パンドラ
篤寛(日下部×日車)の短編、バレンタインデーに日車が机の上にチョコを置いていったものの、意図が全く分からなくてもやもやする日下部の話です。大遅刻ですみません。
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人生をチョコレートの箱に例えた女がいる。曰く、甘いのか苦いのか、食べるまで中身は分からない。あの映画が好きな人間は、チョコレートを食うたびに人生を想うのだろうか?
俺にとって箱は、内側に謎を隠した設問に似ている。
今、目の前に一つの箱がある。黒い長方形の紙箱の表面には洒落たロゴが控えめな金字で印刷され、同色の飾りリボンが掛けられている。どこからどう見ても高級菓子、おそらくチョコレートの箱である。今朝、呪術高専に出勤すると俺のデスクの上に置いてあった。呪力や残穢は感じないが、差出人の名前やメッセージカードの類もない。来客か誰かからの土産だろうか、そそっかしい補助監督が伝言やメモを忘れたのか、手掛かりを求めて手中の箱をひっくり返して眺めていると、背中にちらちらと視線を感じた。振り返ると伊地知がぱっと目を逸らすところだった。
「伊地知、これ何か知ってるか?」
「えっ……」
「食いもんだよな?呪力は感じねえけど、出所が分からないもんはさすがに食わん」
伊地知は、こっちに話し掛けてくるとは思っていなかった、とばかりになぜか狼狽え、中指で眼鏡を押し上げた。つくづく術師には向いていない男だ、と思う。
「……昨夜、日車さんが置かれていました」
「日車が?なんでこんなもん……」
日車は今朝から出張だと言うから、家を出る前にもメッセージをやり取りしたのに、置き土産のことなど何も言っていなかった。せめて名前ぐらい書いておけばいいのに、そう思いながら箱から顔を上げると、伊地知と妙に目が合わなかった。
「……え、お前なんか隠してる?もしかしてこれ唐辛子とか入ってるやつ?」
「えっ……いえ、いえいえ……」
伊地知が首を振り、そうじゃなくて、はい、たぶん違います……などとモゴモゴ言いながら視線をあちらこちらへ彷徨わせる。その視線が壁に貼られた共用カレンダーの上で止まる。
本日の日付、二月十四日、月曜日。来客予定なし、授業あり。
「……あ?」
伊地知を見ると、何かを訴えるような眼差しがレンズ越しに投げかけられる。
え、そういうこと?例のアレ?そういうことです。例のアレです。たぶん。何も聞いてないんですか、逆に。男同士の無言の了解と疑問符が交わされる。
「……は?」
ここ数年はほとんど縁がなく、すっかり頭から抜け落ちていたが、今日はバレンタインデーだった。そういえば先々週あたりからスーパーで、菓子売り場のチョコレートコーナーが拡大されたせいで飴の品揃えが減ったと思っていたのだ。
日付とその意味を理解した上で、それでもなお、分からない。日車が、これを俺に?
スマホをポケットから取り出して、ロゴから読み取った会社名を入力し検索する。伊地知が咎めるような目で見てくるが、構ってはいられない。分からないならば分かるための手掛かりが必要だ。
思った通り箱はチョコレートで今年のバレンタイン限定品だったが、値段を見て目を剥いた。八百円、一箱あたりの値段ではない。一粒あたりである。高級そうには見えたがここまでとは思わなかった。公式サイトによれば、俺の手中にある箱は十個入り、つまり税別八千円。バレンタイン当日にこの箱を貰ったら、普通の人間は間違いなく大本命チョコと考えるだろう。
でも、日車だ。仲が良い自覚はある。一級術師が複数駆り出されるような任務なら大体同行するし、九割がたその後飯食って酒飲んで解散、の流れになる。飲み屋も閉店するような時間に任務が終わったら、宅飲みして家に泊めることさえしばしばあるし、日車も俺の家では結構、かなり自由に過ごしている。しかし甘い雰囲気になったことも、日車から秋波を感じたことも一度もない。去年のバレンタインには何も貰っていないはずだ。あの男がこういうバカ高いものを渡すとしたら、俺ではなく虎杖あたりではないだろうか。恋愛感情というよりは親愛を拗らせた結果として。
