男児遺体遺棄事件を「伝えすぎた」テレビの「構造的」問題:ニュースの投機的な側面と克服できない「誤解」
(文中敬称略)
京都府南丹市で起きた小学生男児の遺体遺棄事件について、父親の逮捕以降も報道が過熱し、ニュース番組の中で必要以上に時間が割かれ、他の重要な話題が伝えられていないではないかという問題について、原因をもう少し分解して考えてみたいと思います。
確かに「アテンション・エコノミー」のような言葉は、非常に便利です。しかし、そこで議論を止めてしまわずに、もう少し深掘りしておいたほうがいいように思うのです。
ニュースに関わる誰が、どのような時に踏みとどまれなかったのか、それはなぜかという問題意識が深まれば、今後同じような問題に対し、ニュースの消費者である私たちが、感覚的でない「異議申し立て」ができると期待して考えるのです。
ニュース取材の「投機的」側面
この事件は、男児が行方不明になったことが明らかになってから、父親である容疑者が逮捕されるに至るまで3週間にわたり、「じらされる」展開が続きました。
途中で、カバンが発見されたり、警察が予測できないような場所で、次々と捜索活動を行ったりなどのニュースイベントが続き、興味をそそる要素も、かなりありました。
容疑者逮捕など、一気に展開した際に、必要な映像を撮りためるなどしておかなければという意識は、報道各社で、日を追うごとに強くなっていったことは想像に難くありません。
かなり広い範囲で繰り広げられる警察の捜索活動を発見し、地形が入り組んだ場所で撮影スポット探すような取材は、かなり骨が折れるものだったと思われます。
捜査が進むにつれて、テレビの各系列とも、有名なアンカーやレポーターらが現地に赴くなど、スタッフやカメラ、中継車、ヘリコプターなど、投入される取材リソースがかなり増えていったことが伺えます。
「投資を回収しなければ」という力学
同時に「これだけのリソースを投入したのだから、それなりの日数、見合ったニュースの扱いを続けないと」という意識も共有されます。
ニュースとは思惑通りに物事が進まないと頭ではわかっていても、「ここまで大展開したのに、この程度の扱いでいいのか」とか、「ニュースの賞味期限はまだある」というような思惑です。
「今後数日間に出てくる情報は、全体像を明らかにするには足りない」と、合理的に判断して、ニュースの扱いや取材態勢を縮小することの方が、社内の反発も大きく、非常に難しいものです。
影を落とす経済的効率主義
報道とは、基本的に「金食いムシ」です。何かの出来事について、確実に情報や映像を入手しようとすると、時にかなりの規模の出費を伴います。
それが出費に見合ったかどうかの明確な判断基準はなく、テレビでは特に公式なデータは視聴率やソーシャルメディアでどれだけ「いいね」がついたかなどしかなく、かなり偏った評価にもなります。
ニュースとは、時に思惑に見合う情報が時間内にでてこないとか、フタを開けてみたら社会的なインパクトが弱いなどの不確定要素が、かなり多くあります。ジャーナリズムの価値に沿って判断をしたとしても、経営的には評価されないこともあるでしょう。
ニュースの編集責任者は当番制で交代します。前日の取材態勢を引き継いだ担当者は、「(取材ポイントを減らして)情報を取り逃したらどうしよう」とか「昨日まではこんなに関心を呼んだニュースだから」と思うのは自然なことです。
特に態勢を縮小するのに舵を切るのは、非常に困難です。本人の人事評価などにも直結するとしたら、なおさらでしょう。
ニュースが「投機的」と言われるのは、このような側面です。ニュースの価値は明確でなく、経済効率的な価値観に支配されていると、現場の判断はますます萎縮し、公共的な役割が後退する恐れがあります。
なぜ適切な時に縮小できないのか
ニュースの投機的な側面が、実際の現場の判断にどのような悪影響を及ぼすのか、もう少し単純な構図のものを例に考えてみます。
少し前の本ですが、2007年にアメリカで出版された『ちょっと待った!そのニュース(We Interrupt This Newscast)』という本と、筆者が著者のひとりにインタビューした経験を紹介します。
今やジャーナリズムを学ぶ人の必読書となった『ジャーナリズムの原則(The Elements of Journalism)』(第4版の日本語翻訳版のタイトルは『ジャーナリストの条件』となっています)の共著者のひとり、トム・ローゼンスティール(Tom Rosenstiel)が、三大ネットワークのニュース部門を退職した研究者ら5人とともにまとめたものです。
