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この作品「愛おしき日々」は「篤寛」「くさひぐ」等のタグがつけられた作品です。
愛おしき日々/限界の小説

愛おしき日々

18,703文字37分

本編後術師日車・ラブラブ篤寛がセックスするかしないかの話

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後ろ暗い世界で生きていた自分が、まさか士業を生業にしていた男と人生を交わらせるなんて。縁というものは偶然の連続で作られている。

弁護士センセってのは、プライベートの喋りでも隙がないっつうのを数年前の俺が聞いたら何と言うだろう。…や、あん時の俺はあんまり興味を持たない気がする。へぇ、そうなんだ。それくらいのもんかもしれないな。

「聞いているのか、日下部。」
「あ、ウン。続けてどーぞ。」

ただ、今の俺は、穏やかであるはずのプライベートでプロからガンガンと詰められている被告人だ。早くも遅くもない、説得力を帯びた低い声が、すらすらと言葉を紡ぐのを眺めるのに精一杯で反論する気も起きやしない。

日車の口は大きくて、歯並びが整っている。最低限の薬用リップクリームで乾燥を防ぐ唇の端が神経質にひくつき、並べられた書類の形式に沿うみたく淀みない台詞が飛ばされる。

目付きが鋭いのが祟って、あまり人相が良くないと零していたけれど、垂れ気味の眉は可愛らしいし、大きな瞳に浮かぶ瞳孔は人を惹きつける魅力を持っていると思う。そんな貴重な眼差しが虎杖相手に発揮出来ず、困った様子で視線を逸らし、迷った末に俺を向いてほっと息をつく。ガキ共には一歩引く癖俺の事は気楽に見られるのかよ、って笑いを堪えるのにも随分慣れた。

ちゃぶ台を挟んで背筋を伸ばす日車の服装こそ休日の格好だけれど(勝手に俺のスウェットを着ている。)トンと机を叩いて注目を集める仕草一つ取っても、長く表舞台で生きた人間の動きは目新しいなと思うばかりであった。

半分は聞き流してしまったが、雰囲気は弁論のゴールに着地している。ここからは俺のターンなのだろう、日車が唇を結んだのを確かめて、なんとなく作っていた正座を崩し息をついた。

「以上だ。それで、君の方から申し開きは?」
「…日車センセ、喉渇かねぇ?なぁ、本当の弁護中って水分補給出来るもん?やっぱ、咳き込んだら空気壊れンの?」
「聞いていないな。」
「聞いてた。一旦休憩してくれよ。」
「日下部。」

新品のペットボトルを捻り、緩んだ蓋のまま手渡してやれば、邪険にするでもなくゆっくり唇をつけた。嚥下に合わせて隆起する喉仏も浮き出す筋も男のソレなのに、日車を形造る線には妙な色気を感じる。惚れた欲目か、元々持っていた物なのか。綺麗な輪郭に指を伸ばすも、触れる寸前に引っ込める。殆ど無意識だったとはいえ、日車の話があった上でのこれは悪手すぎるから。

猶予の時間を作ってみてもこのままじゃ二審待ったナシ、逃がしてもくれなさそう。それに、「この」話題は俺の罪に非が傾きすぎていて、何を言っても墓穴を掘るだろう。そんなら素直に自白した方が互いの為だ。


「悪い、出来ない。…日車じゃなくて俺の問題。それで愛想つかされるなら、うん。ま、しゃあないと思う。」
「…日下部。」
「ナニ。まだ説教のターンあんの。」
「説教のつもりは無いさ。提案をして、断られたにすぎない。それとわざと煽る言い方をしても無駄だ。…こんな話を持ちかけているのに、愛想を尽かすとでも。」

それきり黙る日車へ両腕を開いて見せてやれば、のそりと寄った巨躯が胸元に沈み込む。風呂上がりで暖かい身体が縋るのを撫でさすると、自分勝手な罪悪感に腹の下がぎゅうと痛んだ。

「今のは俺の意地が悪かった。ごめん。」
「謝る位なら検討しろ。」
「検討はしてるって。」

至近距離で感じる日車の雰囲気に責める色は無く、なんならわざと体重をかけて委ねてくるあたり随分とあからさまな甘えただ。逡巡の後伸ばした掌に日車の頭が擦りついて、ワックスの落ちた柔らかい髪が肌を滑る。

このくらいのぬるい触れ合いが心地良い、良すぎるくらいだ。

堅物の男が素直に好意を寄越してくれて、互いの家に行き来して、勝手知ったる様子で寛ぐ姿を見ているだけで俺には勿体ないくらいに幸せだから、このまま、ゆっくりと、緩く、日車との生活を続けたい。

さっきは引っ込めた掌で肉付きの薄い頬を包んで高い鼻梁に唇を落とすと、腕の中の身体がぴくりと跳ねる。ずるいのは重々承知、揺らぐ日車を誤魔化す為に目線で誘い、触れ合うだけの口付けを交わした。

呪術界に踏み入った日車の目付け役を仰せつかり、任務の同行は勿論、基礎的な座学の指導も俺が請け負う事になった。天才と言って差支えの無い男に教えられる物なんて無いと渋ってみたものの、術師の歴として初心者には違いなく、じゃあ日車に教えられる代案の人間を出せと聞かれて、誰も思いつけなかったのだ。

物静かな男と二人、下校時間を過ぎたがらんどうの教室で始まった補講授業。木とパイプの軽い学習机では収まりきらない足を持て余しながら貸し出しテキストを読む顔は真剣で、適当に構えていた俺の背筋も必然伸びてしまう。

呪術の成り立ちから、知っておくべき相伝の術式。俺からすれば当たり前の事も日車にとっては新しい知識で、初手の覚え間違いが無いよう丁寧に噛み砕いて板書した。

日車は俺と殆ど変わらないスピードでノートを取り、挙手を質問を投げてくる。その内容が中々よく理解した上での疑問だから、解消すればすぐに応用へ繋がる。天才様への指導に後ろ向きだった事は早々に忘れ、教員用の教科書を捲る速度を上げた。

