美しい軌跡をなぞる
※司先生の弟の話
※ずっとジメジメしてる
※捏造しかない
え?まだ本編で兄弟でてないよね?え?まあいいや
夢でもCPでもないからどんなタグつければいいか分からんわね
とりあえず司先生幸せに生きろってだけ
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※捏造しかない
※司先生の弟が喋ります
末っ子というのは、一般的に可愛がられるものである。明浦路家の四男、末っ子として生きてきた健は、これまでの人生の中で特大の愛の中で育ってきた自覚があった。決して裕福な家ではなかったけれど、それはそれはもう家族に愛されて生きてきた。年の離れた一番上の兄は物心ついた頃には家を出てしまっていたけれど顔を合わせればなんでも褒めて頭を撫でてあれこれ世話を焼いてくれようとした。すぐ上の兄も、マイペースながらなにかあればすぐ気が付いて助けてくれる。両親も、かわいいかわいいと猫可愛がり。金銭面で見ても兄弟の中では恵まれていた方だと思う。学校で使う道具はなにかとお下がりばかりだったが、下の子がいるからと我慢させられることがない分、多少のおねだりも通った。
健は愛されていた。幸せに生きてきていた。これからもこの穏やかで楽しい人生を歩んでいくのだと信じてやまない。
ただ、一つだけずっと気にかかっていることがある。
次兄の存在だ。
明浦路司。十も年の離れたその兄の顔を思い出そうとする度、健はなんだか顔が下を向く。記憶の中の兄はいつも困ったような、申し訳ないような顔をしている。兄に何かされたわけではない。そんな顔をされる心当たりがない。太い眉を寄せて、泣きそうな目で、でもそんなつもりは全くないのだと言いそうな口元で笑う。健はその顔が嫌いだった。
そもそも司は、実家に寄り付かない人だった。なにかと家を空けがちだったし、気付いた時には知り合いのもとに下宿するといって家を出、その後もほぼ一年に一度お盆の頃に顔を見せに来るだけだった。それがいまではすっかりこちらにやって来ることはなくなり最後に直接顔を合わせたのはもう五年以上前だ。近況はギリギリ連絡を取りあっているという長男だけがなんとなく知っている。その程度だった。血の繋がった家族だと言うのに、あまりにも細い蜘蛛の糸のような繋がりだ。大きな風が吹けば糸は切れてしまうに違いない。実家ではもう存在そのものを忘れかけられているようだった。
父も母も、次兄の話を持ち出すとあまりいい顔はしない。酒を入れた父は「おれに似て運動も勉強もそこそこ出来る見込みのあるやつだったんだけどな」なんて言う。どの口が、とは言わなかったけれどさすがにそれは、と健も目を座らせた。
さて、なぜ今更そんな話をしたのかといえば、見つけたのである。そのか細い糸で繋がってどこで何をしているのかもはっきりしない凧のような兄の顔が、小さなスマホの端に映っていた。
委員会の集まりで集合した部屋で、顧問が来るのを待つ間に後輩が見ていた動画を後ろから何の気なしに覗き見した。それだけだったのに思わず手が伸びた。止めて再生のバーをちょこっとだけ左に戻してみる。すぐ横から上がった非難は無視した。
やはり端に、知っている男の顔が映っている。記憶にあるよりも大分体格がいい。肌ツヤも良さそうだった。表情も、随分と活き活きとしている。そんな顔は初めて見た。
しかし本当に一瞬映ったその人は、決してこの動画のメインではなかった。身にまとっているのはキラキラでヒラヒラのきらびやかな服なんてものでもなく脱ぐ予定のなさそうなジャージパーカーで、いるのはあきらかにメインステージの外だった。そうしてそのまま見続けていればしばらくしてまたカメラに抜かれていた。抜かれていたというより、そのときは完全に意図的にメインの一部として映されていた。見慣れない子供と並んでどこかに座っている。
ああ、となにかに落胆する自分がどこかにいた。
「おい、なにすんだよ」
ぎろりとまつ毛の長い目に睨まれた。そういえばかわいいが口と態度が恐ろしく悪い後輩がいると聞いていた。彼女のことだったのだろう。
「ごめん。なあ、これってフィギュアスケートってやつ?」
「あ? 見れば分かんだろ」
「ふぅん……これが、そうなんだ」
これが、あの人が求め、憧れ、焦がれた世界。でもその真ん中に彼は立っていない。何故。
先程の少女のリプレイだろうか。氷の上で一人、何かを表現するその演技が流れている。
キラキラを散りばめた華やかな衣装で優雅に舞いながら氷に軌跡を残していく。地上よりも勢いよく、そして不自由に。しかし輝いている。グッと勢いが圧縮されて、跳ぶ。勢いと裏腹に滑らかに氷上へと着地する。脚が振り上げられて銀粉が舞う。
