イブニングマジェスティ
原作軸謎時空、デキてるけど微妙な距離感のよだつかです
ストレスがたまると夜鷹の家で料理をする司の話です
大注意:ローストビーフのレシピはとある漫画から、スケートしていません
中注意:イブニングマジェスティという皿がノリタケにあります
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おはよう、いただきます。
『今日、行ってもいいですか』
司からのLINEだった。返信はしない。
夜鷹は司からのLINEに特に返信をしない。
何故なら既読と言う機能がLINEにはあるからだ、
嫌だったり都合が悪かったr言うよ、というわけだ。
夜鷹は癇癪をおこして司にドタキャンのようなことをくらわせたことがあった。
これはだいぶもう、以前の話だ。
常になまぬるい粘液で肺を満たされていたような、みりみりと苦しい時期だった。
光のコーチを降り、ひとり名古屋に戻ってきた時期の話である。
突き刺されるような痛みはない、狂おしくて狂ってしまうには生ぬるすぎて、じりじりと苛立ちばかりを焦がす。
夜鷹はせめてなにかを傷つけたり壊したかった、以前はその向き先が携帯電話だった。
最新式の携帯電話はいまや大卒初任給を上回る高級品である、そして生活に欠かせないとされる必需品で、これがないと生きていけないとすら。
それを壊す、その行いは夜鷹の胸をすっとさせるものだった。
高いものを壊して、連絡手段を断って、それでようやく楽になる。
気が向いたらまた買えばいい、慎一郎くんに会いたければ家に行けばいい。光は夜鷹の家を知っている。
だから衝動のままに壊せた、壊してスッキリして、それからすこしだけ落ち込む。
結局のところそれは下にネットがある事を知って跳ぶバンジージャンプと何が違うのか。
ああ生ぬるい、イライラする。
だが夜鷹は切り替えの速い男でもあった、それもそうとうに。
壊してスッキリするし、後ろめたくなったら寝るし、グズグズ起きたらストレッチをしているうちに、もうスケートの事しか考えられなくなっていく。
煙草と言うのもまた、いいものだった。
だいいちにして体に悪い、体に悪いものをとっている、だから選手にはなれない、きれいに整理ができる。
煙草がきれたらイライラするものだという仕組みもいい、煙草が無くてイライラできる、イライラしているのは煙草がないから。
さらには言いたくない事を言わないで済む。
現役を引退した夜鷹の人生には隙間言うにはあまりにも大きすぎる余白が生まれた、大きすぎてそれを埋められるものがなかった。
狼嵜家に依頼されて光のコーチを引き受けた時、その余白はすべてではないにせよ満たされる。
自分のスケートにはやはり価値があると思えた。
自分自身に価値があるとは、やはり思えなかったけれど。
そしてまた、光のコーチを辞めたことで余白が訪れる。以前よりは小さくなっている、光のコーチをするうちに満たされたものもたしかにあった。
しかし依然としてあるその夜鷹の人生の余白に、おそるおそるやってきたのが明浦路司だった。
彼の人となりをそこまで知っているわけではなかったが、周囲の人間の話を聞くにずいぶんなお節介で、親切な男だと言う。
だが彼はずけずけとは踏み込んでこなかった、こんにちは、すみません、おじゃまします、挨拶を欠かさない男だった。
親友はそれもあって司を夜鷹と引き合わせることにしたのかもしれない。
なにより司には美しいスケートがあった、その美しい滑りを見ると思わず夜鷹も自分の滑りを披露し、ジャンプを見せてしまいたくなる。
明浦路司とは夜鷹を掻き立てるような男だった。全ては遅いけれど。
そうして少しずつ、慎一郎を間に挟んで夜鷹と司は共に氷に乗った。
少しずつ、そのやり方はさらりと優しかった、無理にくっつけたりつなげたりはしない。
だからそのころは夜鷹は司の連絡先も知らなかった。
