第7話

「ねぇ、グレーテ。実は、私、気づいたことがあるのよ」


 ティアはソファに座り直し、隣の仲間を見つめた。二人の手はいまだ触れ合っている。甘えるようにティアが握った手を、グレーテはそのまま握り返してくれ、まだ離さない。

 指に力を籠めて、ティアは「ごめんなさい」と発した。


「実はね――私、人生で一度も恋がしたことがなかったの」


 彼女には、いまだ伝えていなかった。

 革命任務直後には、とてもじゃないが伝える時間はなかった。


「正確には、私が『恋』と思っていた行為は『恋』じゃなかった。こんな人間が、アナタの恋愛の師匠を名乗っていたのよ。本当に滑稽よね」


 グレーテは一瞬きょとんとしたように目を見開いたが、やがて小さく頷いた。


「……はい。実は、薄々察しておりました」

「そりゃそうよね。私、変なアドバイスばかりしていたかも」

「それでも、わたくしはティアさんに支えられてきたのですよ。ティアさんの力強いアプローチがあったからこそ、ボスと緊密な時間を過ごせたのです……」

「ありがとう。だからこそ言わねばならないのよ」


 僅かな躊躇いはあったが、それ以上の義務感が背中を押した。

 自身を慕ってくれた彼女には、決して偽るべきではない。



「私ね、クラウス先生が好き」



 今しがた自覚したばかりの感情。

 グレーテの手をじっと握りしめたまま伝える。掌に汗ばむ。


 さすがの彼女も呆気にとられたようで「…………ぇ」と固まってしまった。

 その見開かれた目に胸は痛むが、慎重に言葉を探し続ける。


「安心して。きっとね、アナタが抱えている感情とは違うのよ」


 それだけはハッキリと言えた。

 グレーテのような燃え盛る熱はない。比べることさえおこがましい。


「ただね、恋愛対象を探そうとする時、無意識に彼を基準にしているの」

「……? 基準?」

「最近ね、とにかく両極端すぎて仲間に怒られているの。『恋愛対象が全くいない』、あるいは『全員が恋愛対象』――その理由がようやくわかった」


 ジビア、モニカ、サラの呆れを思い出し、ティアは口元を緩めた。


「クラウス先生か、否か――私は無意識にあの人を尺度にしているのよ」


 つまりは、あまりに極端な定規で人を測っているのだ。

 メモリのない五メートル超の定規で、人の身長を測れるはずがない。


「私の心が挫かけた時、ずっとあの人が支えてくれていたから」


 出会いは、養成学校の落ちこぼれだった自身を『灯』に導いた時から。

 仲間をまとめきれない自身に、ヒントを授けてくれた。アネットの母親に翻弄された直後も親身に労わってくれた。ティアの眠る可能性をずっと信じ続けてくれた。


「それは…………」


 グレーテは混乱したように言葉が詰まっていたが、やがて控えめに噴き出した。


「実に……大変な尺度ですね……」

「えぇ、まったく。どこかに先生以上に、私を甘やかしてくれる男はいないかしら?」

「それがティアさんにとっての恋なのですね……」

「そうよ。その時は、私も先生以上に甘やかしてあげるのよ」

「……ティアさんから、そんな切実な想いを聞けるなんて新鮮です……」

「えぇ。だからグレーテ、とにかく私は、もうアナタの師匠ではいられない」


 今では、もはやティアが師匠を欲しているくらいだ。

 そんな自嘲をして、かつての弟子に声をかける。



「――これからはアナタと並び立って、前に歩める関係になれないかしら?」



 よぎるのは、モニカの弟子から離れようとしているというサラ。彼女は師匠たちの尊敬を抱きながら、自身の道を歩み始めている。スパイとは反する、引退の道へ。


 ならば、自身の師弟関係も終わりを告げねばならない。

 強く手を握り続けてくれるグレーテに、ティアは新たな関係を祈り続けた。



 ◇◇◇



 たった一年間の『灯』の栄華――ティアにとっては苦難の連続だった。

 慌ただしく任命された『灯』のボスとして、奔走する日々。やりがい以上に与えられる重圧は、彼女にとっての「恋」の形を否が応でも自覚させる。


 しかし、それは『夢語』の最大の弱点――脆弱な精神を補強する結果になる。

 部屋から飛び出し、ともに並び立つことを選んでくれた『元』弟子によって。



 ◇◇◇



 翌晩、ティアは再びライラット共和国を訪れていた。

 突然の来訪だというのに『創世軍』はそれを悟っていたように空港で待ち構えていた。そのまま車に乗せられ、導かれたのは首都ピルカの象徴的尖塔。まるで街を見下ろすように建てられた建築物は、『創世軍』の頂点の住まい。

 かつてティアも何度も訪れた場所は、今、タナトスが暮らしているという。


「……ぼくの元部下が、迷惑をかけたようだね…………」


 足を踏み入れた瞬間、タナトスから声をかけられた。


「カローン君なら、既に『創世軍』から除名している……ただの無所属のテロリスト……ディン共和国の法律に則って、処してくれて構わないよ」

「それで言い逃れする気?」

「……まさか。だから、こう謝っているんじゃないか……」


 淡々と語り、タナトスは醒めた瞳で見つめてくる。


「で? ……まさか、その程度の交渉材料で会いに来たのかな……?」


 少しでも譲歩を引き出せれば、という期待はあったが、空振りに終わりそうだ。

 彼が纏う殺気だけで呼吸が止まりそうになる。


 彼がその気になれば、ティアなど瞬殺。『カローン』に頼る必要もない。ゆえに今回はモニカやジビアの護衛も連れてこなかった。交渉に失敗した際の犠牲を増やすだけ。

 背に伝う汗を気取られないよう、ティアは余裕を取り繕う。


「謝罪というなら聞きたいわ。なぜ『カローン』さんは『創世軍』から除名されたの?」

「……? さすがに話す義理は――」

「――


 まさか本当に『既に除名しているから無関係』という建前だけで、除名しているはずもない。だとしたら、カローンは名乗る意味もないのだから。


 彼の刃に込められていたのは、憎悪。

 論理を超えた、覚悟。ゆえに『遺言』に触れた時、彼は微かに動揺を示した。


「『ニケ』さんは、ディン共和国との友好を望んでいる――そうでしょう?」

「……随分と楽観的な推測だね」

「そして最高の推測よ。私はただ一言、『遺言に従いなさい』と言えばいいのだから」

「……なら、今の現状をどう説明する……?」


 タナトスは話に取り合わず、気だるげな視線をぶつけてくる。


「首脳会談を妨げ続け、キミたちを支配しようとしているのに?」

「そんなの簡単よ。私は、アナタのことを見誤っていただけ」


 場を満たす気迫に動じず、ティアは交渉の前提を確認する。



「アナタは今――自身が『ニケ』になろうと藻掻き続けているのよ」



 最初は誤解していた――彼は遺言に従っているだけだ、と。

 あまりに大胆な裏工作はニケの手腕。死してなお影響力を与える彼女を畏怖したうえでの判断だが、昨晩、まったく別の可能性に行き着いた。

 失恋した相手を完璧に模倣してみせた相手を見た時、自然と連想してしまった。


「後継者は本当に大変よね」


 ついティアは、口元に笑みを浮かべていた。



 彼女の性格は、僅かなりに把握しているつもりだ。マニュアルなど無視した、型破りな存在。自らが前例と言わんばかりに突き進んだ、女傑。


 そんな偉人の代わりになれ、と言われた戸惑いを、ティアには痛いほどわかった。

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