氷の上は寒いだろう。たった一人は怖いだろう。それなのに氷の上を往く小さな少女は笑顔だ。氷の粒が輝いて、妖精が会場全体に魔法をかけているみたいだった。
「綺麗なんだな」
「うッすい感想」
その指摘には自覚はあった。
あの人の憧れた世界はこんな感じだったのか。いやでも真ん中にいないじゃん。そんな気持ちが湧いてきてそれ以上でもそれ以下でもない感想しか外に出力できない。
「じゃあお前は? これ、好きだから見てるんじゃないの」
「……こんなの、ヒラヒラお遊戯会レベルだろ」
「悪口だ」
「おいおい健。そいつ誰だかわかってそれ言ってんの?」
同級生が笑いながら肩を叩いてきた。なんだ、と健が首をかしげればスマホを持ったまま睨みつけてきていた件の後輩を指さした。
「そいつ、岡崎いるかだよ。フィギュアの強化選手とかに選ばれてんだぜ。そりゃ小中学生の演技はお遊戯会にも見えるだろー」
「強化選手……へえ、そうなんだ。すごいな」
「べつに」
「なあ、あの、岡崎。フィギュアスケートってやっぱ、金がすげーかかんの?」
「は?」
怪訝そうに眉を寄せて、口を歪ませた彼女はじっとりと健を見つめ返した。ややあって、ため息が落とされる。
「……センパイ、スケートリンク行ったことある?」
「…………ないな」
「じゃあ一度行ってみれば。衣装も、スケート靴ももちろん金がかかるけど、そもそも滑るってことがどのくらい金がかかるのかその目で見てみたらいいんじゃないの」
ふいと彼女は顔を逸らしてもうこちらを振り向かなかった。彼女の手の中では先程とは違う少女が同じように氷の上を駆けていた。
小さい頃から思っていたことがある。次兄は弟という存在を疎ましく思っていたんだろうと。
優しい人だ。そんなことはなんとなく理解している。露骨に邪険にされたことも、強く怒られたこともない。むしろ目の前にいれば、そのときだけは全ての外敵や悪意から守ろうとしてくれるように見えた。しかし、弟がいなければときっとそう思ったことがあっただろう。それに罪悪感を覚えて、へらりと申し訳なさそうな顔でこちらを見ている。
それが本当に嫌いだった。
肌を刺す冷気がなんだか心までも削ぎ落としていくような気がした。つい先程までムカムカグツグツと燃え上がるような怒りを確かに腹に抱えていたのに、いまはそれが凍てついた炎になってしまった。いま自分がたいそう冷ややかな顔で居るのだろうなという自覚があった。
健がスケートリンクに足を運んだのはこれが二度目だった。
リンク内は一般に解放されていたが、クラブ所属の子どもたちもすでに練習しているらしい。ゆったりとよちよちとおっかなびっくり滑っているような一般客の周りををいたずら好きの妖精が飛ぶ回るように小さな選手たちがビュンビュン通り過ぎていく。それを横目に人の波を縫ってまっすぐ向かったのは一人の女性のもとだった。この人を知っている。一方的にだけれど。
「あの、」
ぶしつけな態度である自覚はあったが、それでも彼女はぱちりと瞬いてにこやかに挨拶を返してくる。
「はーいなにかしら」
「あの人、明浦路……司は今日いますか」
「あら、まあ……司くんの知り合い?」
「まあ、そう。そんな感じ」
ふうん。頭のてっぺんからつま先まで。品定めをするように見つめてきた彼女は、逡巡ののち、うんとひとつ頷いた。なにかの審査には通過したらしい。
「司くんなら、ほら、あそこ。いま指導中よ」
「指導、中…………ほんとうに、いる。あのひと、まじでコーチなんて、やってんだ」
指さされた先で、あの人が、少女とタブレットを睨みながらなにか言葉を交わしている。いくつかの応酬の後、少女が氷の上で滑り始めた。それを静かに、瞬きもしないというような目力で彼が見つめている。
健は緩かに首を横に振った。
「……あの、ここでみててもいいですか」
「構わないけれど……折角リンクに来たんだから、君も滑らない?」
「滑らない」
「そっか」
「あの人は、滑らないんですか」
ずっと氷の上に降り立つことも無く少女の滑る姿を真剣に見つめているだけだった。
「あの人って司くんのこと? 必要があれば滑るけど……あ、君、もしかして知り合いっていうより現役時代の司くんのファン?」
「ファン……ハハッちがいますよ。ファンにすらさせてもらえなかった」
だって、その姿を見上げたときには彼は氷を降りてしまっていたから。
自販機で買ったペットボトルで喉を湿らせながらただその男を見つめる。きらりと輝く金の髪は健とお揃いだった。小さな頃、お兄ちゃんにそっくりね、と言われたことがある。そのときはなんとも思わなかった。そうなんだ。それだけだった。いまはお揃いだと思うと口がひん曲がった。
