かけことば
Attention!!
・決戦後日車呪術師if
・原作と同程度の怪我の描写あり
・オリジナルの呪霊が登場します
呪術師やってる二人が見たい&しょうもないことで笑ってる二人が見たい&ちょっといちゃつかせたいという欲望から生まれたものです。
暖かい目でお読みください。
表紙は同人誌表紙メーカーさんを利用させていただきました。
多くの方にご覧いただき大変嬉しいです。
もし気が向いたら感想等いただけますと小躍りしながら喜びます。→https://wavebox.me/wave/cj0jeoauuow1qsvj/
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決戦から一年が経過し、ようやく、ほんの少しだけ色んなことが落ち着き始めたように思われた二月下旬の今日。埼玉県内のとある低山で、白骨化した遺体が発見されたと情報が入った。ただそれだけなら警察の管轄なのだが、遺体の身元を確認したところ被害者は二日前までは生きていたのだという。日帰りで登山に行ってくると出ていったきり、夜中になっても帰宅しない被害者を心配した家族が警察へ通報し、提出された登山届を元に捜索された末に登山道から少々逸れた場所で発見されたらしい。
おそらく呪霊による仕業なのだが、窓によると現時点では現場で僅かな残穢を確認できたのみで、本体はどこに潜んでいるのかわからないとのことだった。それもそうだろう。低山とはいえ、山は山だ。視界も足場も悪い上、範囲が広すぎる。残穢を辿れないのであれば、術師が捜索しても見つかるまでにかなり時間を要しそうな案件だ。
原則、呪霊の等級がわからない場合は二級以上の術師が二名以上で対応をすることになっている。その場で祓えればベストだが、祓えないと判断すれば一旦退き、立て直す。この、一旦退く、というのが、呪霊との実力差があまりにも大きかった場合にそもそも難しい話になってくるがために設けられた原則だ。
だから、伊地知がわざわざ日車と俺をセットで呼び出した時には既に脳内で警報が鳴っていたのだ。面倒臭そうな任務依頼が来るぞ、と。
「お忙しいところ恐縮なのですが、今対応に当たれるのが、日下部さんと日車さんのお二人しかいないんです」
一通りの状況説明をし終えた伊地知が、申し訳なさそうな声音でそう述べつつ丁寧にファイリングされた資料をこちらに差し出す。俺が文句を垂れるより早くそれを受け取った日車が「かまわない」と、表情ひとつ変えずに言った。
「いや俺はかまうんだけど」
「君、今日は暇だと言っていたじゃないか」
「いつもより余裕があるっつーだけで暇とは言ってねぇんだよなぁ」
確かに、今日のスケジュールは普段よりは落ち着いていた。学長代理としての面倒臭い上とのやり取りや、さらに面倒臭いシン・陰流当主としてのあれこれ、そして通常授業と任務と、膨大な量の雑務。それらが、いつもの八割くらいに抑えられていたのだ。しかし、せいぜい普段の睡眠時間が平均四〜五時間なのに対して、今日は昼休みを短縮すれば七時間くらいは寝れるだろうという程度。だから全然、全くもって、暇ではない。
しかも、時期が時期で、場所が場所だ。腕時計を見れば、針は午後一時を示している。ここから車で移動して登山口まで一時間弱。着いたら帳を下ろして、山の中でどこにいるかも分からない呪霊を探して、運良く見つけられて祓えそうなら祓って、そうじゃなければ一旦退いて立て直し。何度も言うが、それを山の中で。しかも真冬に。全てがうまくいって祓えたとしても、高専に帰る頃には間違いなく夜中だ。ぶっちゃけ、他に人がいるならそっちに任せてしまいたい。
「面倒臭いという感情が全部顔に出てるぞ」
「すんませんね、そりゃ」
口の中の飴をガリガリと噛み砕きながら口上だけの謝罪を述べると、日車はやはり無表情のままちらりと俺を一瞥してから受け取った資料に目を通し始めた。
「別に俺一人で行っても構わないが」
「そういう訳にもいかねぇのよ」
俺の横で日車が不思議そうに首を傾げたため、伊地知が補足的に説明をする。
「呪霊の等級がわからない場合、原則二級以上の術師が二名以上で対応をすることになっているんです」
「そうなのか」
日車が俺に確認するような目を向ける。そういえば、こいつが来てからこんな案件が来たのは初めてだった。知らなくて当然だろう。
「まあ、そういうこった」
面倒臭いが、如何せん、その原則を設けたのは俺なのだ。自分が死なないために、そして、術師をいたずらに死なせないために。なんせ、この業界は万年人手不足だ。一時前は明らかに格上の呪霊に対して力の及ばない術師が派遣されることも多々あった。しかしそれでは人手不足に拍車がかかるだけだろうという俺の意見が、人員が入れ替わった総監部に受け入れられ現在に至る。
自分で設定したものを面倒臭いからと言って簡単に放り出すわけにはいかないし、そんなことをしてしまっては後から何を言われるかわからない。
それに、この日車寛見という男。仮にこいつを一人で行かせて万が一にも何かあった場合、多方面からブーイングを浴びせられることになるだろう。羂索により巻き込まれた一般人のくせに、死滅回游ではただ生き残るどころか泳者を狩る強者の側に立った男だ。それだけでも充分に意味がわからないのだが、その後の新宿決戦までも生き抜き、今は亡き五条悟と並ぶほどの才能の原石とまで言われている。元々領域が備わっているタイプの強力な術式に加え、術師として開花してたった二ヶ月で反転術式まで会得した天才。そんな天才が、今は高専で術師をしながら法務・行政関係の複雑な手続きまで担っているのだ。他の術師や補助監督からの信頼は絶大で、学生たちからも頼りにされている。
