講談社編集部の『障害福祉への軽さ』が炎上している件|みいやま
『みいちゃんと山田さん』のアニメ化論争は現在、批判の的が作品そのものから講談社の編集部へと移っている。
きっかけは、半年前から公開されていた一本の公式動画。
そこで編集部員たちが語っていた言葉が掘り起こされ、ネットに一気に火が付いた。
「みいちゃんが堕ちていく様を見たい」
公式が「原作のテーマやメッセージを尊重する」と異例の声明を出した、その直後の再燃である。
今回はこの炎上に感じるモヤモヤを言語化してまとめていきたいと思う。
掘り起こされた半年前の公式動画
まず、問題の動画から整理したい。
今年の1月、ヤングマガジン編集部の公式チャンネルで「編集部員が選ぶ注目漫画」という企画動画が公開された。
編集部員たちが顔を出し、部署の垣根を越えてイチオシの漫画を語っていく、どこの出版社にもありそうな企画である。
その中で『みいちゃんと山田さん』が取り上げられ、推しポイントとして並んだのが次の言葉だった。
- 「人の不幸話はめっちゃくちゃ楽しい」
- 「誰かが可哀想な目に合うところを見たい」
- 「みいちゃんが堕ちていく様を見たい」
- 「ポップに罪悪感なく人の不幸が読めちゃう」
- 「みいちゃんは底まで堕ちていく才能がある」
- 「この世界の底を見てみたいんです」
顔と名前を出した編集部員たちが、会社の看板を背負った公式動画でそう語っていたのだ。
公開当時は、ほとんど話題にもならなかったという。
それがアニメ化発表の数日後に発掘され、あっという間にネットを駆け巡った。
ただ、これはあくまでオススメ漫画を熱く語るノリの企画だ。
売れている理由を素直に言語化しただけという見方もできるし、実際のところ、不幸をポップに読ませる作りはこの作品の武器そのものである。
それと、ここで一点だけ整理しておきたいことがある。
この動画を出したヤングマガジン編集部は、実は『みいちゃんと山田さん』の担当ではない。
単行本の背に入っているのは「シリウスKCDX」の文字で、この作品を抱えているのは月刊少年シリウスの編集部のほうだ。
つまりあの動画は、担当ですらない他部署の社員が、よその部署の作品を推していた場面ということになる。
ただ、それで軽くなる話でもない。
担当でもない部署の編集部員が、会社の看板を背負った動画で「堕ちていく様を見たい」と笑えてしまう。
その空気が部署をまたいで共有されていることのほうが、僕はよほど気になっている。
悪意があったと言い切れる材料ではないことを押さえつつ、この問題についてさらに深ぼっていこう。
『原作のテーマ』とは何だったのか
この論争の風向きが変わったのは、公式サイドが口にした言葉である。
アニメ化発表への批判を受けて、公式は7月27日、「差別や蔑視の意図はない」「専門家の監修を受けて慎重に制作する」という異例の声明を出した。
この声明と論争の中身については、前回の記事で詳しく書いたとおりだ。
声明の中で公式は、「原作の持つテーマやメッセージを尊重する」と約束していた。
ところが、である。
その原作を推すべき立場の人たちが半年前の動画で並べていたのは、「堕ちていく様を見たい」という楽しみ方のほうだった。
テーマやメッセージについて語る言葉はそこには無かったという。
このギャップがたちまち炎上の火種となった。
言葉を尽くした声明が、半年前の身内の動画に背中から撃たれてしまった格好である。
そして、僕がいちばん重いと感じているのは、このギャップの先にある話だ。
みいちゃんは、漢字も空気も読めないまま夜の街で働く子として描かれている。
そして現実では、その名前がすでに要領の悪い人をからかう言葉として使われ、教室で「みいちゃん」と呼ばれて傷つく子まで出ている。
つまりこの作品は、扱い方ひとつで現実の誰かを傷つける刃物にもなることが、放送前から証明されてしまっている作品なのだ。
その重さを誰よりも分かっているべき立場の人たちが、「堕ちていく才能」と笑っていた。