「…っと。とりあえずここまで。追いついてるな?休憩挟もうか。」

日車のキリが良くなるのを見計らい、教卓に肘をついた。熱が入ったせいで景気よく割れたチョークの破片を払って、指導要項を軽く辿り直す。


単元としては一年から洗い直してるから、ここんところ高学年に当たりっぱなしのこちらとしても結構手探りなのだ。折り癖のついたページを勘でなぞり、ネクタイを緩める。ふと、やけに静かな日車に気付き顔を上げると、身動ぎもしない男の視線だけが真っ直ぐ俺を差していた。

「ナニ。」
「…君は教えるのが上手い。」
「え、嫌味?」
「そう聞こえたのなら俺が悪いな。素直に、聞き取りやすくて、話が纏まっている事に感心したんだ。良い先生なのだろう、と。」
「そりゃどーも。…水飲んでいいぞ、便所も今いっとけ。」
「…子供扱いか?」
「まさか。今は俺の生徒だからな、条件は同じ。」
「ふ、先生がそう言うなら、従おう。」


あ、笑った。

その下手くそな笑顔をもう一度見たくて、授業の合間に雑談じみた会話を振ってやり。そんで、思いがけなく返事が寄越されて。夜中の特別講義は少しづつ互いを知るきっかけになっていった。



四年相当の単元に進む頃には基礎を固めきった優秀な生徒に教えられる範囲は減り、この人手不足の業界だ、座学より実戦に出る機会の方が多くなる。任務に慣れるにつれ俺の手の内が分かる術師として背を預ける回数も増えて、俺たちの距離は以前より半身近くなった気がした。


頑なで死にたがりな印象が先走っていた男の方も、歳の近い俺に慣れたせいもあり、ガキ共には決して見せない緩んだ姿を晒すようになっていた。拗ねた態度、減らず口、それと、疲れきった限界の表情。連続した任務の後は特に気が緩むのか、相当素と言っていい疲弊が垣間見えた。

顔色を悪くして動き続ける日車を気にかけていなかった訳じゃない。だけど俺達は同僚で、向こうは後輩。余計な口出しでまた壁を作られるのは困るし、じっくり築いたコミュニケーションにヒビを入れるのを恐れて構う理由を拾いきれなかった。精々、去り行く背中をトンと押し、しっかり休めと声をかけるだけ。そこから先に踏み込む為の勇気なんて、ひっくり返しても出てきやしなかった。


そうした夜が何度か続いて、あの日も立て続けの任務に追われる一日だった気がする。祓い、斬り捨て、日車に指示を通し、前情報にたがわない格下案件をつつがなく完遂した。

補助監督に運転を任せっきりの車内で重く疲れた身体をシートに沈めて、先に降りる日車を見送る。俺と違って質のいいスーツを纏う背中に触れて、無理するなと呟く。それにああ、ともうん、ともつかない返事を残して道路に立った日車を目に焼き付けながら、微睡みに任せて瞼を下ろす寸前、視界の端で音も無くしなやかな身体が頽れる。

「日車!」
「…問題、無い。立ち眩みだ。」

車を飛び出るも一歩遅く、打ち付けただろう膝は地面の土埃に白くなっている。有無を言わせず半分担いだ身体は驚く程に軽い。

「…日車、今日飯食ったか?」
「どうだろう、思い出せない。」
「はー…ァーッ…本当に、お前…」

この忙しさじゃ、俺だって意識しないと食事を忘れる。それをこの男が加味して動くと思えない。つまり、俺の教育を一年から受けたのに、基礎体力の事はすっ飛ばしてロクな飯も摂らず、呪力で能力を底上げしただけのギリギリな状態でガベルを握っていたのだ。

放っておいてくれとか、大丈夫だとか、どの言葉でも許せる気がしなくて、車に戻ってすぐに俺の自宅方向を告げる。座学が満点でも何も分かっちゃない日車へ、苛立ち混じりの心配が溢れて口が勝手に回り出す。

「日下部?」
「いいから、喋るな。今からアンタを俺の家に連れていく。…倒れられたら明日の仕事俺一人になるでしょうが。高専は不摂生で倒れた人間にベッドを開けてない、俺に関しては部屋に一人増えても困らない。分かったら異論も文句も返すな。このまま目瞑ってろ。」

半分開いた日車の口を掌で塞いで、太腿に頭を押さえつける。男の硬い膝枕でもこの際構わんだろ。余程しんどかったのか、大した抵抗無く横になった日車の浅い呼吸が段々と間隔を長くして、数分も経たず糸を切ったようにぷつりと意識が途絶えた。

ワックスで固まった髪が崩れて降りてきている事、鋭利な輪郭から更に肉が落ちて痩せている事。気づいてしまえば見えてくる日車の綻びがどうにも歯痒く、己の衝動を突き詰めれば、これは庇護欲に違いない。

そう気付いたら、もう駄目だ。俺は、日車へ。戻れない感情を抱いていると認めざるを得なかった。


弱った同僚を自宅に連れ込み、ジャケットとネクタイを剥いでソファへ転がす。これだけでもう攫ってしまった感が否めないが、更に日車から抵抗や逃走の気を削がせる為に俺の刀を抱かせた。予想通り、手渡された刀にどれだけの重みがあるか分かっている日車は、刀身を庇うように胸へ抱いたまま小さく丸まっている。まぁまぁな無体を働いている自覚はある。けど、仕方ないだろ。本人が自分の身体に酷い鞭を打っているのだ、俺がどう扱おうと許されるに決まっている。

コートを脱ぎ、シャツは洗濯機に入れて部屋着を身につける。片手間に暖房を高めに設定して、刀の鍔をまじまじ見つめる日車へ分厚い毛布をかけた。ついでにペットボトルを緩めて水を含ませる。

「まだ寝てろ。目閉じてるだけでいい。」
「…すまない。」
「謝んのは後でな。どんな生活してたか聞くぞ。…それまで精々休んどけ。」

思う所はあったのか、素直に瞼を下ろす丸い頭を撫でて。…俺、撫でたな。今。無意識にしていた行為は、幸いにも微睡みの狭間にいる男に多分バレてはいない。とはいえ、これ以上弱った日車の隣に居ると自分が何をするか予測できないから、早足に台所へ向かった。


