熊本地震視察動画を、映像ディレクターとして本気で分析する
令和8年熊本地震で被災された皆さまに、心よりお見舞い申し上げます。
10年前の熊本地震では、NHKの番組取材で益城や西原村、阿蘇、さまざまな場所を訪ね、被災地の方との交流がありました。大変な中、大きくて甘い益城のスイカを送ってくださった方もいます。
他人事ではない思いで、胸が痛みます。
そんな中、首相官邸が発した「熊本地震の視察動画」が話題になっています。BGMがついていたことや、被災者との対話場面の配置や見せ方に、SNSではさまざまな声があがっています。
職業柄、映像を見るとき、とても神経質になってしまいます。
ファーストカットの狙い、カットを割るテンポ感、なぜこの画角なのか、どの表情を残して、どの瞬間を切り落としたのか・・。
所謂、職業病のようなもので、普段はちょっと厄介です。
これは、今回の視察内容の是非を語るnoteではありません。
私が伝えたいのは、「なぜこの映像が違和感を生んだのか」という映像のつくり方の話です。
今回の視察映像は、「記録」の体裁を取りながら、演出がどのように感情や人物像を組み立てるのかを読み解くうえで、非常に分かりやすい映像でした。映像制作者が見ると、一見 記録映像に見えるものの中に実はかなり細かい演出の設計が仕込まれていることがよく分かります。
今回、多くの人が違和感を覚えたとSNSを通して知りました。
だとしたら、その違和感をなんとなくのまま終わらせず、プロであるならば、きちんと言語化しておくことに意味があるはずだと思いました。皆が直感的に覚えた違和感を分解して、もう一度言葉として認識し直す作業です。
正直、この映像を何度も見返すのは精神的にこたえるものがありましたが、それでも、できるだけ丁寧に腰を据えて分析してみました。
徹底分析:この動画は、何を伝えているのか
私は普段、ドキュメンタリーのディレクターをメインに、企業のプロモーション・ブランディング映像といった商業映像も手掛けています。今回は映像制作者の目で、あの動画を最初から最後まで、カット単位で見直してみました。
映像は上記から参照いただき、タイムコード(何分何秒という表記です)でカットを確認してみてください。細かくなってしまいそうですが、ご覧いただけると嬉しいです。
00:01 冒頭カット
皆さんは、映像の冒頭にとても短い静止画が入っていることに気づきましたか?(厳密には3フレームでした)
内閣総理大臣が、被災者に深々と頭を下げているカットです。
SNSマーケティングでは、SNS動画の冒頭1フレは、スクロールの手を止めるために最も重要な瞬間と考えられています。冒頭3秒までに興味を惹けない場合、一瞬でスキップされてしまうと言われています。そのため、視覚的インパクトやアイキャッチを冒頭に入れるのが一般的な演出手法です。
00:01〜00:04 ヘリコプターへの搭乗
総理大臣がヘリに乗り込むカットは、同じシーンにも関わらず3カットも積まれています。1カットの尺は、わずか1秒あるかないか。(テレビでは一般的に、短くても3秒くらいは一つのカットを使用しています)本来1カットで伝えられることを短く刻んでいる編集意図は、躍動感・臨場感の演出です。見ていて、何かが始まる感じ、躍動感を感じますね。
同様に、搭乗シーンにBGMはなく、ヘリコプターのローター音が編集でも生かされており、音でも臨場感が演出されていることがわかります。
00:04〜 被災者との対話
「とにかく地域の消防団の動きが早かったです」
そう被災者が語り始めるとともに、ここからスローテンポでシンプルなピアノのBGMが始まります。我々映像制作者は、BGMのイン点とアウト点(始まりと終わり)には強いこだわりを持っています。BGMの効果は絶大で、映像の見え方をがらっと変えることができるからです。
すなわち、この広報動画の制作者は「被災者の声を真摯に聞く総理大臣」を強く印象づけるために、冒頭からではなく、このカットからBGMを入れる演出を行ったと考えられます。