先程の言葉は訂正する。何かあれば、ブーイングを浴びせられるどころか、最悪、自慢の愛刀で腹を切らされるかもしれない。
「あんたが行くなら、俺も行くしかねえんだよ。どうせだから、昇級の査定も兼ねていいだろ、伊地知」
「はい。先日既に二名以上の一級術師から推薦は受けてますし、既に何度か任務に同行してますしね」
「査定もクソもねえけどな、もう」
推薦をした術師は、一人は冥冥、もう一人は少し前に昇級した猪野だ。俺は日車が高専の術師となった時からお目付け役として度々任務に同行しており、昇級査定としての任務について行くのも俺が適任だろうということで、推薦はその二名が行ったのだ。制度上のことだから仕方ないが、正直なところ査定も不要なくらい、一級術師として適性しかない。というか、特級認定されても全く驚かない。強いて欠点を挙げるなら、戦闘時に自己犠牲を厭わな過ぎて危ういといったところだ。
「では、早速ですがお送りします」
話がまとまったと判断したらしい伊地知がデスク上に置かれていた車のキーを掴んで歩き出す。日車は読み終えた資料を俺に寄越して伊地知の後に続いた。
「早いところ、一級に上がってくださいよ」
「当主様のご期待とあらば、精進する」
「その呼び方やめろマジで」
並んで歩きながら軽口を叩き合っていると、伊地知が「お二人、仲良しですねぇ」と柔らかい口調で言って笑う。俺と日車は顔を見合わせた。
仲は悪くはないとは思う。しかし別に、特別良くもない。プライベートでの付き合いはないし、個人的に連絡を取り合うような間柄でもない。ただ、決戦に至るまでの特訓に加え、何度も任務に同行しているが故に、重ねた時間だけは他の面々よりは多いだろう。
もっと言えば、俺個人は日車を気に入っている。波長が合うのだ。それが何に由来しているのかは分からない。同性だからか、歳が近いからか、会話のペースが合うからか。少なくとも性格は真逆だし、だいたい無表情で感情の起伏がなく、何を考えているのかはわかりにくい。しかし、とにかく、こいつの隣りは居心地が良いと思う。軽口を叩き合える程度の関係性を築けたことに優越感を抱いている自分も少なからずいる。誰にも寄り付かなかった野良猫が自分にだけ少し懐いてくれた時の感覚に似ているのかもしれない。目に見えて贔屓をしたことはないはずだが、お目付け役を命じられた時も、査定のための任務同行も、普段なら何かしらの理由をつけて断りそうなものを、表面上は面倒臭そうな顔を作りながら二つ返事で了承するくらいには俺は日車を好いていた。
「別に仲良くはない」
一度顔を見合わせ後、直ぐに前を向いて日車は答えた。その返答に胸がもやりとする。そうだ、別に仲良くはない。先程、同じことを考えていたはずなのに一体何がひっかかったのか自分でもよく分からず、掌で鳩尾のあたりを撫でてみるが、特に胃の調子は悪くない。
「そうな。別に仲良くは」
「でも俺は仲良くなりたいから、今落としにかかってるところだ」
「え」
俺の返答を遮るように続けられた日車の言葉に、自分の鳩尾から再度横に視線を向ける。なにそれ、どういう意味。俺が上手い返しを思いつかないでいると、伊地知がおかしそうに笑った。
「日車さんも冗談なんて言うんですね」
「ああ、まあな」
日車は表情を変えないまま、こちらを一瞥し再び前を向いて伊地知と情報の確認をしだした。冗談。へぇ、そう。冗談、ね。
「仲良くなりたいなら、酒でも飲みに行きますか」
なんとなく。本当になんとなく、目の前の鉄仮面をひっぺがしてやりたくなって、終わった雰囲気になっていた会話を蒸し返す。日車は丸い目を先にきょろりと動かし、それからゆっくり顔をこちらに向けた。
「……気持ちは嬉しいが、結構だ。忙しいんだろう。俺と酒を飲んでる時間があったら寝た方がいい。自己管理も仕事のうちだぞ」
「あんたにだけは言われたくないんだよなぁ」
「俺がいつ自己管理を怠った」
「毎日昼飯にウィダー啜ってるやつが何言ってんだよ。ちゃんとした飯食って栄養取れ。そのうちマジで倒れるぞ」
日車が、「善処する」と、全くする気のなさそうな回答を寄越したところで駐車場に到着し、伊地知が笑いながら車のキーを操作してドアロックを外した。
「まあまあ日下部さん、その辺で。どうしてもお酒飲みたければ僕が付き合います」
「なんで俺が振られたみたいになってんだよ。つーか、お前こそ俺と酒飲んでる暇あったら寝ろよ。何連勤目だよ」
後部座席に乗り込みながらそう言うと、伊地知は運転席でシートベルトを締めながら「もう数えるのやめちゃいました」と苦笑いをした。こいつこそ休ませないとダメだろ。学長代理権限で無理矢理にでも休み捩じ込むか。そうでもしないと、恐らく永久に働き続けるだろう。日車といい、伊地知といい、どうしてこうも、なんでもかんでも引き受けるのか。
「今日中に終わるかわかんねえけど、もし終わったらお前さっさと帰れよ。報告書はやっとく」
「いえ、そういう訳にも」
「大丈夫だって、こっちには書類仕事のエキスパートがついてんだから。な、日車先生」
隣でシートベルトを締め終えた日車の肩を、とん、と軽く手の甲で叩く。叩かれた本人は特にそれ自体を気に留めた様子もなく、前を見据えながら「先生はやめろ」と眉を少しだけ寄せた。
「報告書の件は問題ない。早く帰宅してくれ」
「ちゅーことだ。たまにはゆっくり晩飯食って風呂入って寝ろ」
伊地知は元々猫背気味の背中をさらに丸くして、「恐縮です」と申し訳なさそうに一礼してから車を発進させた。高専の門を出て一般道に入ったところで咥えていた棒付きの飴が溶け切ったため、新しいものをコートのポケットから取り出すついでにちらりと日車を盗み見ると、既に任務に備えて仮眠に入っていた。