「アレルギー大丈夫?好き嫌いは言うなよ。」
「…大丈夫だ。」
「じゃ、食え。はい、頂きます。」

冷凍の米と野菜、まだ賞味期限ギリの卵を使った有り合わせの雑炊が湯気を立てる。誰か来る前提にしていない冷蔵庫にはロクな食材が残っておらず、見るからに栄養不足な男に食わせるには偏りが気になる。でもまぁ、この様子じゃ無理に食わせても胃が負けそうだから丁度いいか。
寝返りも打たず座面に沈む日車を揺り起こし、ぼんやり眠気を漂わす手にスプーンを握らせた。

俺に続いていただきますと呟き、ゆっくりと口を開く。

「…美味しい。」
「良かった。大したモンじゃないけど。」
「いや。人に作ってもらうのは久しぶりで、有難い。」

日車はくだらない冗談は吐いても、意味の無い嘘はつかないから本当に口には合ってるようだ。速度は遅いがきちんと食べ進めるのを確かめて、自分はさっさと皿を空けてしまう。

「迷惑をかけた、本当にすまない。」
「そう思うなら飯食って体調整えて任務出てくれ。」
「…あぁ。善処する。」


「しんどい?この生活。」


その簡単な質問が日車にとって重い意味を持つと分かった上で、ぶつけてやった。予想通り、苦しげに息を詰めた日車は、強く拳を握り下を向く。静観すれば飲み込まれるだろう言葉を発散させる為、隣へ座り直して正面から顔を覗く。眉間の皺は深く、ただでさえ下がった眉尻が心細く震えている。痛みを堪え、やり過ごせてない。そんな顔だ。

「夢見が悪くて寝られねぇ、吐くから飯もロクに食えねぇ。術師になりたてだとよくある事だ。特にアンタみたいな罪の意識が強くて責任も忘れられない奴程、削られる。」
「…俺は、裁かれるべき人間だ。」
「日車がどうなりたいかは知ってる。その上でこの業界に縛り付けられてんだ、キツいよな。」

日車が犯した罪も、呪術界が彼の求めた裁きを磨り潰してこちらへ引き入れた事も、せめてもの贖罪として動きながらも罪の意識で引き裂かれそうになるのも、どうにも出来ない大きな波が日車を巻き取られているが故。こいつはその奔流にしがみつき、やれる事をやっているのに、良心の呵責で喉を締め付けられているのだ。

「俺は。」
「日車、弱音吐くのは逃げじゃねぇぞ。溜めて壊れると、呪いになる。」

心に膿む泥は、自らで晒した方が良い。
俺が出来るのは手前まで促すだけ。膝を抱えて呻く日車に巣食う物が溢れるまで、あと少し。


「…誰も、呪いたくない。…もっと苦しんだ人がいるのに、俺が苦しむのは、ずるいだろう。」
「うん。」
「償いたいのに、俺ばかり生き残った。」
「よく生き延びたよ。」
「…すまない。なにもかも。」
「いいって。あそこで命拾えた俺とアンタはお互い様だし。…なぁ、ちょっと触っていい?」


微かに頷いたのを許しと捉え、驚かさないよう気楽な調子で肩を叩く。自責で雁字搦めの日車にしちゃよく吐けた方だ、今日はここまで、深追いはせず意図して気持ちを溶かす方へ舵を切る。とん、とん、と音を立て、神経を逆撫でないよう触れる時間を長く保ち、溺れる呼吸を整える為、強く抱き締める。感情を制御しきれず泣き続ける子供をあやすみたいに、体温を移すように。

「…暖かい。」
「肩に力が入ると余計に辛い。」


ぴったりと合わせていた胸を離し、されるがままの日車をひっくり返して膝の間に座らせた。日が当たらないせいか他より白い首裏に掌を当て、温もった所で肩甲骨の窪みへ指を滑らせ凝った部分を解す。冷えて固まった筋肉は余計に焦燥を煽っちまうから、腕の付け根から血を流し、背骨に沿って深く掌を沈ませる。

日車の芯が柔らかくなるまで、体温を維持できるようじっくり筋を伸ばしてやると、深い溜息が零れ落ちる。


「落ち着いてきた?」
「うん。…ありがとう。日下部は、優しいな。」
「別に。アンタが思うより俺は嫌な人間だよ。…残り、食える?あっため直そうか。」
「いい。そのまま頂く。…君にしてもらってばかりだ、何か出来ることはないか?」
「返して欲しくてやってねーよ。つか、こんな状態の奴に出来る事ないし、ゆっくり食ってろ。俺は積み残し片付けてくるから。」

まだ向こうも思う所はあるだろうが、さっきに比べて頬や関節も薄らと朱を掃きマシに見える。なんなら、温もって緩む表情は可愛いくらいに。…良くないな。なんか今、ちょっとぐらついた。

食べ終わるまで傍についてやりたいという気持ちが、降って湧いた劣情に塗り変わる前に、大人しく食事を再開する日車から視線を外す。置きっぱなしの鞄から資料を引っ張り出して、それに集中しさえすれば、邪な想いは霧散するだろうから。


「日下部。」
「うおっ!びっくりした…」

至近距離からかかる声に身体が跳ねてしまい、申し訳なさげに屈む日車に謝って時計を流し見る。とりあえずで取り掛かったものの、考えることが多くてのめり込んでいたみたいだ。丸みの取れた鉛筆を指先で回し、知らぬ間に顰めていた眉間をぐっと広げる。

「…課題?生徒に向けての物か。」
「そそ。本業は教職なもんで。作問があんのよ。」
「見てしまったな。漏洩に当たってしまう。」
「いーよ。個人の採点でも無いし。持ち帰れる定期考査の作成だから、日車への、影響は…」

日車への指導はあくまでも術師として必要な知識を教えるだけで、進級なんて縁が無い。そして、この天才はかなりの知識を既に己の物にしてしまっている。ならば、いや、それは。

