子どもの呪霊が溜まっているからのどちらかだろうと推測している」
「低級呪霊は群れる、個の呪霊自体は大したことないだろうが、舐めてかかると一気にいかれるぞ。高専からもだすか?」
「構わない。俺ひとりで充分だ」
置かれた缶コーヒーにようやく手をつけて、日車は言う。結露がテーブルに水たまりを作り、資料の角を黒く濡らしていた。
「どうもきなくせぇ、少し調べてやる。報告いくまで、勝手に行動すんなよ」
「わかった」
「本当にわかってます?」
コーヒーを一気に飲み干した日車が、スマホで何やら忙しく指を動かしている。ともすれば、画面をずいと日下部に見せる。視界に入るのは太文字の『予約完了』の文字とともに、緑色の四葉マークが並んでいる画面だった。流石は元高給取り、グリーン車の押さえは慣れたものだってか。
「……さっき俺なんて言ったっけ」
「勝手に行動するなと」
「だったらその新幹線の予約はなに」
「勝手じゃないのなら、いいんだろう」
当該現場への電子チケットを既に用意した日車は再び自分の方で画面を戻すと「視察だ。現場を知ってからでないとな」と他人事のように軽い口調で言った。
頭を抱えた日下部は「いつの、なんじ」とだけ言い、返答も簡素なものだった。「明後日の、午後十時四十五分発」
「俺に一日で調査しろとでも」
「祓除のヒントになるものがあればいい。期待などはなからしていない」
慇懃無礼な態度が、普段いかに楽をして、手を煩わせないか考えている日下部に火をつけた。
「ああ、そう」
ひとくちぶんだけ残っていたコーヒーを呷った日下部は、呪力を使ってスチール缶を握りつぶす。鈍い金属音が響くなか、日下部の手をコーヒーの飛沫が汚していた。
「期待はしていないが」
繰り返された腹立たしい言葉に、握りつぶした空き缶をローテーブル上で回していた日下部が顔をあげる。
「きっと君なら寄り添ってくれると、そう思ったから話した」
なにを、とも、誰に、ともつかない言葉に日下部は首を捻る。日車らしくもない抽象的な話し方だ。
「君はいい先生だから」
懐から群青のハンカチを取り出した日車が、日下部に向けて投げる。「染みになるぞ」指摘されて手首を見るとワイシャツにもコーヒーが飛び散っていた。薄茶色の点々が白いはずのカフスを彩っている。
渡されたハンカチをカフスに押し当てながら「洗わないで返してやる」と恨み言を吐いた。日車は「出来もしないことを言うものじゃない」と口端を緩く上げて、ソファの背に凭れて言う。
「ようやく、空気が澄んできたな」
開けたままの窓からは、涼やかな風と共に学生の声が聞こえてくる。どうやら、一限が終わったころらしい。そろそろ座学の準備に取り掛ねばならないだろう。
「どこがだよ」
態とらしく長い息を吐いた日下部は、苛立ちのままにテーブルにまで散っていた茶色い飛沫を、高級そうなハンカチで拭ってやった。
日車と別れたあと職員室へと向かう道中、先ほどみた新聞の切り抜きが浮かんでは消えを繰り返す。借りたハンカチを左手で握りしめ耐えていると、またしても手汗がじわじわと浮かんでくる。
両親と兄弟二人が午前十時に水死体として――。
男児三人と女児二人、引率をしていた二十代の女性がⅩⅩ湖付近で倒れているのが発見され――。
「は、は、クソッ」
手先が痺れるような感覚と共に、息を吸う。肺が満たされている感覚なく、心臓が警鐘を鳴らすように鼓動を早めた。鳥肌が立つ。寒気がする。震えが指先から徐々に上がってくるのを自覚した日下部は、トレンチコートのポケットに手を突っ込んだ。飴の棒が爪を掠りながらも、縫い目に引っ掛かっていた青色の包装シートを取り出して、二錠のOD錠を乱雑に口へ放りこみ犬歯で砕く。ほんのりと甘い錠剤が舌の上で溶けていくのを感じながら、廊下の壁に凭れて深呼吸をした。手元に残ったシートには二つの穴だけが残っており、しまった、ストックがもう無いんだった、と重い頭を壁に預けながら格子窓が作り出すひし形が形を変えるまで、息を整えていた。