深夜の貸し切りアイスリンクは、夏の夜の蒸し暑さが嘘のように冷え切っていた。天井に点る夜間照明が白銀の氷面を寂しげに照らし、滑走の立てる音だけが響く。
そもそも、睡眠不足でフラフラの司がこの時間ここにいるのは、鴗鳥慎一郎に誘われたからだ。
「最近は貸し切りにいらっしゃいませんね? 今夜は明浦路先生も参加しませんか」
尊敬する慎一郎にそう声をかけられたとき、司は嬉しさと同時に胃が痛くなるほどの緊張に襲われた。というのも司が加護家を出ることを決めた時に、交際中の純から「いい機会だから一緒に棲みたい」と同棲を提案されたことが発端だ。司は決して同棲を嫌がった訳ではない、むしろ嬉しくさえあったのにその申し出を断った。「それだと純さんに頼り切りになります。これまでだって加護さんに頼りっぱなしで、今は俺自身が一人でしっかりと自立したい」そう答える。恋人として純の隣に胸を張って立ちたいという、司なりの大真面目で切実な決意だったのだが、説明不足すぎたのが災いした。それを上回る言葉足らずの純から「好きにすれば」と冷ややかに突き放され、二人の関係は絶賛ギクシャク中だからだ。司が一人暮らしを始めてからというものとりつく島がなくなり、最低限の連絡以外はメッセージも既読スルー。恋人関係が幻だったかのような冷戦状態に、司のメンタルは日々すり潰されていく。純に会いたい、けれど気まずい……そんなジレンマを抱えながらも、司は藁にもすがる思いでこの深夜の練習に参加したのだった。
しかし淡い期待はリンクに入った瞬間に打ち砕かれた。案の定、二人の間には見えない氷壁がそびえ立っている。純は司がリンクインしても挨拶すら交わさず、完全に他人行儀な態度だ。ただでさえ気まずさでメンタルが削られているところへ、連日の睡眠不足が追い打ちをかける。頭の奥はズキズキと重く、視界の端がかすんでアクセルの空中軸が完全に迷子になった。
バンッと氷上に強く身体を叩きつける鈍い音が響く。派手に転倒した司は、冷たい氷の上で荒い息を吐いたまま大の字に転がり、心身ともにログアウトして起き上がれない。
「……早く起きなよ」
容赦なく冷徹な声をかけたのは、もちろん夜鷹純だ。美しく端正な顔の元王者は、転がる司を見つめたまま一歩も動かない。いつものリンクであれば恋人として真っ先に駆け寄り、甘々に抱き起こしてくれるはずの男である。しかし今夜の純は腕を組んだまま、氷よりも冷ややかな金色の瞳で司を見下ろすのみ。ツンとすましたその横顔からは、恋人らしい温もりなど微塵も感じられない。
司はミシミシ言う身体をのろのろと起こし、リンクサイドのベンチへと這い上がる。タオルで顔を覆ってガックリと項垂れていると、二人を誘った張本人である慎一郎が、ブレードカバーを嵌めながら近づいてきた。
「今夜の明浦路先生は調子が出ませんね。どこか痛めましたか?」
慎一郎が覗き込むようにして司の顔色を真剣に心配する。その瞳には司への純粋な労わりが滲んでいた。
「あ、いえ、怪我はないです……」
司はタオルの隙間から消え入りそうな声で答えた。純は相変わらず視線すら合わせようとせず、不機嫌そうにフンッと鼻を鳴らす。それでも司の転倒を心配しているのか、近くからは離れようとしない。
慎一郎から見れば、純が司の様子や体の動きをさりげなく観察しているのが丸わかりだ。さっき司に掛けたの冷徹な言葉も、きっと本当は「危ないから早く起きなよ」と言いたかったのだろう。しかし純の頑なさは、余計に場の空気をねじれさせている。どうしたものかと慎一郎は話題を変えた。
「そういえば明浦路先生は一人暮らしを始めたとか」
「はい……まあ、そうですね……」
「てっきり私は、二人が喧嘩でもしたのかと声をかけましたが……純くんがいつもと違う様子なので、なにかありましたか?」
「すみません! 鴗鳥先生に心配を頂いて」
喧嘩はしていないが、このギクシャクっぷりは破局寸前に見えてもおかしくない。
「いえいえ。私で良ければご相談に乗ります、どうぞ遠慮なく仰ってください」
「鴗鳥先生……その、俺が住んでるアパートで少しトラブルがありまして……」
「新生活早々それは、防犯上のトラブルですか?」
「そうならまだ良かったのですが……物理的な防犯が通用しない相手というか、とにかくまともに眠れていなくて……」
弱り目にたたり目で、完全に限界を迎えている司の頼りない告白に、慎一郎はますます眉をひそめて純のほうを振り返る。だが当の純はフイッとあさっての方向を向いたまま皮肉っぽく言った。
「自立するのは結構だけど、自己管理がなってない。睡眠不足で着氷もできないの」
「こらこら純くん、口が過ぎるよ。明浦路先生、顔色が完全に土気色だ。本当にただの寝不足ですか?」
