1572、星を追う 序
4/14〜5/16までXで掲載した分の「最終的によだつかになる明浦路母の逆行のお話」を収録しました。
家族設定は大幅に捏造し、年齢差も変更しています。
2.5章は書き下ろしです。
12月末からメダリストに狂っていたのですが、とうとうよだつかにも狂って長い話を書き始めてしまいました…
ハマったジャンルで絶対に長い話を書く習性があることが最近判明しましてね……話はまだまだ続くので、お付き合いいただけると嬉しいです。
26.02.02追記
本シリーズを加筆修正・製本しました同人誌を再販しました。
通販 :とらのあな(https://ecs.toranoana.jp/joshi/ec/item/040031269804)
感想もいただけると、とても嬉しいです!
マシュマロ:https://x.gd/yAG6iA
wavebox :https://x.gd/nFz0f
表紙はこちらからお借りしました(illust/126799079)
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1. 母の後悔
明浦路夏には後悔がある。
病院の白い壁を眺めながら、人生の今際に思い起こすのは息子の事だった。
今は高名なコーチだという息子が、本当は何を望んでいたのか。そして何故にその夢を叶えられなかったのか。母である夏は知っていた。あの時、もっと金銭的な余裕があれば。司や肇は優しくて、親思いの良い子だった。下の子たちの面倒も良く見ていて。だから、言い出すこともできなかったのだろう。司は特に責任感が強いから、莫大な費用がかかるフィギュアスケートをやりたいだなんて。言葉にするのも難しかったのだ。夢を諦めさせた後悔をこぼせば、そんな事はない、君は精一杯やっていたと優しい夫は慰めてくれただろう。
だが、夏だけは知っていた。
司の夢を叶える手段があると、資金だけはどうにかなると。
縁を切って久しい実家の、会社を興した叔父に頼めば司はメダリストに成れた可能性があったと、夏だけは知っていた。もう全て、遅きに失した過去のことだ。だが、司の先生だという高峰匠さんから話を聞いた時、夏だけは、司の才能を誰が潰したのか、はっきりと自覚した。
私だ。
私が、つまらないプライドに拘って、我が子の才能を潰したのだ。
その思いは、明浦路夏にとって消えない傷跡となり、生涯の後悔となった。
そして、一人の老婆は名前の通り、猛暑の盛りに息を引き取った。
息子たちが駆けつけ、久方ぶりの家族団欒の場となった病室で、小さく微笑んで。
◇ ◇ ◇
目を覚ました時、世界が一変するような経験をした。
六畳二間の賃貸で、息子二人に挟まれて目を覚ました明浦路夏は、目を見開いたまま天井をしばし眺めた。懐かしさを感じる古びた木の天井。年季の入った、ところどこにしみが浮いている天井だ。肇も司も、あの影を幽霊だと怖がって、昨日も夏にしがみついていた。豪快な寝相を見せる二人の体温が、触れた箇所からじんわりと体に染み込んできて温かい。司は昔から、熱があるのかと勘違いするほど体温が高くて元気だった。
いや、今、まさにだ。
頭に流れ込んできた80年分の記憶に、まだ現実が上手く掴めなくて、ぼんやりする。
だが、左右の息子の間抜けで可愛い寝顔に頬を緩めれば、壁にかけてある時計が目につく。
六時。いつもの起床の時間だった。
身に染み付いた習慣に従って、息子たちを起こさないように起きて支度をする。時間になれば一人一人を起こして学校に行かせ、自分もパートに出かける。夜は帰りが遅い夫の分だけ食事を避け、子供達を風呂に入れて、深夜に近い時間に帰宅する夫を出迎える。いつものルーチンを忙しく過ごせば、現実感というのは後から追いついてくるものだ。
だが、頭の片隅にはいつも司の事があった。
死ぬまでずっと後悔し続けた司の事が。
まだ氷に囚われる前の、普通の小学生として日々を過ごす司はそんな未来に進むかも分からない。
あれから、フィギュアスケートについて詳しく調べたのだ。子供たちを図書館に連れていく時に一緒に。中には司の本棚に並んでいた本もあった。何度も読み込まれたボロボロだった司の物とは違ってまだ新しい、フィギュアスケートについての本。
ステップ、ジャンプ、スピン。色々な技について書かれていた内容は、夏にはとても出来るとは思えない動きだったが、未来の司はそれは見事にあの氷の上で滑っていた。地上よりも自由だと、思ってしまった。
そんな風に悶々と悩む明浦路夏にとっての転期が訪れたのは、意外なところからだった。
「バレエ、ですか」
「そうなの、新しく引っ越してこられた白根さんの奥さんが先生をしているらしくね。まだ生徒さんが全然いないから、良かったらどうかって」