一瞬の揺らぎで変に間を作ったのは俺のミス。
日車の優秀な頭はたった数秒の迷いで俺の閃きを察知したのだろう、区切った言葉の後ろを取る形で続く発言を促された。

「影響が無いならなんだ?…君も明日は任務だろう、減らせる仕事があるなら手伝わせて欲しい。なんだって、力になる。」

さっきまで一番底まで落ち込んでいたはずなのに、その目に宿る光は意志を持って俺を見つめる。元々の仕事でもきっと、この眼差しで信頼を勝ち得てきたんだろう。精神力の強さは折り紙つきだ。

そんでもって、下手に跳ね除ける方が今の日車にはダメージを与えてしまいそうで、天秤が揺らぐ。

手元のプリントと日車と。数度視線を行き来させて、真っさらな解答欄が並ぶ用紙を手渡してみた。

「日車、テストやれる?」
「テスト。」

決して、俺が楽になる為じゃないから。天才の協力があれば早く終わるかな、とは思ったけれど。日車の思っていた頼み事とは違ったのか、B4の紙を摘んだままパチリと目を瞠っている。

「知っての通りで人手不足。座学も中々重いっつーのに設問のチェックが間に合ってない。俺の誤脱字確認も兼ねて三年の問題解いて、感触教えて欲しいというか。…45分のテスト、ってどう?長い?」
「なるほど。」

詳細を語るにつれ、これは完全に押しつけだよなァと言葉尻が窄まる。いくら俺が呪術の教鞭を執ったといえど、相手は大卒の元弁護士様だ。賢い奴らの感覚は計り知れず、もしかしたら頭を借りるってのはかなり失礼な頼みなのかも、それこそ金銭が発生するような仕事に当たる気がして。ていうか、日車を休ませる為に連れ込んだんだろうが。早く寝かせて明日に備えるべきなのに、何言ってるんだ俺は。

段々と冷静さを取り戻すと、同じ教職でもないのに確認を頼んだ事自体が恥ずかしく、紙を回収する手を急ぎ伸ばす。

「待って。弁護士先生にさせる事じゃねぇか。任務終わりで疲れてんのに。ゴメン、忘れて、大丈夫。」
「今は先生じゃないさ。想定外で驚いただけだ。是非やらせて欲しい、俺の得意分野はこちらだしな。」

こつこつ頭を叩く仕草は、こいつがやると嫌味にもならない。俺の手をやんわり払い除け、ついでに筆記用具を掠めて居住まいを正す。やる気あり、という主張らしい。

こちらが言い出した手前、反故にするタイミングは失ったし、これも日車の気晴らしになるっちゃなるのか?

本当に乗っていいか、声を出しあぐねる俺の目の前で静かに日車の手が上がる。

「…はい。なんですか日車君。」
「先生、問題用紙はいつ配られる?」

にや、と悪戯に笑う顔は、今回はよく勉強してきたと挑発してくる生意気な生徒のそれによく似ていた。余裕綽々の顔が45分後には青褪める様を何度見てきたことか。…日車は多分そうならないだろうけど。

テストのセオリーは熟知しているようで、下ろした腕を膝に乗せて構え、準備は万端だ。

「マジでやってくれんのね。…分かった。甘えるわ。」
「任せろ。」

結果、楽しげにしているのだから好きにさせればいいか。こちらも開き直って狭い机に問題用紙を裏返し、手元に注目を集める。

「じゃ、用意。…始め。」

キッチンタイマーの間抜けた機械音が鳴るやいなや、表向けた紙から問題を読み取る横顔を少し眺め、監視の癖のまま包装を剥いだ飴玉を口に放り込んだ。





「日下部先生」
「…はぁい。」
「解けた。見直しまで終わったが、時間はフルで取るほうがいいか?」

タイマーは十五分を残してカウントダウンを続けている。基本、時間が余れば丁寧に間違い直しにあてるよう指導するが、日車の筆の走らせ方を考えれば学生と比べるだけ無駄な事だろう。終わっていいか、最終の声掛けで同意を取る。

「じゃ、解答用紙くれ。丸つけするから待ってて。」
「ふふ」
「何笑ってんの。」
「丸つけ、可愛い言い方だな。」
「うっせ。」

安心でも皮肉でもない、喉奥を震わすような素の笑い声。ふにゃりと丸くなる目尻は日車を年齢より幼く見せて、直視するのが悪い気さえしてくる。くす、くすと詰まって小刻みに上下する体から無理矢理目線を外し、神経質な字が連なる答案に赤ペンを滑らせた。



「…流石の満点。記述部も落とし無し、ガキ共泣くぜ。」
「まぁ、大人だからな。それに、君の授業を受けていたから理解できた。誤字は見当たらないが気になる脱字にはチェックを付けた。…出過ぎた真似をしたか?」

いや、とんでもねえ。借りもんの教科書と、任務の間を縫った駆け足の講義でここまでやれるもんか。素人術師から半年経たずほぼ準一級レベルの仕事をこなしてるだけですげぇってのに、頭もコレと来た。爪の垢を煎じて飲ませたい生徒が数人脳裏を過ぎってしまう。


正直、ここまで綺麗な満点を取られると、何が悪いのか浮き彫りにならない分難易度調整の面では意味を成さない。報告通り数箇所の的確な訂正も入っている。


だけど、俺が日車に伝えるべきは別の事だ。表情こそいつも通りだが、これも生徒達と大差なくチラと伺う困り眉からは俺の返事への期待が感じられる。賢い生徒が頑張って正解を導いたなら、褒められるまでがセットだからな。

「花丸。よく勉強したな。偉いぞ、日車。」

いい子の口へ新しく剥いたオレンジの飴を持っていき、反射で開く唇に咥えさせる。

「ん。ん?」
「あれ、ダメだった?」

味を確かめて動かす舌に合わせて左右に振れた棒が片頬に落ち着き、甘い、と非常に端的な感想を寄越される。

「駄目じゃない、が。…君はいつもこうやって子供を褒めるのか。」
「コレは特別。日車が頑張った分。まじ、助かったぜ。…今更だけど、もう泊まれ。適当に服出してやるから風呂使って。こっから帰るはナシだぞ、おっさんの家なんか嫌!も無視するからな。」
「…言う訳がないだろう。終電もない、甘えさせてもらうさ。」