00:09〜 男性被災者との対話
カメラのピントが、総理大臣の肩からゆっくりと男性被災者の顔へと移っていきます。本来、このようなシーンは被災者側のお顔を撮影していれば良いのですが、この撮影者は、総理大臣の「肩ゴシ」(目の前や近くにいる人の肩の上を通り越して物を見たりすること)であえて撮影しています。またピント(フォーカス)を肩から被災者へと移すことで、総理大臣から被災者へと目線を誘導しています。
00:18 総理大臣がヘリコプターから合掌
このようなアクションを撮るためには、いくつかの方法があります。1つ目は、ずっと被写体を撮り続けること。長回しとも言いますが、撮り続けていれば、このような動きをカメラに収めることができます。
他には、被写体と事前の打ち合わせをしたり(ここでは、こういったことを撮影しましょう/してください など)、誰かがアクションに気づき撮影を促したり、撮影者が自発的に気づき、慌ててRecを押したりといった可能性が考えられます。今回の動画で特に注目されたカットですが、機内の様子は、想像することしかできないのでこの辺で。
00:28 総理大臣の顔ヨリ
窓からの光を帯びた瞳が印象的なカットです。瞳に光が入ると、力強く、美しく、エモーショナルに見えることは一般的にもよく知られています。総理大臣が心を動かされているようにも見えますし、力強い意志を持っているようにも感じる良いカットです。
00:34〜 ヘリコプターを降りて進む総理大臣
躍動感のあるカットです。その理由は、カメラポジションが腰くらいの高さであること。本来カメラは、撮影者の目線で構えるものですが、この撮影者は、あえて低めに構えて総理大臣を撮影しています。
結果、被写体は下から煽られて、存在感が大きく引き立つことになります。双発ヘリのローターを背負い進んでくるこのカットは、さながら映画のようです。
00:44〜 総理大臣、被災者との握手
ここで突如、映像がスローモーションになります。
スローモーションには、感情の増幅(緊迫した場面や感動的な瞬間を強調し、視聴者の印象に残す)、ディテールの可視化(水滴の落下や髪・布の揺れなど、一瞬の美しさを映し出す)、非現実感の演出(現実とは異なる時間の流れを作り、芸術的・幻想的な世界観を演出する)といった効果があると言われています。
ミュージックビデオや、ウェディングの動画でも多用されるため、今では馴染み深い映像演出の一つだと思います。映像制作者や発信者が、このシーンをどのように見せたかったのかは、上記の効果の通りであると考えるのが自然です。
00:56〜 避難所に置かれた飲料ボトルを視察する総理大臣
私はこのカットにとても驚かされました。
撮影者は机に並ぶ沢山のボトルの奥でカメラを構えている。そして、総理大臣が入室すると、歩きをフォローしながら横方向へ滑らかに移動する、いわゆるドリーショットのような動き。ドリーの動きの結果、沢山の飲料が写り、潤沢な支援物資が揃っているという印象が強くつくことになります。
また、画角(映像で映る範囲)も印象的です。縦動画の画面下半分がボトル、被写体である総理大臣は小さく奥に写っていることから、映し出したいのは「潤沢な支援物資」なのではないでしょうか。
いずれにせよ、このカットを撮影するためには、総理大臣が訪問するルート、どの扉から入るのか、部屋の物資の置き場所を把握していないと撮影することは困難です。撮影が現場でしっかりと設計されて、撮影者が狙いを持っていることが強くわかるカットです。
01:00〜 生理用品やおむつを視察する総理大臣
前述と同様ですが、支援物資をカメラが舐めるようにドリーすることで、物資のバリエーションの豊かさというディテール、物量の豊富さが強く印象づくカットになっています。
01:25〜 県庁を訪問し、職員に挨拶する総理大臣