「でも、そういうのってお高いって聞きますよ」
フィギュアスケートに負けず劣らず金額が高い習い事をさせるような余裕はとてもではないが、明浦路家にはない。一人なら何とかなるかも知れないが、兄弟平等にと考えるとどだい無理な話だった。
「それが、無料のお試しレッスンだけでもって」
「はぁ」
ちらしを貰って帰れば、子供達の反応は一様に淡白だった。サッカーが上手い奴が持て囃される小学生男子には、バレエなんて異国の言葉にしか聞こえない。
「俺、行ってみようかな」
「司?」
弟の意外な反応に、驚いた肇が覗き込んだ司の顔は、じっと何かを探すように真剣だった。ただのバレエ教室無料体験レッスンの紙の何がそんなに彼の気を引いたのか分からなくて、母を仰ぎ見ればこちらも同じように驚いている。
「司行ってみる?」
目線の高さをあわせてそう聞く夏に、司は少しぼんやりした目線で、頷いた。
「なんでか分からないけど、行ってみたい、気がする」
「そう」
老婆になるまで過ごした人生の記憶が流れ込んできた時から、夏の覚悟は決まっていた。
無意識に自分に必要なものを選びとっている司は、少しだけ夏と同じように覚えているのかも知れない。
「じゃあ、せっかくだし行ってみましょうか。肇はどうする? 行ってみる?」
「バレエってピチピチの服着て踊るんでしょ。俺は良いよ」
嫌そうに言った肇に、子供からすればそんなもんよねと納得して、まだ真剣な表情でちらしを見ている司に視線を戻す。
「じゃあ、司だけ体験に行ってみましょうか。肇はその日お留守番と、誠と健の面倒をお願いできる?」
「大丈夫。司、楽しんでこいよ」
「ありがとう、兄さん」
未来でも、この二人はずっと仲良しだった。
まだ小さい下の二人を構いながら、ぼんやりとある日突然流れ込んできた記憶を想う。全員大事な息子だ。だからこそ、一人だけ人一倍苦しませた司を、今度こそ助けてやりたりと、強く思った。
◇ ◇ ◇
動きやすい格好でとだけ指定されたので、持っていた子供用のレギンスとTシャツで向かった二人は、まず一面鏡張りの部屋に圧倒された。
ここで練習を行うんですよ、とにこやかに案内してくれる白根さんは随分と若く見えたが、これでも一児の母だという。
「おかぁさん」
「琥珀! なんでこっちに……!」
入口とは別の扉から顔を覗かせた男の子は、小さいながらも練習着を纏っていた。
「お兄ちゃんもバレエやるの?」
キラキラした瞳を向けてくる年下の扱いはお手のものな司は、屈んで琥珀と目線を合わせた。
「やってみたいなって、今日は母さんに連れてきてもらったんだ」
「お兄ちゃん、バレエ初めてやるの? だったら琥珀が教えてあげる!」
えっへんと、得意げに胸を張る琥珀に司はニコニコ笑ってよろしくねなどと言っているが、後ろには仁王立ちの白根先生が立っている。
「琥珀〜?」
「おかぁさんも琥珀じょうずだって言ってたでしょ? 任せてよ!」
この言葉には怒気も抜かれてしまい、親二人で苦笑いだ。
気を取り直してと、基本のレッスンを受ける司を端で見学することになった琥珀は、すぐにニコニコで司を褒めた。
「覚えるの早い! じょうず!」
貸し靴で柔軟と簡単なポジションだけのレッスンだったが、何度も何度も体に染み込ませる正解のポーズを、司は一度二度動いただけであっさりと身につけてしまった。美しく、正しいポーズはバレエの基礎だ。それが出来るまでが大変で根気がいるのだと、さっきまで司の母と話していた事は何だったのだろうと、青ざめながらも白根先生は更に司にポジションとポーズを教えていく。
「アン・バー、アン・ナヴァン、アン・オー、ア・ラ・スゴンド……、ルルベ、タンデュ。完璧です。じゃあ、次は音楽に合わせて先生と一緒にやってみましょうか」
ととと、と琥珀が司の隣でポーズを取り始めたので、そのままに音楽をかける。クラシックのゆったりとした曲に合わせて、ゆっくりとポーズをとっていく。
ここでも司は完璧だった。ぶれる事なく一度二度繰り返しただけの動作を淀みなく行っていく。一つ覚えるだけで大変なポーズに見えるのに、それをいくつも美しく正しい姿勢でこなしていく。側で見ていた夏もごくりと唾を飲んだぐらいだから、その道に精通している白根にしてみれば明白な事だっただろう。
無料体験レッスンのはずなのに、それどころじゃない熱の入った指導になっていく。
見学用の椅子に座った夏は、改めて目の前で見せつけられた司の才能に、口元に手を当てた。青ざめて、震える口はしを少しでも隠したくて、涙が溜まる目元を指先で拭いとる。
まごう事なき原石の輝きに、夏は静かに覚悟を深めた。
「お母さん!」