なにかが上手くいったのか頬を赤らめて大きなからだで喜びを表現している彼の姿は、何も知らなければ微笑ましいものだろう。しかし健からすれば、不快でしかなかった。
こんなにもムカムカするのは、いつだってあの人のことを考えているときばかりだ。おれはこんなにも、辛いのに。そんな思いがふつふつと健の腹から胸へ、そして口元までせり上がってきて、誤魔化すように舌打ちをひとつ。いやまったく誤魔化せていない。モロだ。近くを通った小さな子供がぎょっと健を見上げた。
しかし健の顔は、ただ一人だけを真っ直ぐに見つめていた。
「司くん、お客さんよ」
それから三十分ほどだろうか。健の見学は、リンクの製氷の時間を迎えたことで終了した。
すぐ横で見守っていた彼女、このスケートクラブのヘッドコーチを務めている瞳が、すかさず健の来訪を司へと伝えてくれる。不思議そうな顔で健の方を向いたヘーゼルの瞳が、ぱちっと瞬いた。
「え、あ……」
意味の無い音を零したのは司だった。
健はそれを冷ややかに見つめている。
たっぷりと、時間をかけて司はまたぱちりぱちりと瞬く。それはもう、秒針は一周しただろうか。そんな具合だ。
ゆっくりと見開かれていく目には、同時に暗い色が乗っていく。ゆらりと大きな瞳が揺れた。
段々と寄っていた眉に気付いて、健はまたも口から誤魔化せない苛立ちを漏らした。
「も、もしかして、健……?」
「は、自信が持てねえんだ?」
「いや、その、久々に会ったし」
「は? 名古屋に戻ってきてんのに顔も出さねえのはあんただろ」
そうだ。なにかと家を空けていた次兄は、前に長兄経由で話を聞いたときは横浜にいるということだった。そこで、スケートをしているのだと。そう聞いていた。それが黙ってこっそりこっちに帰ってきていて、しかも選手ではなくコーチになんてなっている。それでいて、「久々に会ったから分からなかった」なんて酷い話だ。
健はいま胃の中がまたマグマのようになっているような気さえした。その溶けるような熱気で胸が焼け焦げている。吐きでる言葉は全部炭のようだった。
凍てついた炎のような健の視線は、司の胸を大きく貫く。
「あんた選手じゃなくて、コーチなんだってな」
「あ、ああ」
健の視線がゆっくりと滑る。司のすぐ近くに立っていた少女が、二人の会話を静かに見守っていた。胸の前で握りしめた両手は震えている。
この子ども、結束いのりという選手のコーチをしているらしい。
先日言葉を交わした後輩にそのとき見ていた動画がなんだったのかを聞きに行けば、とある大会の映像で、連盟が公式でアップしているものであることがすぐにわかった。そこから映っている選手がだれかを確認すればこの通り、所属のクラブ、コーチが簡単に割れた。
選手じゃないんだ。スマホを持つ手から一瞬力が抜けて、手にしたそれを取り落としたのは記憶に新しい。
「おれたちの犠牲は無駄だったってことか」
思い浮かんでいた言葉が、ここですんなりと口から転がり出た。
「おれたちはスケート選手になりたいあんたの夢のために犠牲になったんだと思ってた。なのに、なんで……なんであんたはいま選手じゃなくてコーチなんかやってんだ?」
酷い。酷い。
幼い自分がしゃがみ込んで口を尖らせて泣いている。
司兄ちゃんはおれたちのことが嫌いだから家にいないんだ。小さな自分が言ったその言葉を、長兄が優しく否定した。あいつにはどうしてもやりたいことがあって、そのために一生懸命になるために少し家を出てるだけなんだ。長兄は、次兄に対して家族の中でも一番に理解があった。父や母が存在が恥ずかしいとでもいうような扱いをしている中で、長兄は次兄を否定しなかった。すぐ上の兄は、その影響か、元の性格なのかは定かではないが次兄に対して決して肯定的ではなかったが、それでも否定的でもなかった。いわば無関心に近かったと思う。
では自分は。
考えてみれば、健自身も家族の中ではすぐ上の兄の感覚に一番近かったとは思う。だってそもそも関わることが少なかった。
しかしだ。健は末っ子なのである。これが厄介だった。愛されてしかるべきの自分がいるというのに、家に寄り付かず愛情を注がないとはなにごとか。無意識に、しかし当然にそう思っていた。そしてその感情を面倒見のいい長兄に暴露すれば、優しく窘められた。
その結果、「末っ子である自分を愛さない選択をするくらいとても真剣に貪欲に夢を追い求めているので仕方ないのだろう」と折り合いをつけることで、不安定な感情は危なげな着地を果たしていた。
別にそこに結果は出てなくてもいいと思っていた。彼が貪欲に夢を追い続けてるのなら仕方ない、とそう思っていたのだ。