つまり、このチョコレートの解釈としては三つ考えられる。
一、本命チョコ。俺が知らないうちに惚れられていたパターン。チョコレートの価格帯からすれば妥当な答えだが、日車なら告白に一言添える気がしないでもない。
二、友チョコ。日頃の感謝の印にと購入を思い立ったはいいが、バレンタインの相場をよく知らないからデパートの催事場かどこかで一番高い物を購入した。俺がどれだけあいつの世話を焼いているかを思えば、感謝のひとつくらいは貰っていい。
三、横流し。他の誰か、おそらくは虎杖に渡そうとしたが、前日に思いとどまり俺のデスクに置いた。これもあり得る。衝動的な行動や本人が恥ずかしいと思っていることなら、メモの類が付いていないのも説明できる。
大雑把にこの三択として、そこから先が絞れない。これは、難問だ。
日車からチョコレートに関する説明が来ていないかと思い、検索画面を閉じてトークアプリを開くが、会話は今朝のもので終わっていた。日車は今日から北海道出張で、短くとも三日はかかるということだったから、向こうで世話になるはずの窓の中から面倒見が良くて頼れそうな奴を教えておいたのだ。じゃあ気を付けて、分かった、ありがとう、そんな短い会話で締められている。このやり取りをした時には既に俺のデスクに箱を置いていたはずだが、何の言及もない。サプライズのつもりならこれからネタばらしがあるのだろうか?三日間、試される大地の真ん中あたりの何もないところに行くから、電波も入るかよく分からないと言っていたのに?
チョコレートの箱の写真を撮影して、これどういうこと、とメッセージ欄に入力し、送信する前に思いとどまって消した。
仮にこれが本命のつもりだとして、もし俺が送った側なら、意図を訊ねられるのはかなり嫌だ。説明を添えない方が悪いのだが、相手との距離感を見誤っていたと思い知らされるのと同じだ。本人に訊くのは最後の手段にしなければならない。
スマホの画面とチョコレートの箱を交互に睨むうちに、気が付けば時間が過ぎていて、呪術高専の授業開始を知らせる予鈴が鳴った。慌てて箱を引き出しにしまい、椅子から立ち上がる。考えても分からないものは一旦保留するしかない。終業する頃には日車からの説明が来ているかもしれないし。それに、教員が気を散らしているのは学生にも大体伝わるもので、日付と絡めてイジられると面倒くさい──しかし、教室の扉を開けると同時に、それが杞憂だったと気付いた。甘い匂いが鼻に届く。
「……何やってんの」
「……チョコ交換会」
現三年生、つまり伏黒、虎杖、釘崎が学生用の狭い机の上にチョコを広げていた。学生たちの方が遥かに浮かれて気を散らしている。一限の前であるにもかかわらず、虎杖などは既に口の周りに茶色い欠片が付いていた。
「はい、起立、礼、着席。そういうのはせめて昼休みにやれ」
はーい、とおとなしく鞄にしまいながら挨拶をするあたり、なんだかんだ真面目な学年だと思う。禪院なら舌打ちぐらいはしているし、狗巻ならいくつか口に放り込んでいるところだ。釘崎が教科書を取り出すべく大きく広げた学生鞄の中には、手製のラッピングらしい袋がぎっちり詰まっていた。四年生や後輩たちともやり取りするのだろう。
「釘崎、それって手作り?」
「はい、先生の分はないけど」
「期待してねえよ。虎杖と伏黒は受け取った?」
男子二人、特に伏黒は、なんでそんなことを訊くのかと言いたげな顔で頷いた。呪術師と言えど、思春期の男にはややセンシティブな話題なのかもしれない。
「授業の前にタメになる説教をしてやる。呪術師は、人から貰う食品には気を配れ。──具体的に言うと、俺が高専一年生のとき、冥冥からバレンタインチョコを受け取った。ホワイトデーのレートが百倍のやつを」
説教と聞いてやや不満気だった三人の間に、あっ、あーあ、うわあ、という空気が広がった。
若くて、馬鹿だった。チョコレートを貰ったのが初めてという訳でも、冥冥の性悪さを全く知らなかった訳でもないのに、十五歳の俺は面の綺麗な女にチョコを貰って浮かれて受け取った。その数ヶ月前に、ホワイトデーは百倍返しだよね、と雑談を振られて、ああまあ、と生返事したことさえ忘れていた。あの性格の悪さが、仮にも同級生である自分に向けられるとは思っていなかったのかもしれない。