鳴り響いたタイマーの音に授業を終わらせた白根先生は、琥珀ときゃっきゃっ遊んでいる司たちの前でバレエのビデオを再生すると、素早い動きで夏に駆け寄ってきた。
大興奮と顔に書いてある。
端に寄せてあった折りたたみの椅子と机をガタガタ引っ張ってきて、夏の前に座った白根先生は、覚悟の決まった顔をしていた。
「誇張なしに言わせてください。司くんは大変に才能があります。バレエをぜひ! 習わせてあげてください!」
「それは見ていて分かりました。素人の目にも、司の動きは初心者とは思えませんでしたから。ですが、その、家にはそれほど余裕がある訳ではなく、レッスン料はいかほどになるのでしょうか?」
「うちも小さな教室ですし、司くんはまだ初心者です。それほど高額なレッスン料は頂戴しません。月に4回のレッスンで5,000円になりますが、厳しいでしょうか」
思ったよりもはるかに良心的な価格に、夏は驚いた。
更に話を進めていき、入会申込書に署名までしたところで、夏は肝心な事を聞くのを忘れていた事に気づいた。司に習うのかを聞いていなかったのだ。
「司、……」
呼びかけた先で司は熱心に画面の中のダンサーの動きを追っていた。
頬を染め、じっと。
「ああ、眠れる森の美女です。バレエでは有名な演目で、今踊っているのがデジレ王子を演じているレオニード・ソロキンです。ロシアの名門、ボリショイ・バレエ団のプリンシパルを勤めた素晴らしいダンサーです」
幻想的な華やかな舞台の上で、一人のバレエダンサーが舞っていた。大きく宙を舞う長い手足、感情の乗ったダンスにジャンプ。琥珀も隣で目を輝かせていたが、司の視線に籠る熱量はそれだけじゃなかった。やがて舞台の幕が引かれ、拍手と共に画面が暗くなる。
「司」
「母さん、どうしたの?」
ぱっと振り仰いだ司は、いつもの様子だった。さっきまでの熱は見間違えだったのかと、思えるほどに。
「司はバレエやりたい?」
「え」
「司がやりたいなら、お母さんは応援するよ」
「でも、その……、高いんでしょ」
夏に駆け寄って、小さな声でそう続けた司に、泣きたいような気持ちになった。
公立小学校は、さまざまな家庭環境の子供が一堂に会する。生活保護を受けている家庭の子供から、月に小遣いを何万円も貰えるような子供まで。その中で自分はさほど余裕のある家ではない、というのは幼い司にとって既に自明のことだった。母にそんな負担をかけても良いのかと、申し訳なさそうにこちらを覗き込む司に、不甲斐なさと申し訳なさで泣きそうになるのを気合いで堪える。子供の前でそんなみっともない真似はできない。
「これぐらいなら大丈夫よ。司、司もやりたいことは遠慮なく言って頂戴。お母さん、出来る限り応援するわ」
「……ありがと、お母さん」
そう小さく微笑んだ司の後ろで、白根親子の方が大袈裟に喜びを露わにしているのを見てしまえば、涙も引っ込むというものだ。
「俺、一生懸命練習するよ」
そう決意を固める顔が、夏の記憶の中にあるもう少し大きくなった司にダブって見えた。
きっと、司はこれから出会うのだろう。自分の一生を捧げてもまだ足りない情熱に。
確信だった。
星の煌めきを宿した熱い瞳に、夏は確信を覚えた。
そうして、この日。
夏は電話をした。
長い間逃げ続けてきた事に向き合うために。そして、子供たちの為に。
震える手でダイヤルを回した。
◇ ◇ ◇
明浦路司が初めて世間に知られたのは、バレエ発表会だった。
白根先生の更に先生だという大御所が市民ホールを貸し切って行った複数のバレエ教室合同で行われたバレエ発表会には、大先生の知り合いだという人も沢山来ていて、楽屋裏は祭りのような賑やかさだった。
まだ幼い琥珀と一緒に、キラキラした衣装を汚さないようにお絵描きをしていると、ふと影が落ちてきて、見上げれば画面の向こうで見たことのある顔だった。
「やぁ、おチビちゃんたち。何の役をやるの?」
残念ながら知らない言語だったが、司たちは大興奮だった。なぜなら、男の顔はビデオ越しに何度も見たことがある。ある時は華やかな宮殿で、ある時は街の一角で。
「プリンセス デジレ!」
「バジル!」
二人の口から飛び出した別々の呼称は、どれも男が演じた役だった。
「Ой!」
おチビちゃん二人からの呼ばれ方に、男は驚きつつも嬉しそうにニッコニコの笑顔でしゃがんだ。だが、あいにく男はこの国の言葉が分からないし、子供達も日本語しか喋れない。じゃーんと男が取り出した四角い機械に男が話しかければ、程なくして日本語で言葉が流れる。
発表会で何の役を演じるのかと聞かれた二人は顔を見合わせて、まずは琥珀が元気に手をあげた。
「琥珀は小人!」
発表会で行われる演目である眠れる森の美女の第4幕、結婚式の祝いに駆けつける白雪姫とおともの七人の小人の一人を演じる琥珀の幼さに男は目を見開いた。男も世話になったこの発表会の主催者は、技量がなければどんな役も任せない厳しさを持っている。
