ひとりぼっちの夜に
「あなたは優しい人なんですね」
深夜の公園でお話する22夜鷹✕14司の話。
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ボロボロと、涙がこぼれては染み込んでいく。
深夜の公園で、一人の少年がベンチで蹲っていた。
抱える膝は成長する癖に大人になりきれない自分を、半分しかない月明かりが照らしている。
いっそ、大人になれればよかったのかもしれない。そうすればこの気持ちも割り切れて、今まで通りの、所謂"普通"の人生を選ぶことに迷いもなかっただろう。でも、そうはならなかった。
出会ってしまったのだ。あの日、あの時、液晶の向こう側に見た美しい景色。知ってしまったら無視なんてできなかった。それを自分の足だけで作り出したかった。なのに。
自らに対する悔しさが溢れて止まらない。
そんな自分の弱さが嫌いだった。
「ねぇ、もう夜だよ」
硬い靴に砂利の擦れる音が聞こえて、静寂を切り裂く低い声が辺りに響いた。面を上げれば、司が座るベンチの側に男が立っている。
電灯に浮かび上がる黒いサテンシャツにスラックス、コート。闇夜をまとう出で立ちには白い肌が浮いていて、その目元は陽射しもないと言うのに大きなサングラスで隠されていた。
「ねぇ、夜だよ。帰りなよ」
反応を返さない司にもう一度声がかけられる。服装はパッと見不審者でしかなかったが、帰宅を促す様子をみるに、深夜にひとりきりでベンチに座り込む司を心配したのだろう。
公園の時計を見れば、時刻は深夜二時を過ぎた辺りだった。
「大丈夫、です。お気遣いありがとうございます」
出した声は少し震えていた。誤魔化すように鼻を啜り、赤い目元を擦る。赤の他人に泣き顔を見られるのは、年頃の男子中学生には少々気まずいものがある。
「……普通こんな時間に出歩く子どもはあまり居ないと思うけど。ましてや泣いてる顔で大丈夫だと言われも説得力がない」
……大変その通りだ。
司は無計画で家を飛び出してきてしまった事を少し後悔した。固まっていた足を解いて、地面へとゆらゆら揺らす。使い古しのジャージに自分への情なさが染みていた。
理由を言ってもきっと、大抵の大人は呆れるか笑うかだろう。さて、どうしたものか。
「……警察を呼んだ方がいい?」
「え」
「もしくは、児童相談所?……そちら方面に伝手はないけど、弁護士なら紹介してあげるよ」
「い、いやいや!いいです大丈夫です!そういうんじゃないですから!!その……――ただの家出なので」
話があらぬ方向へと進みそうになり、司の方から思わず口に出してしまった。といっても、気持ちが落ち着けばすぐに帰る予定だった為、家出といえるのかも微妙なのだが。
――家出……。
ポツリと男の口から呟かれた声は、まるで知らない単語を口にした時のようだった。
「……なんで?」
「えっ」
まさかの疑問形。普通理由は聞かずそっとしておくものではないのだろうか。他人の子供の厄介事にそんなズケズケくる?
批難されるか諭されるか、そう身構えていたた司は呆気にとられる。
サングラスから薄らと透ける男の瞳はジッと此方を見つめていて、その様子が数年前に見たなぜなに期の弟たちにひどく似ている。
大人のくせに、どこか子供っぽい。
「普通の子供は家に居るだけで幸せなんだと思ってた。……君は違うの?」
どう、なのだろう。司は考える。
確かに、幸せではあるだろう。お金はなくとも、世間一般で言えば愛されていると言える立場だ。でも……
言葉にできない息苦しさを思い出す。月が雲で隠されたのか辺りの光源が薄く陰って、心の端に冷たさが忍び寄った。
どうにもならないことは理解しているつもりだ。自分には勇気も、運も、金もない。それでも諦められない自分を赤の他人に切り捨ててもらえたなら、少しは楽になれるだろうか。
「少しだけ、俺の話を聞いてくれませんか」
「…………」
苦しそうに、申し訳無さそうに。司が笑って見せれば、男は無言で寂れた木のベンチに腰掛けた。距離が近づいて、司の隣から知らない大人の香りがする。
「俺、この前夢ができたんです」
――他にはないぐらいの大きな夢が。
数カ月前の事だった。
不意に付けたテレビで見た、フィギュアスケートの特集番組。画面越しで、命が燃えていた。