明浦路司、司には夜鷹と同じになれる才能があった。だがそれを夜鷹は認めるわけにいかない。
結果を出して証明していないからだ、だから認めるわけにいかない。
たまたまだ、このとき夜鷹は光の手を離して、余白があったから。
立ち入る事をすこしだけ司を許してやった、どこかでこのまま朽ちていく自分が恐ろしかったのかもしれないし、変えたかったのかもしれない。
それはもうどうでもいいことだ、夜鷹は切り替えが早い。
少し許してやったが、許された司に腹が立っていたのも事実だ。
珍しく夜鷹が昼間に出歩いた、おだやかな陽射しの日。
広い公園のベンチで母親が子供に食事を与えようとするのを見つけた。
母親はタッパーから本当にさまざまなものを揃えていた。
みどりのもの、あかいもの、オレンジのもの、黄色のもの、香りのあるもの、ないもの、あまいもの、しょっぱいもの……
おそらく子供が好きなキャラクターと思われるスプーンにそれらをのせて、必死だった。
夜鷹は少し離れた隣のベンチに腰を下ろす。
母親は子供になにかと声をかけた、自分が食べるふりをしたり、おいしいねと笑ってみせ、何かの声真似をしたり、悲しいよと言ってみたり、黙ってみたり。
子供はさんざんだった、やだちがうこれじゃないほしくないとどれも否定した、じゃあ終わり、といえばのけ反っておなかすいたと言う。
じゃあ何が欲しいのと聞かれたら、子供は舌をもつれさせ、わからない、と言う。
夜鷹は人の心がわからないわけではない、だが、どちらも苦しいとのだろうとは思う。
母親がちらりと申し訳なさそうに夜鷹の方を見た、夜鷹は思わず顔を背けて何も見ていないし聞こえなかったふりをした。
使いもしないスマートフォンをいじくる真似すらした。
子供が叫んだ、わかんない。
夜鷹は思った、わかるよ。
夜鷹はなにが欲しいのかわからない、欲しくないものばかりわかる。
欲しくないものばかりが目の前に現れすぎるから欲しいものがわからないのかもしれない。
腹が立つ、だからどれも雑に壊す。
夜鷹が司にドタキャンをくらわせた話にそろそろ戻っていく。
夜鷹はテーブルに乗った服や手紙や本を薙ぎ払って床に落とすことをやった、これも癇癪の一つだ。
そういえばPCを買う時、外商はPCに詳しい担当者をつれてきた。夜鷹をしてえらく愛層のない態度で、メモリは作業台ですと短く説明した。
狭いテーブルでゴチャゴチャやってると腹が立って、突然再起動してしまうのだ、腑に落ちる説明だった。
リセット、再起動。
どうせ数日もすればハウスクリーニングが跡形もなくきれいにしてくれるのだ、だから夜鷹は再起動のようにテーブルの上を薙ぎ払う。
細くてしぶとい雨の日の夜。
貸切前に、司は夜鷹の家に迎えとして訪れる。それがたまたま再起動の直後だったのだ。
見られた。夜鷹は頭が冷えるのではなくぐらりと弱火で煮えるような思いだった。
しかしただ、司は床に散らばったものを見て、
『割れ物は無かったですか、ガラスとか』
とだけ言う。
無いと言えば、
『よかった、怪我したら危ないので』
と笑う。夜鷹は許されたようなそれでいて馬鹿にされたような気持ちにもなった。
いい大人がテーブルの上から物を落として癇癪をおこすなんてどうあってもおかしい、だがそれを人に言われたくはない。
かといってテーブルの上から物を落とすことを認められたくもない。
許されたような?ふざけるな、舐めているのか。
かっとなる、けど、向ける先がなくて行き場がない。
夜鷹が光の手を離した、でも、光が夜鷹から巣立ったということにした。
事を起こしたのは夜鷹なのだから夜鷹が喪失感を覚えてはいけない。
だから、だから、司を傷つけてやりたくなった。
理屈に合わない?そんなもの、夜鷹が一番わかっている。
生ぬるくてやけに風の強い日。
その日、慎一郎から都合で貸切には来られなくなった、二人は遠慮なく楽しんで欲しい、という連絡が来た。