ところが、ここにきて事情が変わった。だって、スケートの選手になることを諦めていたのだ。一体いつの間に。嗚呼、それならなぜ、求める夢が終わったと告げに来ない。犠牲にしてしまったけれど、もうそれは終わったと、なぜ告げに来ない。なぜ、愛しに帰ってこない。
そんなのは、不義理で、裏切りで、全く納得がいかない。
赤く染まっていきそうな健の視界の中で、兄がくしゃりと顔を歪めた。
重たい空気がリンクサイドを支配する。二人はひどく嫌な視線を集めていた。
嗚呼、鬱陶しい。健の顔が歪む。無言のままどんよりとしたその場に助け船を出したのは二人の会話の幕を切ってしまった瞳だった。
「とりあえず、一旦場所を変えましょうか。製氷が終わるまでに終わらせるから、申し訳ないけどいのりちゃんはそれまで待っていてね」
パチンと手を叩いた彼女は二人を事務室まで連行することにしたらしい。氷よりも冷たく重い空気を背負っていた二人を容赦なくドナドナした。
ギィという耳を引っ掻くような音と、続けて響いたパタンという簡素な音はこの部屋が外界から完全に隔離されたことを告げていた。
机を挟んで向き合った二人の視線は重ならない。白いデスクの上を無意味に見つめている。
先程瞳が言っていた通り、製氷が終わるまでの短い時間制限のかかった対話時間だというのにお互い口を開くタイミングを見計らっている。時計だけがカチカチと音を上げている。
健は、ぐっと膝の上の手を握りこんだ。爪が食い込む。けれど、痛みはあまり感じない。それからゆっくりと手をほどけば、血が流れていく感覚がする。ドドッと焦ったように手のひらのうちを流れていく血が、ぐちゃぐちゃになっていた思考を少しだけ緩めてくれた。
ほんの少しだけ顔を上げる。
体格のいい男が、肩をすぼめて小さくなって向かいに座っている。眉は寄っていて、視線は無意味にウロウロとデスクの上を歩き回っている。もう比喩もなく紛うことなき断罪を待つ受刑者である。
先程まで、あんなにも頼もしく真剣に生徒の指導をしていた人間と同一人物だとは思えないほどに小さく縮こまってしまっている。そうさせたのは、健の言葉で――否、健の存在そのものなのかもしれない。
自覚して、喉がしまる。
「ごめん、なさい」
ネジ切れそうな喉から出てきたのは謝罪の言葉だった。
同時に勢いよく向かいで顔が持ち上がった音がする。
「仕事の邪魔をするつもりじゃなかった」
「……いや、」
兄は、明浦路司という男は、誠実で優しい男だった。何かを言い淀んで、それからハッと息をつく。観念したように緩やかに首を振って、口を開いた。
「もとはといえば俺が悪いから。健は悪くない」
「なに、それ」
「俺が健たちを犠牲にしたのも、無駄にしたのも事実だよ。それに、後ろめたさから実家に寄り付かなかった。健たちからしたらどう映るかなんて分かってたのに、直接顔をあわせて言葉にされて、痛いとこをつかれたって……やっぱり恨まれてたんだなってショックを受けて……最悪だな」
さっきまでぎゅうと寄っていた眉は解かれている。生ぬるい風が頬を撫でているようだった。
「一生恨まれても仕方ない。好きなだけ罵ってくれよ」
「……は?」
悟りを開いたような、その、割り切ったような諦めた顔がダメだった。
健の腹の底がまた茹だってくる。
「違う。あんた、結局なにもわかってない」
「違う? 違わないだろ。俺が健たちを捨ててまでやったスケートで結果を残さないで、そのくせコソコソと地元に帰ってきて、罪滅ぼしもしないのかって! そう言いに来たんだろ!」
「違う! あんたッ……そんな、バカだったのかよマジで信じらんねェ! だから嫌いなんだ!」
椅子が派手な音を立てて倒れた。立ち上がってその間抜けな顔を見下ろす。大きな目をこれまた大きく見開いて見上げてくるそれにイライラはどんどん大きくなっていく。
「あんたは! 応援されてたって発想はねえのかよッ!」
思い切りデスクを叩いた手のひらがジンジンと刺激を伝播させる。
ぽかんと間抜けに口を開いた兄のその顔は、自分よりも幼いものにすら見えた。寝耳に水。本当にその発想はなかったらしい。
それがまた、腹立たしい。どれだけ自己肯定感が低く、そしてどれたけ人を舐めれば気が済むのだろう。
「おれは、あんたの夢のために犠牲になるのであれば仕方ないと思ってた。いや仕方ないっていうか、まあ、それもアリだと思ってたんだ。だって兄貴の夢だからな。兄は弟を可愛がるべきだけど、それはそれとして弟だって兄貴を応援したりしたいんだよ。わかるか? だけどそれを勝手に拒否して夢も諦めて……それでいまはコーチ? なんだよそれ、おれはあんたのためならよくとも、あのガキのために犠牲になるのは許してない」