この状態の日車を起こしてまで二度逸れてしまった話題を再度口にするというのはさすがに気が引け、俺も仮眠を取るために座席に身を預けることにしたのだが、惜しいことをしたな、という気持ちが抜けず、結局あまり眠れないまま目的地に着いてしまった。
到着時には人払いが済んでいたため、伊地知によって滞りなく山を囲むような帳が降ろされた。想定していたより早く事が進んで有難い限りだ。登山口付近の駐車場で伊地知に見送られながら、俺と日車は山中に足を踏み入れた。
そして現在。既に山に入ってから二時間が経過し、時刻は四時を回った。帳の外ではとうに日が傾いているだろう。露出している肌にあたる空気は徐々に冷たくなってきている。被害者が発見された場所には辿り着きはしたが、残念ながら呪霊の居場所の手掛かりは何もなかった。今は残穢すら見当たらない。
「難航しそうだな」
日車が小さく溜息をつきながら言う。
「だなぁ。せめて手掛かりだけでも掴みてえけど、さすがに日没後に遭遇するのは避けてえ。あと一時間以内に居場所を特定出来なければ出直しだな」
「わかった」
俺の言葉に頷いた後、日車はぴたりと動きを止め、じっとある一点を見つめた。視線の先を辿ると、花や葉はもちろん、蕾すらつけていない丸裸の桜の木が生えている。
「日下部、素人質問で恐縮だが」
「絶対玄人レベルの質問くるやつじゃねーか。なに」
「呪霊がその周囲の植物に対して何か影響を及ぼすことはありえるか」
「全然ありえる。近くにいるだけで成長が速くなるとか、枯れるとか。つーか、今回に至っては人間をいきなり白骨遺体に変えちまうようなやつだし。影響がないほうがおかしい」
日車は俺の回答を聞いてから、その場でぐるりと周囲を百八十度見回し、ふむ、と右手を口元に当てた。
「居場所まではわからないが、方向は特定できるかもしれない。確証はないが聞いてもらってもいいか」
辺りを見回しただけで何が分かったんだ。何が見えているんだこの天才は。そう思っても、口には出さない。どうも、日車は天才扱いされるのが好きではないらしい。それこそ本人がそう言ったわけではないが、補助監督や他の術師達に天才だなんだと持て囃されている時は僅かに表情が硬くなることには、一応前々から気付いている。
「話してくれ」
「呪霊が近くにいる時間が長いほど樹木が病を患いやすく、また、呪霊本体が通常時は一箇所に留まっているものと仮定した場合、おそらく本体はあっちだ」
「樹木の病ぃ?そんなん、見てわかんのかよ」
「病を患っている桜の木は、枝が蜘蛛の巣のように広がるんだ。それがざっと見た感じ、あっちの方向の方が多い」
日車が指さす方向にある桜の木と、周囲に生えているそれとを見比べる。言われてみれば確かに、蜘蛛の巣状に広がっている枝の本数には、どこに生えているかでかなり差があった。
「あんた、樹木医の資格も持ってたりすんの?」
「いや。昔、叔父がそんなことを言っていたのを覚えていただけだ」
だからと言って、この状況で術師としての経験値が少ない日車がその発想に至れるのはセンスとしか言いようがない。天は二物を与えずというが、こいつに関しては間違いなく五物くらい与えられている。
日車が指し示す方へ再度視線をやる。そっちへ真っ直ぐ進むなら、登山道からは外れて急な斜面を斜めに登っていくようなルート取りをすることになる。手元にある地図を見る限りは、迂回ルートを取ることは難しそうだ。
呪霊本体を発見できたわけでなくとも、アタリをつけられたのは大きい。時間はギリギリになるかもしれないが、余裕を持って出直したとしても、どうせ同じ場所を目指すことになるのであれば今日できることは今日しておきたい。何せ明日以降もどんな任務が降ってくるか予想できないのだ。
「その仮説が正しい可能性はかなり高い。こっちに進んで、さっき言った通り一時間以内に本体の居場所を特定できなければ一旦撤退で。今は見えねえが、進めば残穢が視認できるかもしれん。確認は怠らず行くぞ」
「了解だ」
枯れ葉を踏み分け、道無き道を行く。斜面は急だが木が多いお陰で所々手をつきながら進めるため、無駄な体力を削がれる心配はなさそうだ。残穢は見当たらないが、日車が言っていた特徴的な枝の広がり方をした桜の木に出会う頻度は明らかに増していき、それが、呪霊本体に近付いているのだという確信めいたものになってくる。
そうして、日没まであと半刻というところで急に開けた場所に出た。山の中にぽかりと穴が空いたように、円形の空間が出来上がっている。直径は三十メートル程だろう。先程まで踏み分けていた枯れ葉はなく、代わりに一面柔らかな緑色の芝生が靴の下に広がっている。そしてその空間の中央には、二月だというのに満開の大きな桜の木が生えていた。受け取った和やかな視覚情報に反して、ぞわりと背筋が粟立つ。
「日下部、ここは」
「気を付けろ。お相手の領域内だ」
シン・陰流、簡易領域。居合の構えを作り、感覚を研ぎ澄ませる。
あとは散るのを待つだけだと言わんばかりの、満開の桜。その花の色が薄桃色から徐々に絵の具を混ぜたように濃い紅色に変わっていったのを、俺も、おそらく日車も見逃さなかった。同時にうめき声とも泣き声ともとれる轟音が耳を劈き、どこからともなく風が吹き荒れて花弁が舞い上がる。刹那、自分の手に握られた刀が頭で考えるよりも早く何かを斬り刻んだ。足元を見れば、木の根が散っている。なるほど、地中から根を這わせて人間を襲うのか。被害者の発見現場でしか残穢が確認できなかった理由がようやくわかった。となると、あの根に捕まるとまずい。