「俺は長靴を履いた猫です!」
こちらも結婚式に駆けつける白猫と長靴を履いた猫という、単独の見せ場がある役だった。
「だから君の頭には猫耳がついているんだね」
「そうなの、司兄ちゃん猫さんなんだよ!」
「あの、俺。あなたが演じたデジレ王子が大好きです!」
「琥珀もピョーンって飛ぶバジル好き!」
「おや、ありがとう」
幼い子供からの表裏のない褒め言葉に男の機嫌は鰻登り。キラッキラした目で見つめられればこちらも頬が蕩けるというもの。
「司にーちゃん、バジルも上手なんだよー! バジルも司にーちゃんのグランジュッテ見て!」
好奇心に目を瞬かせた男は、それならと二人を楽屋の別室に案内した。
「ここなら広いからね。さ、どうぞ」
いきなりの急展開に目を白黒させたものの、憧れのバレエダンサーに見てもらえるとあって、司は力強く頷いた。
一度目を閉じて、再度開けた時には、司は結婚式に大喜びするバジルだった。大きな手のふりは指先まで美しく。力強く床を踏んで、高く跳ね上がって二回転。空中で伸ばされた脚は綺麗にまっすぐ開脚し、司の体を大きく見せた。何度も高く回って跳ぶ喜びの舞。狭い控室で、いつ壁にぶつかるかとドキドキするほど、踊る司は大きく見えた。
「Ух ты!」
素晴らしい!と手を叩いて喜んだ男に、バリエーションを踊り終わった司は、ドキドキと頬を染めた。
「司兄ちゃん、上手でしょ!」
むふーんと得意げにしている琥珀に、司は慌てて男に向けて言った。
「琥珀もとても上手なんですよ。本当は琥珀が長靴を履いた猫を演じても良いぐらいなんです。でも、相手の方との身長が合わなくて……」
白猫と長靴を履いた猫の二人が見せ場のシーンで、あまり白猫を演じる女の子との身長差があるのは見栄え的によろしくなかった。
「おや、じゃあ君も踊ってくれるかい?」
「長靴を履いた猫? 良いよ!」
そう言って前に出た琥珀には微塵も気負いはなく、軽々と猫のバリエーションを可愛らしく踊って見せた。最後に大きく跳び、舞台袖に下がるように動いた琥珀に、二人は大きく拍手をした。
「二人とも素晴らしい!」
改めて大きく鳴らされた男の拍手を、琥珀は得意げに、司は頬を染めて受け止めた。
「素晴らしい踊りだったよ。僕はレオニード・ソロキン。ぜひレオと呼んでくれ。君たちの名前は?」
「琥珀は白根琥珀」
「俺は明浦路司です」
「ツカサにコハクだね。連絡先を交換しよう!」
その言葉に二人は揃って顔を見合わせると、申し訳なさそうに眉を下げた。金色の猫耳を付けた司がそうしていると、まるで子犬を見ているような気持ちになる。
「あの、俺たち携帯持ってないです」
「Боже мой!」
大きく嘆くレオニードを、二人はとりあえずと白根先生の元に連れて行った。打ち合わせ中に突撃された白根先生は、何度か声が裏返りそうになりながらも、二人の為にレオニードと連絡先を交換し、とんでもない大物を釣り上げた二人に遠い目をした。
司くんも琥珀も、身内贔屓でなく才能があると思ってたけど、まさかレオニード・ソロキンと親交を深めるとは。レオニード・ソロキンといえば、ロシアの名門、ボリショイ・バレエ団の元プリンシパル。バレエ界でも有名だが、最近ではフィギュアスケートのジュニア選手、夜鷹純の振り付けを行った事でも名が知られている。大先生の招待客の中でも間違いなく一二を争う大物だった。
◇ ◇ ◇
「やぁ、二人とも。防寒対策はしっかりしてきたかい?」
発表会を大成功に終わらせた三日後、二人はレオニードに招待を受け、白根先生付き添いの元、アイススケートリンクにいた。
ぜひ二人に見せたいものがあると、招待を受けてやってきたのは全日本ジュニア選手権の会場だった。
「レオさん! 今日はおまねき、ありがとうございます!」
親に言い含められたのだろう、畏まった言葉をつっかえながら話す司はやはり子犬のような可愛らしさがあった。
「レオこんにちはー!」
こちらはフランクすぎる琥珀の挨拶は、子猫のようで、こちらも可愛らしい。
恐縮する親に手を振って、レオニードは二人と目線を合わせるようにしゃがんだ。
「今日は僕の魔法を君たちに見せようと思ってね」
白根先生がいるから英語でゆっくり喋るレオニードの声が、機械で翻訳されてゆっくりと耳に入ってくる。
「魔法……?」
何それ?と疑問符いっぱいで見上げてくる二人の目を、真っ白なスケートリンクに向けさせる。関係者が座る一角に並んで座った四人の耳に、アナウンスが響いた。
「これより、全日本ジュニアフィギュアスケート選手権、男子シングル フリースケーティングを行います」
