鴗鳥家の祝日は穏やかである。
無論、夜に名港ウィンドの練習が入っていれば、ヘッドコーチたる慎一郎と理凰の帰りは遅くなる。
一方、今日のような振替休日はリンクを確保することが難しく、練習は休みになることが多かった。
それは、普段から多忙にしている慎一郎にとって、一家団欒のひと時を過ごす、かけがえのない時間でもあった。
夕食どきを迎えた家族の食卓に、色とりどりの料理が並べられる。
普段のコーチ業から一点、妻エイヴァの手料理に舌鼓を打ちつつ、今年中学生になった息子に、私生活について水を向けてみる。
エイヴァによると、周囲のママ友は息子の反抗期に頭を悩ませているらしい。
多感な時期である子供が、素直にこうして会話をしてくれることについて、もう少し自分は感謝をしたほうがいいのだろうか。そのうち、息子との間に会話が無くなってしまっては寂しい。
だからこの時間は特に、慎一郎はスケートの話題を避け、学校の話や友人関係、悩みについて、理凰によく聞くように心がけていた。
子供の成長は早い。
もしかしたら、コーチとしてではなく、父親として、息子に向き合える時間はそれほど多くないのかもしれない。
慎一郎は咀嚼と共に、この穏やかな時間を噛み締めていた。
************
「あのさ…」
一家団欒の後、食後の片付けは慎一郎と理凰に任されるのが日課となっていた。
茶碗を拭いていると、重なったものから食器棚にしまっていた理凰が気まずそうに口火を切った。
「し、知ってたらでいいんだけど」
「どうした?」
「あ、明浦路先生って…その…恋人とかいるの?」
「えっ」
慎一郎の脳内は突如宇宙と化した。
花婿姿の息子が自分の手を引きリンクの上を滑走していた。白い花びらと氷の破片が舞うエキシビジョンで、スポットライトで照らされた先にはあの明るくて優しい青年が同じく花婿姿で息子の手を取るのを待っている。
アイスダンス元選手である彼ならばどんな時でも息子と並走を…というか花婿姿で滑走ってなんだ?
しばらくフリーズした慎一郎は、脳内の明浦路先生が理凰をリフトするところを見届けてから絞り出した。
「少し…年の差が…ある気がするが……」
束の間。
理凰は弾かれたように顔から火を吹いた。
「ちっっっっがう!!!!!!いや違くはない明浦路先生のことは大好きだけど!!!!」
「………??理凰が明浦路先生のことが大好きなのは知っているが…」
「そうじゃなくて!!!!!アイツ…いのりが!!!!変なこと言うから!!!!!」
「結束いのり選手?」
理凰の相談事ではないらしい。
他クラブの選手の名前が出たことで、やや冷静をとり戻した慎一郎は、ほっとして脳内エキシビジョンを閉幕させた。
「…この前会った時にアイツが言ってたんだよ。司先生、いつもと変わらないけど、ちょっとだけ、本当にちょっとだけなんかいつもと違うって。なんか悩んでるんじゃないかって。アイツ、そういうのよく気がつくから。」
「スケートやコーチングに関することではないのかな。」
「指導に問題はないって。…まあスケートに何かを持ち込むような司先生ではないし。だからプライベート?かもって。」
「なるほど…」
子供は大人の変化に大人が思っている以上に敏感である。
結束いのり選手は明浦路先生のことが大好きなのであり、だからこそスケートに関係のない明浦路先生の変化について、踏み込むべきか悩んでいる。
そして理凰もまた、明浦路先生を心から尊敬しており、色々と子供同士で相談した結果、周りの大人から探りを入れようとしたのだろう。
単純に思春期の中学生2人が明浦路先生の話で盛り上がり、プライベートがもっと知りたくなったというだけかもしれないが。
(明浦路先生は本当に生徒から人気者だなあ…)
慎一郎は明浦路司を思い出し、優しく笑った。
「先生にもプライベートはあるからね。話したいことと話したくないことはあるだろうけど。…でも明浦路先生には理凰がお世話になったからね、何か困っていることがないか聞いておくよ。」
本来、コーチ同士がプライベートについて踏み込んだ話をすることはあまりない。
合宿や大会後のコーチ同士の飲み会でも、指導方針や大会の話、世間話が多々であった。
特に明浦路先生は、他クラブのコーチに指導方針やアドバイスを聴取するのに熱心であり、思い返せば、明浦路先生自身の話は、慎一郎も直接聞いたことはなかった。
もし何か困っていることがあるのであれば、自分ができる範囲で力になりたい。
理凰がお世話になった恩返しとは言わないが、少なくとも年長者として、時には誰かに悩みを話すだけでも、人は心が軽くなると言うものだ。
ピンポーンと玄関のチャイムが鳴った。
「総太くんだ!」
今日は理凰の友達が泊まりに来ることになっていた。
玄関に向かって駆け出した息子の背中を見送る。
珍しい息子からのお使いごとに、慎一郎は少し浮かれていた。
************
「司くん、また深夜バイト始めたの?」