これも驚きのカットです。撮影者は、総理大臣サイドではなく、県庁職員の群衆の中で撮影しています。そして、総理大臣の入り込みと並行して横にドリーしていきます。(この撮影者はドリーが好きですね)
県庁職員が画面をシャッターすることで、アイキャッチの力が強く、動きのある躍動感あるカットとして機能しています。また職員の、防災服の背中に「熊本県」と書いてあることから、総理大臣が県庁を訪問した、という情報をいちいち伝えずとも、状況が理解できる優れたカットになっています。
01:27〜 総理大臣の会見シーン
「政府一丸となって〜〜全力で取り組んで参ります。」と会見で語る総理大臣。とても印象に残り、言葉が耳に残りますね。その効果もまた、当然意識的に設計されています。
具体的には、これまで1秒、長くて2秒程度の短いカットを足早に繋ぎ合わせる編集で作られていた映像が、このシーンでは10秒を1カットで見せているのです。短いカットのテンポ感から、一気に10秒のカットが来ると、それは強烈なインパクトになります。そしてカットを細かく割らないことで、言葉をしっかりと伝え、信頼感を印象付ける編集になっています。
私は、この編集を見て、実務経験の長い人物が制作、もしくは監修で品質を管理している可能性を強く感じるに至りました。
01:39〜 避難所の引き戸の間から話しかける総理大臣
総理大臣が引き戸に顔を入れ、被災者に話かけています。カメラも急いで、総理大臣に寄って来ます。このようなシーンをしっかり撮影でき、また間髪入れずに被写体に寄る撮り方は、広報担当の一般職員が撮影しているというより、撮影スキルの高い専門職が撮影をしているのではないかと私は感じました。
01:45〜 被災者の肩ゴシの総理大臣
ここで突然、シーンのつながりもなく被災者が「全部が全部ありがたかった、涙が出るくらい嬉しかった」と語っています。個人的には絶対にやらない編集の繋ぎです。そして、その言葉が終わるや否や首相官邸のロゴが出て、映像が終わります。
被災者の方が気持ちを込めてお話されていますが、撮影者は、話者である被災者ではなく、総理大臣を撮影しています。不思議な判断ですね。この判断の理由は単純です。この動画の主人公は、総理大臣であるということです。
そして、支援が被災者まで行き届き、感極まっている被災者の言葉を、前後と脈絡なく映像の最後に持ってきた理由。本来被災者との対話のシーンは、映像本編では冒頭4秒から始まったシーンでした。同一シーンであることからも、一連でこの方の言葉を紹介するのが自然な編集ですが、あえて意図してこの一言をエンディングに持っていったのです。今回の首相官邸の広報動画のメッセージにふさわしいからです。
〜〜〜
気になることは他にも沢山あるのですが、大きなポイントを時系列に触れてみました。編集技法はマニアックになってしまうので、撮影目線での気づきが中心となりました。
改めて言語化してみると、2つの明確なメッセージが浮き彫りになります。
1つ目は、被災地への支援は潤沢で、行き届いていること。
2つ目は、この記録映像の主役は高市早苗内閣総理大臣であること。
2つ目は、首相官邸の動画なので当然とも言えますが、被災地の視察という映像の性質上、バランスを欠いているように感じました。
とにかく、映像作品と言う意味では、プロが見てもよくできた映像だと言えます。撮る前段階、撮影の段階、編集の段階、それぞれの瞬間で、かなり強い取捨選択、演出が働いているということは明らかです。
「記録」と「作品」の境目が見えなかった
ここまで読んで、「演出なんて昔からあるだろう」と思う方もいるはずです。もちろんその通りで、映画もCMもドキュメンタリーも、私がこれまで作ってきた映像の数々は、全部演出されています。演出そのものを問題にしたいわけではありません。
私が引っかかったのは、別の目線です。
この映像は「視察を撮った記録」なのか、それとも「映像として成立させるために組み立てられた視察」なのか。この二つは、言わずもがなまったく違うものです。