「フィギュアスケート……」
音と共に、色とりどりの衣装を纏った選手たちが白の円盤に飛び出してくる。
シャーっと、氷を削る音が大きく耳のそばで響いているかのようだった。観客席まで距離があるはずなのに、とても近くで聞こえるように感じる。
第一グループの公式練習から始まった試合は、二人にとって新鮮だった。陸上で踊る方法は知っていても、氷上で踊るのはまた違う。音楽に合わせた豊かな表現、陸上では成し得ない素早い移動。氷を削る音が心地良い。
美しい氷上の演舞に目を輝かせた司は、アナウンスが響いた途端に空気が重くなったように感じた。何かを恐れるように待ち望むように、呼ばれた名前に注目している。
右側のレオニードに目を向ければ、パチンとウインクを返された。
「さぁ、見てごらん。僕が魔法を授けたバレエダンサーだ」
魔法。
その言葉に取り憑かれたように、銀盤に踊り出る一人の選手を見る。体にピッタリした黒い服にはキラキラした物がいくつもついていて、チカチカと彼自身が光り輝いているようだった。こんなに明るいのに、重く、黒く感じる小柄な選手。
本番前の六分間練習。
一番小柄な彼が、一番目についた。
夜のようだと思った。
彼が滑るたびに、リンクに夜が訪れるような。夕暮れを知らせ、空に夜の緞帳を引き羽ばたく鳥のようだと思った。
飛び上がる時の手が指先まで美しくて、司は前のめりになりながら熱心に彼を見た。
「レオさん、彼は何ですか?」
誰ではなく、何と聞いた司に、レオニードはちょっと悩んでから、こう答えた。
「彼はジュン、ヨダカ。僕の友達さ。彼はね、希望であり死神なのさ」
パンドラの筐であり、そこに残る希望でもある。
難しい言葉はよく分からなかったけれど、小さく頷いて、何かを惜しむように司はじっと目を凝らして彼を追った。
「次がジュンの番だよ。曲は箱庭のバレエ、僕の振り付けだ」
さぁ、魔法をかけよう。
脚を組んで深く座席に腰掛けたレオニードは、指揮者のように手を振り上げた。氷上から飛んできた鋭い視線に笑顔を返して、脚を組み替える。横では小さな体をした才能の原石が、爛々と目を輝かせて熱心に銀盤を見つめていた。レオニードは満足げににっこり笑った。
ダイヤモンドはダイヤモンドでしか磨けない。
せっかくの原石だ。磨く物は多ければ多いほど良い。
小さな未来の同業者へのちょっとした贈り物が、レオニードの想像以上に喜んで貰えそうで、良い気分だった。
「あとは君の出来次第だね。ジュン」
故郷の雪夜が人の形をして現れたような年下のクライアントは、その才能を持って滅多にないレオニードの友人となった。彼が転ぶところなど想像できない。だが、どこまで表現を引き上げるかは、いつ見てもゾクゾクする。
音楽が鳴り始める。
司は元となる映画は知らなかった。
音楽も、この場で初めて聞いた。
それでも、彼がバレエのポーズで銀盤の中央に立った時、明確に空気が変わったのが肌で感じ取れた。
溢れるピアノの音に合わせ彼が舞う。腕は力強く、ジャンプは高く、そして着氷は美しい。
「三回転アクセル」
誰かがこぼした畏怖の籠った言葉の意味は分からなかった。
ただ、この夢のように美しい生き物の踊る姿を一心に眺めていた。手足が氷上で舞い踊り、回って跳ねて、飛ぶ。氷が削れる音すらも音楽の一部に思えた。囚われていたバレエダンサーがピアニストの音楽に導かれ、囚われていた籠から外に出る。
そこに喜びはなかった。
戸惑いと苦しみと、自由であるはずの息苦しさ。
もがき、苦しむその姿ですら美しい。
息をすることも出来ずに圧倒される。
そんな四分間だった。ポーズをとり、静止した彼を見て、やっと息を吸った。
パチパチとまばらに聞こえた拍手は、あっという間に膨らんで、万雷の拍手となって会場に響いた。司も釣られたように立ち上がり、手が痛くなるのも構わずに精一杯手を打合せた。
「ははっ!」
満足げな笑い声が隣から聞こえる。
長く息を止めていた所為で、荒い息を整えながら、司の眼はずっと、あの黒い選手に釘つけだった。冷たい、月色の目をした夜のような選手。大きなテレビ画面に、彼と、コーチが並んで座る。人一人分以上の距離を空けた二人の間には何もなく、頬を紅潮させているコーチとは裏腹に、彼はどこまでも冷めた表情をしていた。やがて点数が告げられ、喜びに飛び上がるコーチの横で、彼は一瞬だけ満足そうに目を細めた。大会新記録だという上擦ったアナウンスにも興味はないようで、さっさとカメラの枠外に出る。
そこでようやく司は息を吐いた。
「レオさん」
「ん?」
「今日は連れてきてくれて、ありがとうございます」
来た時とはまるで目の輝きが違う司に、ジュンに似た何かを感じてレオニードはにっこり笑った。
だから、彼はまるで想像していなかったのだ。