残念な気持ちになり、そして夜鷹はなぜか、これだと思った。
構わないと慎一郎には返事をして、夜鷹は司を待つ。
君とは行かないと言ってやろう、と思ったのだ。
だって会いたくない、慎一郎くんもいないし。
時間通り司はやって来た、
セキュリティが来客を伝える、家主からはモニター越しに来客の顔が見える。
『こんにちは!お迎えに』
嬉しそうに見えた、氷に乗れるからだろうか、
いや。夜鷹はそこまで鈍感ではなかった、司が夜鷹に会えるのが嬉しいからだ。
『今日は行かない』
『え、どうされました、具合悪いですか?』
人の良さそうな顔が曇る、丸い目が見えもしないのにこちらを覗き込んでくるからイライラした。
『君の顔を見たくない』
はっきりと言ってやった、傷つく顔が見たかった。
君のせいで、僕は携帯電話を壊せない。
『――、そうですか、えっと、では、俺はこれで帰ります、なので――』
なので、つまり自分は行かないから貸切枠を無駄にしなくてもいいですよ、ということだ。
傷ついた顔なんか一瞬だった。まだ苦みが残るものの笑顔で軽く会釈した。
氷を愛している夜鷹を案じていて、イライラする。
夜鷹は何も言わずに呼び出しを切断した。
無音になった。ふらふらと夜鷹は窓辺へ足を向けた、裸足のままベランダから下を見下ろす。ひんやりとしたタイルは夜鷹の足裏を責める。
強い風が夜鷹の前髪を跳ね上げた。
夜といっても大通りは影を散らすほど明るい、人もそれなりに歩いている。夜鷹は司をすぐに見つけられた。
司は歩いて駅へ向かっていく、その背中は沈んでいるようにそして足取りも重く見えた。
おそらく彼は自問自答している、何が悪かったのだろう、何か怒らせるようなことをしただろうか、。
理不尽な仕打ちを受けて、夜鷹のことで頭がいっぱいになっている。
ふだんと違う煙草を吸った時のような、鼻の奥に満ちて脳を浸すような、酒は飲めないが酩酊に似た感触。
夜鷹は微かに笑った、笑って、すっきりした倍の分、気が重くなった。
これは癇癪だった、癇癪と言うのは起こしている最中に気付くことはできない。
真っ先に、慎一郎くんはなんて言うかなと思った、純くんどうしたんだいと聞かれたら嫌だと思った。
保身だ、友達から悪く思われたくないという。
保身なんて夜鷹の人生にほとんどなかったはずだ、そんなみっともないことをしたくはなかった。
なぜこうなった、夜鷹は司の背中を睨む。
明浦路司は自分のものではなく、そして人間だから。
簡単な事だった、夜鷹が壊してきた携帯電話は夜鷹の所有物でそして、無機物だった。
他人を傷つけていいと思っていたわけではない、自分の乏しいくせに鋭すぎる言葉で人を傷つけたことは何度もあった。
夜鷹は携帯電話を握った、これを壊さない代わりに彼を傷つけた、なぜこれを壊さなかった、それは慎一郎や彼との連絡に必要だからだ。
夜鷹は携帯電話を握った、つまり、夜鷹には携帯電話があった。
携帯電話には通信機能がある、そして、音声のやり取りもできる、使ったこともあった。
その機能の中に、『折り返し』というものがあった。
自分でも支離滅裂だとわかりながら、夜鷹は着信履歴のタイミングから司のものを探す。少ない履歴の中からそれはすぐに見つかった。
かける、すぐに出ろ、僕がかけている。出た。
『はい、もしもし』
「やっぱり行く」
出てきた言葉の稚拙さに夜鷹は奥歯をぐっと噛み合わせた。
『……はい、じゃあ、戻りますね』
喜びよりも戸惑いの声が返ってきて、夜鷹はまだ腹を立てていた。
夜鷹はそんな日を思い出していた。
僕が悪かった。今ならわかる、というか、夜鷹しか悪くない。そんなことぐらいわかっているよ。
光であれば夜鷹が寝坊だと知って、ドンドンとドアを叩き、夜鷹が出てきたら『遅刻です』と言うこともできる。
慎一郎なら『純くん、どうしたんだい』と尋ねることもできる。
司はどちらもできない。