日車は咄嗟に上方に跳躍して地中からの攻撃を避けたらしい。死角からの攻撃を視認するより前に跳んだに違いない。あいつは出会った当初から、そういう勘がずば抜けて良い。数週間前に習得したらしい空中移動は今やお手のもので、空気の面を捉えて弾むように軽やかに移動している。
一度攻撃が止んだのを確認して、さて、どうするかと考える。言葉が通じる相手ではないため日車の領域展開は意味を為さない。しかし、戦闘における相性は良い。簡易領域内への侵入をフルオートで迎撃できる俺は死角からの攻撃に対応できるし、日車は空中を移動できるから地中からの攻撃はほぼ無効。被害者の発見現場からここまでは三百メートルは離れている。つまりあの根はそのくらいの距離なら伸ばせてしまうのだ。ここから撤退をするとなると、日車は上空で移動できても俺は木の多い斜面を刀を振るいながら駆け抜けることになる。現実的に考えて厳しい。ここでケリをつけるしかない。
上空の日車に目配せすると、一瞬目を合わせたたけでこちらの言いたいことを察したらしく、空中移動で呪霊の方向へ向かう。俺も簡易領域を維持したまま中央の桜の木を目指すと、すかさず地面からぼこぼこと根が出てきてそれを阻もうとしてくる。切っても切っても湧いて出てくるそれを、何も考えず脊髄反射で蹴散らしていく。俺が派手に暴れれば暴れるほど、呪霊はこちらに意識を奪われるはずだ。そこを上から日車に叩いてもらう。日車もこちらの意図を分かっているようで、空中を移動しながら呪霊に隙ができるのを伺っているようだった。
木の幹に刀が届くまでもう少しというところまで辿り着くと、近付くなと言わんばかりに四方八方から根が伸びてきて俺を捕まえようとする。それを薙ぎ倒しながら目だけで日車を探すと、風を切る音が耳元で聴こえた。同時に特大サイズのガベルが目と鼻の先で思い切り振られ、幹に直撃する。
「……っ!?」
「あぁ?」
日車のガベルは的確に木の幹の芯を捉えていた筈だ。なのに、目の前の桜はびくともしない。通常なら、おそらく木端微塵にできるだろうと思われるほど完璧な一撃だった。日車は一度ガベルを掌サイズに戻して再び空中に跳躍した。俺も呪霊本体から距離を取り、上に向かって大声で話しかける。
「どうかしたかよ!」
「おそらく呪力が減少している!攻撃の手応えが少ない!」
「まじか!?」
相手の術式か。しかし木の根には捕まっていない。刀を操作しながら視線を巡らせる。眼前ではひらひらと花弁が舞い、視界を遮り続けていた。まるで意思を持っているかのように。
「あー、こいつ、か……?」
小さく呟き、さらに花弁の動きを観察する。一見ただ風に舞っているだけのように見えるが、一枚だけをじっと目で追っていると、確かにそれは一度こちらにまとわりつくようにしてから呪霊本体の方向に戻るような動きをしていた。触れた者の呪力を奪って持ち帰るのか。日車だけ顕著に呪力の減少が生じているのは俺が簡易領域で相手の術式の効果を薄めているからだろう。とはいえ、完全に打ち消す訳じゃない。長期戦になればなるほど不利だ。
「日車!花びらだ!多分触れると呪力を奪われる!」
「分かっても触れないのは無理だ!一度降りる!」
妥当な判断だ。空中移動にも呪力がいる。呪力切れで自由落下することになってはたまったものじゃない。こうなると、囮役は交代だ。日車は地上に降りて、そのまま根を避けるために低空での移動を混ぜながら走り回り続けた。俺は再度本体に近付き、抜刀の準備を整える。ちらりと視線をやると、日車はそれを合図に地中から出てきた根に対して巨大化させたガベルを振り下ろした。反動で、その身体はふわりと浮き上がる。大きな動作では、大きな隙ができる。それを呪霊も分かっているのだろう。幾本もの根が日車を四方から取り囲み、捕らえようとしたその一瞬。幹への攻撃を阻む根の動きが緩徐になったのを俺は見逃さなかった。
シン・陰流 抜刀。
樹齢五十年はゆうに超えると思われる太い幹を斬りつけると、怒号のようなうめき声が響き渡った。空中を舞っていた花弁が一斉にひらひらと地面に落下していき、同時に根の攻撃が止んで、やがて静寂が訪れた。流石に一太刀で一刀両断という訳にはいかなかったが、幹の三分の二程度の連続性は断てた。
日車がガベルを元のサイズに戻して俺の隣に並ぶ。
「……やったか?」
「そうであってほしいけどな」
綺麗な桜の木の下には死体が埋まっている。そんな共通認識のある畏怖のイメージが特級仮想怨霊となったものだろうか。だとしたら、その畏怖の対象は埋まっているかもしれない死体ではなく、死体のすぐ真上で綺麗に咲き誇っている桜か。それなら呪霊本体が桜の木のような様相をしていることにも説明がつく。
考えながら、ふと、足元を見る。革靴が踏みつけているのは、絨毯のように厚みのある緑の芝生のままだ。
ーーー領域が解けていない。
「ぐぅ……っ」
気付くと同時に横から押し殺したような低いうめき声が聞こえ、振り返ると日車の左下肢に根が巻き付いていた。その先端は大腿に突き刺さっているにも関わらず、血の一滴も出ていない。呪霊の方を見れば、斬ったはずの幹の組織が徐々に連続性を取り戻している。人間を栄養にして再生するのか。
「日車!」
「いい、かまうな……っ!君は早く呪霊の核を見つけろっ!」
日車は苦悶の表情を浮かべながらも首を横に振った。バカなのかこいつは。そんなこと言ってる場合じゃねえだろ。
「ふざけんな死ぬぞ!脚ごと切るから反転回せ!」
「……っっづ……っう…………」
叫ぶと同時に日車の左大腿を切断する。咄嗟に回したのであろう反転術式により、切り口は瞬時に止血された。切った下肢は、水分や軟部組織が根に吸い込まれていったのだろう、急激に老いるように細く萎み、最後には土の上に日車のズボンの切れ端と靴下、革靴、そして骨だけを残した。冷や汗が頬を伝う。こんなんありか。いくらなんでも吸収が早すぎる。咄嗟に目の前のスーツの首根っこを掴んだ。