「どうなったんですか…?」
「金なんか無かったから労働で返した。まだ俺は三級だったのにもぐりの呪術師みたいな真似を……ホワイトデー当日には、小学校の屋上で水を溜めたまま放置されてる汚ねえプールを泳いで、呪霊に足引っ張られるのを待つ仕事してた」
三月である。仕事を探してきた冥冥は、プール監視員の椅子で優雅に水面を眺めていた。俺はといえばその後しっかり風邪を引いたし、腹も下した。
「分かったと思うが、別にお前らを責めてる訳でも釘崎のそれが駄目だと言ってる訳でもない。ガキが休み時間に菓子やり取りするのは普通だろ。でも卒業すると、よく知らん相手から手土産や中元を貰うことがある。他人から貰って食うもんに意識を割いておいて損はない。俺は実際、毒入りと血液入りは経験がある」
伏黒がすっと手を挙げる。やはり根が真面目だ。
「そういうものを区別する方法はありますか」
「匂い、呪力、残穢しかない。個包装されてる既製品なら多少は安心できるが、最終的には勘だ。相手が信頼できないか、少しでも怪しいと思ったら捨てろ」
三人が神妙な顔をして頷いた。こういうある種せせこましいことは、五条は教えていないだろう。
「それから、逆に人に渡すときも術師同士なら気を遣え。相手にそこまで信頼されていないと思うなら食品はプラの個包装が無難だ」
「先生なら何を?」
「相手によるけど、瓶や缶の類は細工しにくいから中元や歳暮はビール。手土産なら透明感のあるゼリーも良い。混ぜもんがあれば外から見えるから」
この辺りの小技のような人付き合いの術は夜蛾さんから学んだことだ。釘崎が机の上に不機嫌そうに頬杖をついた。
「ってことは、手作りチョコレートって最悪ね……」
「よく知らん相手ならな。無条件で食い物をやり取り出来る相手は貴重だ。学生のうちに好きなだけ交換しろ」
「俺は釘崎のチョコ嬉しかったよ。去年より絶対美味い!!」
虎杖のこういうところは本当にすごいと思う。誰にでも出来ることではない。爪の垢を煎じて日車に飲ませたい。
「そうだ先生、日車って出掛けてる?チョコ渡したかったんだけど、朝待機室にいなかったから」
思考を読まれたようで驚きつつも、無難に答える。雑談の範囲だ。
「出張で三日は帰らないと思うけど。俺のはないのに日車にはチョコあるのかよ」
三人が顔を見合わせた。知らないのか、と言わんばかりに釘崎が口を開く。
「私は去年からあげてないわよ。でも一昨年ぐらいのこの時期、日車さん死にそうな感じあったでしょ」
「で、俺らと先輩たちでバレンタインにかこつけてカロリーを食わせよう、という企画があって渡しました。日車さん、貰ったものは食うので。翌年以降は全くなしもどうなのかということで、俺と虎杖だけ続けてる感じです」
へー、と感心しながら一昨年の日車を思い出す。盛岡から戻ったばかりでげっそりと痩せていて、俺もしょっちゅう食事に連れ出していた頃だ。そういえば、休憩中やたらハイカロリーな菓子を齧っている時期が一ヶ月ほどあり、良い傾向だと思ったのだった。伏黒がバレンタインを続けているのは意外だったが、新宿での日車の術式は、彼の魂を生かすべく採用された案だった。伏黒なりに恩義を感じているのかもしれない。なんにせよ、これは日車とバレンタインの関係を探るチャンスだ。
「……日車からチョコとかある?」
「ホワイトデーにまあまあ良いチョコ返ってきますね」
よし、大体掴めた。そんな経緯があったのならば、日車がホワイトデーにチョコレートを返しているのは、おそらくこの二人がいつ気遣いをやめても良いようにするためだ。だから自分からは贈らない。仮に今年、心情の変化があったとしても、虎杖と伏黒、二人分のチョコレートを用意するはずだ。
可能性が一つ消えた。後は二択。本命か、友情か。