もうすっかり緊張の糸は切れたらしく、素直に頭を下げる日車を風呂場へ追い立ててやった。

一人暮らしのシンとした室内に他人の気配が残るのは案外良いもので、くぐもったシャワーの水音を聞きながら、細かな作業を仕上げていく。誰かが近くにいる、たったそれだけ。
しかも自分が連れて来たのだから当たり前といえばそうなのだが、違和感なく馴染む存在のおかげで動く気力が湧いたのだから、有難い物だった。



分かり易く洗面台に並べた新品の下着と少しよれたスウェットを身に付け、ドライヤーと歯ブラシの意図も組んでこざっぱりと疲れを流した日車がペタペタ俺の隣に戻り、一組だけの布団を見て物言いたげに眉を顰める。

「日下部。」
「雑魚寝でいいだろ。アンタ一人じゃないと寝られないタイプ?」
「そこまで繊細ではない。…ありがとう。」
「どういたしまして。俺も風呂入ってくる、先寝てろ。」

本当を言えば日車を寝かせて俺はどこでも適当な所で仮眠を取れれば十分なのだけれど、確実に揉める。寒い季節でも無し、無駄な譲り合いに時間を割くくらいなら、男同士の雑把なやり取りで済ませるのが楽だ。まだ何か言い募ろうとする日車の頭に布団を被せ、もぞもぞ蠢く姿をひとしきり眺めてから風呂場に向かった。



一人の時よりゆっくりと湯を浴びたのは、先に寝落ちて欲しいって期待からだ。念入りに身体を洗い、髪を乾かして、昔だったらこの後に煙草を吸ったが、今はこの無になる時間を手持ち無沙汰に過ごしていた。ぼんやりと、染みる疲れと緩やかに訪れる眠気に意識を向け、床で落ちる前に足音を殺して寝室を覗く。
豆電球の薄暗い橙に照らされ、行き場を見つけられずに足を三角に畳んでちょんと部屋の隅に座った日車が俺を見上げてきた。

「寝てろって言ったじゃん。」
「そうすれば君は他で眠る。だろう?」
「まー、読まれるわな。」

本当にあわよくば、ぐらいだったし。こっちとしても日車の性格を考えれば、起きてる可能性の方に予測は傾いていた。眉を寄せて何か小言を言い出しそうな日車をヨッと引き倒し当初の予定通りに掛け布団の半分を乗せてやる。

忙しくなる前にシーツを洗ってて良かった。多分そんなに変な匂いはしないだろう。手足を持て余しながら位置取る日車に枕を貸して、緊張させないよう背を向けた。


俺が寝入る体勢になって大人しくなった日車の熱が、背中合わせにほんのり温い。二人分の呼吸と、規則的な時計の音。


眠れる時は眠る、不規則な術師生活で身についた習慣に従いすぐさま押し寄せる眠気が思考を鈍くしていく。



不意に、肩口が熱くなって、小さく消えそうな掠れ声に名前を呼ばれる。微睡んだまま、聞こえていると返事をした。そろりと肘に添えられた指を握って、安心させるように柔く力を込める。

思い出す。眠れなくなると、寂しそうに俺に引っ付いて、まだ起きているかと舌足らずに呼ぶ甥の声。起きている、お前が寝るまでは寝ないから、見守ってやるから。何度も確かめるその仕草が懐かしい。

「日下部も、苦しい時があったのか?」
「……覚えてねー。……ずっとこの道しか知らないし。」
「俺は、君に助けられた。できる事は、やりたい。」
「……大丈夫、俺が見ててやる……だから、おやすみ、日車ァ……。」

いい子だ、悪い夢なんか見ないようにしてやるから、目閉じて、おやすみ。染み付いて消えないその言葉の羅列を繰り返し、穏やかな寝息が聞こえると共に俺の意識も深い眠りに落ちていった。



日車は、案外寝起きが悪かった。先に起きて、簡単な朝飯を作る間もぐっすり眠っていたし、揺すってみてもくるりと布団に丸まられた。いい大人の寝方にしちゃ無防備に思えたが、まともな世界で生きてた時間の方が長いんだからそんなもんなのかもしれない。

そうして二人で準備を終えて、同じ任務に向かい、別の家に帰るだけ。一夜過ごしたきり、そう簡単に人間関係が変わるはずもない。これまで通りに指導、任務を繰り返して時間が流れていく。




(そう思ってたんだけどなァ。)

場数を踏むにつれ個人で請け負う仕事も増えた日車は、明らかに疲弊の感覚が短くなった。たった数日合わないだけで顔を真っ白にする日車を放っておくことが出来ず、腕を引いて自宅に持ち帰っては生気が戻るまで世話を焼いた。

されるがまま寝込む日もあれば、会話が弾んで休日丸々二人で過ごす日もあった。本人の申し出で家事も手伝わせたし、俺の仕事が詰まる時には問題のチェックに付き合ってもらった。日車の指摘で設問の精度を高めて、質問の延長で始まる応酬に白熱もした。自分を追い込む日車をフォローし、許されそうな範囲で生活を整える。

会話が途切れれば同じ布団で眠り、朝食を摂って仕事に向かう。なあなあの泊まりの回数が片手を越えた頃には、新しく買い揃えた寝間着をしまうスペースを作ってしまっていた。


秋を過ぎ、布団を分け合うには肌寒い季節に毛布を二枚新調した。嵩張らないのに熱が逃げず、毛並みが良い生地にくるまる日車はどこかご機嫌で、敷布団を増やさなかった事に言及はなかった。


すまない、よりありがとうが増えて。日常の何気ない会話を思い返す回数も増えたし、見たいと思っていた笑顔を浮かべられるだけで胸の奥に締めつける痛みが刺した。

同じ釜の飯を食い、眠れない夜を分かち合い、大きな瞳に信頼を浮かべて下手くそに笑う日車と隣歩いて。そうして、自分がこの男へ抱く感情に付いた名前を真正面から受け止めるまで、半年と数週間。