グッと身を乗り出してそのマヌケな面を覗き込む。
「おれよりも優先したのなら、ちゃんとその責任を取れよ」
思考が停止してしまっているのか、瞬きすらしていない兄の顔を五秒間たっぷり睨みつけてやり、健はくるりと肩を翻して事務室の扉に手をかけた。が、彼がノブをひねるより寸瞬早く扉が開いた。
「ちょっとッ大きな音がしたけど大丈夫!? って、アラ?」
飛び込んできたのは瞳だった。その後ろからは、司の教え子であるいのりも顔をのぞかせている。
目の前に立っていた健に、二人はパチリと目を瞬いてそれから奥で座ったままの司を見る。怪我は無い。乱れといえば悲しく倒れているパイプ椅子一つだけだ。
なにか暴力沙汰があったわけではないらしい。ホッと息をついた瞳は改めて健に振り返る。
「えーっと、話し合いは終わった?」
「……まあ」
「タケルくん、は、もう帰るの?」
「ああ、えっと……はい。お邪魔しました」
小さく会釈をして通り過ぎようとする彼の腕を、瞳が咄嗟に捕まえた。
「……やっぱり少し滑っていかない? 入場料払ったんでしょう? お金もったいないわよ」
「それは、」
大人として、やや押し付けがましいお節介が顔を出したと瞳にも自覚があった。
しかし、明浦路家の経済事情は、概ね把握している。過去、司から家庭環境について詳細はきいていないが、少なくとも金銭面を一つの理由として断れることが確定している状況であったことは聞き及んでいる。
そんな家の末っ子がわざわざ安くない入場料を払ってここまで来たのだ。そりゃあそんな気持ちも湧くわけだ。
実際、健もその言葉には口を噤んだ。思うところはあるらしい。そろりと目線が動いて出口と腕を掴んでいる瞳と、それからすぐ横のいのりを見る。
「いや、おれは……」
じっとりと黙って見上げてくるいのりから目を逸らして、彼は緩く首を振った。
「遠慮しないで。司くんはいのりちゃんの指導に入るけど、私が見てあげるわ」
「あの、」
「司くんのみた夢、いまみてる夢。少し近くで体験してかない?」
パチンと跳ねたウインクに、健は渋々小さく頷いた。
ひやりと頬を撫でる冷たい空気を静かに胸に取り込んで、吐き出す。氷の上に乗るのは二度目だった。
先程の製氷のタイミングで一般開放時間は終了し、いまはもうクラブの利用時間になったらしい。チラホラと見かけた一般客の姿はなく、子供たちが整備されたばかりの氷の上へと元気に掛けて行った。
それをぼんやりと見送っていると氷上には上がらず、リンクサイドから瞳が声をかけてくる。
「滑ったことはある?」
「……先週、すこしだけ。ここじゃないスケートリンクだったけど」
へりに捕まってゆっくりと氷の上に乗り上げる。先週乗ったときと少し感覚が違う。少しだけ、柔らかい気がする。まあ前回と同じでもそうでなくとも、地面に足をつけている時に比べたらどちらだって不安定だ。いや、正直なところ立ってるだけならそうでもない。けれど動き出そうとすると途端に全てが不安になる。
「先週滑った時はどんな感じだった?」
「そりゃ怖かった、ですよ。連れてってくれた後輩はバカにするようにすぐ横をビュンビュン滑るし、引っ張られて転けそうになるし」
言いながらゆっくりと前を向く。ヘリから手を離して、棒立ちになる。たしか、そう、怖がったり変に前のめりになると進まない。背筋を伸ばして姿勢よく立って、足のど真ん中か少し後ろを意識して重心を置く。ほら進んだ。先週言われたことを思い出してみれば一応前には進む。しかし、進むだけだ。摩擦が仕事をしていないだけの惰性で前を進んでいる。そんな感じがする。
身を任せているといえばなんだか聞こえはいいが、つまるところコントロールなんてできそうにない状態だ。おそろしい。
ここは寒くて怖い。離れたところでは子供たちが無邪気に銀盤に複雑な軌跡をジャカジャカと残している。素直に感心する。
外周をかけっこをするように駆け抜ける子供のすがたをじっと見つめた。体が小さいからなのかはわからないが随分と身軽に見えた。
軽やかに足を動かして、腕を伸ばして、重心をぶらさずにグングンとスピードを上げている。ああ、跳びそう。そう思った次の瞬間、その子供はことも無く氷の上を跳び上がって、その勢いのままくるりと回転して着氷する。とたんにキャッキャっと幼い笑い声を上げて滑り出す。
「みんな、すごいな」
「そうねえ。スケートはかけた時間が顕著にでるスポーツよ。みんな小さい頃からああやって氷の上に乗ることに時間をかけて慣れて、たくさん練習して選手になるの」
「高峰、選手も……そうだったんですか」
「やだわ選手だなんて。もう現役じゃないんだから。いまは先生の方が嬉しいわ」
「はあ、」
曖昧に健が頷く。