夜鷹は埋め合わせようとして後日、司へ向かってカードキーを差し出した。わざわざ管理会社に依頼して新しく作らせた。
だがそれを司は不思議そうな顔をして、そして受け取らなかった。かといって司は夜鷹に「怒っていませんよ」と微笑む。
人は壊すと、元通りにはならない。
修復はできても修理はできない。
それを夜鷹は受け止めざるをえない、かといって楽観も悲観もしない。
あれからずいぶんたった今でも司は夜鷹の家のカードキーを持っていない。
あの時と同じに「顔を見たくない」と言えば、きっと同じようにあっさりと、とぼとぼと帰ってしまうと思える。
いまは取り返すのではなく積み上げている最中だ。
夜鷹の家には渡せていないカードキーが置いたまま。
日付が変わるかどうかのところで司は夜鷹の家にやって来た。
この時間にマンションに帰宅ではなく訪問でやってくるのはまあまあ珍しい。
時々深夜の配達があるかどうか。
『こんばんは』
『開けたよ』
家主にセキュリティを解除してもらって司はエレベーターホールへ向かった。
ツルツルの石でできたグレーの床はいつも、顔が写り込みそうなほどピカピカに磨かれている。
「こんばんは!」
「うん」
元気よく挨拶をする司だが、目の下にはくっきりとクマがあり、疲れているのがわかった。
こういう時に慎一郎であれば、「ずいぶんお疲れのようですね」などと言うだろう。
だが夜鷹は言わなかった、煙草の煙を吐き出しながら、慎一郎くんならこう言うだろうなと思うだけだ。
「すみません突然、お邪魔して」
「別に構わない、……都合が悪ければ言う」
先程まで例のドタキャンのことを思い出していたからだろう、夜鷹の言葉は少しだけ歯切れが悪かった。
靴を脱ぐために司は玄関先にリュックを下ろす。ドコ、硬いものがぶつかる音がした。
「加護さんの家に帰ってから来ればよかったんですけど、スーパーが閉まっちゃうんで直接来ました」
「そう」
司は今もまだ加護の家に居る。
数回、一人暮らしを企てたのだがどれも失敗に終わった。
だがこんどこそ、次回こそは家を出るだろう。引っ越し先に目星をつけているところだと慎一郎に語っているのを聞いた。
司が言うスーパーとは夜鷹の住む家の駅反対口にある24:00までやっている大型スーパーのことである。
「今日はすごいですよ、ふふふ」
靴を脱いだ司はふたたびリュックを持ち上げる、ずっしりと重そうに見えた。
向かう先はキッチンである。
司がリュックから取り出したのは、1.5kgもの牛モモ肉(オーストラリア産)である。しかも3割引のシールが貼られている。
真っ赤な、脂身のほとんどない塊肉を司は上機嫌に作業台へ並べ、その横へさきほどの音の原因と思われるもの、ジャガイモをドコドコと取り出した。
しぼんだリュックをリビングに持っていくと、手をきれいに洗う。
三十代だというのに『きらり』と表現するのがぴったりな目で夜鷹を見つめてくる。
「……見ますか?」
「うん」
「特にそんな見せ場とかあるわけじゃないんですけどね~」
見て欲しかったくせに、夜鷹は壁にもたれかかりながら新しい煙草に火を点けた。
「調理開始!」
司は夜鷹の家に、時々こうして料理を作りにやってくる。
といっても夜鷹に食べさせるわけではない、司が司の食べたいものを、司のやりたいように作るためにだ。
男の料理。というのだろうか。
よく男の料理というと嫌がられるのはそれが本格カレーとか言って3つのコンロのうち2つを占拠して3日煮込むとかそれ以外の食事どうすんだスペース考えてるのか、とか、炊飯器でサムゲタンとかにおいつくだろバカご飯炊けないだろとか、スパイスのテンパリングで油まみれで家じゅうインド臭とかそういう話がある。
そう言うのとは違う、だから司の料理だ。
この家、夜鷹の家には3口のIHコンロがあるがそれらはほぼ使われない。
ここなら存分に、何をしたっていい。超強力な換気扇もついている。しかも静かだ。