参った。お手上げ、降参。俺の負け。

どう考えたって、俺は日車という人間に恋をしていた。


勿論、俺も擦れた大人になったもので、その面倒くさい感情を一切合切隠していた。惚れた腫れたに狂う年齢でも無し、相手も立派な大人だ。あまり構いすぎて変に距離を置かれるのも寂しい。だから、ちょっとばかし仲の良い同僚として、日車が無意識に寄越す小さな幸せをこっそり集めながら、焦がれる恋心に食い潰されないよう、凪ぐのを待てばそれで良かったのに。



丁度よく陽光が落ちる窓の前に据えた座椅子が、微かに軋む。大きなヤマをどうにか乗り越え、特に決めた訳でもないけど日車を泊まらせて束の間の休息を取る。術師として目まぐるしい成長を遂げた日車は、出会った頃に比べれば疲労を躱すのも上手くなった。定期的に家で休ませているから、なんて考えるのは自惚れすぎか。

たった一日でも休みは休み。久々に釣りでも行くかと選択肢は浮かんだものの、すっかり日車の形を覚えたネイビーの背もたれが微睡みを支えているのを見て、この景色を眺める時間を優先すると決めた。

うつらうつらと船を漕ぐ横顔はあまりに無防備だ。困ったもんで、惚れた弱みはその安心しきった表情を可愛らしいと判定してくる。

それなりに鍛えて厚くなった胸にブランケットを掛けてやると、ぴくりと動いた指が布地をたぐる。縋るみたいなそれが愛おしく、骨張る関節ごと掌に包んだ。日車から伝わる低めの体温が、ちゃんと生きていると教えてくれて。あぁ、好きだなァと思った。


「……日下部」

思っただけなら良かったものを、殆ど眠っていた筈の日車が大きく目を見開いてしまったから手に負えない。

やらかした。俺の燻った好意は、音になって漏れてしまったらしい。こんなうっかりで想いをバラすつもりはなかったのに。

「……起きた?まだ昼だけど、たまには外で飯食う?」
「日下部、俺は起きていた。少し考え事をしていただけだ。」

普段より若干早い話口の日車相手にすっとぼけるのは難しく、どう誤魔化してのらりくらりと逃げを打つかに頭が回り出す。聞き間違いじゃないの?それとも、人間として好いているとでも伝えるか。こいつを見てる感じ男から好意を寄せられた経験は無さそうだし、いくらでもはぐらかせる。

触れっぱなしの手をゆっくり外して、目線を逸らす。自分の恋心を切り捨てる為に唇を開き紡ごうとした言葉は、ひっくり返る視界と共にぐるりと回ってどこかにすっ飛んでしまった。

「ッうお!…ケホ、お前、いきなり。」
「君を好いている。人としても、それ以上にも。」
「…あ。」
「分類するなら下地は恋愛だ。日下部が俺に向ける想いの種類が別だとしたら残念な程に、好きだ。」
「……。」

胸に飛び込んで来た身体を咄嗟に抱え、受け身でフローリングにぶつかった背中がじんと痛む。それ以上に、合わさった胸で絶え間なく響く互いの心音がやかましい。下がった眉の根元から耳朶まで可哀想な程真っ赤に染めた日車の、うすらと潤む瞳がじっと俺を射抜く。

「書面で誓ってもいい。」
「…書面ってお前。」
「もし、君が俺と同じ心なら正式に交際を申し込む。」
「待て、待て…。落ち着けって、日車。」
「俺は、いつか罪を償う為に君から離れる時が来る。」
「……」
「だから、我儘だとは分かっている。」

告白をしているのに、どこか懺悔をしているような。引き攣れる苦しさで震えている。そんな顔すんなよ、そう言うにはあまりにいたたまれなくて、縮こまる肩を抱き寄せ答えを告げた。

「……好きだ、日車。俺から申し込むべきだった。お前が俺と同じ心なら、付き合ってくれませんか。」

ずりずりと俺の上から退いた日車が差し出した掌を握り、握手を交わす。なんてこいつらしい始まりなんだろう。自分も首まで熱くなるのを感じながら、是非今後とも頼む、なんてかたっくるしく胸を張る日車を引き寄せて、骨が折れるとギブが出るまで深い抱擁で締め上げたのだった。


若干形式に囚われたものの、好いた男と恋人関係を結べた事は限りない幸せであった。

恋人として接する日車は、想定以上に饒舌で、愛情深く、様々なコミュニケーションを取る事を厭わない男だった。
元の仕事を考えれば、会話で人の心を溶かし寄り添うのが上手いなんて理解できそうなのに。
疲弊して瞼を下ろす寡黙イメージが強かったせいで、日車の挙動に全部、全部が甘やかに乱されていく。

控えめな笑い声も、不安に陥る前に呼ぶ俺の名前に籠る信頼も。向き合って眠る布団の中、熱に浮かされて蕩ける視線、呼吸を奪い合う口付け。一方通行だと思っていた感情を分かち合える嬉しさと同時に、俺はその真っ直ぐな愛にまごついてしまったのだ。



重ねるだけの子供じみた機嫌取りの口付けに焦れた日車が、薄い舌を遠慮がちに伸ばして俺の下唇を舐める。

「日下部」
「ん。…悪い。お前が可愛くて。」
「…そう言えば諦めるとでも?」
「思ってない。寛見ちゃんは我が強いから。」

二人揃って翌日が休みの夜。もう幾度目かになる論争を経て、座れと指示された時点で話の内容が分かるようになっていた。

基本的に喧嘩はしない。というか、そこまで激しい揉め事にすらならない。いい大人同士、大抵は話し合いで解決するし、適当な折り合いもつけられる。強いていえば、俺が日車の行き過ぎた自戒を窘める程度か。多少の生活力を盾に大体のイニシアチブは握っているも、この話題は唯一俺の立場が弱くなる。

過去数度に渡った口頭弁論は不利を受けつついい感じに濁して乗り越えたが、太腿に跨り俺を見下ろす所、今日の日車はかなり強気らしい。気ィ抜けば大敗を喫しそうで、一旦、緩く腰に巻いていた腕を離した。

俺たちが出会って一年半、交際してから半年弱。初期から議題に上がりつつ並行線のまま結果が出ていない争点は、恋人関係に落ち着くにあたり、肉体を結ぶかどうかについてだった。

