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夢の世界/柿ノ木の小説

夢の世界

7,269文字14分

52話以降の夜鷹純と14歳の明浦路司が夢の世界で出会う話。

※よだつか味は薄いですが一応CPを付けてます

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陳腐な表現だけれど、それは正に雷が落ちたような衝撃だった。
この世のどんな花も宝石も景色も、その筆舌し難い美しさの前では全て腐れ落ちてしまうのではないかとさえ思った。それ位、彼の演技は司の脳裏を灼き尽くし、その瞳を惹きつけ、心を奪ったのだ。
その日から司の孤独な世界は始まった。親にも兄弟にも、友人にさえ話せない秘密を抱えたまま彼は先の見えない暗闇の未来へと飛び込んだ。無論毎日スケートリンクに通うお金さえないので、出来る事といえば彼の演技を見て只管繰り返し体に覚え込ませるくらいだ。お金と時間が出来ればその都度リンクにも足を運んで、それでもその機会もそう多くは取れないので毎日毎日人気のない公園で見よう見まねで彼の演技を模倣した。これが正しいスケートへの道なのかなんて分からなかったけれど、それでも何もせずにいられる程司の中の衝動は大人しくなかったので。

そうしている内に偶然あの“夜鷹純”に見つけられ、彼の指導のお陰でスケートを自由に出来る様になり、彼と同じ舞台で彼と同じように滑れるようになった。

なんて、そんな都合の良い夢を何度も見た。朝起きた瞬間の絶望は計り知れなくて、こんな夢ならいっその事見なければよかったと何度も歯を噛み締めた。そんな夢を見てしまう自分が情けなくて恥ずかしくて、どうしようもない程辛かった。だから、その日も目の前に夜鷹純が現れた瞬間に直ぐに悟ったのだ、あぁコレは夢だと。


「コーチ!」
「……コーチ?」

夢の中は司にとって都合の良い世界だ。リンクを使うのにお金なんて気にしなくて良いし、ここなら自分専用のスケート靴だってあるし、夜鷹をそう呼んだって許される。でもその日は司のその声に目の前の夜鷹は何故か不思議そうに首を傾げた。あれ?と思うものの、まぁそんな日もあるかと考え直す。あくまでも夢なので思い通りにいかない事だってあるだろうし。それでもこの世界でなら司は現実より何倍も我儘になれるので夜鷹の困惑した顔も気にせずニコリと笑いかけた。

「そうですよ、俺のコーチです」
「……夢かな、これ」

変なの、夢の中の夜鷹純がそんな事言うなんて。まぁそれでも時間が勿体無いので司はその発言を拾う事なくさっさとスケート靴を履いてリンクへと降り立った。何故だろう、何時もの夢より氷の冷たさや硬さがしっかりと伝わってくる気がする。それが何だか嬉しくてつい普段よりもスピードを出してリンクを滑り出した。うん、気持ち良い。

「コーチも早く!」
「いい、というかそもそも靴がない」
「えぇ?あるじゃないですか、其処に!」

夢の中なのだから何だって出来るのだ、夜鷹の隣を指差せば何時の間にか其処には彼の愛用の黒いスケート靴が鎮座している。それに何故か夜鷹は目を見張って、そうして暫し躊躇した後に漸くそれを履いてリンクへと上がった。今日のコーチは夢の中だと言うのに変だなと首を傾げつつ、司は思いのままに飛び上がる。一回転アクセル、のつもりだったが半回転程でドサッと氷の上に落ちた。うん、まぁ予想通りである。仕方ないので直ぐに立ち上がりもう一度助走を取って跳ぶ、失敗。

「うーん……」

如何に司にとって都合の良い夢とはいえ、現実で叶っていないことはそうそう夢でも再現出来ないらしい。まぁ練習になるから良いけれども。何度も何度も繰り返し跳ぶ司に何時しか夜鷹の視線が突き刺さっていた、何時もなら司の事など見向きもせずに一人で司がかつて見たプログラムを延々と踊っているだけなのに。そう、此処では司が勝手に夜鷹をコーチと呼んでいるだけで特段彼に指導してもらったことはない。と言うかそもそも、あくまでもこれは夢なので彼から新たなアドバイスを貰うなんてことは不可能なのだ。それでも司は夢の中の夜鷹をコーチと呼んでいる、それ位許してほしいと願いながら。

「それじゃ何時まで経っても跳べないよ」
「えっ」
「見てて」

いきなり発せられたその言葉に呆気に取られる司を他所に、夜鷹は短い助走でタンッと軽く氷を付くと高く跳び上がった。3回転アクセル、画面越しにしか見たことのない彼のジャンプを、司は初めてその目にしている。最早これが夢だろうと何だろうと構わなかった、彼の動き全てを記憶するようにそのジャンプを着氷後に至るまで目に焼き付ける。

「見た?」
「……はい」
「やって」

出来るわけない、3回転なんて。そう喉から出かけて、でもそういえば此処は夢の中だったと思い直す。なら良いか、どれだけ周囲から無謀だと無茶だと言われるような挑戦をしたって此処にいるのは司と、その司の願望を押し付けられた夜鷹純だけなのだから。彼のように短い助走は流石に無理なので、それなりに距離を取って勢いをつけて司は跳んだ。体の軸、腕を開くタイミング、着氷の姿勢、彼の全てを再現するように合わせて、そうしてダンッと彼よりも重い音を響かせて降りた。飛べた、いや多分2回転くらいしか回れなかったけど。でも初めて着氷に成功した。分かっている、これは夢だ。幾らこの世界で上達しようとも元の世界で再現出来なければ所詮それこそ夢物語である。それでも嬉しかった、初めて自分がスケートをしているという実感が湧いた。

「出来た…出来た、やった!跳べた!跳べましたよコーチ!」
「2回転だけどね」
「ヤッタァー!!」

その日の夢は今までで最高だった。だって何度も何度も夜鷹純がお手本のようにジャンプを跳んでくれるのだ。サルコウ、フリップ、ルッツ、スピンさえも。その全てを記憶せんと司は彼のジャンプを見つめて何度も跳んだ。楽しい、あぁこんな夢なんてきっともうこれから一生かかったって見れやしない!あともう少し、あともう一度で良いから彼のスケートを見せてくれ、この夢を醒めさせないでくれ。司はずっとそう願っていた。


コメント

  • ネロ
    3月8日
  • 夜猫
    2月7日
  • みりん
    1月26日
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