司がバレエからフィギュアに転向することになるなんて。
レオニードは才能の原石を磨きに来たのであって、ジュンにあげる為に来た訳ではないのだ。
親しい友人だと自負しているが、(夜鷹にとっては理不尽なことに)レオニードはこの点だけはジュンを許す気にはなれなかった。
◇ ◇ ◇
その日、司はドキドキと五月蠅いほどに鳴る心臓を抱えて玄関の前で立ち止まった。よくある団地ののっぺりとしたクリーム色のドア。司の身長だとまだ届かない覗き穴が冷たく睥睨しているように見えて、ぎゅっと胸元を抑える。
「お、司。玄関で何やってんの? 鍵忘れた?」
「兄さん」
遊びに出掛けていた肇はバレエ教室の用事で出掛けていたはずの司が思い詰めた顔で玄関の前に立っていたことに、驚き駆け寄ってきた。
「どうした、司。誰かに嫌な事でも言われたのか?」
首を振って、ますます顔を俯かせた司の手を引いて誰もいない家に入る。父母は下の弟二人を連れて出掛けていて、朝の慌ただしさを残した部屋は少しだけ空気が生ぬるく澱んでいた。
窓を開ければ秋の心地良い風が舞い込んできて、髪の毛を揺らす。冷蔵庫から麦茶を取り出して、司の前に置いてやれば迷子のような顔をした司がおずおずとこちらを見上げてくる。
「兄さん」
「どうした」
乾いた喉を潤していれば、司の前に置いたグラスが水滴を纏っていくのが見える。まだ口を付けていない司は、またぎゅっとシャツの胸元を握りしめた。パンパンに膨らんだバッグも下ろさず、随分と緊張している様子に、何があったんだと思いはするけれど、急かすような事はしない。八年も兄をやっていれば、弟のことも少しはわかってくる。
明るく元気で、優しくて強い。
何だか大人の思い描く理想の子供を絵に描いたような司は、普通の子供だ。
生意気で調子に乗って、落ち込んで。
そしてなぜか自分を責めがちで、一人だけバレエを習っている事に罪悪感を持っている。
肇にしてみればそんなに気にする事はないと思うが、司のこの繊細なところは母に似たのだと思う。もし肇が一人だけ違う習い事をしていても、肇はラッキーぐらいにしか思わない。もちろん、母には感謝するが。
この肇の大らかで細かいことを気にしないところは父に似ているそうだ。
「兄さん、あのね」
「おう」
手を付けられないままの司のグラスから水滴が露結して机に水溜りを広げる。
そんな事も見えないようで、司は俯いたまま絞り出すように声を出した。
「俺、フィギュアスケートがやりたい」
「良いんじゃね?」
「えっ」
バッと顔を上げた司は、本当に兄があっけらかんと明るくそう言ったのを確認して、震える唇を開閉した。
「な、なんで」
「何でも、司がやりたいなら別に良いんじゃないか?」
「だって、今だって俺だけバレエをやらせてもらってるのに!」
「おー、司バレエ上手だよな。前の発表会、全然分かんなかったけど司の踊りが上手だっていうのだけは分かったぜ」
「ちがっ、兄さんはずるいとか思わないの!?」
「別に?」
本当にそう、微塵もそんなことを思っていない兄の顔に、へなへなと力が抜けた司は握っていた手を放し、思わず崩れた正座のまま立ち上がった兄を見た。
「そもそも俺、バレエなんてやりたくねぇもん。誠にでも何か言われた? お兄ちゃんずるいーって。あいつ、興味もないくせにずるいって言うのだけは上手いから無視しろって」
ほら、いつまでバック握りしめてんの、と兄の手が乱暴に司から荷物を剥ぎ取っていく。バックを横に放り投げて、司の隣に腰を下ろした肇は、それで、と冷たくなった司の手を握りながら顔を覗き込んだ。
父の金髪を受け継いだ司とは異なる母の黒髪を持った兄は、大きな瞳だけは司とよく似ていた。
「何をそんなに悩んでるんだ。フィギュアスケートって、あれか? 氷の上で滑るやつ?」
テレビのリモコンを操作して付けた画面には、丁度今日行われた全日本ジュニア選手権が映し出されていた。司を夢中にさせて黒い彼が滑っているところが、もう一度見られる。
それだけで司の視線はテレビに釘付けになった。
「へー、すげー」
気のない感嘆を溢しながら、肇は熱に浮かされたような司の表情を覗き込んだ。
夢中、というの言葉を表すとしたら、今の司の表情がピッタリだな。
美しさとお金は比例する。肇がこの年まで生きて学んだ世知辛い事の一つだ。司の努力を、肇は誰よりも近くで見てきた。バレエを初めてから、司の生活は一変した。毎日のストレッチ、基礎トレーニング。貸してもらったという中古の音楽プレーヤーから流れる音に合わせて腕を、脚を伸ばして美しい姿勢を作る。美しいけれど地味な練習を、司は毎日毎日何時間も欠かすことなく行なっている。肇はとても無理だと思った。自分にはとてもじゃないけれど、無理だ。