たとえ前述のスパイスこねこねインドカレーをやろうが、ニンニクあひあひペペロンチーノをやろうが、夜鷹は許すつもりがあった。夜鷹なりの受け入れなのだが、伝わっているかは不明である。
ともかく、夜鷹の家で司はストレスを発散させていた。料理で。
ざっく。
「……」
司はフォークを手にすると、1.5kgの肉塊にためらいなく先端を突き立てた。
「ちくしょう…………」
ぽつんと呟き、それが声になっていたことに司は赤面すると、夜鷹にニコッととりなすように笑いかける。
しかしその間もグサグサとフォークは肉塊をめった刺しだ。
塊肉なので何度かひっくり返して入念にザクザクを繰り返す、スジっぽいところは念入りに。
フー、と満足げに司はフォークを置いて、即洗う。
司は片付けものが好きではないと言う、好きではないから使ったらすぐ洗って負荷を細かくしているのだ。
いつだったか夜鷹が気まぐれに、司が使い終えたカップかなにか洗ってやったことがある。喜ばれたが同時にひどく恐縮された。
手荒れするからとか言っていたが、男の肌はそんなヤワなものじゃないだろうと言うと、頬を赤らめる。
司は夜鷹の超越した美しさも、浮世離れしたところも、そして男くさいところも、とにかく全部好きだった。
いつか。司が使い終えたまな板をシンクに入れ、洗剤をピャッとかけてやる日がくるかもしれない。
「うおお……塩の粒が大きい!」
1.5kgの肉塊に司は妙なことに感心しながら丹念に塩をまぶす。
買って来た肉のパックの上でちまちま手を動かしている、まな板が汚れるからだろう。
夜鷹は司のこの大胆なんだか小心なんだかわからない発散クッキングを見るのが割と嫌いではなかった。
「ジャン!電動ミル!」
1.5kgに今度は胡椒だ。安物で電池式の電動ミルはそれでもキリキリ薫り高い粒をかみ砕いて胡椒を降らせる。
「あと、なんか、えっと……葉っぱ、揉んで……」
ぐしゃ、ぺた、ぺた。
粒の大きいどこか遠い海の塩も、胡椒をぎっしり電動ミルも、謎のいい香りがするスパイスも、棚の一番下、小さなコンテナから次々取り出される。
棚の一番下の箱は司が持ち込んだ色々が入っている、司だけが使う調味料とかもここだ。
「おお、なんかそれっぽくなってきた」
この子が着替えを持ち込んだのと、マヨネーズを持ち込んだのと、どっちが先だったかな。
夜鷹は思い出そうとして、胡椒の香りに鼻をひくつかせて中断した。
その葉っぱはローリエと言う。
「すみません、袋下さい」
「はい」
夜鷹がいつも鶏ハムを作る時に使用しているジップロックを渡す。
「おお……鍋肌についても煮溶けたりしないんだよなあ!」
先程の粒の塩の粒についてもそうだが、司が何か大げさに褒めたりするときはストレスが重なっている時だと夜鷹もわかってきた。
今自分はおおいに楽しんでいる、と声に出すことでその効果を増強しているのだろうと夜鷹には思われる。
司の使う魔法は夜鷹は縁も程も遠いが拒むつもりもなかった。
「うーん……」
ジップロックはさすがに1.5キロの塊をそのまま入れられる大きさではない。
司は悔しそうにまな板と包丁を取り出すと肉を2つに切り分けた。新しく表れた断面には面倒になったのか塩だけ擦り込んで、ジップロックに入れる。
「ジップロックはこうやって、シンクの端っこに合わせるとほら、空気が抜けて……」
うまくいったので嬉しそうだ。そそくさとまな板と包丁を急いで洗う。
司は料理が別に得意と言う訳ではないらしい、だからこうした『段取り』のようなものをしくじって悔しがる。
以前になにか鍋で煮込む時に口を尖らせていたから、どうしたのかと聞けば、大したことではないと言う。
軽く脛を蹴ると、
『レシピで蜂蜜が出て来たからこうやって蜂蜜を入れたんですけど、その後で砂糖が出たんです、それなら砂糖を先に言ってくれたらスプーンを洗わないで済んだのに』
