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海に浮かぶ月/youの小説

海に浮かぶ月

4,400文字8分

注意)当たり前のように日車さんが呪術師をやっている世界線。
二人は付き合ってませんが、互いに好意的です。
こんな日常があったっていい。という願望から、怪我もしないしえっ!な事もない、大人二人のしずかーなやりとり。
コンパクトに纏める練習をしています。
何でも許せる方、どうぞ宜しくお願いいたします。

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「知っているか、日下部。彼らには脳がないそうだ」

 巨大な円柱水槽の前で立ち止まった男がぽつりと呟いた。

 閉館時間をとっくに過ぎている水族館の館内は人の気配がまるでない。昼の間、子供達の歓声や靴音に掻き混ぜられていた水の気配が、静けさの底からゆっくりと浮かび上がってくる。濾過装置の低い唸りは、まるで巨大な生き物の寝息のようで、薄青い館内に絶えず深海の夢を見せていた。
 照明は半分程落とされ、残された灯りだけが水槽を内側からぼんやりと照らしている。魚達は展示される事をやめ、ようやく自分たちの夜に戻っていく。銀色の鱗がひとひら、月の欠片のように暗がりを横切り、群れは言葉を持たない代わりに全身を躍動させて泳ぎ回り、より雄弁に想いを交わしているようだった。
 人気のなくなった回廊には、まだ誰かの余韻だけが残っている。ガラスに貼りついた小さな手の跡、ベンチに置き忘れられた温度、恋人達が囁いた声の名残。そうしたものが湿った空気に溶けきれず、海の匂いと一緒に漂っている。
 そんな中、このクラゲの水槽の前だけは、時間が少し遅い。淡い光の中で、透明な傘たちは重力を忘れたように上下し、世界がまだ水の中にあった頃の記憶を反復している。その静かな運動を見ていると、人間の営みの方が、寧ろ束の間の幻なのではないかと思えてくる。
 破壊と再生を繰り返して世界は今日という日を精一杯生き、そして静かに死んでゆく。それは生きとし生けるものの定めであり、その円環から逃れられない生命はそれぞれの陸を歩き、母なる海へと還っていく。この場所は、命が還る先なのかもしれない。そんな風に思考の海を漂っていると、反応がなかった日下部に声が届かなかったのだと勘違いをした日車が再び、今度はやけにハッキリと声を発した。
「クラゲには脳が、ないそうだ」
「聞こえてるよ」
 その声は水槽のフィルターが立てる微かな重低音に溶けて、いつもより低く響いた。
 ライトアップされた水槽の中、無数のミズクラゲが意思を持たない宝石のように漂っている。海月とはよく言ったもので、本当に闇夜を煌々と照らす月が浮かんでいるように見えるから人間はこれの飾り方を熟知していると言えるだろう。満ちるでもなく、欠けるでもなく、ただそこに在るだけで周囲の闇をやわらげる光。だからこの水槽の前に立つ度、人は知らず空を見上げる時と同じ顔になるんだ──。切なげに水槽を見詰める日車の横顔を見ながら、日下部は口内で飴を転がした。
 今日の任務は上出来だった。
 何より館内の備品をほぼ無傷の状態で戦闘を終えられたし、見る度に密かに苛立っていた自傷行為に等しい日車の自罰的行動も今日は見ずに済んだ。二人とも怪我なく、体力も充分温存されている。それもこれも、呪霊側に明確な戦闘の意思がない事が大きかった。
 事前調査の報告にあった通り、その規模は館内全域を飲み込む程に大きく膨れ上がっていた。数多の呪霊を取り込んで、一つになった大型の個体だ。息をする度に瘴気のような毒を撒き散らしている事もあり、特級案件と見られていた。その為に日下部と日車、実力者二人で任務に当たったのだが、結果として限界を超えて呪霊を取り込み続けていた対象は形が保てなくなりほぼ自壊。自身の毒に融かされ、日下部達のやる事といえば後片付け程度だった。