1998年から2002年まで、全米154のローカル局から1,200時間にものぼるニュース番組を収録し、放送された3万3千にものぼる一本一本の内容を詳しく分析、さらに約40の放送局で働く2,000人以上にインタビューした、かなり大規模な研究プロジェクトです。
プロジェクトの一員、CBSワシントン支局で「アサインメント・デスク」(どの記者やカメラ・クルーをどの現場に送るかを判断する責任者)などを15年務めたウォルター・ディーンが、筆者にこんな事例を使って、ニュースの路線変更の難しさを説明してくれたことがあります。
取材班が街の中学校の統廃合問題について市長の説明会の取材に来ていて、これがその日のトップニュースだとしよう。反対派の父母もたくさん集まって緊張感が増している。しかし、市長はなかなか出てこないため、ニュース番組の放送時間内に中継が入れられるか、少し心配な状況だとしよう。
放送まであと数時間と迫った時、同じ市内で夫婦の死体が自宅から発見されたという情報が飛び込んできた。警察の捜査も始まっている。現場に行けば、パトカーがランプを点灯させてたくさん駐車しており、イエローテープも張られ、野次馬もたくさん来ている。現場検証や、遺体の搬出など動きもあるかも知れない。
あなたはニュースの責任者として、判断しなければならない。市長が出る説明会の取材を捨てて、夫婦の死体発見現場に向かわせるかどうか。でもそれは殺人事件かどうかまだわからない。スタッフ数は限られており、両方に人員を張り付けることはできない・・・。さあ、君ならどうする?
もし夫婦の遺体発見に取材クルー(時には中継車まで)を移動させてしまうと、そこまで大きな事件でもなかった場合でも、引くに引けなくなってしまいます。「ニュースにならない」ネタを、ニュースのように出し続けなければならないのです。
南丹市の事例と共通の問題が少し見えてきたのではないでしょうか。
「ブレーキング(飛び込みの)ニュース」は一見、目を引くが
この本の中には、この「引くに引けない状況」、つまり「ブレーキング・ニュース(飛び込みのニュース:事件や事故などのいわゆる『突発モノ』)」に安易に飛びついて、失敗した事例が紹介されています。
一見、たくさんの情報が飛び交っているように見える現場の「落とし穴」です。
ニューヨーク市のテレビで2002年3月に放送された、夜11時のニュースの出来事です。
ロングアイランド地域で起きた日用品スーパーでの立てこもり事件のニュース。
番組開始直後に、アンカーから呼ばれた現場で中継している記者は、「『非常に非常に』緊迫しています。重武装した4人の男が向こうの店で客や従業員を人質に取っている模様です」と深刻そうに伝えた。
しかし画面の背後は真っ暗で、店は見えない。「我々も銃撃される恐れがあるので警察に下がれと指示されました。店はここから300メートルくらい向こうにあります」だという。
次に、「スーパーの中に18歳の息子がいる」と語る親が画面に登場。「ガールフレンドの携帯電話に、『今、電話に出られない』と送信されてきた」とだけコメント。アンカーは「また動きがあればお伝えします」といったん、そのニュースは終わりに。
しかし、数分後にはまた中継で記者が呼ばれる。「現場の状況はどうですか?」。記者は「『非常に非常に非常に』緊迫しています」と言うが、新しい情報は「人質が6、7人いる模様」ということのみで、同じ情報の繰り返し。
アンカーは「事態を平穏に収束させる方法はないのでしょうか」と問うが、記者は真っ暗で現場が見えていないので、答えようがない。記者は、さっき話した親に向かって「犯人に何か言いたいことはありますか」と「むちゃぶり」するしかなかった・・。
このような中継が30分の番組中、計4回あって、放送時間の約3分の1を占めた。結局、番組中には何も進展はなかった。
この事件は、番組後、未明になって解決したが、「重武装」とされた4人の容疑者が持っていたのは2丁の小型拳銃と催涙スプレーのみ。店内に客はおらず、12人の店員のみで、ほとんどは棚の奥などに隠れていて、人質にはなっていなかった。
中継が中心のニュースで、判断する時間が短かかったため、傷口が拡大してしまった事例ですが、南丹市で起きた報道の問題とも共通の「落とし穴」がありそうです。
報道し続ける価値を再確認する
