Diggy-MO'のオタクによる『Imprisoned Ⅻ』『Crucifix Ⅹ』考察
みなさんごきげんよう。(言ってみたかった 笑)
Ave Mujicaの新曲『Imprisoned Ⅻ』と『Crucifix Ⅹ』がアニメ内でお披露目されてもうバチバチに性癖に刺さる感じだったので色々考察したい!と思ってたけど、前回『ELEMENTS』の5曲考察中にDiggy本人から解説されちゃうという事件(笑)がありまして、今回もアニメディアでやられちゃうのでは…?と警戒してたんだけど心配するほどじゃなかった!のでやったりますよ楽曲考察!
楽曲そのものの考察なのでアニメの内容には極力触れずに書くのでアニメのネタバレ気にしてる人も読めると思う…たぶん(笑)
とか言ってたらご本人の解説きちゃいましたね…(笑)
いや嬉しいけど!来月入ってからでも良かったんだよ?(笑)
とりあえず解説読まずに書きます!
1.『Imprisoned Ⅻ』
『初華にとっての汚い欲望にまみれた歌詞を、きれいな旋律で歌う』というコンセプトで作られた楽曲だそうで…そんな発注のしかたあるんだね…
“Imprisoned”は「投獄された」とか「閉じ込めた」「監禁した」という意味、“Ⅻ”は「12」としてこれだけじゃどういう意味かわからないよね。
同じく新曲の『Crucifix Ⅹ』も「10」という数字が入っているのでこれは対になってると考えてよさそう。
“Crucifix”は「十字架」「十字架に磔にされたキリスト像」という意味なので、「10」は「十字架」を表しているんじゃないかな?
とすると「12」はキリスト教に関連する数字かも…と考えると「12」は「十二使徒(キリストの弟子)」、さらに言えば「十二番目の弟子=イスカリオテのユダ」と考えるのが妥当かな、と。
イスカリオテのユダと聞くと私は太宰治の『駈込み訴え』を思い出すんだけど、今回読み直してみたらこれが『Imprisoned Ⅻ』の世界観とめちゃめちゃマッチするんだよねー。
キリストの弟子でありながら銀貨30枚と引き換えにキリストを売ったことで裏切り者の代名詞にもなってるユダだけど、じゃあなんでそんなことしちゃったんだろうね?というのをユダの独白で書いたのが太宰の『駈込み訴え』。
読んだ人は分かると思うんだけど…まぁ…なんか…ヤバいよね(笑)で、このヤバさと『Imprisoned Ⅻ』の歌詞のヤバさって共通してるよなー、と。
『駈込み訴え』のユダは冒頭からめちゃめちゃキリストをディスりまくるんだけど、でもそういう欠点があってもなおキリストが「美しい人」だと思ってる。で、そういうダメダメだけど美しいキリストを真に理解して支えられるのは自分だけだ!とユダは思ってるし、なんなら他のバカな弟子達やら持ち上げる連中からキリストを切り離してキリストが「美しい人」のまま暮らせるようにしたいと思ってる。(実際本人に言って却下されたけど)
で、キリストとしてはそのヤバさに気づいてて時にやんわりと時にダイレクトに注意するんだけど、それがかえって火に油を注ぐ感じになっちゃって益々こじらせて、このまま世間に染まって慢心する姿を見せられるならいっそキリストを殺してしまおう…というところまでいっちゃう訳だよね。
まぁユダがキリストのこと半端なく好きなのは伝わるんだ。伝わるけどこれは『愛』ではないよねぇ…。ユダの行動は「自分がこうしてあげたい」というだけで、そこにキリストの気持ちは全く反映されてないから。キリストの死期を悟り自分のできる精一杯の手向けとして香油を注いだマリアとは対照的だよね。
改めて『Imprisoned Ⅻ』の歌詞を読んでみると、相手の気持ちを推し量ることはなく一方的に神聖化し(「触れてしまった神聖なもの 今夜私の神話になって」)、受け入れられることはないとわかっていながら欲しいと懇願し(「you know i want…」)、憎み(「羽根のない君 堕ちればいい」)、最終的に自らの手で葬る決断をする(「冷たいこの手で 愛すべきもの 葬る私を受け入れて」)という流れは『駈込み訴え』のユダとやっぱ似てるんだよなぁ。
