―栄華2―

第1話

『夢語』のティアはこの日初めて、諜報機関の最奥を訪れる。

 ディン共和国の諜報機関――『対外情報室』。


 表向きは、他の官公庁の部署とそう変わらない。内閣府庁舎の五階まで上がると、その正面に『対外情報室』という札が掲げられた部屋がある。警備に挨拶し、中に入れてもらう。本部では、スーツ姿の男女がせわしなく無線機の前で働いている。


 しかし、それはあくまでダミー。

 本当の部署は、その部屋から特別のエレベーターで下った先にあるという。警備員から鍵を受け取り、毎日変わるという暗証番号を入力すると、起動するエレベーター。


 エレベーターが到着した時、『室長室』と記された部屋が待ち受けていた。

 中から物音なども聞こえない。

 扉が開かれた時、コーヒーのかぐわしい匂いが漂ってきた。



「新たなる『灯』よ。もうボスとしての生活は慣れたかな?」



 赤い絨毯が敷き詰められていた空間に、その男は立っていた。

 彼こそが『対外情報室』の室長とは、見た瞬間、察せられた。


「……アナタが、この国のスパイマスターですか」


 ティアは息を呑んでいる。


 諜報機関の長――いわゆるスパイマスターが『C』と呼ばれている男の情報は、一切秘匿されている。クラウスは何も明かしてくれなかった。

 しかし、その立派な鷲鼻と、白髪交じりの頭髪には、見覚えがあった。


「――まさか元総理とは思いませんでした」

「設立当時、陸軍と海軍、そして、政府をまとめられるのが自分しかいなくてね」


 その男は、世界大戦当時の英雄の一人とされている。

 ガルガド帝国の侵略を受けたディン共和国は、旧・ライラット王国に臨時政府を設立するのだが、ハーマン首相は取り残された国民を支援し続け、希望の象徴となった。

 終戦直前、彼の暗殺が報じられたはずだった。


「本当は、こんな席はすぐにでも明け渡したいのが――」


 彼は肩を竦め、ティアをベルベット生地のソファに座るよう促した。


「――有能な人材ほど短命だ。悲しい話だ」

「……えぇ。それに今も、我が国にはアナタの力が不可欠かと」

「そう過大評価してくれる者がいるから、なんとかやれている」


 彼は僅かに口の端を持ち上げ、手を振った。


「引けないようだ。少なくとも――《暁闇計画ノスタルジア・プロジェクト》と連帯できるまでは」


 その宣言をティアは「もちろんです」と受け止めた。

 複雑な気持ちではあったが、分かりきっていた。


 ディン共和国にとって《暁闇計画》は国防の必然。自分たちは、その計画に協力し、恩恵を受けられるよう尽力しなければならない。

 ティアはソファに腰を下ろして「すべては祖国を守るためです」と力強く頷いた。


「国の平和のため、我々『灯』も全力を尽くす所存で――」

「――無理はしなくていい。キミの信念は、分かっているつもりだ」

「え?」

「報告書だけでも伝わる、人となりはある」


 思わぬ言葉をかけられ、ティアは気の抜けた声を漏らしてしまった。

『C』は穏やかに微笑みながら、自ら淹れたコーヒーを差し出してきた。「あの『燎火』も堪能していた味だ」と付け加えながら。

 コーヒーは泥水と等しいレベルでまずかったが、彼の気遣いは伝わってきた。


「私とて《暁闇計画》には思うことがある。それでも今の国際情勢に鑑みれば、賛同という立場をとらざるを得ないのだがね。人類史上最悪の虐殺行為に」

「……実を言えば、胸は、痛みます」

「その一方で、そんな未来が訪れるとも私は信じていないのだがね」


 彼はティアの正面に腰を下ろし、幸せそうにコーヒーに口をつけた。



「戦争は回避される――そのために『燎火』は、我が国から離れたのだろう?」



 決して悪感情が混ざっていない声音に、ティアは呆気に取られた。

 どうやら彼は、クラウスの裏切りにも一定の理解を示しているようだ。

 それは彼の度量か。諜報機関の長にも信頼を置かれていたクラウスの実績か。

 ティアはすぐに気を引き締め、首を横に振った。


「私の口からはなんとも。ただ過信はできません」


 簡単には同意できない。思想を試されている可能性がある。

『C』は鷹揚に頷き「そうとも、ただの願望だ」と述べた。


「なんにせよ、今の自分たちは、最善を尽くさねばならない」

「えぇ、やるべきことは何も変わりませんわ」

「そして今、『灯』に担ってもらいたい任務がある」


 それが本題と言わんばかりに、『C』は一冊の黒塗りのファイルを差し出した。



「ライラットとの国交正常化交渉――首脳会談を実現させる」



 ティアはそのファイルを速読し、すぐに頭に入れ終えた。そして豆農家への冒涜に等しいコーヒーを飲み干し、ティアは一礼し、室長室から立ち去った。

 内閣府庁舎から出ると、ジビアが待ち構えていた。


「どうだった? スパイマスターとやらは」


『ボス補佐』と任命された彼女は、ここまで付き添ってくれた。険しい顔つきで出てきたティアにいかにも興味津々といった視線を送ってくる。


「立場的には、クラウス先生よりも上だもんな。どんな化け物なんだよ」

「多くは語れないわよ。どう考えても、国家機密だもの」


 本当は隈なく語りたいが、さすがに秘匿すべき情報だろう。

 ゆえにティアは「そうね、強いて言えば――」と慎重に言葉を選ぶ。


「――恋愛対象内ね」

「その情報に価値はねぇよ⁉」


 絶叫にも似た鋭いツッコミを入れるジビア。

 しかし、ティアは真剣だった。


 現在『灯』は、数多の困難に立ち向かっている。迫りくる大恐慌と、ライラット革命任務の後処理。クラウスが去り、混沌とする国内の諜報網。

 その裏で――ティア個人に、人生を揺るがす非常事態が起きていた。



 ◇◇◇



 これは『救国者ちゃん』騒動――その直前の出来事。


 やがて大成功を収める首脳会談には、それを実現させるべく多くの官僚、政治家、スパイが奔走していた。荒れる国際情勢を生き抜くため、国家総力で取り組んだ。


 そして、その計画の指揮を任せられたのは『夢語』のティア。

 革命で旧政府を打倒した『灯』のボスは、そのまま新政府との橋渡しを担った。


 これは『とある非常事態』で二重に翻弄された彼女と、影の立役者の記録――。

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