「悪ぃな、投げるぞ」
「ぐっ……おい、待てっ」
制止の言葉は聞かず、呪力と遠心力を利用して呪霊の領域外に生えている木を目掛けて日車を投げた。だいたい狙った場所に落ちたはずだ。荒っぽいと文句を言われるだろうか。しかしこちらも言いたいことは山程ある。
めきめきと再生していく目の前の桜は花の色がまた一段と濃くなっており、花弁は再びこちらにまとわりつくように舞い上がっている。根も先程と遜色ない頻度でこちらを襲ってくるため、再び簡易領域を展開した。
「厄介な能力持ってんじゃねーか」
ぐだぐだ考えても仕方ない。怒るのも怒られるのも、生きて帰ってからだ。
兎にも角にも、呪霊の核を探さなければならない。どこだ。どこにあるんだ、核は。植物の構造を考えれば枝や葉は切っても当然再生しやすい。根元近くで幹を切り倒してしまえば、普通に考えれば死に向かいそうなものだが、先程の様子を見る限り、また再生のためにこちらを襲ってくることが予想できる。となれば、残りは根だが、そんなものは戦闘開始時からずっと薙ぎ祓い続けているし、全て斬るなんてことは現実的ではない。
ーーー綺麗な桜の木の下には死体が埋まっている。
先程過ぎった文言が再び頭に浮かぶ。あまり想像したくはないが、“そこ”に核があるのだとすればこの呪霊の行動全てに説明がつく。
「だとしたら、相当悪趣味だぜ」
地面を踏み込み、勢いよく本体に近付く。幹には核がないと分かっていながらも一度わざと刀で斬りつけると、罠にかかった獲物を捕食するかのような動きで全方向から一斉に根が襲ってきた。それをこちらもフルオートで迎撃する。嵐のような攻撃だ。攻撃対象が俺だけになったためか、先程より相手の手数が圧倒的に多い。花弁は相変わらず周囲に纏わりつこうとしてくるが、それも刀で払う。埒が明かない。
ふぅー、と意識的に深く息を吐く。焦るな。向こうの呪力だって底なしではないはずだ。今は日車の身体の一部を栄養にして一時的に回復しただけで、いずれは隙ができる。それを見逃すな。
自分に言い聞かせながら耐えること、数分。刀を握る掌のマメが久しぶりに潰れた頃に、その時は来た。地中からの根の攻撃が徐々に緩まり、ぐにゃぐにゃと力なく地を這って、やがて止まった。
潰れたマメから出た血を一度コートで拭い、刀身を鞘から完全に抜いて構える。イメージしろ。幹の真下。太い根が分かれ、広がっていく、その中心部。刀の先に呪力を纏わせ、リーチを倍以上に保った状態で地面の中を切裂くように振るった。
確かな手応えとともに咆哮が轟き、耳の奥がきぃんと鈍く鳴る。頭上の花が一斉に散ったかと思えば、次の瞬間には根も幹も花も、すべてキラキラと光りながら霧散していった。同時に足元の緑色の芝生は消え、気付けば俺の両足は本来の姿である乾いた地面と枯れ葉を踏んでいた。
先程まで桜が生えていた場所には、ぽかりと大きな穴が空いている。地中深くまで張っていた根も完全に消え失せ、巨大な蟻の巣を思わせる光景だ。かつて幹の真下に位置していたと思われる中心部には、崩れた人骨がひとまとまりになっており、しかし頭蓋骨だけは不気味なほど綺麗に形を保ったままそこに鎮座していた。これが呪霊の核の元になっていたのだろう。遺棄された死体なのか、生きたまま根に襲われて取り込まれたのか、それともーーー。そこまで頭に浮かんで、考えるのをやめた。今ある情報だけでは、想像の域を出ない。考えるだけ無駄だ。
「ま、いずれにせよ花見にゃ向かねえな」
誰に聞かせるわけでもなく、小さく独り言ちた。
地面に落ちていた革靴と靴下を拾って、日車を投げた方向に向かうと、木の枝の上に腰掛けているスーツの男の姿が見えた。左脚は大腿部から末端は赤黒い肌が見えている。日車は器用に両腕と右脚だけで木から降りてきて、根元に着座した。
「ありがとう。君のお陰で助かった。しかし次回はもう少し優しく投げてくれ」
「どういたしまして。適当にぶん投げられたくなかったら、もう二度と俺に脚を切らせないでくれ」
日車は、「善処する」と、またいつものあまり心の籠もっていない返事をする。こいつは。
黙って拾った革靴と靴下を手渡す。日車は礼を言って受け取り、ゆっくりと身に着けていった。動作が鈍い。日車の額は、よく見れば汗でじっとりと濡れていた。
「脚、痛むかよ」
「……ああ。なかなか慣れないものだな、痛みというのは」
「まぁ、慣れると戦闘では有利かもしんねえけど。別に無理に慣れなくていい」
それでも、どうせいつかは慣れてしまうだろう。感覚が麻痺して、切傷くらいはどうってことなくなってしまう日がいずれ来る。命と腕を瞬時に天秤にかけて、反射的に腕を切り落とすような真似ができるようなやつが一級術師にはうようよいるのだ。
こいつもそのうち、四肢が千切れても眉一つ動かさずに、誰に言わずとも当たり前のように反転術式でそれを治して、また戦闘を続行するようになるのだろうか。理由は説明できないが、こいつにはあまりそうなってほしくはない。
「そんな慣れは、いい、しばらくは。ちゃんと痛がれ。痛がれるうちに。人間として」
言いながら、トレンチコートから袖を抜く。そのままだと汗が冷えて余計な体力を奪われるだろう。ただでさえ左脚は未完成の薄い素肌を晒しているのだ。
脱いだコートを座っている日車の頭にばさりと被せると、わぶ、と間抜けな声がした後、暖簾を持ち上げるような動作で日車がコートの下からこちらを覗く。
「日下部、流石にこれは……君が寒いだろう」
「いいから着とけ。見てる方が寒い。お前だって生脚晒し続けたくないだろ」