『駈込み訴え』のユダ的な解釈でいけば「愛すべきもの 葬る」のは俗世に塗れて「美しい人」が穢れてゆくのを見てられない、完全に穢れる前に「美しい人」のまま時を止めたいという欲望なんだろうね…なるほど「汚い欲望」だわ…。
ここまでの考察をふまえて曲タイトルの意味を考えると「Imprisoned」の受け止め方がちょっと変わってくる。ユダの裏切りによって拘束されたのはキリストだけど、キリストによって心を拘束されてたのはユダの方だよね、と…。
とすると『Imprisoned』のあとに『Ⅻ』が来るのもしっくりくるんだよね。
『(キリストに心を)囚われたユダ』と解釈するのがよさそう。
2.『Crucifix Ⅹ』
イントロに使われてるのはベートーヴェンのピアノソナタ『月光』の第一楽章。
Ave Mujicaのマークは月だし、復活の狼煙的な意味はありそう。
“Crucifix”は「十字架」とか「磔にされたキリスト像」という意味だから、“Ⅹ”が「十字架」だと意味がダブっちゃうよね。
『Imprisoned Ⅻ』と同じくユダの歌だとすると“Ⅹ”は「十字架」の「10」というよりは「キス」のスラングの“X”(エックス)、「死の接吻」を表してるのかも。
ユダがキリストの居場所を密告した時、誰がキリストなのかを知らせる為にユダがキリストにキスをして知らせたってことでキリストを受難へ導いたユダのキスを「死の接吻」と呼ぶんだって。
これを踏まえて『Crucifix Ⅹ』の歌詞を見てみると…
「戦慄のカテドラル」の「カテドラル」は大聖堂、「汚れてく異教徒たちの涙」の「異教徒」はキリストの弟子たちのことかなぁ。
「still alive? ロゴスの誘いは still alive? まだ見えない」の「ロゴス」は「ことば」という意味だけど聖書に『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』『ことばは人となって私たちの間に住まわれた。』と書かれてるから「ロゴス」は神の言葉や神そのもので、「ロゴス」が人となって現れたのがキリストだから「ロゴス」はキリストそのものも表してるんだよね。
「月の下 顔のないマリア」の「マリア」はもちろん聖母マリアだよね。「月」は女性の象徴だったり、キリスト教的には太陽がキリストで月はマリアの象徴として使われたりするみたいだねー。
これだけ見てもキリスト教に関連する世界なのは間違いなさそう。で、タイトルからもわかる通りキリストの受難についての歌であることは間違いない。じゃあ誰の視点なのか、というとやっぱりこれもユダなんじゃない?と思う。
キリストはユダの愛の本質を見抜いていて事あるごとに注意してたんだけど、それはユダには伝わらずただ「辱め」を受けたと感じてたんじゃないかな?ところが受難のあとで自分がどれだけキリストから引き返すチャンスを与えられていたのか気づいたんじゃないかな?「後ろ髪のないフォルトゥーナ」のフォルトゥーナはローマ神話の運命の女神。後ろ髪がないから後から気づいても掴むことはできない…てアレだよね、「チャンスの神様は後ろ髪が無いからすぐに掴まなきゃ!」ていうやつ。ユダはチャンスを掴み損ねちゃったんだね…。
「ロゴスの誘い」がキリストの『復活』のことだとすると受難からそう時間は経ってない時だよね?ユダは他の弟子たちと違って現実主義だったので『復活』についても信じていなかったと思うし、完全に自分がキリストを殺してしまったと思うよなぁ…。
「still alive」「still alive?」はキリストを殺してしまったのにまだ生きながらえているユダ自身への言葉、「I never die」はキリストからのメッセージかなぁ…。
ユダはこのあと自殺したとか転落死したとか諸説あるけどどちらにしても死してなお『裏切り者』という十字架を背負い彷徨い続けることになるんだよね…。どんなに辛いことでも私たちは向き合わなければならない(we got to face)てことよな…。
ん?
いやいやでも待って!