あんな熱心に一つのことを極めるなんて。そしてその為に毎日毎日練習を積み重ねるなんて。
だが、その前提にはバレエ教室に通える経済力がある。
司の才能を見抜いた誰かが支援でもしてくれない限り、司のバレエ教室の月謝5,000円(母によると司の才能を見込んで安くしてくれているらしい)は母のパート代から支払われているのだ。
この努力が、熱量が、何より才能が報われない可能性をこそ、肇は恐れていた。
「司。お前考えすぎ」
「兄さん」
司が瞬きしたのを機に、肇は横に座って肩をくっつけた。司の高い体温がじんわりと染み込んできて温かい。
「俺はお前みたいに才能もなければ夢中になれるものもない。あ、いったん聞けよ? これは俺にとっての事実だから。でもお前が夢中になって努力してやりたい事をやれるのは良い事だと思う。お前はお金の心配しすぎ。あんなんでも親だぞ? 子供の夢の応援ぐらい、してくれる甲斐性はあるだろ」
「でも兄さん、フィギュアってバカみたいに高いんだよ」
「バレエよりも?」
ずずっと鼻を啜った司が肇に寄りかかってくる。
「バレエよりもずっと、ずっと」
早速近所のスケートリングで貰ってきた費用表が、司の鞄の中に入っている。バレエの月謝5,000円でさえ大金だったのに、それがお小遣いに見えてしまうような金額。それに、靴だけ買えば良かったバレエと違って、スケートの備品は多いのだという。スケート靴も、バレエシューズとは比較にならないほど高いのだと。
お家の人と良く相談しなさい、と優しく言ってくれた受付のおじいちゃんは、心配そうに眉を落としていた。
目の前のテレビでは、黒い彼が表彰台の一番高いところに登っていた。胸にキラキラと輝く金色の丸をぶら下げて。涙で滲んだ目にはことさら眩しくて、
「綺麗だなぁ」
誤魔化すように感想を述べた。あの黒い彼も、手に入れられたメダルも。
「じゃあ、司も取れよ。あの金色のメダル。そんで俺とか父さん母さんにかけてくれればあの人たちも喜んでお金出してくれるだろ」
「そうかなぁ」
「自信ないのか?」
「まだ、分かんないもん」
「司なら出来ると思うけどなぁ」
兄からの無償の親愛が心地良くて、司は小さく笑った。
「うん。俺とりたい。あんな風に滑って、あの金色のメダル、とりたい」
◇ ◇ ◇
バレエを初めてから、司は学校の成績も上がった。元々、通知表では平均4を貰っていた司だが、家に帰ってからの練習時間を取られないようにと、学校の勉強を全て学校で終わらせているらしい。
そのため、司は家で勉強をしていないにも関わらず、成績が良い。
肇も要領良く宿題を片付けるので、あまり家では教科書を開かないが成績は良い。通知表には4と5が並び、テストの点数も満点かそれに近い点数しかとってきた事がない。
上の子二人がそんな具合だったものだから、明浦路夏は、三男の誠が夏休み前に持って帰ってきた成績表に絶句したのだ。
子供って、勝手に自分で勉強してくれるものじゃなかったの?
夏休み前の三者面談でも、今まで褒められた事しかない夏には、先生からやんわり嗜められる経験は初めてて、びっくりしっぱなしの顔をしていたと思う。先生も上二人の事は知っていたので、子供の個性の違いに驚く母親の心情に寄り添って話をしてくれた。
おかしい。前回は、こんな事なかったのに。
そう思って、何が違ったのかと振り返った夏は、司がバレエを始めた事しか違いがない事に愕然とした。
前回は司が肇と一緒に誠の宿題も見てくれていたのだ。二歳しか違わない同じ小学生なのに。
親が誠が勉強嫌いで、宿題もまともにしていないような子だと気付かないほどに、面倒を見てくれていたのだ。過去の自分を埋めたくなるのはこんな時だ。親としての情けなさを感じながらも、不安げに見上げてくる誠に、夏はにっこりと微笑んで見せた。
「これからはお母さんと一緒にやりましょうか!」
だから、誠が司に当たり散らすのは、全てこの母が悪いのだ。
「つーくんだけズルい!」
ギャンと誠が喚いたのは、夕食の後だった。
週末の、どこか浮き足だった夕食の後。
ここ数日やけに司がそわそわしているなとは思っていたが、肇に肘で突かれてようやく司が口を開いた後の事だった。
長男の肇は呆れたような顔をし、四男の健はまだよく分かっておらず、ただ誠に釣られて泣きそうになっている。一番酷いのが司だ。ぐしゃぐしゃの、心が潰れるような顔をしてしまっていた。
「誠、司の何がズルいんだよ」
呆れた顔をしながらも誠の気を肇が引いている隙に、夏は司を抱きしめた。
「司、司。よく聞いて。あなたは別に何もズルい事をしていないわ」
「でも俺、俺だけバレエを習わせて貰ってるのに、フィギュアスケートがやりたいって」