バレンタインのチョコレートは、箱の形をした設問に似ている。この歳になってさすがになくなったが、若い頃、とりわけ一級術師になったばかりの二十代半ばの頃などは、周囲からチョコを貰うことが多くあった。バレンタインが今よりも恋愛イベントだった時代の話だ。手土産や中元よりもバレンタインのチョコの方が、より直接的に怪しい物を贈答する機会だったのだ。本命、感謝、労い、殺意、色々あった。毒入りも血液入りも、チョコレートの形で渡されたものである。
ただ、殺意は受け取って捨てて、贈り主の名前を控えておけば良いだけなので対応としては楽だ。面倒なのが本命を傷付けないように断る場合。今までで一番面倒だったのが、本命として告白とともに渡されたが、本人にその気はなくて術師家系に言われてやらされているんだろうな、というのが滲み出ていた時。受け取っても断っても傷付けそうで、高級チョコレートをその場で開封して一緒に齧りながら人生相談になった。あれが正しかったのかもよく分からない。反対に、義理だ感謝の印だと言いながら渡されたチョコレートに、あわよくばの下心が含まれている場合は、受け取って本人とは距離を置く。そういうことを繰り返しているうちに、三十も半ばあたりからチョコレートといえば補助監督たちからの義理ばかりになった。五条には寂しいなどと揶揄されていたが、ありがたいことだ。
大事なのは、渡されたチョコレートという設問の意図を読み取って適切に対処すること。相手との関係、渡されるときの表情や仕草、相手のバックグラウンド、これまでの会話。答えはその中にしかない。
授業を六限まで終える時間になっても、日車からの連絡はなかった。試しに、着いた?とだけメッセージを送ってみたが既読も付かない。箱を自宅に持ち帰り、炬燵でそれを眺め回した。天板に直に置くと溶けそうだったから適当な大皿まで出して乗せてみたが、未開封の小綺麗な外箱からは何の情報も得られなかった。箱の中にメッセージがあるということもなさそうだ。
本命か、友情か。
学生たちに返礼をしているのなら、バレンタインの相場は知っているだろうから、友情でこの価格のものは渡さない気がする。かといって、本命を渡すなら一言添える、せめて名前くらいは書くのではないかと思う。伊地知が教えてくれたからいいものの、差出人が分からなければ恋も成就しようがないのだから。否定材料と肯定材料が交互に頭の中を駆け巡る。全く日車の考えが読めない。
大体、日車の頭の中を知ろうとすること自体無理があるのだ。理性的かと思えば衝動的で、同じ任務になると振り回されることがしばしばある。命令を聞かない訳ではないが、自由に動いていい範囲内では無茶苦茶をやる。なまじ才能はあるばかりに、無茶苦茶が日車にとって自信を持って出来ることなのか、それとも賭けなのか今ひとつ分からないのが厄介だ。
プライベートでもかなり制御不能だ。特にストレスを溜め込むと、食事が疎かになって俺が世話を焼く必要が出て来る。そこでおとなしく寝込んでいればいいものを、不要な行動力を発揮したくなるらしい。俺の家でスーツのまま風呂に入ってみてぬるいと文句を言ったり、財布を持たずに電車に乗って行けるところまで行き、終点で俺に電話を掛けてきて迎えを求めたりする。
いつの間にこうなったのだろう。それこそ一昨年、呪術師になったばかりの頃は、飯を食わせても説教しても、どこか俺との間に壁を作って、まともな社会人のような面をしていたのに。いつの間にこんなに寄りかかられているのだろう。この前などは、仕事の後の宅飲みに誘ったら、輸入食品屋にある知らない名前の料理を片端から食べてみたい、と大量に持ち込まれた。ロスティ、ブルスケッタ、ローガンジョシュ、ミーゴレン、スジェビ。小さな炬燵の上を異国の飯でいっぱいにして食べた。衝動的に買って、衝動的に腹を満たした。
このチョコレートだって、そうなのかもしれない。大した意味なんかなくて、少なくとも今は結構衝動的に生きているあいつが、ただなんとなく買って置いていっただけなのかもしれない。
それなら。それなら、これに意味を見出すのは俺の方なんじゃないのか。目の前の小箱が、本命であれ友情であれ、受け取って、何を返すかは、俺の自由なんじゃないのか。
──俺が、このチョコレートをもし好きに解釈していいのだとしたら、なんと名前を付ける?