注意しても聞き入れないどころか益々深みにハマってくユダをキリストはなんで破門にしなかったの?それどころか最後の晩餐でユダが自分を裏切るだろうって予言までしちゃってさぁ…しかもユダに「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」とまで言ってる。まるで煽ってるみたいじゃん…。
で、思い出されるのが「ロゴス」のこと。
「ロゴス」は神の言葉で「ロゴス」が人となりこの世に現れたのがキリストなんだよね?この世に神の言葉を伝えるのがキリストの役割だとしたら、「受難」と「復活」ほど神の存在を感じられる出来事ってないよね。この流れを作る為にはユダの存在はキリストと神にとって願ったり叶ったりなのよ…。実際、神学者のカール・バルトはユダのことを「神が使わしたもの」と言ってますし…。
もしユダが「受難」の最中にこのことに気づいてしまったとしたら…神の存在なんてどうでもいいと思っていたユダが図らずも神の存在を証明することの片棒を担がされてたという現実を受け入れがたいと思うんだよね。
「so, we got to face this」
『だから私たちはそれを直視しなければならない』とか『だから私たちはそれに立ち向かわなければならない』とかになるのかな?
受け入れがたい事実だけれどそれを受け入れ、立ち向かうユダ。「‘来るべき世界’」はキリスト教の『新世界』のことだよね。「処刑台の終わりなき犠牲者」はキリストのことでもあり、後世に「裏切り者」のレッテルを貼られ続けるユダのことでもあるかも。
こんな風に見ていくとユダは結局キリストを裏切るという『運命』に抗うことは出来なかったけれど、それでもそれを振り切って己自身を生きるという決意表明の歌に思えてくるな…まるで意味が違ってくる…。だけどこっちの解釈のがDiggyの基本姿勢に近いのだよなぁ。
『GOD SONG』の考察で書いたんだけど、
またまたClub Dの話になるけど、Cruの「Diggyさんは運命を変えていく方ですか、それとも受け入れていく方ですか?」て質問に「俄然、受け入れていきます」て回答しててさ、Diggyが表現者であること、創作した曲達、そういったものが全てコンプリートしている森羅万象、宇宙の因果関係の中の一部であるという自覚があっての発言なのかな?と。
決して悲観的ではないけれどある種「囚われの身」みたいなね。もうそこからは逃げ出すことはできないのだから腹を括ってやるしかないよね、みたいな。むしろ腹を括って運命を受け入れたからこそ自由に創作できるみたいな側面もあるのかもしんない。
なんか「運命を受け入れる」っていうと達観してるっていうか悟っちゃってる感じするけど、てか実際だいぶ悟ってる感じするけどさぁ…(笑)でもそれだけじゃないよね、という。
またまたまたまたClub Dの帽子の中身の話になるけども(笑)さっきの質問への回答について改めて言及された時に「受け入れるし、まあ戦う時もみたいな(笑)」て言ってて。
自分に課せられた運命を受け入れながらも、それでも抗いたいと思うことがDiggyにもあるんだなぁ、と。決して抗いきれるもんじゃなくても自分の中の信念に従って戦わなくちゃならない、そういう行動こそが「人間らしさ」だったりするんじゃないかな。
当たり前だけどDiggyは神ではなく人間だし、自分の中にある「人間らしさ」を結構好ましく思っているんじゃないかな?
まさにこういう感じが『Crucifix Ⅹ』のユダの人物像なんではないかな?と。ていうかユダを通してDiggy自身のことを歌っているのかもしれない。
いや初華ちゃんどこ行った?てなるけど(笑)
3.まとめ
一聴して凄い世界観なのはわかるけど、色々深掘りすると奥深い…てかもう底なし!まだ掘れる余地は全然ある!本当は単語ひとつひとつ拾いたいくらいに全てに「意味」がある!
しかし掘れば掘るほどAve Mujicaの楽曲へのDiggyの力の入れようが分かっちゃって、MO'オタとしてはちょっと複雑でもあるな…こりゃソロやってる暇ないよな…と(笑)
さてさてもっと深掘りしたいところですが今回はこの辺で!
早く本人解説読みたい!
答え合わせめっちゃ怖いけど…(笑)


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