慎一郎が間に入るが、司は本当に情けなさそうに涙目になる。純のそっけない態度が悲しい上に色々と限界だったのだ。
「……すみません。言い訳になるのですが……実は、新しく借りたアパートに出るんです。……幽霊が」
「幽霊?」
司の意外な言葉に慎一郎が目を丸くする。司の話によれば、安さを最優先に選んだ家賃月三万の格安物件が、見事な事故物件だったらしい。毎晩深夜になると不気味な怪異が起きるのだという。姿はぼんやりとしか見えないが、確実に何かが部屋の中に現れて動き回る。その恐怖のせいで夜は一睡もできず、体調を崩してスケートにまで支障が出ていたのだ。
「なるほど、それは災難でしたね。でも明浦路先生、朗報があります。実は純くんは幽霊が見えるんです」
「え!」
「純くんが居れば私にも幽霊が見えるんです。きっと幽霊の正体が突き止められる」
「慎一郎くん、余計なことを言うのはやめて」
純が本気で嫌そうな顔をして親友を睨みつけるが、心身ともに極限まで追い詰められた司は、もはや他に選択の余裕もない。
「本当ですか、純さん!? お願いです、助けてください」
「……ねえ勘違いしないで。僕はただ『見える』だけで、お祓いができるわけでも何でもない。お札を貼ったり塩を撒いたりなんて専門外」
「でも幽霊の正体が分かれば、私たちにも対処法が考えられるのではないかな?」
「さすがです鴗鳥先生! 俺もう何日も眠れていなくて、お化けが怖くてアパートに帰るのも限界なんです……! 純さん、お願いします」
純は睡眠不足で今にも泣き出しそうな恋人の上目遣いに根負けした。
「チッ」と舌打ちはしたがしぶしぶ「今夜、その部屋を見てあげる」と約束した。
そんな二人を見て、慎一郎は嬉しそうに目を細めていたが。
「慎一郎くんも行くよ」
「えっ私かい?」
「バラしたんだから最後まで責任を取るべきだ」
「鴗鳥先生! よろしくお願いします」
かくして三人揃って司のアパートに行くことになった。
†
深夜一時半。三人は司の新居であるアパートの一室にいた。古い木造の建物は壁も薄く、六畳一間の部屋は司の逞しい大柄な体躯にはあまりにも手狭である。慎一郎は「私の大学時代を思い出します」と部屋を見回して懐かしがっているが、純の様子はアパートに入った瞬間からあからさまに不機嫌になっていた。なぜか腕を組んだまま、苦虫を百匹くらい噛み潰したような顔になっている。
「純さん? やっぱり、ここには何か恐ろしい怨霊がいるんでしょうか……?」
様子のおかしな純を見て司がガタガタ震えながら尋ねるが、純は「……いや、僕は気にしないで」と、これまで聞いたこともないような死んだ魚の目で言い捨てた。
やがて時計が二時を告げる。すると室内の空気が一変した。エアコンもつけていないのに、足元から這い上がってくる冷気が部屋を支配する。みしり、みしりと、誰もいない床の畳が湿った音を立てて軋み、部屋の明かりが不自然にチカチカと明滅する。
「来ました……! いつもこの時間なんです……!」
司はあまりのおどろおどろしさに悲鳴をあげ、藁にもすがる思いで純の背中にがっしり抱きついて後ろに隠れた。大柄な司に必死にしがみつかれながらも、純は身じろぎもせず、ただベッドの脇の空間を凄まじい形相で睨みつけている。
ガタガタと窓ガラスが激しく震え、部屋の隅の暗闇から、負の渦を纏った半透明の男の影がぬっと姿を現した。禍々しいほどの冷気を放ちながら、影はゆっくりとベッドへ這い寄る。司は純の背中に顔を埋めて震えた。
しかし——その恐怖の幽霊の行動は、ここから一気にシュールな方向へと爆走し始める。幽霊は司を呪う風でもなく、なぜかひどく寂しそうな表情を浮かべて、司のクローゼットの扉をそっと開けた。そしてほとんど何も入っていない空間を眺めてガックリと肩を落とす。さらに寝床を探すようにベッドの掛け布団の端をめくると、司がいつも寝ているスペースへ一緒に入ろうと、もぞもぞと這い上がり始めた。
恐怖の怪異というにはあまりにもストーカーじみたその動きに、慎一郎は幽霊の顔をじっと見つめ、やがて耐えきれずに吹き出した。
「……ぶっ! これはこれは、世界中どこを探しても一人しかいない、僕のよく知る綺麗な顔をしているねぇ」
「え?」
司が恐る恐る純の背中から顔を上げ、幽霊の顔をその目にしっかりと捉えた。その瞬間、司の思考は完全にフリーズする。半透明ではあるが美しい黒髪、冷徹で端正な顔立ち。そして見紛うはずもないその傲然たる、しかし今はひどく寂しげに司の布団に埋もれている姿。
「純、さん……? なんで純さんがもう一人ベッドに居るんですか、ってかなんで枕を嗅いでるんですか!」
司がしがみついている方の純は顔を限界まで真っ赤にして、それから叫んだ。
「……消えろ、僕!」
