考えてるようで、考えてない
優しい人と、優しくない人。
厳しい人と、厳しくない人。
若い頃の私は、人をそんなふうに分けられると思っていた。
でも歳を重ねるほど、その境界は曖昧になっていく。
昔は冷たいと思っていた人が、実は私の将来を考えて厳しいことを言ってくれていたのだと気づくことがある。
反対に、あのとき「優しい」と感じた言葉が、ただ衝突を避けるための迎合だったのだと後になって分かることもある。
人は年齢を重ねると、シミやシワが増える。
死は少しずつ近づく。
それでも悪いことばかりではない。
昔には見えなかった他人の優しさが見えるようになる。
そして、自分自身も少しだけ優しくなれる。
それは歳を取ることの数少ない特権かもしれない。
そんなことを思い出した出来事がある。
高齢者施設で実習をしていたときのことだ。
利用者の方が靴を履こうとしていた。
時間はかかっていたが、自分で履こうとしていた。
私は見守ることにした。
生活動作そのものがリハビリになることを学んでいたし、「できることまで奪わない」という支援の考え方も知っていた。高齢者に限らず、人は「してもらうこと」より「自分でできること」を失う方が、尊厳を傷つけられることがある。
だから私は、手を出さなかった。
すると隣にいた同期が、小さな声で言った。
「見てないで、手伝えよ……。」
一瞬、言葉に詰まった。
私は同期とも仲が良かったし、自分が何を考えて見守っているのか、伝わっているつもりでいた。
でも、同期の目には、「困っている人を放置している人」に見えていたのだろう。
その瞬間、私は少し面白くなった。
同じ場面を見ているのに、優しさの形がこんなにも違うのか、と。
医療や介護の現場では、「自立支援」と「援助」のバランスがしばしば問われる。必要なときに手を差し伸べることも大切だが、相手が自分でできる力まで奪ってしまえば、それは善意であっても望ましい支援とは言えないことがある。一方で、安全や苦痛の軽減を優先すべき場面もある。正解は一つではなく、状況や相手によって変わる。
実習が終わったあと、私は施設のスタッフの方に聞いてみた。
「何でもかんでも利用者さんの動作を手伝ってしまうのは、あまり良くないですよね?」
質問という形を借りた、少し意地の悪い確認だった。
スタッフの答えは、私の考えに近かった。
正直に言えば、少しだけ溜飲が下がった。
あの頃の私は、「ほら、私の方が正しかったでしょう」と思っていたのだ。
でも今振り返ると、同期もまた、自分なりの優しさで利用者を見ていたのだと思う。
目の前で困っている人がいたら助ける。
それも間違いなく一つの優しさである。
私が尊厳を守ろうとしていたように、同期は苦労を減らそうとしていた。
目指していたものは、案外同じだったのかもしれない。
違っていたのは、優しさの方法だけだった。
もっとも、そのときの私はそこまで成熟していなかった。
内心では「ちゃんと勉強してる?」くらいのことは思っていたし、質問という名の当てつけまでしてしまった。
そんな自分を思い出すと、苦笑いしか出てこない。
ところで、その同期は今、美容外科医として働いているらしい。
「ああ、やっぱりね」と思った自分がいた。
……と、ここまで書いて、ふと立ち止まる。
人を「表面的だ」と決めつけたその瞬間、私は自分自身の内面だけは深いと信じていたのではないか。
だとしたら、それこそ傲慢である。
歳を重ねて分かったことが一つある。
優しさは、ときどき傲慢によく似ている。
だから最近は、自分が「これは優しさだ」と確信したときほど、一度立ち止まるようにしている。
その優しさは、本当に相手のためなのか。
それとも、「私は優しい人でありたい」という自分のためなのか。
その問いに、今でも自信を持って答えられたことは、まだ一度もない。


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