【倉本聰 ここだけの話80】「東映のドン・岡田茂の前で台本を読み上げなくちゃいけない」
脚本家・倉本聰さんと交わしてきた「ドラマをめぐる対話」を、取材ノートから再構成しています。
碓井 先生は、ニッポン放送を退社したのち、ドラマ『現代っ子』(日本テレビ系、1963年)が話題を呼び、「日活」と契約しました。当時、映画やドラマなど他社の仕事もしていいものだったんですか。それとも日活の仕事だけ?
倉本 日活では歌謡映画専門で、舟木一夫、西郷輝彦、橋幸夫の映画担当だったこともあります。
碓井 西郷さんの映画『星のフラメンコ』(66年)やグループサウンズ全盛時代の『ザ・スパイダースのゴーゴー・向う見ず作戦』(67年)なんていう作品もありました。
倉本 ただ僕の場合はB契約といって専属ではなかったので、他社の作品も書いていいということになってましたね。ある時、東映に入った中島貞夫(東大美学科の同級生)から電話がかかってきて、「俺のおかげで卒業できたよな。恩を感じてるよな。ならば恩返しに俺の映画のシナリオを書け」って。それで京都へ連れ出されて1カ月ぐらい滞在して、2人で書き上げたのが『くノ一忍法』(64年)です。 碓井 日活の脚本家が東映の監督のシナリオを書いて、しかも中島監督のデビュー作ですよね。
倉本 そうです。中島と2人で、豊臣方の忍者と徳川方の忍者がセックスすると、男の忍者はしゅるしゅるって枯れ木同然の骸骨になっちゃって、くノ一は立ち上がって裾を直しながら「信濃忍法筒涸らし」とかって、ばかばかしいことを言うわけですよ。東大の美学出身なのに「竹内(敏雄)教授はどう思うだろう」なんて言いながら。おまけに東映のドン・岡田茂(当時は東映の取締役東京撮影所長、後に会長)の前で台本を読み上げなくちゃいけない。
碓井 書いた人、つまり脚本家や監督が読むんですか。
倉本 当時の東映、いや日活もそうですよ。
碓井 面白いなあ。その後、テレビのほうでは『青春とはなんだ』(日本テレビ系、65年)、『これが青春だ』(同、66年)と立て続けに青春ドラマの原点みたいな作品に参加していきます。先輩脚本家たちとの競い合いだから鍛えられますよね。
倉本 当時の僕はシナリオライターになりたてでしょう? 板前でもなんでもね、10年ぐらいの修業を経ないと一時期売れても絶対続かない。だから、とにかく脚本の職人になろうと思ったんですね。右から来ても、左から来ても、どんな注文でも請け負う。ただその中に一点だけ、短編小説の核みたいなものは入れていこうと思いましたね。
碓井 これもぜひ聞いてみたかったんですが、複数の書き手がいる場合、制作前に脚本家を全員集めて説明会みたいなものがあるんですか。
倉本 ないですね。プロデューサーが大体の共通案を作るんでしょうね。
碓井 60年代における倉本先生の代表作のひとつ、松本清張原作『文五捕物絵図』(NHK、67年)にも何人かの脚本家がいました。
倉本 『文五』は杉山義法さんや田村孟さん、石堂淑朗さんなどいろんな人が書いてましたね。
碓井 しかも、ディレクターの中には、あの和田勉さんがいる。いま考えれば、かなり豪華なメンバーなんですよ。
倉本 確かにそうでしたね。
(次回に続く)