みい山に際して、批判側の論点を整理すると、
①障がい者の実態や支援の現場の描写がリアルと異なる
②みいちゃんのような「障がい者」属性のキャラを悪く書いているため、差別を助長する
③みいちゃんミームが女性や障がい者への攻撃に使われる
以上の3点に集約されると思う。順番に反論する。
- ①については、特に小山氏らが須崎先生の障害告知などのシーンを巡って展開している批判である。確かに、須崎先生の告知の仕方は、リアルな支援に携わる人間から見れば、配慮に欠いた乱暴なものだったと言えるかもしれないが、それについては、作者自身もおそらくわかっていて描写しているだろう。
- 実際、告知の仕方の乱暴さによって、保護者とのラポール形成に失敗するという展開になっている。もし須崎先生の支援の方法が正しいものとして描かれていれば、支援実務と異なる誤情報を広めているという批判も成立しうるが、失敗の描写をしている以上、小山氏の批判は完全に失当である。
- 恐らく作者もこのくだりは自覚的に書いていると思われる。 参考: 「本作の作者である亜月ねね氏と『ケーキの切れない非行少年たち』の著者である宮口幸治氏との対談では、彼女の実衣子に対する対応で問題点が挙げられていた」
- ②について、障がい者や、貧困からセックスワーカーになった女性を、みいちゃんのような身勝手で救いがたい存在として描写することによって、差別を助長するのではないか、という批判である。しかしこれもやはり物語に対する批判としては失当であろう。物語やフィクションというものは、そもそもがカリカチュアとして描かれるものであって、現実のすべての側面の縮図として正確に描写されなければならないというものではないし、著者の体験を凝縮した私小説のような物語であったとしても、作者の経験というレンズで切り取って描写されるのが普通だ。当然、身勝手な女性や、気持ちの悪いLGBT当事者や、乱暴で邪悪な黒人といった、弱者的・マイノリティ的な属性をもつ人々が、不正義や悪、または審美的に醜悪な人々として描かれることがあるのも自然なことだ。それ自体はなんら批判に値しない。もちろん、対象が障がい者や弱者女性であっても同様だ。もちろん、だからそうした人々を差別し、弾圧してもよいのだというメッセージを明瞭に備えているのであれば、その点は批判の対象になるだろうが、みい山は少なくともそこまでの描写があるとは読み取れない。最後に③のミーム性についてだが、そもそも論としてそれはミームをぶつける人や、ぶつけられる人の問題なのであって、ミームのもとになる作品の悪さ・不正義の問題ではない。淫夢が同性愛差別の文脈に動員されたとしても、大元のゲイビデオがなにか非倫理的・不正義的であったわけではないのと同じだ。チー牛などの事例もあるように、フェミニストやリベラルもかなり露悪的なミームをしばしば使っているが、それ自体が直ちに悪とみなしうるかは使用される文脈によるし、おおもとの自画像の作者や、ミーム化のきっかけになった投稿の執筆者に倫理的な責任を求めるのは間違いだろう。