そう答えれば、日車は渋々といった様子で俺のコートに袖を通し、全身がすっぽりと包まるように纏って左下肢の素肌を隠した。身長は然程変わらない筈だが、身体の厚みの差だろう、俺のコートは日車には大きかったようで全体的にダボついている。
「……君は優しいな」
「本気で言ってんなら人を見る目なさ過ぎだ」
答えながら、この後のことを考える。
日車の反転術式の速度は、けして速くはない。以前、一度まじまじとその様を観察させてもらったことがあるが、組織のうち、まず早急に骨、大きな筋肉、太い神経、主となる動静脈、表皮を同時に構成し、その後に、細かな神経と血管、筋肉、皮下脂肪、真皮、の順に形成されていくようだった。先程見た限りでは、下肢は全体的に赤黒く細かったため、前半の構成が終わったところあたりだろう。ただの切傷程度なら数分で終わるだろうが、今回に関しては完全に失ったものを生やしているのだ。おまけに呪霊に呪力を奪われた後。再生が終わるまでの時間は読めない。
そこまで思考し、ふと頭を過ぎった言葉が何となしに口から零れ出た。
「それ、治るまで待ってたら尻に根が生えそうだよな。木だけに」
言い終えてから、しん、と訪れた静寂に、はっとする。しまった。言うべきか言わざるべきかをジャッジするためのフィルターにかける前に、するりと喉を通って出ていってしまった。疲れているのかもしれない。
日車は無言のまま、ぽかんとした表情で俺を見ている。
ほらぁ。どうすんだ、この空気。こいつは気を遣って笑ってくれるタイプではない。なんか、どうにかフォローしろ、俺。
脳内で必死に挽回のための言葉を探す。が、どうにもできないまま数秒が経過したところで、日車がゆっくりと顔を背けて肩を震わせた。
「ふ……ふふ……っ……」
一瞬、何が起きたか分からなかったが、聞こえてくるその声音には明らかに愉楽が滲んていた。
笑ってる。あの日車が。
しゃがんで顔を覗き込むと、日車は見られまいとしているのか、笑うのを必死に堪えているのか、手の甲を口元に当てていたが、抑えきれていない笑い声が漏れ続けている。
「ふふ……君、そんな、しょうもないこと言うんだな……ふ、すまない、ちょっと、待ってくれ……っく、ふふふ」
「…ああ、うん。や、まさか、そんな笑ってもらえるとは」
こいつ、こんなんで笑うのか。こんなふうに。
まさかこんな、口をついて出てしまった駄洒落がそんなに日車のツボに入るとは思ってもみなかった。少しばかりの動揺を悟られないよう、目の前の男の珍しい笑顔をしばらく何もせず眺める。日車はひとしきり肩を震わせた後、「こんなに笑ったのは久しぶりだ」と俺の方を見た。緩い顔だ。いつもの何を考えてるのか分からない仏頂面より断然いい。
「そりゃ良かったよ」
もう少しその顔を眺めていたい気もしたが、生憎日没が近い。しゃがんだまま日車に背を向けるように身体を回転させる。
「そろそろ行くぞ。ほれ」
おぶされ、という意味で両腕を差し出す。
「尻に根は生えないにしても、俺ぁこんなとこで一晩過ごしたくねぇ」
「やめろ、笑う」
「早くしろ。伊地知もとっとと帰してやりてえ」
くっく、と背中の方から日車の抑えた笑い声が聞こえる。まだ笑ってやんの、こいつ。
「すまない。君の厚意に甘える」
「謝んなよ。切ったの俺だし。刀だけ持ってくれ」
「承知した」
数歩分、跳ねるように枯れ葉を踏む音が聞こえた後、肩と首に腕が回され、背中に人間の重みがかかった。回された腕に刀を渡し、左脚には直接触れないようコートで包むようにして両手で日車の膝裏を支えて立ち上がる。
「よっと」
「重くないか」
「別に。普通に成人男性の重みだ」
「悪いな」
「だから謝んなって。つか身長の割には軽すぎる。もっと食え。今より重くても余裕で運べる」
今後も日車をおぶって運ぶ機会が発生するかのような言い方をしてしまった。もちろん、そんな機会ないに越したことはない。しかし、ないならないで、なんだか惜しいような気もした。
「もう君に運んでもらうような事態にはならないように気をつけるが」
「あー、十分気を付けてくれ。二度と仲間の脚なんか斬りたくねえよ」
「そうだな、俺もこれが最初で最後にしたい」
日車がずり、と下にさがったのを、反動をつけて抱え直す。
「落ちねえようにちゃんと掴まってろ」
「……首、苦しくないか」
「全然」
そう返せば、首に回された腕に力が込められ、先程よりも少しだけ身体が密着する。日車がくっついている背中がやけに暖かく、どちらのものともつかない心音が体内に響いた。
「黙ってっと失血で意識失ったのかと勘違いすっから、何か喋っててくんね?」
「何か……何でもいいのか?」
「何でもいいよ」
日車は俺の背中の上で、そうだな、と小さく呟く。生真面目にも気の利いた話題を考えてくれているらしい。別に、本当に何でもいいのだが。なんなら今日の朝食ったものとかでいい。しかし催促はせずに待っていると、しばし間を置いてから日車は口を開いた。
「……人に脚を切断されたのは初めてだったが、なんというか、剪定みたいだったな」
何を言うのかと思えば。予想外の変化球に堪えきれず、ぶはっと噴き出す。
「擦ってくんじゃねーよ、脚滑らすぞ」
「元は君が言い出したんだろう」
二人でくつくつと笑い合った。いつの間にか帳は上がっており、木々の間から低い位置にある満月が見える。月明かりで足元が照らされてありがたい。
なんだか、今日一日でこれまであまり見ることのなかった日車の人間味をこれでもかと味わったような気がする。こいつも、痛みで顔を歪めて呻いたり、冷や汗を滲ませたり、しょうもない洒落で笑ったりするのだ。その事実がどうにもこそばゆくて、コートも着ていないのに、真冬の山中の刺すような風が気にならなくなる自分がいた。