ドキュメンタリーの撮影では、カメラが入るだけで人の歩き方から言葉の選び方まで、少しずつ現実が変わっていきます。だから撮る側は、「撮られていることで生まれた振る舞い」と、「そこで実際に起きたこと」に対して、常に意識的で自覚的になります。それが、私たちの基本動作です。
今回の映像には、その境目がほとんど見えませんでした。
現場で事前にどの程度の演出共有があったかは確認できません。ただ、動線や立ち位置を把握した撮影、撮られることを前提としたように見える行動、それを一つの理想像へまとめる編集が連続している以上、単なる同行記録として片づけることは難しいと感じました。
そこに、時代の変わり目のようなものを感じました。
映像の現場で磨かれてきた「人の心に届ける技術」が、公的な発信の現場にも本格的に入り込み始めているということです。それをいきなり善悪で語るつもりはありませんが、映像を仕事にしてきた身としては、正直「ここまで来たか」、という不安とも言える感覚を強く抱くに至りました。
映像は、事実より先に感情に届く
メディア論を学んでいたころ、「PRの父」と呼ばれるエドワード・バーネイズを知りました。
1928年に出した著書『プロパガンダ』が有名ですが、バーネイズが体系化したのは、事実を知らせるだけではなく、人々の欲望や感情、社会的なイメージに働きかけることで、世論や行動を方向づけるPRの技法でした。
映像は論理より先に感情に届きます。
だから権力は昔から、その時代で一番強いメディアを使ってきました。新聞、ラジオ、映画、テレビ、そして今の主戦場はSNS動画です。
今回の一件は「政府広報がSNSに最適化された」というより、SNSが培ってきた映像の文法を、公的な発信が完全に自分のものにした、という方が近い気がします。
だとすれば、これは一過性の話題では終わりません。この動画だけの問題ではありません。むしろこれから当たり前になっていくでしょう。
必要なのは、私たちの“ひと呼吸”
今回、多くの人が「なんか違う」と感じたことに、私は少し救われる思いがしました。映像の専門知識がなくとも、自分の感情が意図的に動かされようとしていることを、どこかで察知した人が少なくなかったからです。
ただ、これからの映像はもっと巧妙かもしれません。
音楽もスローモーションも目立たず、もっと自然な記録の顔をして、私たちの感情へ入り込んでくる。そのときにも立ち止まれるか。問われているのは、特定の政治家への好き嫌いではなく、私たち自身の「見る力」だと思います。
国家が、自らに都合のよい出来事と理想像を選び、感情に届く物語として国民へ届ける。私たちは、その危うさを歴史の中で知っているはずです。それは、過去と同じような過激さ、荒々しい姿では現れないはずです。親しみやすく、テンポがよく、SNSに最適化された姿でそれ現れたとき、私たちはそれを見分けられるでしょうか。
映像に心を動かされた瞬間、一拍だけ立ち止まり、「私は何を見たのか」ではなく、「私は何を見せられ、どう感じるよう導かれたのか」と問い直す。
その習慣を失わないことが、いま私たちに求められているのだと思います。



明瞭かつ重要な指摘を伴う分析をありがとうございます。 >自らに都合のよい出来事と理想像を選び、感情に届く物語として国民へ届ける。私たちは、その危うさを歴史の中で知っている …
プロから見た、冷静な分析をありがとうございます。 とても分かりやすくて参考になります。
ありがとうございました。これから改憲の国民投票がある際間違いなく自民党はこういう手法で良さそうなこと並べて拡散してきた時、国民がどう判断するかに掛かってきますよね。どうしたらい…
実に良いものを読ませていただきました。 タカイチがアレほどの作品作りを出来る能力や専門性を持って指示できるとは思えませんので、相当な専門性を有する誰かが作り上げたプロパガンダ…