ところで、遺体が発見され、容疑者が逮捕され、いわゆる「5W1H」の大部分が見えてきた後、それでも、この事件を報道する、社会的な意味とは何なのか考えておきましょう。
おそらく最も重要なのは「動機」でしょう。父親が息子を、なぜ殺害しなければならなかったのかということです。前提として、殺害から遺体が発見されるまでの経過も明らかにされなければならないでしょう。
殺人事件が大きなニュースになる意味は、珍しい出来事だからではありません。人が人の命を奪うという残酷なことが、二度と起きないように、教訓を得ることではないでしょうか。
殺人に至った原因を、教育や福祉などの仕組みで取り除くことはできなかったのはなぜか、家族や友人、同僚らが気づいて、止められなかったのかなど、情報を共有することではないかと思います。
行方不明の男児を捜すために、警察など当局が、十分な捜査態勢を取ることができたのかという、公共サービスの面からとか、逮捕前の容疑者(の可能性がある人)の扱い、関係者の個人情報の保護など、人権とか、権力の監視という観点からの検証も行われる必要があるでしょう。
ニュースイベントの多さだけでは価値にならない
南丹市の事件に話を戻すと、父親が容疑者として逮捕された後、警察からは記者会見を含め、かなりの情報が出てくるようになりました。容疑者の検察移送とか、車の押収とか、公衆トイレの捜査とか、一見重大に見えるカメラ・イベントも連続で発生しました。
「警察は容疑者のスマホの位置情報などを検証していた」とか、「男児は23日朝、親族が朝食を摂っているところを確認していた」とか、断片的な情報も、次々に伝えられました。
しかし、ニュースの本質に重要な情報を追加したことにはなったかは疑問です。
ニュースの扱いは、出来事の内容、価値のある事項についての理解をどこまで進展させるか、という基準で判断されるべきです。現象の珍しさや、見栄えがするかどうかではありません。一見派手な出来事に見えても、「ニュースとして」踏みとどまる必要がある場合があるということです。
代わりのニュースを出す「余力」はあるか
ニュースメディアはニュースの価値に沿って、情報を吟味し、適正なボリュームでニュースを作ることが理想です。
そのためには、がんばって情報を報告してきた記者に「必要ない。しかし後日のために備えて欲しい」と、厳しい判断を伝えなければなりません。
同時に重要なのは、ひとつのニュースを縮小した代わりに、他のニュース項目の内容を膨らませなければなりません。新たな切り口で情報源を発掘したり、インタビュー相手を確保することが必要です。
それには余力が必要です。何かあった時に動ける別のスタッフ、日常からリサーチをしておく余裕など、「ニュースのぜいたく(News Luxury)」と言われる、「別の引き出し」の確保です。
しかし、ニュースメディア企業の経営も楽ではありません。スタッフの人数は減少傾向、放送だけでなくネットコンテンツなど、アウトプットの仕事は増える一方なのが現状です。
ニュースに関する「誤解」を克服する
南丹市の事件の報道ぶりをめぐる、主にテレビの問題は、メディア内で意思決定の時に、ジャーナリズム的な価値に照らした、根本的な議論が十分に行われてこなかったことを、強く感じさせるものです。
ニュースの現場は、時間に追われる重圧との戦いです。紙の新聞やニュース番組などの締め切りに加え、ネットニュースではさらにスピードアップが求められます。
打ち合わせは短時間に越したことはないのですが、もしかすると、これまで大事な部分を省略してきた可能性もあるのです。
特効薬はありません。でも、今から始めなければ間に合わないでしょう。ここでは、具体的に考え方や意思決定のシステムを変えていくためのヒントを2つ提示します。
ひとつは、ニュース選びの価値観を変えることです。この文章の前半に紹介した、アメリカのローカルニュースの失敗を分析した本にも、「誤解」と反証がデータの裏付けとともに議論されています。
彼らの調査では、トップニュースには、いわゆる「発生モノ」、事件や事故についての「ブレーキングニュース」(飛び込みのニュース)と呼ばれるものよりも、「手間ひま」をかけて取材・制作したニュース(英語ではenterprised storyと言います)の方が、視聴率においても上回るというデータが示されています。
セキュリティのニュース偏重
当時、アメリカでのローカルニュース担当者の間では、視聴者は「のぞき見好きで刺激を求めており」、従ってニュースは「ショッキングで人を驚かせるようなもの」でなくてはならないという偏見があったと、この本は指摘します。