本当に大したことではない、この男は大したことではないことばかりだ。
司のその大したことのなさをたくさん持っていることが、夜鷹にとっては気が楽でもあった。
夜鷹の見て来た世界では『これしかない』という人間が多かった、夜鷹だってスケートしかないと思っていた。
だけど夜鷹だって好きな煙草の銘柄もあれば、アクリルの靴下は嫌いとか好みがある、たいしたことじゃないことに目を向けるのも悪くない。
司はキッチンの上に出しっぱなしであるバケツとその横に転がしてある低温調理器を手に取った。
バケツに水を張ると肉を沈め、低温調理器をセット。バケツを床に下ろす。
食べ物を床に置くのは抵抗がないのだろうか、食べ残しを嫌うのにそういうところは夜鷹にとって不思議である。
「蹴らないでくださいね」
「うん」
司は続いてジャガイモをざぶざぶくるくる水洗いすると、ラップで包んで雑に電子レンジへ突っ込んだ。
夜鷹の家の電子レンジは回らない。
その間に夜鷹の冷凍庫を勝手に開ける。
そこから一塊の黄色い箱を取り出した。
「バター!マーガリンじゃなくて今日は、バターです!」
「それで後先考えずに買って僕の家の冷凍庫のスペースを占拠していたバターは最後?」
「ヴ!……はい」
ある日突然、安かったんですよ!!と言ってバターを4箱も買って来た司を、さすがに夜鷹は叱った。
『僕の家をなんだと思っているのかな』
『あ、あなたの家だと思っていますぅ!』
貧乏性というのだろうか、好きでもないものであっても値札が貼られていたら何か脳がパリッとしてしまうのだという。
回らない電子レンジは見ていても特に面白みはない。
さて、イモが電子レンジで加熱が終わった。灼熱の石ころみたいなそれを司はシャツを腹部分を引き延ばしてミトン代わりにし、取り出す。
なるほどああいうことをするから服がヨレヨレになるのだ、夜鷹は納得した。
そしてあんな薄いシャツ一枚じゃほとんど熱も防げないだろうとも思う、ということはあれは司にとっての儀式みたいなものだろう。
ラップに包まれた芋をアチアチと言いながら剥がして、
「……」
司は何か考えているようだった、皮をむくかどうかだろうな、と夜鷹は予想した。
「ま、洗ったしな」
果たしてそれは正解だったようだ。司はボウルへジャガイモを入れようとして――
「あ、あれがあったんだった」
コンテナから不思議なかたちの金属の器具を取り出した。
なにに使うものなのかな、と夜鷹が見ていると、
「ポテトマッシャーです」
名前が機能をあらわしていて、簡潔この上ない。
ポテトマッシャーに司はジャガイモを突っ込むと、
「ふんッぎ!!」
めいっぱいちからを入れて押しつぶした、こまかくモロモロになったジャガイモがボウルに押し出される。
「おお!すっごい!これやってみたかったんだよなあ!ストレス発散になりますよ!やりますか?」
「……ひとつだけ」
ポテトマッシャーを差し出して司は笑った。
夜鷹はさいきん、以前の自分ならやらなかったことを少しずつやるようにしている。
特に目標を立ててストイックにやっているわけではないが。
煙草を灰皿に置くと、マッシャーを受け取る。
差し出されたポテトマッシャーは金属だが司が握っていたのでほのあたたかい。
「意外と握力が要りますねえ」
余計なことを司が言うから、夜鷹は涼しい顔で腕にものすごく力を入れた。
宣言通り一個だけで返す。司はありがとうございます!と笑顔で受け取ると、
「ふんぎ!っ……ボケ……」
何か不穏なことを呟きながら残りのイモを潰していた。
「あ!牛乳買ってくるの忘れた…………豆乳貰っていいですか?」
「いいよ」
夜鷹がプロテインを割るために買ったパックの豆乳のことである、司に言わせれば「そざいのうまみがすごい」とのことなので、おそらくはまずい。大豆の風味が脳を突き抜けるとかなんとか。
湯気の立つ芋に豆乳を湿らせるように回し入れる。