「あー、そうだ。前から言おうと思ってたこと思い出した。あんたさぁ、もうちょっとどうにかなんねえの」
「何がだ」
「過剰な自己犠牲精神」
「じこぎせい」
日車は、聞き慣れない単語を確認するかのように繰り返した。
「目の前の敵を倒せるなら、自分はどうなったっていいって思ってんだろ」
「……事実、そうだが。それの何が問題だ」
顔を見なくても声音で分かる。心底不思議そうな表情をしているに違いない。本当に、本当に分かっていないのだ、このバカは。
「問題大ありだっちゅーの。この業界の人手不足加減分かってんでしょーが。あんたみたいな優秀な術師がいなくなると、他の奴らも困るし、長い目で見りゃ救える人間の総数は減るんだよ。それに……」
それに、俺はあんたに死んでほしくない。
それを言うか、ちょっとだけ迷った。俺個人の感情を、ただの同僚に背負わせるべきか。これが、相手が他の術師、例えば猪野や冥冥なら言わないだろう。あいつらは自分の価値をわかっているし、俺の言葉ひとつで己の命の比重が変わることはない。でも、こいつは、多分自分の価値をいまいち分かっていない。自分に価値を見出だせていないというのが正しいのかもしれない。目の前に救える命があったら、あっさりと自分のそれを手放してしまいそうな危うさが出会った時からずっとある。日車を気に入っている反面、俺はそれが気に食わなかった。どうしたら少しでも自分の命を惜しいと思ってくれるのか。業界の人手不足や長い目で見た時に救える人間の数の増減を訴えてみたものの、さして響いてはいないのだろう。ただ、術師になる前に弁護士として人の命と心を重んじて寄り添っていたこいつだからこそ、他者の感情ひとつで自分の命の比重を変えるかもしれない。
「あんたが死んだら、俺も悲しい」
できるだけ慎重に言葉を選んだつもりだ。そこに可能な限り不純物が混じらないように。
日車の返事はなく、靴底が枯れ葉を砕く音がやたら大きく聞こえる。俺は歩く度にぶらぶらと揺れる革靴のつま先を見つめながら続けた。
「だから、もうちょい、自分のこと大事にしてくれって話」
言い終えると、回された腕に先程より力が入り、苦しくはないが首元がきつくなった。規則的に首筋にかかっていた暖かい息が少しだけ止まって、それが再開されると同時に、小さく、わかった、とだけ返ってきた。
その後は、虎杖と秤がまたパチンコに繰り出して大勝ちしてきたらしいとか、家入が四リットルの焼酎ボトルを高専の医務室の戸棚に常備しているらしいとか、本当にどうでもいいことをダラダラ話しながら山を下った。
「一旦降ろすぞ」
「ああ、ありがとう」
人を背負った状態での下山はそれなりに時間を要した。正確に測ってはいないが、おそらく一時間ほど経ったところで日車を手頃な木の根元に下ろし、スマートフォンを取り出す。最初に使ったルートよりも傾斜が緩やかな登山道を選んで下ったため、伊地知に連絡を入れる。電話口で事情と大まかな現在地を伝え、最寄りの登山口で待てそうか尋ねると、車を回せそうとの返答だったため、そこで通話を終えた。
地面におろした日車の方を向くと、木を背もたれ代わりにして寄りかかっている。よく見れば、それも桜の木だった。名所なのだろうか。
「大丈夫か」
「問題ない。反転もこの通り進んでいる」
日車がコートをめくると、その言葉通り脚は順調に回復しているのが見て取れた。安堵し、俺も日車の左隣に腰をおろす。伊地知が車を回してくるまで、まだ時間がかかる。少し休憩してから下っても問題ないだろう。上を向くと、芽も葉もつけていない桜の木の枝が広がり、その間に星が見えた。
「そうだ、コートのポッケん中に飴入ってるから食っていいぞ」
声をかけると、日車が左右のポケットに手を突っ込み、すぐに右手に握られた棒付きキャンディが姿を見せた。
「……ひとつしかないが」
「いいよ、やる。ただでさえ呪力無い中反転回してんだ。低血糖で倒れられても困る」
「わかった。ありがとう、いただく」
日車は素直に飴の包み紙を剥がして口の中に飴玉を入れた。桃のような甘い香りに鼻腔を擽られながら、宙に息を吐く。吐息は白く濁り、煙のように立ち昇って消えていった。
おおよそ、十五分くらいだろうか。そのままぼんやりと空を見つめていたら、横で日車がもぞりと身動ぎをした。飴は舐め終わったようで、長い指で細い棒を弄んでいる。日車の顔を見れば、至近距離で目が合った。
「今後、俺が一級になったら君と同行することはほとんどなくなるんだろうな」
「あぁ、まぁ、今回みたいなケースとか、特級案件が来ない限りは」
日車は薄い唇を一度噤んで、少し間を置いてから言葉を続けた。
「……正直、惜しい。君と二人きりでいる時間が無くなるのは」
つい、まじまじと日車を見る。月明かりのお陰で表情ははっきりと見えた。いつもの無表情だ。寒さのせいか、鼻が少しだけ赤い。
そんで、今、こいつ、なんつった。
仲良くなりたいだとか、二人きりでいれなくなるのは惜しいとか。誂ってんならたちが悪いが、そんなことをする人間でないことだけはちゃんと分かってるつもりだ。だったら。
「それ、告白?」
平然を装ったつもりだが、思ったよりも声が掠れた。
「そう聞こえたか?」
「そう聞こえなくもなかった」
そうだったらいいのに、と。そう思ったからそんな風に聞こえたのかもしれない。違うなら、とんだ赤っ恥だ。
「それとも、それも洒落だったかよ」
日車は目を逸らさない。穴が空くのではないかと思うほど、じい、とこちらを見つめられて、俺も逸らせなかった。
「……君が選んでいい」
なんだそりゃ。ずりぃの。投げるだけ投げといて、解釈はこっち任せかよ。