偏見がどうこうという以前に、傷つく人の存在がそもそも視界に入っていないように見える。
編集部の障害福祉への向き合い方が「軽い」と言われてしまう正体は、たぶんここである。
この世界の底を見てみたい、と編集部は言った。
だが世間が見てしまったのは、それを語る編集部の底の浅さのほうだった。
リアルみいちゃんという当たりくじ
編集部への不信を決定的にしたものが、もうひとつある。
6月に行われたグッズ企画の掘り起こしだ。
連載アプリで有料の最新話を買った読者向けに、抽選100名へみいちゃんのアクリルスタンドが当たるキャンペーンが行われていた。
ここまでは、どこにでもある販促である。
問題は、「当たり」の中身。
100名のうち1名にだけ、「リアルみいちゃん」と名付けられた特別版が届く仕掛けになっていた。
それは普段のかわいいデフォルメ絵ではなく、作中でいちばん追い詰められた場面の、涙を流したみいちゃんの姿を描いた白黒の線画だった。
公式の告知文句は「100分の1の確率でリアルみいちゃんが当たります」。
当時のネットの反応は、「なんでそれが当たりだと思った」に尽きる。
いちばん辛いシーンを、課金のご褒美にする。
「偏見や誤解を助長しないよう慎重に」という声明の言葉とこの企画が、同じ作品の公式から出てきたとは、ちょっと信じがたい。
しかも、この話には嫌な続きがある。
公式が名付けた「リアルみいちゃん」という言葉が、人を殴る道具として流通し始めているのだ。
アクスタへの疑問を口にしただけで、「あなたもリアルみいちゃんですか?」が飛んでくる。
公式の企画が生んだ言葉が、公式の声明を裏切る形で独り歩きしている。
放送はまだ1年以上も先なのに、この有様である。
配慮の言葉はいつも後ろに並ぶ
ここまでの出来事を、時系列で並べてみたい。
- 1月:公式動画で「堕ちていく様を見たい」と推しトーク
- 6月:いちばん辛い場面のアクスタを「100分の1の当たり」に設定
- 7月3日:同じ編集部の別作品をめぐり、講談社が作者へ謝罪
- 7月26日:アニメ化を発表(津久井やまゆり園事件から10年の節目の日だった)
- 7月27日:「テーマを尊重」「差別の意図はない」と声明
- 8月1日:問題の動画が非公開に
並べてしまえば、一目瞭然だと思う。
本音と商売が先で、配慮の言葉だけがいちばん後ろに並んでいるのだ。
配慮が本物なら、それを表に出す機会はいくらでもあった。
動画の収録現場で、アクスタの企画会議で、発表の日取りを決める打ち合わせで。
「これはまずくないですか」と誰かが手を挙げる機会は、少なくとも3回あったことになる。
全部、素通りした。
そして炎上した2日後になって、初めて配慮の言葉が出てきた。
ネットの厳しい受け止めも、まさにこの積み重ねに向いている。
順番は、嘘をつかないのである。
言葉より先に行動が並んでいて、その行動のどれひとつからも配慮が見つからない。
だから「テーマを尊重する」と言われても、燃えてから届いた配慮にしか見えないわけだ。
そして、時系列に混ぜておいた7月3日の話をしたい。
この日、講談社は『はたらく細胞』の作者に対して謝罪文を出している。
連載の前に「医療監修が入る」と説明したのに、それが実現しないまま単行本が世に出てしまった、という件だ。
作者は環境の改善を何度も求めたが通らず、体調を崩して連載を終えることになった。
会社は「編集部の管理・監督体制の問題」と認めて頭を下げている。
その編集部こそが、『みいちゃんと山田さん』を担当しているシリウス編集部である。
謝罪から3週間後にアニメ化が発表され、その翌日に出てきた声明の中身が「専門家の監修を受けて慎重に制作する」だった。
監修すると言って監修しなかった編集部が、また監修すると言っているのだ。
この言葉が額面どおりに受け取ってもらえないのは、当然と言えば当然だろう。
そして8月1日、また動きがあった。