「それっ」
箱から取り出したバターの銀紙を司はペリッと全部剥がした、そしてボウルにドッと1かたまり丸ごと入れる。
そんなバターの姿を夜鷹は見たことが無かった、慎一郎はある、お菓子作りの現場とかで。
「!」
司はスプーンでもってぐいぐいとポテトをこね始めた。イモの熱をもってしてもしばらく巨大なバターの塊は姿を消さない。
「ふー……」
ホクホクと称されることが多いはずの芋は豆乳とバターの力で、液体寸前にまでねっとりゆるめられた。
「よーしっマッシュポテト完成!」
声にハリが出て来たな、夜鷹は気づいた。
ボウルにラップをかけて横へ置く。キッチンの流し台をきれいにしてから、
「あとは三時間待ちます!」
三時間と聞いて夜鷹も内心驚いた、自分が食べるわけではないが、それでは出来上がりは三時半になるだろう。。
「……きみ、お腹が空いてるんじゃなかったの」
「まあ、はい。でも、へへ」
はーっ、と司はもうすでに半分スッキリしたような顔で、手を洗う。
「……あの、眠いですか?」
上目遣いに尋ねてくる、この視線に夜鷹は覚えがあった。
「別に」
「じゃあその、肉ができるまでしませんか……?」
あまりにも図々しい願い事を口にする、かわいい年下の男。
さっきまで疲れてしょぼくれていたはずの顔が、マッシュポテトの熱気でかほんのりぴかぴか上気して、ほんのりいろっぽい。
「……どうしようかな」
夜鷹はもったいをつけた、けれど、本当にもったいをつけるなら「なにを?」と聞くべきだった。
あまりに司の顔があけすけだったし、シャツを捲り上げてミトン代わりにした時の肌に目が惹かれてしまったのも事実だったので。
「じゃあ、俺がシャワー浴びてる間に決めて下さい」
司は夜鷹の答えを待たず、るんるんと風呂場へ向かった。
「……」
ううん、と低温調理器が唸った。温度がどうやら下がって来たので、調整をしようとしている。
「……はあ」
低温調理器は渋ったようだったけど、夜鷹は寝室へ向かう。
ゴムとローションを並べる時、僕はなにをしているんだろうという気持ちになる。
僕はなにをしているんだろう、セックスの準備だよ。
ゴムとローションをしまっている引き出しには爪切りも並んでいた、夜鷹は自分の爪を確認する、伸びていない、切らなくてもいいだろう。
爪の甘皮処理等はサロンでやってもらっている、爪切りで切ると割れるのでやめてください、と言われるが知ったことか。
「はぁ……腹減った……」
散々夜鷹のもので腹をいっぱいにしてもらっておいてこの言いぐさ、この男、時々とんでもなく図太い。
夜鷹は身を起こした司の背中を踵でドンと蹴った。
「痛った、もう、煙草ですか?自分でとってきてください」
司の背中は美しい、ほくろがいくつか散らばっている、そのほくろは見つけ次第夜鷹が唇を落とした。
太陽の黒点というのはあれは温度が低い部分らしい、なら夜鷹がひんやりと触れたところはたしかに黒点としてふさわしい。
明浦路司を思い浮かべる時に真っ先に思い当たる頬の黒子、あれは氷の粒が触れたものだったらいいのに。
そのつもりはなかったのに煙草と言われて、夜鷹は急に吸いたくなった。ベッドに腰かけると突然司が大声を出した。
「よおし!肉だぁ!」
立ち上がる、振り返る、ベッドのシーツに手を書ける、ズバン、夜鷹の尻の下から引っこ抜く、まるめる、かかえる、ペットシーツを取る、まるめる、かかえる。
一瞬のうちにベッドの表面から夜の名残を丸ごとはぎ取ってしまった。
ペットシーツとシーツをかかえた司が寝室の扉を開ける。
振り返って司が笑った。クマは少し薄くなっている、だがもうここに太陽はぺっかりとかがやきをとりもどしていた。
「夜が明けますよ、飯にしましょう!」
「僕は食べない」
「はい!」
司は寝室のドアを開けたまま出ていった。
夜鷹がくるのを疑いもしていない。
なんなんだ、夜鷹は戸惑い、そして
我々は知っている、司が身内に雑になるのを。