「俺が選定すんの?剪定だけに?」
「くっ……ふふ……やめてくれ、さすがにデリカシーがないぞ。しかも苦しい。正しくは選定ではなく選択だろう」
「いや、笑ってんじゃん」
至近距離での破顔は、言うなれば効果抜群だった。いつもそんな顔してりゃいいのに、と思う一方で、あんま隙っぽくしないでくれよ、とも思う。
その感情がどういう類のものなのかを、俺はそこで漸く自覚した。
まだ平時の無表情を取り戻せてない日車の顔を、網膜に焼き付けるようにじっと見る。
「本当に俺が選んでいいなら、自分に都合の良い方を選ぶけど」
「いい。どっちであっても、どんな返答でも」
「……ふーん。じゃあ、こういうことをしても文句ないんですね」
言質は取った。身を捩り、相手の逃げ場をなくすように後ろの木に左手をついて、鼻先がくっつきそうなくらい顔を近付けて一度止まる。日車は虚を突かれて動けなかったようで、垂れ目の三白眼が大きく見開かれただけだった。
「は、くさか」
日車が俺の名前を呼び終える前に唇を塞いだ。目は見開かれたまま固まって、俺も目を閉じずにいたせいで殆どゼロ距離で見つめ合う。小さい瞳が細かく揺れるのを観察しながら、ゆっくり三秒数えてそっと離れると、途端に日車の顔がぶわりと赤く染まった。なんだよ、それ。心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなったのが分かる。自分の体温が一度上がったような気すらした。たまらず、日車の腰を掻き抱いて今度は左手で後頭部を掴む。目の前の小さい瞳に余裕を無くした男の顔が映っている。なんて顔してんだ。俺もこいつも。
「あ、待」
「いやだ」
かぶりつくように日車の唇を喰むと、口の中にくぐもった声が響いた。今度は目を閉じたから、日車がどんな表情をしているのかわからない。拘束を解こうとしてか日車の手が俺の腕を掴んだが、呪力なしの地の力ではこちらに分がある。しばらく抵抗するような方向に力が加えられていたが、敵わないと悟ったのだろう、やがて日車の手は緩く俺の腕を掴むだけになった。
唇を重ねたまま何度か角度を変え、次いで、唇を柔く舐めると薄く口が開けられた。その隙間に舌をねじ込み、上顎を舌先で撫でる。あま。さっき舐めてた飴か。
「っんん、ふ……う」
雁字搦めにした身体がびくりと震えたかと思えば、声ともつかぬ音が日車の鼻腔を抜けていった。気を良くしてそのまま舌先を吸い、歯列をなぞって、舌の裏を舐る。しばらく無我夢中で甘ったるい口内を貪っていると、日車が苦しそうに下手くそな息継ぎをし始めたため、仕方なく解放してやった。
「……っは……くらくらする」
「さっき耳の奥でもやられたかよ」
「……それは前庭……最悪だ。削ぐな、ムードを」
「今のは俺のせいじゃないでしょーが」
数秒の沈黙の後、どちらともなく噴き出す。箸が転がるだけで面白い年頃という訳でもあるまいに、なんだかさっきからしょうもない掛け言葉が無性におかしくて、日車は俺の肩に、俺は日車の肩にそれぞれ額を置いて、抱き合うような姿勢のまま二人で肩を震わせて笑った。笑いすぎて目尻に涙が滲んで、それを指で拭いながら顔を上げれば日車も似たようなことをしていて、また笑いが込み上げる。
「絶対わざとだっただろ。告白取り消すぞ」
「やっぱ告白なんじゃん」
「しまった。今の言葉は取り消す」
「もう遅いっつの」
片手を広げ、日車の左右の頬を挟む。想像していたより頬が柔らかくて、そのまま二、三度ふにふにと遊べば、ひゃめろ、と抗議の声が上がったため手を離す。
「はー、おっかし。あんた、弁護士のくせに肝心な言葉が欠けてんだよなぁ」
「君への配慮だ。ストレートに告白なんかして振られたらお互い気まずいだろう。それに弁護士がプライベートでも雄弁だと思われては困る」
「さいですか」
「それに……」
そこで日車は一度言葉を区切り俯いた。続きを待っていると、下から見上げられてまた視線が合う。
「賭けだったんだ。今日一日好意があるかのような素振りを見せて、君が何でもないように流したら、もうやめようと思った。それで、そしたら、俺も何でもない顔をして過ごそうと……」
紡がれる言葉は尻すぼみになっていき、日車は再び恥ずかしそうに俯いた。その光景に、自分ではそんな性質を持っているとは把握していなかった加虐心が頭を擡げる。日車の顎に手を添え、半ば無理矢理こちらを向かせると、その頬はまだ誤魔化しようのないくらい赤い。
「でも、じゃあ、振られなかったんだから告白やり直してくださいよ」
「……今?」
「今」
「野暮じゃないか」
「まぁ、そう言わずに」
日車は駄々っ子を見るように困った顔を作ってから視線を一瞬だけ左に逸らし、何かを思い出すように口元に手を当てた。そして数秒で再び真っ直ぐ俺を見据え、口を開く。
「願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」
「なんて?」
「和歌だ。詠み人は忘れたが」
「なんで?」
「おや、てっきり君は掛詞が好きなのかと」
岩手弁護士会が誇る天才弁護士様は古文の知識まで豊富らしい。こちらは曲がりなりにも教職とは言え、古文なんて遥か昔に国語の授業で欠伸を噛み殺しながら適当に聞いていたクチだ。まるで歯が立たない。
「……すまん。意地が悪かった」
素直に謝れば、日車は少しだけ勝ち誇ったような顔をしてから、ふふ、と静かに笑った。
「君が好きだ。なんでもない時にも傍にいたい」
賭けても、欠けても、掛けてもいない言葉がようやく放られた時には、俺はもう負けを認めざるを得ず、降参の意味を込めて再度日車の唇に自分のそれを重ねた。
【終】