過去のオリンピックという大舞台で、いくつもの視線を釘付けにした彼、"夜鷹純"の演技は、たった数十秒で少年の脳裏に焼きついた。
高く飛ぶジャンプ、深いエッジワークに、軽やかなステップ。目を回しそうなほど素早いスピンに、何より高いフリーレッグが魅せるスケーティングをただひたすら美しいと思った。
司にとって生まれて初めての感覚だった。制服の上から抑えつけるように、無意識に左胸をギュウと掴む。
視界の端で火花が散っている。
――この世界で、氷上の世界で生きていきたい。
そう思わせるには十分だった。
「でも、その夢は小さいころからうんと努力してないと叶わないものなんです」
なけなしのお小遣いを持って、はじめてスケートリンクに足を運んだ。同級生と比べても懐の少ない司にとって、一回の入場で二枚の紙幣は大変痛手だったが、氷上に立てばそんな気持ちも吹き飛んだ。
初めて着けるスケート靴に浮かれすぎて勢い余って転んでしまったが、その時の冷たさすら愛おしい。立ち上がり、周りを見渡す。
昔から見て真似るのは得意だった。一般客の中から上手な人を観察して、その日の内に手すりから手を放し滑れる様になる。
次は何をすればいいのだろう。大会で滑るあの人たちのようになるには何が必要だろう。そんなことで頭がいっぱいだった。
「それに……とんでもなくお金もかかって、貧乏育ちの俺の家じゃ到底払えません」
帰りがけにロビー内を見渡せば、スケート教室がある事を知った。これだ、と思った。チラシを持って受け付けにいた人に話を聞きに行く。敬語の拙い子供にも、受け付けの係員は丁寧に答えてくれた。
『君の年齢だと、今から選手は難しいかも知れないけど、小さな大会に出られるくらいにはなると思うよ。』
『え?』
『……?ああ、選手志望だと幼い頃から始めないとダメなんだ。幼い頃から慣れておかないと、高難度のジャンプが跳べなくなるからね』
――そう言えば、レッスン代の方は大丈夫?コーチも付けるなら、一度親御さんと確認してね。
浮かれていた気持ちが、スッと冷えていく心地がした。渡された白い紙に並ぶ数字に、話し声が入ってこない。タイミングが悪かったのだと、そこで諦めていれば楽だった。でも、脳裏に焼き付く光を思えば、そちらを選ぶ自分など到底許せる筈がなかった。
いろんなリンクを回った。でも、どこも出てくるのは同じ言葉ばかり。
『お金がないと』『その年齢じゃあねぇ……』
悔しかった。憧れと同じどころかスタートラインにすら立てやしない自分が。
「いっそ、今持ってるもの全部捨てて、夢に全部捧げてやろうかとも思いました。でも――」
――できなかった。
自分たちを学校に行かせるために、汗水垂らして働く姿を知っている。弟たちのわがままにもできるだけ応えて、「いつか大人になったら恩返ししてね」と笑う姿を思い出しては胸が痛くなった。
こんな優しい人たちに、学校に行くお金をスケートに回したいなんて、言えるはずがなかった。大成する保証もないまま、今の日常を壊す勇気がなかった。
「ダメダメですよね、でも、それでも諦めきれなくて」
過去の自分の情けなさに、司から軽い笑いがこぼれる。長話に飽きたのか、隣からはカチリと音がして男がタバコに火をつけた。吐き出される煙に、大人の匂いが一層濃くなる。
「だから、繋がることばかりを大切にする、捨てられない弱い自分が嫌になって、こんな時間に、こんなとこに来ちゃいました」
嫌な話にしたくなくて、最後の方は明るく努めた。……これでお話は終わり。
時刻は長い針がちょうど半分を指して、空の色もより深みを増している。月も姿を消して、後は明けていくだけなのだろう。
男は何を返すだろうか。いっそのこと何も言わないのかもしれない。それもいい。見捨てられるのは慣れっこだ。
「僕は全てを犠牲にしたよ」
――夢じゃなくて証明の為だったけどね。
話を、してくれるとは思わなかった。言葉とともに形を成した煙が闇夜にに溶けていく。上を見る横顔は、何を考えているのか司にはよく分からなかった。
「証明……出来たんですか?」
「うん。でも、それ以外は何も残らなかった」
男――夜鷹純は、あの日のフラッシュライトを思い出す。引退会見のアレは酷くまぶしく、夜鷹を不快な気持ちにさせられた。
氷上を降りて、陸で生きる。自身で決めたことと分かっていても、どこか息苦しかった。