「俺はお前とこーしてられるだけで、楽しいけどな。」
「そこは同意する。俺には過ぎた幸せだ。」
「なら良いだろ。追々考えればさ。」
「…追々とは都合の良い言葉だと思わないか?」
「俺は好きだけどな。遠回しな言い方。」


俺の混ぜっ返しに苛立ち窄まる唇が可愛くて、啄むようにキスをする。日車は、俺との性的接触に関して前向きに検討し、同意が取れれば行為に及びたいと主張してる。一方俺は、まだ関係を進ませるには早いという理由で、現状維持を希望している。

砕いて言っちまえば日車は俺には考えも及ばないような理論を経てセックスに誘って来ていて、俺はそこに至るのに二の足を踏み逃げている状態。抱けという側がこんなに積極的だとビビるというか、普通逆じゃないか?黙秘は許さないとばかりに顔を覗き込む日車の鷲鼻をツンとつつき、多分無意識に机に伸びていた手が絡めとられる。捕まった掌は日車の腰に戻されて、飴の大袋は遠くに押しやられてしまう。

「日車、怒ってる?」
「怒ってない。話したいだけだ。」

すり、と手首をなぞる親密な指の動きは怒りも苛立ちも乗せておらず、ただ熱い体温だけがいじらしく擦り寄る。生っちろく筋張る掌を掬い、逃げそうにないのを確かめて口付けを落とす。呪力で出来たガベルはいくら握りこんでも皮膚を固くしないんだろう、唇に当たる滑らかな肌は本物の武器を佩く俺と感触から違った。

万が一にも犬歯に引っかけないよう、丁寧に。僅かな肉付きへ、太くなる関節へ。一口で食えそうな四角い爪の根元に浅く歯型を残し、指の股へ吸い付く。ちゅ、ちゅ、と響くリップ音は小っ恥ずかしいけれど、してる俺よりされている日車の方が重症だ。声にならない呻きをあげ、俺を逃がすまいと体重を乗せていた腰は困ったように引けている。

「…ずるいぞ。」
「歳重ねてるからな。カワイー恋人に悪戯したくなった。」
「茶化さないでくれ。…俺に触れたくない、訳ではないんだな。」
「当たり前だろ。触るのも触られるのも歓迎。なんなら、日車が俺の事抱いてみる?」
「それこそ俺の独りよがりになる。出来れば君から求められたい。」
「…ま、そーね。よく分かってんな、お前。」

性行為に難色を示してる俺が受け手に回るのは前向きな委ね方じゃないと、この聡い男は気づいている。本心から日車に何されても良いとは思ってるんだが、自分でも上手く落とし込めない感情を見透かされている気がした。

「この話をしたくないなら、はっきり拒絶してくれ。…勘違いしないで欲しいのは、俺は今でも十分君に救われているという事だ。」
「…俺も日車に救われてるぜ。もう一生、連れ合いなんて作る気無かったのによ。」

繋いだまんまの掌にきゅうと力が伝わって、指先に日車の唇が押し付けられる。少し乾燥したあわいから赤い粘膜が覗いて、肉の艶めかしさに息を飲んでしまったのはバレただろうか。

「理由が知りたい。改善できるなら善処する。君が何を思って、俺に心を砕いてくれるのか理解したいんだ。もっと、深く…触れたいと思う。」

頼む、そう小さく付け加えて、日車の言いたい事は全て言い終わったようだ。かなり精神を削ったのかぐったり胸に倒れてくる身体に腕を回して背中をそっと叩く。のらりくらりと逃げていたつもりだったのに、思っていた何倍も日車を傷付けていた。どれだけ会話をして肌に触れても、俺達は男同士で、好き合う以上に身体の繋がりが無いと不安にさせてしまうんだと、頭じゃ分かってる。

俺を信頼して全身を預ける日車と一緒に、ごろんと床へ横たわり同じ高さで瞳を合わす。たっぷり間をあけて瞬く瞼を数度見送り、腹の奥底に沈めていた本心を晒す覚悟が決まった。


「怖いんだよ。」
「…怖い?」

理由をひた隠しにしたのは単純。一線を越えられないのは俺の臆病さが原因だったから。

「身体を繋げるとなれば、お前に負担がかかる。」
「別に良い。」
「俺が良くない。…そっから擦り合わせだな。」

緩く囲っていた腕を緩めて腰骨を辿り、小ぶりな尻を軽く打つ。びく、と跳ねた日車に了解を取らず、ずりあがるスウェットの隙間へ手を差し込み、臍の下へ掌を置いた。

「男と寝た事ある?ここ使って、腹のここまで他人を入れんだ。女より、内臓に近い。」
「ンッ…あ。」
「ほら、肌も薄いし。いきなり触られると怖いだろ。お前が良いって思っても、一回寝たら身体が変わっちまうんだ。実際。」

治しきれずに刻まれた蚯蚓腫れを爪の先で辿り、古傷の終着にある鼠径部へ触れる。

「お前は辛くても受け入れる。俺が傷付けても反転で治す。…痛みを罰にしたくない。」
「優しく抱いてくれればいい。」
「んは、殺し文句だな。」
「笑い事じゃないし、君を怖がってもない。少し、恥ずかしかっただけだ。…なぁ、触ってくれないか。」

半身を起こした日車は俺の手を掴み、じりじりと上に誘導する。戦闘を日常にして鍛えられた腹は微かに割れつつあり、その凹凸を登った肋骨の窪みで動きが止まった。どこか期待の滲む吐息で膨らむ肺、早い鼓動を刻む心臓を隔てる胸へ、俺の意思で掌を添わせる。

「お前の為を思って、だけなら。いい話っぽいよなァ。」

こんなに密着して話しているのだ、日車のモノが太腿に押し当たっているのも分かるし、俺の方だって兆しているのも隠せない。あの日車が。死地を選び一人裁きの時を待っていた男が、俺みたいなのを欲して、心も体も一等やわい部分を晒してくれている。これが愛情でなくてなんなのだろう、それに報いる為にも、自分の為にも、日車を大事に抱いちまえばいい。弁護士様お墨付きの同意だ。