それを夜鷹は知らない。なぜなら夜鷹は身内に甘くなるタイプだからだ。
キスやセックスをしているから特別とはさすがに夜鷹も言わない。
だが司はこうしてストレスがあっても居候先に甘えられないからと、夜鷹の家を訪ねてくる、それは特別と呼ぶべきだろう。
最中からぐうぐう腹を鳴らすから腹が立った。いま柔らかくなっている肉のことを考えながら僕に抱かれるな。
でも、こうして「今日は気持ちよくなりたい」と言って夜鷹に抱きついてくる司を夜鷹は拒まない。
拒まないことと求めること、それは夜鷹にできうる方法だからだ。
鼻も腹も鳴らしてめちゃくちゃになっている司の寄越した、きもちいい、もうだめ、すきです、それが嘘じゃないことぐらい夜鷹はわかっている。
夜鷹も体を起こした。顛末を見届けるべきだ。
「おっほ~♪」
肉を引き上げると、ジップロックから取り出してまな板に並べる。まな板を数時間出しっぱなしにするのは嫌だと言うから、二回目でもふてくされない。
例のコンテナから取り出したシャープナーで包丁へシャインシャインと研ぎを入れる。
小さいほうの塊にすーっと包丁を滑らせた、力を入れなくても肉は薄く切れる。
ロゼ色、と言われるだろう断面。繊維はきめ細やかで荒れたところもない。
低温調理ならではで、肉汁が流れ出ることもない。みごとなローストビーフだった。ローストしてないけど。
「おお~~っ!」
司がくたびれたパンツいちまいで、薄暗いキッチンに喜びの声を上げた。夜鷹がリビングに目をやれば、四角く切り取られた窓の左側がわずかばかり明るい。
この家は南向きである、だから、左側は東なのだ。
夜がほどけていく、夜は終わるのではなく、朝と交わって、朝に融ける。ひとつになる。
夜鷹は目を細めた。
「お皿ください」
夜鷹の家に皿は無かった。
うちに皿はない、と光に言った。光はそれを慎一郎に、コーチの家ってお皿ないんですねと言った。
あるよ!慎一郎は夜鷹に連絡して言った、贈っただろう、何かのお祝いに!
しまった、夜鷹は慌てて家を探した。
はたしてそれはあった、だから、この家に皿はある。
直径24cmの丸皿、ぐるりと囲んだ縁は漆黒で、金の装飾が描き込まれ、ところどころに白い星がアクセントとなる。
見事な皿だった、司も声を弾ませる、
「わ~~カッコいい皿、貴方に似合いますね」
「ノリタケのイブニングマジェスティって言うんだって」
書いてあったものを夜鷹は暗記している。
「へえ~!」
「肉、うまい~!やわらかくてすっごくおいしい!なんかのハーブもいい香り!ポテトもすごい、バターが脳にビリビリくる~」
明け方によくこんなに食べられるものだ、向かいに座った夜鷹は司がローストビーフ(焼いてない)とマッシュポテトを食べるのを見つめていた。
マッシャーも、シャープナーも、塩も、電動ミルも、スパイスも。どれも共同財布から買ったものだ。
夜鷹と司の共同財布。
ルールは、お互いに同額お金を入れる、そして使い道は二人の合意を取る。
だから夜鷹だけがそこにたくさんお金を入れたとしても、司が同額入れるまで使えないのだ。
別に夜鷹に欲しいものはない、欲しければ自分で買う。
だから司が欲しいものを買う、司が欲しがるのはどれも、『要らない、欲しい』というもの。
いざとなったらあのコンテナごと捨ててしまえばそれで終わるようなものばかり。
「次は何を作るのかな」
「うーん、あ、土鍋でご飯炊くやつとか、小さい土鍋があって……」
「ふうん……」
あのコンテナをはみ出すようなものを買う時が来るだろう。その時こそカードキーをもう一度差し出す日だと夜鷹は思っている。
「は~~、ローストビーフおいしい!バターたっぷりだからか、眠くなるなあ」
完全に夜明けが訪れた。だから夜鷹は眠くなってきて、あくびがでかかったが飲み込む。司が食べ終わってから眠るつもりだった。
ごちそうさま、おやすみ。