「脳も、心臓も、血管もない。ただ水流に身を任せ、光を反射して生きている。……少し、羨ましいと思わないか」
 分厚いアクリルの中に閉じ込められたどんな生き物よりも生き辛そうに、日車が呟いた。その瞳には、ゆらゆらと揺れる青白い光が映り込んでいる。正義だの、罰だの、一級術師だの。そんな重たい荷物を背負い込んで歩く自分達とは対照的な存在。
 日下部はこれ見よがしに溜息を一つ置いて、抜いたままになっている刀を鞘へと納めてから日車の方へと一歩踏み出した。
「……思わねーな。流されてるだけじゃ、行きたい場所には行けねぇでしょーよ。やだよ、毎日流されるまま任務行って、ただ帰って寝る生活は」
「行きたい場所」
 復唱される声は酷くぎこちないものだった。言葉にして聞かなくても分かる。全く思い当たらない、といった表情だ。
 無欲や諦観とは違うのだろうと思う。これは、純粋に自分自身のわがままを聞いてやった事がないからその聞き出し方や叶え方を知らないといったタイプだ。万に一つ何か思い当たっても、何かと理由を付けて叶えてやらない狡いやり口で自分を律し続けて来たのだ。その結果、振って湧いた休日を無為に溶かす所まで容易に想像がつく。三十路を過ぎた大人が何をやっているんだと、日下部はその天才的な脳ミソが詰まった頭を引っ叩きたくなってすんでのところで堪えた。
「あぁ、どっかねーの、行きたい場所。あんでしょう?一つくらい、買い物行きたいとか、流行りのメシ食いに行きたいとか、綺麗な景色を見に行きたいとか」
「……ふっ」
 唐突に笑い出した日車に置いてけぼりを食らったのは日下部の方だった。何だよ……と訝しむと、目尻にうっすら浮かべた涙を拭いながらすまないと謝った日車は、深い呼吸を幾度か繰り返し落ち着いた所で口を開いた。
「……デートに誘われた女性の気持ちが少し分かった気がする。悪くないな、思わず頷いてしまいそうだった」
 沈黙が流れる。しかし、それは決して気まずいものではなかった。水槽の向こう側でクラゲが傘を広げ、ゆっくりと収縮させる。その規則正しいリズムが、二人の鼓動を同期させていくような錯覚に陥った。
 日下部は意を決したように口の中の飴を噛み砕いた。パキリ、と硬質な音が響き、静寂の膜が破れる。
​「……だったら、頷いときゃいい。思考停止して流されるのが羨ましいんだろ? なら、今だけは俺の誘いに乗ってみりゃいいんじゃね?」
​ コートのポケットに手を突っ込み、顎で出口の方を指す。拘束はしていない。強制力はまるでない。日車は一瞬、戸惑ったように瞬きをして、やがて少し悪い笑みを浮かべて肩を竦めて見せた。
​「いいのか? 俺は服のセンスもなければ、流行りの店についても疎いぞ。知っている店と言えば…この間、任務の合間に虎杖達に連れ回されて、摩訶不思議な色のチーズを食べたんだが…その後の戦闘で思いの外三半規管を痛め付けられて、エフェクト不要の吐瀉物が……」
「くくっ……、やめろって。何でデート誘ってる相手にゲロの話聞かせてんだよアンタ、最悪だな。ぜってー行かねーからな、そんな店」
​ ひとしきり笑って、手を差し伸べた。日車は今度こそその大きな双眸に驚きを湛えて、珍しく逡巡しているようだった。あぁ、これは断られるか?そう思った矢先、遠慮がちに重ねられた掌に、日下部は必死になって口元を引き締めた。
 ひやりとした指先だった。
 けれど、それは冷たいというより、長い間誰にも触れられずにいた温度のように思えた。
 日下部は余計な事を言わないように、ただその手を軽く引いた。強く握れば壊れてしまいそうで、けれど離せば二度と届かなくなる気がして、酷く中途半端な力加減だった。
 日車は抵抗しなかった。
 背後でクラゲ達が、何も知らない顔で月のふりを続けている。
 満ちる事も欠ける事もなく、ただ静かに、曖昧に、感情だけを照らし出していた。

