道路を我が物顔で渡る人に思うこと
運転をしていると、ときどき不思議な人を見かける。
横断歩道でもない。
信号もない。
車道を、まるで散歩でもするようにゆっくり横切る人だ。
もちろん、安全に渡ってもらうために私は減速する。
急ブレーキになることもある。
運転者なら、多くの人がそうするだろう。
でも、その光景を見るたびに思うことがある。
あなたが今日も無事に道路を渡れたのは、あなたに特別な威厳があったからではない。
運転していた誰かが危険を避けようとしたからだ。
交通ルールがあり、多くの人がそれを守ろうとしているからだ。
社会は、誰かの優しさや慎重さによって、ぎりぎり成り立っている。
その事実を忘れると、人は少しずつ危うくなる。
このことは、道路だけの話ではないように思う。
職場にも、学校にも、いる。
「自分は好かれている」と思っている人。
「自分は一目置かれている」と思っている人。
けれど実際には、周囲が気を遣っているだけだった、ということは少なくない。
反論しないのは、納得しているからではない。
空気を悪くしたくないからかもしれない。
言い返さないのは、尊敬しているからではない。
疲れるから黙っているだけかもしれない。
期限を守らなくても周囲がフォローしてくれる。
失礼な言い方をしても誰も揉め事を起こさない。
その「何も起こらない」という結果を、「自分は許されている」と解釈してしまう人がいる。
けれど、本当は違う。
誰かが黙って片づけているのである。
誰かが飲み込んでいるのである。
組織も社会も、その「見えない配慮」の上に成り立っている。
心理学には「自己奉仕バイアス」という考え方がある。
うまくいったことは自分の能力のおかげだと思い、失敗は環境や他人のせいにしやすいという、人間に共通する認知の傾向だ。
厄介なのは、この傾向には本人ほど気づけないことである。
だからこそ、ときどき立ち止まって考えたい。
今、自分がうまくやれているのは、本当に自分の力だけだろうか。
今日も仕事が回っているのは、自分が優秀だからだろうか。
それとも、誰かが黙って支えてくれているからだろうか。
私は、前者より後者であることの方がずっと多い気がしている。
道路を堂々と横切る人を見るたびに思い出す。
社会は、「自分が何をしても許される場所」ではない。
「互いに少しずつ譲り合うことで成り立っている場所」なのだ。
そして、その譲り合いを「自分への敬意」だと勘違いした瞬間、人は傲慢になる。
権威とは、他人があなたを避ける理由ではない。
優しさとは、あなたの偉さを証明するものでもない。
誰かが一歩引いてくれたなら、それはあなたが前に出る資格を得たということではない。
次は自分が、一歩引く番なのである。


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