問題の動画が、公式チャンネルから消えたのだ。
いま同じページを開いても、「非公開動画」という文字が表示されるだけである。
いつ、どういう判断で引っ込めたのかについての説明は、いまのところ見当たらない。
火がついてから、半年前の動画を引っ込める。
配慮の言葉と同じで、これもやっぱり後ろからやってきたことになる。
こうなってくると、発表日の件まで引っかかってくる。
あの痛ましい事件からちょうど10年の日にアニメ化をぶつけたことを、僕は当初、単に日付の確認が甘かっただけだろうと見ていた。
確認漏れなら、脇が甘いという話で済むからだ。
だが、本音と商売がずっと先に並んできたこの順番を眺めたあとだと、別の可能性が頭をよぎってしまう。
障害を扱う作品のアニメ化を、世間が障害について考えるあの日に当てれば、嫌でも注目は集まる。
実のところは、話題になることまで織り込んだ戦略的なプロモーションだったのではないか——。
証拠は、どこにもない。
それでも、この疑惑が日に日に強くなっていくのは仕方がないと思う。
もし本当にただの偶然だったとしても、そう受け取ってもらえるだけの信用が、もう残っていないのである。
過去にもあった同じ構図の炎上
ところで、この構図に見覚えのある人も多いんじゃないだろうか。
僕が思い出したのは、2022年の吉野家である。
当時、吉野家の常務が、大学の社会人向けマーケティング講座でこう発言して大炎上した。
「生娘をシャブ漬け戦略」
田舎から出てきた若い女性を牛丼の味に慣れさせて常連にする、という自社の戦略を、笑いを交えてそう表現したのだ。
発言はすぐに外へ漏れ、わずか3日でこの常務は解任された。
あのときと今回は、構図がそっくりだと思っている。
立場のある側の人間が、弱い立場の女性が堕ちていく過程を、商売のネタとして公の場で軽く語ってしまう。
本人たちの中では、ただの分かりやすい説明であり、熱のこもった推しトークなのだろう。
内輪の会議室でウケていた言い回しをそのまま外へ持ち出してしまう感覚は、会社の飲み会のノリを翌朝の朝礼でやってしまうようなものだ。
中と外とでは、言葉の温度が何十度も違う。
その温度差に気づけないことが、世間からは「軽さ」に見える。
ただ、吉野家と今回では、決定的に違う点がひとつある。
吉野家は3日で発言者を処分し、幕を引いた。
今回は声明が出ただけで、動画の件で誰かが処分されたという話は聞こえてこないし、アニメ化もそのまま走っている。
個人の失言なら、一人を切れば終わる話だ。
だが今回は、動画の中で複数の編集部員が同じ温度で笑っていて、止める人もいなかった。
批判が「個人」ではなく「体質」へ向かっているのは、そういうことだと思う。
ネットでは、売れ方そのものへの疑問まで出はじめた。
一人の失言より、こちらのほうがよほど根が深い。
ついでに言えば、動画を出したヤンマガ編集部のほうにも似た話がある。
2022年、連載作品の全面広告を新聞に出して大きく燃えた件だ。
制服姿の女子生徒を大きく載せた広告は国連の機関からも名指しで批判され、しばらく議論が続いた。
作品そのものより、それをどこへ、どんな顔で出すかで燃えているという点は、今回とよく似ている。
そして、この「根の深さ」で思い出しておきたい騒動がもうひとつある。
今年の2月から3月にかけて燃えた、小学館の漫画アプリ「マンガワン」の一件だ。
性犯罪で処罰された原作者を、別の名義でこっそり連載に再起用していたことが発覚し、担当編集者が示談の交渉に関わっていた疑いまで報じられた。
小学館を支えてきた高橋留美子御大をはじめ、不信を募らせた漫画家たちが次々と作品を引き上げる、出版業界を揺るがす騒動になった。
吉野家が「個人の失言」なら、こちらは「編集部の体質」が問われた炎上である。
構図で言えば、今回の件に近いのはむしろこちらだろう。
『みいちゃんと山田さん』の連載の場も、紙の雑誌ではなく漫画アプリのマガポケだ。