本物の純が、これまで聞いたこともないような羞恥の絶叫をあげ、手を伸ばして幽霊の胸ぐらを引っ掴む。半透明の純は、シュン……とこの世の終わりみたいな悲しい顔で、霧のように儚く霧散してしまった。途端に部屋の冷気が一気に引き、元の生温い夏の空気に戻る。
「……いまの、純さん?」
「言わないで」
「なるほど。純くんが部屋に入った瞬間から妙に気まずそうにしていた理由は、これですね」
慎一郎が肩を震わせて笑い声を噛み殺し、司は完全に置いてきぼりでパニックだ。実は純は、部屋に入った瞬間に『自分の執念の気配』を察知し、すべての真相を秒で理解して恥ずか死にそうになっていた。
「あ、あの、いまのは一体何だったんですか! お祓いできたんですか!?」
「明浦路先生、あれはお祓いが必要な悪霊ではありませんね。言うなれば純くんの生霊かな」
「生霊!?」
無言でしゃがみ込んだ純が、それを肯定しているようなものだ。慎一郎が耐えきれずに笑いながら言った。
「無意識に生霊を飛ばして、純くんは毎晩ここに居座っていたんだね! 」
「……本当に勘弁して慎一郎くん」
口では『一人暮らしをすればいい』などと冷たく突き放し、そっけない態度をとっていた純。だがその実、本心では司に出て行かれたのが寂しくて寂しくて仕方がなかったらしい。夜な夜な司の元に現れてベッドに潜り込もうとしていた。幽霊とは名ばかり、正体は司への執着と未練の塊の純であったのだ。
「本物の純くんには霊感があるから、ここに来た瞬間から自分の生霊が見えていていたんだね」
慎一郎の解説を聞き、司は呆然と本物の純を見つめた。純は完璧に王者のプライドを粉々に打ち砕かれた様子で、体育座りのように小さく膝を抱えている。冷たく突き放した手前、今さら寂しいとは言えない、あまりにも不器用な愛の生霊だった。
正体が大好きな純の、寂しがりやな生霊(ストーカー行動)だと分かった瞬間、司のなかの恐怖は一秒で消えた。それどころか自分を冷たく突き放したと思っていた純が、実はそこまで自分を狂おしいほどに求めてくれていた。胸の奥から爆発的な愛おしさが込み上げる。
「純さん……」
司がそっと歩み寄り、純が膝を抱える手を両手で包み込むように握りしめた。純はなおも気まずそうに視線を彷徨わせていたが、司の温かい手のひらの感触に観念し、深いため息を吐く。
「……悪かった。きみの決意を尊重すべきだと思っていたのに、僕の子供じみた寂しさと独占欲のせいできみを寝不足にさせて、スケートまで台無しにさせていたなんて」
「違うんです。俺、すごく嬉しいです。純さんがそんな風に俺のことを想ってくれていたなんて。突き放されたと思って、本当は俺も寂しくて死にそうだったから」
司は愛おしそうに微笑み、純もまた、今度はそっけない態度など窓から投げ捨て司の手を握り返した。
「なるほど。お祓いの塩は不要で、これは仲直りで良いのかな?」
慎一郎がニコニコしながら言うと、純は少し持ち直したように頷いた。それから一切譲らない確かな口調で司に告げる。
「この部屋をすぐに引き払って。荷物をまとめて僕の家に来るんだ」
「えっ。でも俺、自立するって決めたばかりで……」
「却下だ。僕のせいで眠れないのなら、解決策は一つしかない。……これからは毎晩、生霊なんかじゃなくて本物の僕がいる」
yesしか答えを聞かない純の口調に、慎一郎は苦笑いし、司は少し口を尖らせたが結局は「はい」と頷いた。
こうして、司の短い一人暮らしはわずか数日で幕を閉じ、二人で住む家には二度と幽霊が現れることはなかった。なぜなら夜な夜な寂しさに震えていた純は、今や毎晩同じベッドの中で司と眠っている。身体と心を重ね合わせ、そして深く互いを満たし尽くしているのだから。
†
「……それにしてもおかしいですね」
ある日ふと思い出した司が、ソファで煙草を燻らす純に言った。
「おかしいって何のこと」
「幽霊の正体が純さんの生霊なら、別に事故物件って訳じゃないですよ。だったらあの部屋、どうして家賃が格安だったんだろう?」
純は咥えた煙草を唇から離すと、ゆっくりと煙を吐き出して、それからたっぷりと考えてから声に出す。
「……司は気付かなかったの」
「何がですか?」
「いっぱい居た」
「……え?」
固まる司に向かい純がチラッと視線を寄越したが、また手元の煙草に視線を落とし再び唇に咥える前に呟いた。
「知らなくて良い事もあるよ」
「え、……え?」
そこからは司が何度尋ねても純は残りの言葉を口に出そうとはせず、文字通り唇から吐く煙草の煙に巻いてしまったのだ。
ーー荷物の少ないクローゼットの中にも、たった六畳の狭い部屋の中にも其れは居た。だから純のあの生霊が其れ等から司を護っていたのだろう事も、きっと知らなくていい事だーー
どっとはらい