全てを捨ててきた、スケートの為に。そこでしか生きられないから、そう選択してきた。少ない荷物を天秤に掛けて精査し、より重い方だけを大事に抱えて。
それを手放したのだから、あとに残るものは何もない。家と呼ばれるものに帰っても何処にいても生きた心地がしない。ただ、あの肌に当たる冷たい風を恋しく思った。
「普通だったなら、そうはならないんだろうね」
友人の事を思い出す。彼は捨てなかったから、持つものが沢山あって重たそうだった。でも、幸せそうでもあった。
自分の生き方が間違っているとは思わない。むしろ正しいのだろう。いくつもの金メダルが、それを証明している。
それでも、一人だなと思った。
「……君の夢が何かは知らないけど、少なくとも僕と同じ道を辿る必要はない筈だ」
――無理に捨てなくてもいいんじゃない。
不器用な夜鷹の本心に、司の心が震え、ポロリとまたひとつ涙が落ちた。
悲しさよりも嬉しさに近かった。
「あなたは優しい人なんですね」
夜鷹が驚いたように司を見る。そんなはずはなかった。だって、この意見は他人だからこそ言える無関心故のものだ。この少年だって、それを分かっているはずだ。
それでも彼は微笑む。その顔は慈愛にも似ていて、夜鷹は酷く眩しさを覚えた。
「話、聞いてくれてありがとうございます。俺、もう帰りますね」
司がベンチから立ち上がれば、正面から空っ風が吹いてきて、身体から熱を奪っていく。
思わずくしゃみをすれば、同じく隣で立ち上がった男にバサリとコートを被せられた。
同時に差し出されたぎこちない掌に、司は首を傾げる。
「えっ、と……?」
「……送る。途中で襲われでもしたら寝覚が悪い」
大人の皮を脱いだ彼はやはり随分と子供っぽく見える。その優しさに甘えることにして、司は不器用なその手に笑いながら自分の手を重ねた。
ボロボロのアパートは深夜に見るとお化けが出そうに感じる。司は見慣れてしまったが、男にとっては新鮮だったらしい。本当にここでいいのかと確認する様は幾分か司の笑いを誘った。
「じゃあ、ありがとうございました」
「……ちょっと待って」
コートを返し別れの挨拶を告げれば、不意に男に呼び止められる。こっちと手招きする手に誘われるように近づけば、額に冷たい温度が当たった。
「……君に幸運がありますように」
置かれた男の掌越しに、軽く唇が落とされる。ぶわり、と司の頬が赤くなった。素早く離れて、思わず額を両手で押さえる。
「!?え、なん、…!?」
「おまじないだよ」
夜鷹の掌が行き場を失い、心地よかった温度が離れて、外気温と交わり消えていく。
いつかの日に友人の恋人に教えて貰った家族の習慣。一日の終わりに、相手の幸運を祈るおまじない。
どうしてか、してあげたくなった。自分の事を優しいと評した誰より優しい彼に、幸せな日々があればいいと思った。
「おやすみ」
「あ、おやすみなさい……?」
家に入る少年を見届けて、夜鷹は1人暗闇へ歩き出す。
呼吸をする。
今日は少しだけ、息がしやすかった。
音を立てないようにそうっと玄関を開けて中に入る。出ていくときも確認したが、内からの反応がないことにホッとした。
振り返って、小さく開けた扉の隙間から男の姿を確認する。暗闇に紛れていく彼が少しだけ見えて、建物の影に隠れて分からなくなった。
扉を今度こそ閉め切り、気持ちを逃がすように大きく息を吐く。あんなに動揺してしまったのが今更になって恥ずかしい。
そういえば連絡先も聞き忘れてしまった。もうお礼もできやしない。
諦めて静かに子供部屋に入れば、並べられた布団の上で兄が起きて座っていた。睨むような目に、思わずビクリと肩が跳ねる。
罪悪感でいそいそと近づけば、無言で乱雑に頭を撫でられ抱きしめられた。いつから気づいていたのか、随分と心配をかけてしまったらしい。そのまま布団に倒れ込んだ兄の腕は解けない。今日は一緒に寝ることになりそうだ。
家系なのか、自分同様の高い体温に、ふとあの人の掌を思い出した。冷たくて、心地良くて、優しい人の手。手が冷たい人は心が温かいって本当なんだなと司は思った。
寝なかった分を少しでも取り戻そうと、明日の予定を考えながら瞼を閉じる。あの人祈られたように、幸運のある日々になればいいと思った。
あの人にもそんな日々が訪れるようにと、ただ、願った。