アプリの連載は、無料で読ませる代わりに、続きが気になって仕方なくなる刺激の強さで読者を引き止める商売である。
紙の本誌より過激な作品が看板になりやすい構造は、講談社も小学館も変わらない。
しかも、この2つの騒動には妙な接点がある。
マンガワンが燃えていた3月、ヤングマガジン編集部の公式チャンネルは、マンガワンの編集者を招いた対談動画を非公開にしているのだ。
「報道および状況を鑑み」という短い報告を残して動画を引っ込め、のちにその報告まで消したと報じられている。
燃えたものから、黙って距離を取る。
あのとき対岸の火事を眺めていた側が、半年も経たないうちに、今度は自分の動画を同じやり方で引っ込める側に回った。
隣の火事から学んだ形跡は、どこにも見当たらないのだ。
作者は責められる側なのか
最後に、もうひとつだけ書いておきたいのが作者の話である。
編集部への批判が燃え広がる中で、流れ弾がいちばん飛んでいるのは、作者の亜月ねねだ。
「作者の実体験を描いたものだ」「作者は夜の仕事をしていた」といった書き込みが拡散され、ついに本人が訂正を出す事態になっている。
訂正の要点をまとめると、こうなる。
- かつて寄稿していたアカウントと自分は別人で、運営には関わっていない
- 依頼を受けて漫画を描いて渡していただけ
- 自身に夜の仕事の経験はない
この訂正をめぐっても、ネットでは「昔の投稿と矛盾していないか」という指摘と、「当時から見ていたが、彼女は頼まれて描く側だった」という証言が飛び交っていて、正直、外から白黒をつけられる話ではない。
ただ、どちらの言い分を採っても変わらないことがひとつある。
作者はもともと、頼まれて描く側の人だったということだ。
経歴を追うと、その輪郭はもっとはっきりする。
漫画家の夢は早くに諦め、会社員として働きながら趣味で漫画を投稿していた人である。
この作品の元になる漫画を投稿しはじめて約1年後、大手から連絡が来たときの言葉が残っている。
「講談社より声がかかった時は、詐欺かと思いました」
連載が決まった当初は、絵を別の作画担当に任せる案まで出ていたという。
つまり作者は、企画を主導する側ではなく、選ばれるかどうかを試される側に立っていたわけだ。
そこから、短い投稿漫画は長編連載になり、スピンオフが生まれ、アクスタになり、アニメになっていく。
反応が来るのが楽しくて描き続けてきた人が、「もっとこうすれば売れる」という大手の熱に囲まれて、どこまで首を横に振れただろうか。
言いくるめられた、とまで言うつもりはない。
本人が選び、本人が楽しんで描いてきた部分も間違いなくあるはずだ。
それでも、この商売の仕組みの中でいちばん断りにくい場所に立っていたのは作者だと、僕には見える。
それに、作者は作者なりに線を引いてきた人でもある。
支援学校の先生や、夜の仕事の相談に乗る団体へ取材に行き、「特に障害福祉を描く目的の作品ではありません」「みいちゃんがどんな子なのかは、読者の判断にゆだねています」と繰り返してきた。
その線引きへの賛否は分かれるにせよ、慎重さの要る題材だという自覚は読み取れる。
その題材を「堕ちていく才能」という推し文句に言い換えたのは、作者ではなく売る側だった。
要はマーケティングを仕掛けた編集部に問題があったと考えられる。
それなのに、いま作者本人にまで石を投げられている。
「当事者だから」という見方もあるが、この流れ弾についてはネットでも心配する声も上がりはじめた。
責める相手を探す熱だけが、行き場をなくしてぐるぐる回っている。
ストレスは、自分より弱いほうへ流れていく。
- 会社から作者へ、
- 作品から読者へ、
- そして教室で「みいちゃん」と呼ばれる子へ。
この騒動を追いかけてきて、いちばん怖いのはここだ。
不幸を楽しむ流れは、読者の意地悪さから始まったのではなく、売る側の会議室から始まっていたのではないかということ。
そして世間は、もうそれを見抜いている。