「私も、子供の頃からリンクに通ってたわ。父がアイスダンスの選手だったから自然とね」
「ああ、なるほど」
「だから父が司くんを連れてきたとき、びっくりしたわ。だって初めてスケートをしたのは14歳。それからちゃんとしたクラブにも所属しないで独学でスケートを続けてたって。そんな子を、わざわざ父が私のパートナー候補にって連れてきたのよ。なにかとんでもない裏あるんじゃないかって思ったわね」
「……」
「すごかったわよお。絶対にここで生きてやるって意気込みが……いや執念ともいうかもしれないわね。実際、司くんは父に本格的に指導をされるようになってあっという間にそこらのスケーターよりも美しく完璧に滑れるようになったんだから、本当に……」
「じゃあなんで、」
思わずヘリに手を伸ばしてしがみつく。
身を乗り出して詰め寄った。
「なんであの人は降りたんですか、氷の上から!」
身近にその成長を、才能を見てた人がこれだけ評価しているというのに。なぜ彼は夢の舞台への階段で踵を返したのか。理解できない。そのままいけばきっと、なにか成せただろう。正しく評価されただろう。
――おれたちは報われただろう。
その叫びはたしかに瞳にも聞こえた。
そうね、と目を逸らす。
「金銭面だとか色々あるだろうけれど、私が引退してしまったのも悪かったかもしれないわ」
「え?」
「私の父は、私のパートナーとしてなら、アイスダンスなら教えるって司くんに言っていたのよ。私はもともとあのシーズンで引退を考えてた。だからその通りにしただけなんだけど……アイスダンスはどんなに実力があってもパートナーがいなければ成り立たないから、ね」
「で、も……アイスダンスは無理でも、他の……それこそフィギュアスケートの選手、とかは」
「実績のない成人した人間のコーチについてくれる人はなかなかいないわ。それに、そんな状態でバッジテストをあの歳で一から取得していたら大会に出れるときにはそれなりの歳になってしまうでしょうね」
「そもそもがもう、遅すぎたって、そういうことですか」
「……でも、司くんは、氷の上で生きることを諦めてはいなかったのよ。ずっと、アイスショーとかのオーディションも受けてたって聞いてるわ」
氷の上で生きたいと、叫んでもがいて生きていた。しかし彼は、本当に運がない。彼の才能や熱量、実力を考えれば採用されたっていいのにどうしたって肩書きや後ろ盾のない彼は見向きもされない。正しく評価してくれる人間に出会えない。
苦しいものだっただろう。瞳は、このクラブに司を呼んだのは実力を買ってという部分が大きいが、心配や哀れみもなかったとは言えなかった。
まさかそこで、こんなにも早く彼がしがみついていた夢からあっさり切り替えて新しい夢を見つけて歩み出せるとは思っていなかったが。
「いのりちゃんのこと、知ってる?」
「……ちょっとだけ」
大会の映像を見た。小さくそう言った健に、瞳はまあ!と声を上げた。
「すごいでしょう? あの子も正式にスケートを始めたのが遅い方なの。11歳なんて、この世界じゃあギリギリもギリギリよ。それでもいま、あんなにも氷に向き合って全力で輝いてる。司くんのおかげね」
「やっぱ自分を重ねて、あいつに代わりに夢を叶えてもらおうとしてんのかよ」
「違うと思うわよ。もちろん、始めるのが遅くなってしまったとか、やりたいことを言い出せなかった姿だとか、そういうところを最初は自分と重ねたっていうのがきっかけだろうけれど。いま、二人は一緒に新しい夢を追っているのよ」
ジャッと勢いよく氷を削る音がする。つられて視線を動かせば、長身が氷の上に立っていた。スラリと伸びた足にはしっかりと筋肉が付いている。さきほどまで妖精のように子供たちが舞っていたのとはまるで雰囲気が違う。
嗚呼、彼が氷の上に立っている。
健は思わずヘリを掴んでいた手を離して、体ごとそちらへと向き直った。
教え子になにか乞われて頷くと、するりと滑り出してリンクの中央に向かっていく。遠巻きに人々が見つめている。だって本当によく目立つ。たぶんこのスケート場にいるほとんどの人間がその男に視線を奪われていた。
一拍の停止。そしてふわりと動き出したその体躯はあんなにも筋肉がついているのにどこまでもしなやかで美しい。ふと流した視線は儚く、伸ばした指先には光の粒が煌めいているようだった。銀盤に描く図形はもしかしたら魔法陣にでもなるのかもしれない。そんな気さえしてくるから不思議だ。
ほんの数十秒の滑走だった。
フィギュアスケートの醍醐味とでもいうようなジャンプも一切ない。
だというのに。だというのに!
健はまるで全力疾走でもしたかのような苦しさを覚えた。ああ、うるさい。心臓が、血が!