「……本当に行くのか」
 歩き出してから、ようやく日車がそんな事を言った。
 まさか取って食われるとでも思っているのか?と勘繰る程の慎重な声色だ。しかしそれは拒絶ではなく、日車らしい意思の確認といった風で、日下部はそれが妙におかしかった。
「今更何言ってんだよ、怖気付いたか?」
「いや、こういうのは普通、もう少し段階を踏むものかと」
「段階?」
 不思議そうに唸ると、日車は道徳や保健体育の教科書でも読み上げるかのような面持ちで続けた。
「食事に誘う、連絡先を交換する、世間話を重ねる、好感度を上げる……そういう、社会的な手順があるだろう」
「うわ、めんどくせぇ!今時中学生だってそんな事してねぇんじゃねぇの?付き合いましょう、そうしましょうで即ぶっちゅーよ」
「オジサン臭いな」
 ごもっとも。
 日下部は返す言葉を失って、代わりに肩を竦めた。
「だってアンタ、そういうの全部すっ飛ばさないと、一生自分から来ねぇだろ」
 その言葉に、日車は少しだけ目を伏せた。思い当たる所があり過ぎるのだろう。
 閉館後の館内に、二人分の足音だけが静かに響く。
 水槽の青い光が通路に揺れて、まるで海の底を歩いているようだった。

「……そうかもしれない」

 ぽつり、と。

「情報を取り込み、可能な限り早く最適解を抽出し、求められるフォーマットで吐き出すという事に関しては得意だと自覚している。が……そこに自分の意思を絡める、という事は、昔からあまり得意じゃない」
 その声は、戦闘時に安心して背中を預けられる男のそれとはまるで違っていた。
 もっと柔らかくて、脆くて、酷く人間らしい。
「規律の下正解を選ぶ事には慣れている。けれど、自分が欲しいものを選ぶとなると途端に分からなくなる」
 日下部は日車にバレない程度に眉間を寄せた。
 欲しいもの。
 そんなもの、ガキの頃ならいくらだって口に出来た筈なのに。大人になるにつれて、徐々に荷物が増え、正しさや責任といった角の鋭い石をポケットに詰め込んで、気づけば身動きが取れなくなっている。
 それはきっと、自分だって同じだった。

「じゃあ練習しようぜ」
「練習?」
「あぁ。小さいのでいい。今夜の晩飯でも、次の休みの予定でも。欲しいもん、自分で選ぶ練習」
 開きっぱなしになっている出口の自動ドアの前で立ち止まり、日下部は振り返った。
 ガラス越しの夜がそこにある。
 街はまだ眠りに就いてはいない。

「で、先生。最初の問題です」
 先生じゃない。という口答えを無視してわざとらしく咳払いをひとつ。
「今夜、何食いたい?」
 日車は目を瞬かせた。
 呪術界きっての遅咲きの天才は、今世紀最大の難問を突きつけられたような顔をして、しばらく黙り込む。

 数秒。
 十数秒。
 たっぷり三十秒。

「……ラーメン」
「いいねぇ、三十路の初デートっぽくて」
 そう言って茶化すと、意外にも初デートだろう?と真顔で返されて、日下部は一拍置いてから吹き出した。

「……っ、はは、ほんとアンタずるいわ」
「何がだ」
「その顔でそういうこと言うとこ」
 日下部は繋いだままだった手を、今度はちゃんと握り直して夜へと踏み出した。
 日車はほんのわずかに目を細め、微かに手を握り返してくる。そして今度は、心の声に従ってその一歩を踏み出した。

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コメント

  • なべ
    4月26日
  • ミッキー
    4月25日
  • 菅流@芋づる式
    4月25日
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