なのに、この先へ踏み込めない。

意気地無しの掌は日車を乱せず、真黒な瞳に見つめられる事さえ焦燥を掻き立てられた。
情けないツラを隠す様に腕で遮り、慌てた日車がそっと揺すってくれるのに、どうしてか上手く取り繕えない。俺はこんなにも、臆病だったのか。

徐に、ずっしりとした重みと熱に包まれる。
覆い被さるようにのしかかった日車は、逃げる俺を咎めもせずにゆっくりと頭を抱いた。不慣れにトントンと背中を叩かれ、低く穏やかな声が大丈夫だと繰り返す。


「日下部、どうしたんだ。」

人を呪う言葉がどれだけ強いか、嫌って程知っているのに。日車に抱く恋心の奥底に沈めていた濁る澱みが、押し出されるように口をついて出てしまう。

「…ここまで言ってくれるお前を抱いて、身体も心も全部許されたら。その後に捨てられんのがもっと怖くなるんだ。嫌な人間だよ、俺は。」

「…まさか、俺が君を?捨てるだなんて。」
「日車、突然居なくなりそうじゃん。」
「……」
「心当たりあんだろ。」

幸せすぎて辛い、は文字通り日車を蝕んでいる筈だ。自罰的なこの男が、俺となんて事ない日々を送る折に、痛みの滲む表情を浮かべているのを見過ごせる鈍さは持ち合わせていない。


「重すぎ、とか単純に飽きた、とか。…それが理由で別れられんのは、なんとか。…いや、どうだろ。かなり引きずるけど、お前が自分の為に生きてくれれば、いつか諦められる。でも、もし幸せになってしまったからって理由で逃げられたら、俺立ち直れねぇよ。」

付き合った頃は、ただ笑顔でいさせたかった。なのに、今じゃ日車が離れていくのが怖い。身体の奥深くまで繋がって、どんだけ愛してるか伝えたいのに。それをすれば日車が損なわれる。

堰を切って溢れるどうしようもない男の独白を、日車は黙って聞いていた。子供をかかえるみたく優しい抱擁と、短い相槌。話す内に羞恥心が戻ってきてしどろもどろになる俺を茶化しもせず、最後まで口を挟まなかった。そんで、もう何も言えなくなった所で一度座り直そうと座布団を寄越された。

「……悪い。みっともなかった。」
「どうして?教えてくれて嬉しいし、謝るなら余計な罪悪感を持たせた俺の方だ。」
「本当、俺って面倒くさいな。自覚はある。いい歳して笑えるだろ。」
「…君は怖がりなんだな。もう一度抱き締めても?」

わざわざ許可を求められると、俺の方も返答をしなきゃならない。…肉体関係を打診される度、断る俺より断られる日車の方がしんどいと分かっていた。それでも誠実に同意を得ようとする日車が愛おしく、頷いてすぐに俺の方から抱き寄せる。

「ん、あったけぇな。」
「ずっと離れないと約束は出来ない。俺はいつか罰せられるべき人間だ。でも、逃げないと誓おう。君の隣はどうにも心地いい。…好きだから、だな。」
「…熱烈。」
「そうして逸らすのはやめてくれ。」
「悪い、嬉しくて。お前が好きだから、先に進むのにもう少しだけ時間が欲しい。」
「良いさ。こちらとしても方向性が定まった。」
「……ん?」
「一つ確認がある。」

きゅっと力を込めてから離れていった日車は、中指の関節でちゃぶ台の端をコツコツと打ちつける。…人を裁く時の音だ。急ぎ姿勢を整える間に、寸前まで俺を甘やかしていた恋人の表情は、相手の綻びを突く嫌な弁護士の顔へと変わっていた。

「重い、飽きられた。引きずっていた。これは俺の話ではなく、過去の交際経験に基づいた弱音で間違いないか?」
「……あ。……ハイ。そうです。」

「過去を匂わせるのはマナー違反とはいえ、今回は不可抗力として不問にしよう。俺に関して、日下部を重いと感じたことは無い。君は慎重すぎるきらいがあるものの、誠実で人間らしい所は美点だ。それに、君のシニカルは部分にも惹かれる。飽きる暇がない。故に俺達の相性は良い。加えて、精神的な繋がりにおいては特に君を信頼している。…ただ、そこに甘えすぎた。君は小心者だと念頭に置くべきだった。後引くような酷い離れ方はしない、俺のエゴで君を蔑ろにしないと誓おう。」
「なんか、貶したり褒めたりされたか?」

突然すらすらと述べられる弁論に追いつかず、ぴんと伸びた背筋を馬鹿みたいに眺めるしかできない。フゥと吐いた息のタイミングで、日車は判決を下す。

「日下部の不安を取り除けなかった分、改善点は決まった。こちらとしては、手を出されるよう尽力させてもらう。」
「え?」
「そちらの反応を見る限り、俺が性的対象になっているには違いない。」
「寛見ちゃん?」

明け透けに俺の股座を指差した日車は、これでおしまいとばかりに寝室へ歩き出す。

「触ってもいいと同意は取れたのだから、俺は精一杯誘いをかけるぞ。断る事に罪悪感は持たなくてもいい、いつ君が靡くか楽しませてもらう。心の準備が整ったらいつでも乗ってきてくれ。愛してる、篤也。」

この後すぐ、心変わりしてもらっても構わない。そう言い残して扉を閉める楽しげな恋人と、口を開いたまま取り残された俺。守ってやりたい筈の男に全部の道筋を塞がれた、世界一間抜けなおっさんの誕生だ。

「……ハァー、ずるいのはどっちだよ。」

こんなに恥を晒した癖に、真っ赤にゆだってしまった顔のまま寝室に行く勇気はやっぱり出てこなくて。

心の準備が整うまで待つと言った寛大な恋人は、俺がもだもだと往生際悪く足掻くのも理解の上だろう。今はその優しさに甘えさせてもらうと決めて、部屋の端でこじんまりと逃げおおせていた飴を一つ口に放り込んだのだった。


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コメント

  • getu
    5月25日
  • 5月24日
  • 小夜双☆スカィWeb
    5月23日
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