どこまでも忙しなく暴れ回っている。
見たかったものはこれだった。求めていたのはこれだった。そこに、存りつづけてほしかったものは、これだったのだ。
自身が押したかった背中はまさにあれで、そしてもう押させてもらえなくなった背中もあれだった。
「あれを、失ってまで……それまでの価値があいつにある、って……?」
信じられない。意味がわからない。理解したくない。
満足そうに鼻をふくらませてなにやら身振り手振り喜びを表している子ども。あれが、健の求めたものを無惨に喰らうのだ。健には全く理解ができなかった。
たしかに大会の動画は先日、あのとき小さな端末の中で見た。美しいと、可愛らしいと思った。けれど、けれど。
「高峰、先生。おれやっぱりだめだ。おれは、あの人が滑るところを応援、したかった……!」
ぱたぱたと氷の上を跳ねる水滴が鬱陶しい。けれど氷の上だとシミにならないのはいいな、なんてぼんやりと思った。
「私も見たかったわ」
顔を上げると、瞳もじっと司たちの方へと視線を向けていた。
「司くんが才能を発揮して正しく評価されて、夢を叶えるところを。でもそれはね、もう新しいものに昇華されたのよ。その夢はね、」
微笑んで健を見やった。
「彼が歩んできたものを全て捨てて出来たものじゃないわ。彼が歩んできた道のその延長線にあるものなのよ。司くんが苦しんでもがいて求めて身につけて、それが糧になって次の夢に繋がってるの。司くん自身がどう思ってるかは分からないけれど、決して君の犠牲が無駄になった訳じゃないと、私は思うわ」
しんと静まり返ったリンクにはもう子供たちの姿はない。本日のクラブの練習時間も終わりを迎え、生徒たちもみな帰宅した。リンクサイドにぼんやりと座る健の視線は一面に張られた氷に向いている。
遠くから見るとピカピカに輝いているそれも、少し近寄ってみれば色んな傷が付いている。そこで技術を磨く人間たちの軌跡がしっかりと刻まれてるのだ。
兄がこれまでに残してきた軌跡はどんな形だったのだろう。ひとりで、だれにも見つけてもらえず導いてもらえず。ぐちゃぐちゃと複雑に彷徨っていたに違いない。
その跡をなぞってみたかった。
「健」
背後からの声にゆっくりと振り返る。
兄が穏やかな顔で立っていた。
「もう遅いし、送るよ」
「……いらない。ひとりで帰れる」
「ここからじゃ家、遠いだろ」
「ガキどもと一緒にすんな。おれはひとりで帰れる」
「そう言うなって。ちょっとくらい兄貴面させてくれたっていいだろ」
露骨に顔が歪んだのを自覚する。予想していた顔だったのか、兄は可笑しそうに笑っている。
「帰るぞ」
少し待ってて。そう言って一人駆け足でスケート場をあとにした兄は十五分もしないうちに戻ってきた。どこからか車を調達してきたらしい。どこだよ、なんで車に乗ってるのに汗だくなんだよ、というツッコミはなんとか健の腹の底へと飲まこまれていった。ことの真実は実に単純で、下宿先の加護家まで全力疾走して帰り、そのまま車を借りて戻ってきたというだけである。が、もちろんそんなことは健が知る由もないし、想像もできようがない。
うろんげな目線に気付かない司は、走ったことでややハイになったテンションのまま、弟を迎え入れたのだった。
二人が乗った車は滑りかに発進した。兄の運転技術は一般的にみて丁寧な部類だろう。走り出しも停止も緩やかで衝撃が少ない。こんなところで知るだなんて思いもしなかった。なんだか勝手にむずがゆくなって、抵抗するように運転席から顔を逸らして外を眺めていれば、弾んだ声が飛んできた。
「瞳さん、すごい褒めてたぞ」
「は? なにが」
「滑るのが2回目の初心者とは思えないって」
「……お世辞だろ。あんた、そういうの真に受けるタイプ?」
「お世辞じゃない! 途中からクラブの子たちに負けないくらい綺麗に滑ってたの、俺も見てたんだから!」
「……ふうん」
「才能あるかも、て瞳さんすごい盛り上がってたよ」
「才能? あったところでこの世界じゃもう遅いんだろ。おれのこといくつだと思ってんの。会わなすぎて忘れた?」
スケート競技はかけた時間が顕著に顕れる競技なのだと、瞳が言っていた。幼い頃から始めて、それでようやくひと握りの人間だけが大会に出れるほどの逸材になる。才能があってもスタートが遅れればそれだけ不利なスポーツなのだという。
それは、兄自身が一番よく知っているはずだろう。当てつけのような返事をした自覚があった。健は据わった目で振り返る。
兄はまっすぐ前を見つめている。運転中なので当然そうしてて欲しいが、その表情は予想よりもずっと穏やかだった。
「もう17歳だろ。知ってる」
「……」
「俺が17のときのことを思うと、健は偉いよ」
「は? なに」
「ちゃんと俺に言いたいことを言いに来た。それってすごいことなんだよ。言葉にするって、……気持ちを伝えるってさ、怖いだろ」
ゆっくりと顔が健の方へと向く。凪いだ瞳に映る自身の顔が酷く息苦しそうだな、と健は他人事のように思った。
「おれは、ちゃんと言えなかった」
「言えてない……おれだって、」
言いたかったことなんて、まるで言えていない。ただの癇癪しか表に出せていない。
小さな端末の中でその姿を見つけたとき。
実際に顔を突き合わせたとき。
その滑りを網膜に焼き付けられたとき。
言葉を交わしているこのとき。
そのときに溢れてきた様々な色の感情を、全くと言っていいほど伝えられてはいないのだ。
「本当は、ずっと」
「うん」
「……あんたに、」