いつの間にこうなったのか──部屋に入れた時からか。最初は一昨年の三月くらいだった。深夜に終わった任務の後で腹が減っていたものの、飯屋はもう閉まっていた。解散する流れだったが、車の窓ガラスにもたれかかる日車の横顔を見ながら、なんとなく、この男をこのまま家に帰らせたら、何も腹に入れずに眠るのだろうと思った。生き物は、腹が減っていたら悲しい。でもその頃の日車は、それに気付けないように見えた。だから半ば引きずるようにして家に招いた。この狭くて四角い、小箱のような部屋に入れた。この部屋でたくさん同じ飯を食った。
目を横に向けると、日車のために新調した座布団が二、三枚散らばっている。あいつはいつも、炬燵で俺の向かいではなくて九十度ずらした横に胡座をかいて座る。座布団の向こうにある加湿器は、日車がそのまま泊まるときに、部屋が乾燥していると文句を言ったから買ったものだ。台所では去年買った日車用のコップが干されている。
俺は今日、ガキ共になんと言ったのだったか。他人から貰って食うもんに意識を割いておいて損はない。無条件で食い物をやり取り出来る相手は貴重だ。
──ミーゴレンが一番美味かった。どこの国の料理だかもう覚えてないけど。
美しく飾られた小箱に手を掛ける。もしこれが日車からの本命のチョコレートなら、開封せずに返す選択肢もあるのだ。取り返しのつかないことをしている。そう思いながらリボンを解き、箱を開けた。
中には朝、公式サイトで見た通りのチョコレートが十個、整然と並んでいた。思った通りメッセージの類は何もない。あまり飾り気はない四角形だが、微妙な色や模様でバリエーションを付けられたチョコが箱の中にぴったりと収まっている。
色が気に入ったのをひとつ選び、摘んで舌の上に乗せた。一粒八百円、たぶん俺がこれまで食ったことのあるチョコレートの中で一番高い。ああ、取り返しがつかない。
「うっま……」
甘さを噛み締めながら、これが、本命だったらいいのに、と腹の底から思った。
三日後、ようやく日車から任務終了の報告があり、俺とのトーク欄にも既読が付いた。携帯を見られずすまない、これから飛行機で帰る、と相変わらずチョコレートには触れていなかった。夕方、成田空港へ迎えに行くという補助監督から強引に車のキーを奪い取り、俺が行ってくる、と言うとブーイングされたが、伊地知は何か意味ありげに瞬きをしていた。本当に術師に向いていない男だ。
空港のロビーで見つけた日車は、俺を見ると驚きつつも顔を綻ばせた。
「サボりか?」
「送迎だから業務中だよ」
日車はマフラーと手袋できっちり着込み、片手にボストンバッグを、片手に土産らしい紙袋を持っていた。バッグを受け取り車へ戻りながら任務の話をした。大変だったが概ね上手くいったようで、助手席のシートベルトを締める日車の顔には疲労の他に達成感が浮かんでいた。
「高専に用事ある?直帰する?」
「……用事はないが、君さえ良ければ、一緒に食事したい」
「いいけど、腹減ってるなら途中で飯寄る?」
「まだ減ってない。これから減る」
「了解。じゃあ高専で車返して、俺も退勤してから飯かな」
高速道路で車を飛ばす間、疲れていたら眠ってもいいと言ったのに、飛行機で寝たからと日車は任務について話し続けた。北海道は本来アイヌ呪術連の管轄だが、関東でやらかした呪詛師が北海道へ逃げ込んだせいで出張になったのだ。曰く、呪詛師より移動と寒さの方が大変だった。移動に二日、捜索に一日かけたのに戦闘は十分で終わったらしい。しかし、低級呪霊ではあるが、アイヌの世界観に基づく呪霊を偶然見られたのは良かった。君の教えてくれた窓の人が丁寧に解説してくれた。
日車はそこそこ熱っぽく語っていたがやがて声が小さくなり、最後には、でもまあ、寒かった、と言った。俺は高速道路の出口を潜りながら、横目に日車の顔をちらりと見た。鼻の頭が少し赤かった。
「……お前さ、出掛ける前に俺の机にチョコレート置いてっただろ」
「ん……ああ」
「あれ、意味が分からなくて、聞こうにも携帯見てなさそうだし、とりあえず食った。ありがとう」
「あれは……」
日車の言葉を遮るように口を開く。
「食いながら、お前が本命のつもりでこれ置いてってたらいいのにと思った」