「あら、素敵な事じゃない。やりたい事や、なりたい夢があるのは素晴らしい事だわ」
「でも、でもその所為で誠が買いたいものが買えないんでしょ」
夏ははっとした。
肇の方を見れば、それはそれは釣り上がった目で誠を見ている。
「誠、お前。自分がゲームを買って貰えないのを司の所為にしてんの?」
「だって、ツーくんだけ!」
「じゃあ、お前もバレエやれば良いだろ。毎日司みたいに朝の六時に起きて、母さんの手伝いして、外を走って、学校の宿題を全部学校で終わらせて、帰ってから毎日二時間練習するような生活をお前もやれよ」
「やーだー!」
「努力もできないのに、駄々だけこねてんじゃねーぞ」
「ゔゔゔぅ〜!」
肇は兄弟間の上下関係をしっかりと叩き込むタイプだった。司は誠たちに優しさしか見せないので舐められているが、肇は肉体言語を使う事も厭わない。
「司!」
ぐしゃぐしゃの顔のままの司の両頬を押さえてこちらに向かせる。大きな涅色の瞳は、光に透かせば金色に輝いて見える。
「誠の事で司が後ろめたく思う事は何一つないわ。良い? よく聞きなさい。これは大事な事よ」
いつにない母の真剣な顔に、司は涙の溜まった目で瞬いた。
睫毛に乗った涙が、パチンと弾けた。
「司の努力をお母さんは知っている。あなたの夢を、それに向けて努力することを応援するのにかかるお金を、私は惜しむつもりは無いし、司が後ろめたく思う事もないの。肇も、司も、誠も、健もそれぞれ性格が違うし、やりたいことも違う。それは分かるわよね」
「うん」
「司がやりたいことでも、肇は興味ないことはある。例えばバレエとかね。逆に肇が好きな数学は司はあまり興味がないでしょ」
「うん」
「司のやりたいことにお母さんがお金を出すのは悪いことじゃないの。同じように、肇にも欲しがっている本を買っているわ」
そうなの?とこちらを向く目に、肇は誠の頭を押さえながら頷いた。
「俺が本当に欲しい物なら母さんは買ってくれるよ」
「俺もゲームほしいの〜〜!!」
「お前は友達が羨ましいだけだろうが。お前が本当に欲しい欲しいと泣いて買ってもらった人形、何個無くしたか自分で分かってるのか?」
「司」
母の声に振り向けば、優しい笑顔があった。
「誠は自分の欲しい物を買って貰えないから司に八つ当たりをしているだけよ。司は何も悪くないし、むしろ怒って良いのよ」
「怒る」
「だって、誠は司の本気を自分の駄々のために使ったのよ。人の本気を、一生懸命を、馬鹿にするのは悪いことだわ」
「ぁ、……」
ゔゔとこちらも泣き出した司を抱きしめて、ゆっくりと背中を摩ってやる。ひくっひくっとしゃくり上げる華奢な背中と、泣いた所為でいつもより高い体温が愛おしかった。
「肇も、ごめんね」
「何が?」
完全に誠をやり込めて、兄の威厳をこめてその背中を尻の下に敷いた肇は、そんな気のない返事をした。ゔ〜と唸りながらも降参した誠は、母の厳しい目にびくりと震えた。
「誠、後でお話がありますが、その前に、司に謝りなさい」
「!」
反射的に嫌だと叫びそうになった口は肇によって塞がれた。
長兄には逆らえない誠は、渋々頷いて、やっと解放された体で立ち上がった。
「ほら、謝れ。お前が司の本気と一生懸命をバカにして、ゲームを買って貰えない不満を司にぶつけた事をだ」
「……ツーくん、ごめん、なさい」
まだ母の胸で泣いていた司は、それにちらっと目を向けた。母に怒っても良いと言われて、随分と自分で自分を縛っていたことから解放されたようだった。
「別に許さなくても良いのよ」
「え、」
母の思っても見なかった言葉に、三人は揃って母を見上げた。学校では、謝ったら良いよって許される事しか教わらない。
「誠は謝るべきだけれど、司がそれを許すかどうかは別の話だもの。司、どうする?」
「まだ、許さなくて良い?」
「良いわよ」
「俺も、ずるいって言われて悲しかった。俺だけって、誠に泣かれるのも怒鳴られるのも嫌だった。俺も誠に怒ってるからまだ許さない。明日から朝も起こさないし、忘れ物チェックもしないし、お昼の給食も一緒に食べない」
じわりと誠の瞳にまた涙が浮かぶ。だが、何かを言う前に、またもや肇に口を塞がれた。今度は睨みあげた誠だったが、長兄の冷たい目に晒されればそんな反骨心もたちまち萎む。
「司、あなたそんな事までしてたの?」
母としては初耳の事ばかりだ。
やはり肇と司に頼りすぎていた。穴があったら埋まりたい。そんな母の気持ちにも気付かず、司は小さく頷いた。
「ねぇ、司。後でお母さんに教えてくれる? なんでフィギュアスケートをやりたいのか。きっと素敵なものを見たんでしょ?」
「うん!」
頬を染めて、キラキラした瞳で見上げてきた司は、あのね、今日とっても綺麗なものを見たんだよと小さく母の耳元で囁いた。