ゆっくり言葉を切って、心のうちに浮かぶ感情を丁寧になぞって言葉にしようとした瞬間、大きな音にさえぎられた。
信号が青に変わっている。後ろの車からのクラクションだ。あわてて司が顔をフロントに戻して発進する。
車内はまた沈黙で埋もれてしまった。
住宅街の一角にある、公園の前で車は停止した。家はもうひとつ先のブロックを曲がった先だ。
暗い車内で、二人は口を引き伸ばしたまま視線を合わせず身動ぎもしなかった。
そのまま何秒、何分経っただろうか。先に動き出したのは健だった。ポケットにしまったままの端末を取り出す。人工的な明かりが顔を照らし、液晶を叩く音が響く。
「兄ちゃんが」
ゆっくりと司が振り返った。健の顔は明るい液晶に向いている。
「兄ちゃんが言ってた。司兄ちゃんは、どうしてもやりたいことがあって、頑張ってるんだって」
兄ちゃん、と言えば兄弟の中では当然に一番上の兄を指していた。どの弟にとっても兄だからだ。
「べつに、司兄ちゃんはおれのことが嫌いなわけじゃなくて、ただ頑張ってるだけなんだって」
「……それは、」
「嘘だって思った。だって司兄ちゃんは、おれや誠くんがいなければよかったのに、て思ったことがあるだろ」
もちろん直接そんなことを健が司に言われたことはない。けれど自身の境遇にどうしようもない絶望感を抱いたことがあるだろうなと、直感的に思ったのだ。
裕福な家に生まれていれば。
そうでなくとも、下に兄弟がいなければ。
だって自分がその立場だったらきっとそう思う瞬間があった。
「だから昔はわりと司兄ちゃんのこと、嫌いだったかもな、おれ」
健のその言葉は司の肺を少し重くさせた。理解していたことだった。けれどやはり、実際に言葉にして投げられると、それは酷く鋭利な刃となって突き刺さってしまった。
司は黙り込んで、じっと向き合わない弟の横顔を見つめる。
「でも司兄ちゃんは、やさしいから困った」
「……やさしく、なんか」
「いつもやさしかったよ。繋いでくれる手も温かかった。だからもしかしたら兄ちゃんが言ってたことが正しいのかもって思った。だから、だから! それなら、仕方ないかなって、しょうがないなって思って……いつか兄ちゃんが頑張ってるところを見に行けたらいいなって思ったりとかしてた」
スケートを頑張ってるんだって。大会とかに出るのかな。応援にいけたりするのかな。
そんなことを長兄と、話した記憶がある。
「おれ、あんたのこと、応援したかったんだよ……ううん、ちがうか」
光を受けた顔があがって徐に振り向いた。
「応援、してたんだよ。ちゃんと」
ぱた、と音がした。何処からしたのだろう。もしかして、弟が泣いているのかも。昔から兄弟揃って泣き虫だった。あわてた司が健の顔を覗き込む。しかし、そこにあったのは意地悪そうに笑う子どもだった。
「泣いてるの、あんただよ」
パタン、と扉が閉まる。窓の向こうで小さく手を振った弟が背を向けて歩いていく。
いつの間にか大きくなっていた。最初に顔を合わせたときに、本当に弟かと自信がなかったのを咎められたけれど仕方ない。だって、五年も顔を合わせていない。子どもの五年なんて怒涛の成長期なのだから。
まあそれがまた、弟の怒りのトリガーを引いてしまったわけだったが。
暗い車内で一人になった司は、どうにもサイドブレーキを下げられそうになかった。ぼうと弟の消えていった道の向こうを見つめる。
ここで、話をした。時間として三十分もないだろう。けれど、そこで発生したのは司にとってはとてつもなく濃厚な、感情の嵐だった。
家族とは折り合いが悪い。親はもちろん、兄弟も自身のことをよく思っていないだろう。唯一兄だけは気にかけてくれていたと記憶している。いまでもたまに忘れた頃に連絡が来る。
けれど、まさか、一番下の弟が自分にわざわざ会いに来るとは思ってもみなかった。
最初は恨み言を言いに来たのだと思った。実際そう遠くない感情を装備してやってきていたように思う。けれでも、その中に、もっと柔らかい感情があったらしい。そんなものを向けてもらえる価値が自分にあったのかと、驚いて、それから。
それから、嬉しかった。
嬉しかったのだ。いまならトリプルアクセルでも跳べてしまいそうな、そんな気持ちさえしてくる。ここが氷上出なくて本当に良かった。どんな恥ずかしい感情を氷に刻みつけてしまっていたかわからない。
ハンドルを強く握る。
アイスダンスでなら、と道を示してくれた師に出会うまでの時間は、司にとって無駄に犠牲にした時間に等しかった。だから弟を犠牲にした自覚も、それを無駄にした自覚もあった。罵られて当然だと思った。
これまでの人生で間違えてばかりだ。いつも思い返す度に胸がどんよりと重くなっていた。
今日、はじめて、ほんの少しだけそれが軽くなった気がした。
自身が求めて足掻いた道は、誰かに応援してもらえる道だったのだ。
求めて、よかったのだ!
いまはそれが新しい道に繋がっていて、それを教え子と共に駆けている。
振り返ってもあるのは暗闇ばかりで、後ろには何もないと思っていた。けれど今日、やっと、気づけたのだ。後ろには背を押してくれる手があって、掛けてくれる声があった。
知らなかった。なにもないのだと決め付けて振り切っていたそこに、ちゃんとあったのだ。
ぼたぼたと、また落ちる。
蹲って、錆びた刃を泣きながら撫でている自分を抱きしめる。
その刃が刻んだ道は、悪いことばかりではなかったのだ。
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