長いニュースは飽きられてしまうので、出来事の背景などの解説などは避けるべきという、間違った認識に基づいてニュースが編成されていたのです。
研究によると、この間違った考え方は、「トピック選択」の際に顕著に現れるということです。「セキュリティ(身の周りの安全)」についての問題を、トップニュースに据える傾向が強く出てくるということです。
この本では、50のローカル放送局発の約1,200のニュースを調査した結果、犯罪・事故・暴動や騒乱が全体の半分(49.9%)、トップ項目の8割近く(77%)を占めたという有力なデータを披露しています。
これに対して、政治(地方政治を含む)、経済、社会問題、海外のニュースは合計しても4分の1にも満たないというデータもあります。
南丹市のニュース(セキュリティのニュース)の代わりとなり得たイラン情勢関連のニュース(政治経済、海外のニュース)の拡大には、テレビはあまり積極的ではありませんでした。
それで批判を浴びた後、三陸沖地震、岩手県大槌町の山林火災(どちらもセキュリティのニュース)でやっと、南丹市の事件の扱いが相対的に減少したというのは、日本の現状もかなり似ていると言えるのではないでしょうか。
「手間ひま」をかけて注目される
この本の研究で調査した約3万3千本のニュースのうち、その局が独自に企画し取材した「最も高い手間ひま」を施したニュースと、単にAP通信の情報を書き換えただけなど、「手間ひまが最も低い」ものを比較すると、世帯視聴率で平均0.6ポイントのもの大差がついたことがわかっています。
ニュースの質と視聴率は全く別の要素が関係すると思われてきましたが、地味な題材であっても、企画・取材に手間と時間をかけて興味深く見てもらえる工夫を施したニュースには関心を持ってくれるということです。
ローゼンスティールら著者は、「手間ひまをかけたニュース」とは、以下のようなものだとしています。
① その報道機関が独自に行った調査、取材、インタビューに基づくかどうか。
② 他社も取材している問題だとしても、独自の視点があるかどうか。
③ テレビのニュースなら、カメラだけが取材現場に行っているか、それとも記者が同行しているか。
④ 情報源は複数あるか。そのうち独自の情報源がいくつあるか。
しかし、20年前の調査でも、上記のような条件に合うニュースは1割程度にとどまり、本の中での見通しでも「減っている」と指摘されています。言うまでもなく、経済的な理由で、稼働する記者やカメラパーソンらの絶対的な人数が減少しているからです。
いま、目先の視聴率などの数値でなく、スタッフの布陣を強化するなど「仕組み」への投資をある程度行わなければ、報道機関としての信頼を維持できない、本当にぎりぎりの状態になっているのではないでしょうか。
経営もニュース部門の判断を「裏書き」する仕組みを
もうひとつは、ニュースに関する判断に、経営陣も関与し、その決定を会社として「裏書き」してあげるような機構改革も必要ではないかということです。
ニュースは「金食いムシ」だから、報道部門はコスパを上げろという方針だけ押し付けられれば、意志決定は萎縮し、情報を取るために大規模な人員や資源を投入するとか、大展開していた情報収集網を縮小するなど、ニュースとして必要な問題についての判断が鈍ってしまいます。
「ニュースの消費者に必要なものを届けるには何をすべきか」という発想より、自分の責任が問われないよう、「目立たないように」、「現在やっていることを大きく変更しないように」することが無難、となってしまいます。
しかし、ニュースで人の役に立とうとするのであれば、メディア企業の社会的な信頼度アップという「無形の財産」のため、苦しくてもある程度の出費は覚悟するという姿勢がないと、ニュース部門は十分に働けないでしょう。
それは報道部門で決めたことを、後から報告を受けるというようなやり方では達成できないでしょう。時に社長らにも反論できる相応の立場の幹部社員が、ニュースについての意思決定の議論にリアルで参加し、決めたことを「承認した」サインを、スタッフと共有して決定を見守る仕組みを制度化するのです。
研究者の立場からこのような提言をすると、「非現実的」と批判も受けるのですが、メディア企業が信頼を受けたいと本気で思うなら、このような試みの一部でも試してみる価値はあるのではないかと思います。
(おわり)