日車の顔は見られず、運転に集中する振りをするが、刺すような視線を顔に感じている。冬の短い日が沈む。車窓を街の灯が流れていく。
「ホワイトデーまで待てなかったから、グローブボックスの中にお前へのチョコレートがある。……俺はお前のこと好きで、それを、恋愛にしたいと思ってる」
日車がグローブボックスを開け、中から箱を取り出した。バレンタイン当日を過ぎてしまったから少し安くなっていたけれど、同じくらいの価格帯のチョコレート。日車の好きな珈琲に合いそうなやつ。
「……日下部」
日車が戸惑ったように手の中で箱を回転させ、しばらく黙り、それから消え入りそうな声で言った。
「……本当にすまない。俺が君の机に置いたチョコレートは、俺からではない」
「…………ええ?」
「憂憂からだ」
俺はゆっくりとブレーキを踏んで減速し、目に付いたコンビニの駐車場に静かに車を停めた。直接顔を見て話すのがいたたまれないから車内で告白したのに、一歩間違えたら事故を起こしていたかもしれない。高速じゃなくてよかった。いやよくない。何もよくない。ハンドルを前のめりに握って呻く。
「……なんでそういうことするの……?」
「二週間ほど前の任務で、憂憂に術式を使って貰って移動した際に頼まれた。『毎年姉と自分から贈っているものだが、日下部が当主になってからは直接渡すと賄賂に思われることがあるので、次期当主としては人を介して渡したい。メッセージは不要。日下部の机の上に置いておけば了解してもらえる』と言われて、置いた。もし君が怪しんだら怪しんだで、そっちで処理するだろうと思った」
「…………」
撃沈。当然、あの姉弟から毎年チョコレートが贈られているなどということはなく、俺が箱を見た瞬間に了解するということもない。俺と冥冥のホワイトデーにおけるレートは百倍である。八千円の百倍っていくらになるのだろうか?脳が初歩的な算数を拒絶する。というか俺が真剣に悩んだのはなんだったのだろうか?
「悪かった……」
「……せめてさっきの俺の台詞は忘れてほしいかな……」
一、本命。二、友チョコ。三、横流し……正解は一番、本命。ただしカモとして。
もし、もし仮に机の上に置いたのが誰か分からなかったら、俺は怪しんで食わなかった。呪術師としてはむしろそちらの方が正しいし、日車も俺が適切に対処すると思ったからメッセージなしで置いたのだ。置いたのが補助監督や学生だったなら、時間がかかったとしても当人に意図と出所を確認するだろう。日車だったから、本命の可能性を考えてしまった。日車でさえなければ!
「日下部、本当にすまない。でも聞いてほしい」
「ちょっと、立ち直れないかも……」
「俺は、頼まれて君の机の上にチョコレートを置いたんだが」
俺からのチョコレートの箱を持つ手に、ぐっと力が込められた。
「君が……君が、俺からは貰わないのに、他の人からチョコレートを貰うんだな、と思った。自分も置きたい、と……何も準備していなかったし、翌日から出張だったのに」
ゆっくりと日車の方を向くと、薄暗い車内でも分かるほど赤い顔をしていた。自分も似たような色をしているんだろうと思った。日車は足の間に置いた紙袋から箱を二つ取り出し、俺に見せた。北海道土産のチョコレートとウイスキーだった。
「価格では敵わないかもしれないと思ったから、君の好きそうなものを」
「……俺に都合よく受け取って良い?」
「……どうぞ。ただしその場合、俺もこの、君からのチョコレートは返却したくない」
日車はぎゅっと口を引き結び、俺からのチョコレートを自分のものとまとめて紙袋にしまった。しかし所在なく手は自分の膝を握り、だんだんと視線は俯いていった。長い沈黙。恥ずかしさを誤魔化すように、自然と溜息が出た。
「あのさ……高専に車返したら、飯屋じゃなくて俺の家行ってもいい?」
日車はまだ俯いている。
「お前が買ってきた知らん料理の素ならまだあるし、俺が作るからさ……一緒にウイスキーとチョコレート食おう」
本当は全部やり直したい。懐はとんでもなく痛いし、こんなお互い恥を晒すようなやり方じゃなくて、もっとちゃんと告白して楽しく美しく思い出せる記念日にしたい。でも、開けてしまった箱の中身は元に戻せないのだ。
それに、赤い顔のまま、小さく頷く日車を見たら、どうせそのうちに開く箱だったのだろう、と思った。