月曜日の夜。
製氷作業が終わり、生徒が帰宅したルクス東山のオフィスにて、帰り支度をしていた鴨川洸平は、明日の練習メニューを細かに確認している同僚、明浦路司に声をかけた。
「えっ…いのりさんの3回転ルッツの成功確率がなんだって?」
「1文字も合ってないんだけど俺の話聞いてた?」
この子はスケートのこととなると止まらない。
コーチの鏡としては申し分ないが、洸平にはそれよりもやや気がかりなことがあった。
「最近、練習が終わってリンクから出るとよくスマホを確認してるでしょ。飲みに誘っても来ないし。こん詰めすぎじゃない?大丈夫?」
「え!!ごめん出てた?練習中は一切手を抜いてないと思うんだけど…」
「練習の話じゃなくて。司くんの話。」
「俺は大丈夫だよ、無理してないし何も支障はない、ありがとう洸平くん。」
「そうなの?なら良いけど。…じゃあ先に上がるよ、お疲れ。」
「うん、お疲れ様。」
洸平の背中を見送った後、明浦路は再度、明日の練習メニューを最終確認してタブレットを閉じた。
「俺もそろそろ帰るか…」
一度大きく伸びをして、椅子に掛けていたジャージに腕を通す。
ロッカーから私物を取り出しまとめ終わると、リュックサックのサイドポケットからスマホを取り出し、電源を入れた。
ほどなくして画面が明るくなると、電波を得た画面にはメッセージアプリからの通知がいくつか浮かび上がる。
親指でスクロールしながら確認していると、新しく画面上部から新着メッセージが届いた。
『タバコ』
これまで住んだどの家よりも上質そうなドアの前に立ち、少し深呼吸をすると背筋を伸ばした。
既に見慣れたドアではあるが、この瞬間だけはどうしても慣れなかった。
ドアに近づきインターホンを押す。
音は鳴らない。
居心地が悪くなり、軽く体重を左足に移すと、上質な廊下のカーペットの柔らかな弾力を靴越しに感じた。
ややして、ドアの自動ロックが解除される機械音が響く。
ドアノブを引くと、重たいドアと空いた隙間に素早く身を滑らせた。
(毎回この瞬間が一番緊張する…パパラッチとか気にしないのか?)
ドアが閉まり再び自動ロックがかかる音を背中越しに確認する。
「お、お邪魔します…」
靴を脱ぎ丁寧に揃えると、手前にあるスイッチを押した。長い廊下が明るくなり視界が明確になる。
初めてここに来た時は、勝手に電気を押すことすら憚られ、恐る恐る真っ暗な廊下を手探りで歩いた。
(リビングか?)
廊下を突き進むと、突き当たり右奥の部屋のドアが開いている。
中を覗き込むと、リビングのソファーにこの家の家主、ーーー夜鷹純が全裸で腰にタオル一枚巻いた状態で深く腰掛け、タバコをふかしながらスマホを確認していた。
(また風呂上がりかよ…)
明浦路はなるべく夜鷹の方を見ないようにしながらリビングに足を踏み入れ、コンビニの袋をテーブルの上に置いた。
「今日の分です。ここにお置いておきますね。」
「………」
「…失礼します」
「来週は」
終わった!と言わんばかりの勢いで、急いでリビングから立ち去ろうとする明浦路の挙動がぴたりと停止した。
そのまま夜鷹の方を向いて滑らかに深々と頭を下げる。
「よ、よろしくお願いします!」
「………」
返答がないので少し顔を上げて夜鷹の方を見ると、本人はスマホに視線を落としたまま、スクロールを続けている。シャワー上がりの水滴がまつ毛を濡らし、液晶の光を反射した。少しかきあげた前髪から伸びる端正な顔の輪郭が妖艶に見える。夜鷹純かっこよ。
見惚れていると金色の眼光と目が合い、明浦路は飛び上がった。
「し、失礼します…!」
「………」
バタバタと慌てて廊下を引き返し、急いで部屋から飛び出す。
場違いな高級マンションの廊下を駆け抜け、ようやく見慣れた外の世界に飛び出した。
「はぁ…はぁ…お、終わった…」
緊張していた身体が一気に弛緩し、汗が吹き出す。
途方もない時間のように感じられたが、スマホの画面を確認すると、この建物に入ってからそれほど時は進んでいなかった。
すると、メッセージアプリに新しい通知が届き、開くとチャットボックスにはURLを示す英字羅列が1件。
リンクをタップすると地図アプリが開き、指し示されたのは名古屋市内のスケートリンクだった。
「ふう……よし。」
スマホをそのままポケットに突っ込み、急いで家路に着く。
これが最近明浦路が交わした契約だった。
************
きっかけはスケート。
慎一郎、夜鷹と3人でスケートをしたあの一件以来、たまに夜の貸切に呼ばれるようになった。
恐縮していたのは初回だけ。いのりの為、明浦路はこの機を逃すまいと、慎一郎と夜鷹の滑走を盗み見てはトレースを繰り返していた。
結果、ものの数回の貸切練習で明浦路は2回転ジャンプは全てモノにし、目下の課題は3回転ジャンプであった。たった数回の練習でここまで上達して見せた明浦路に慎一郎は息を飲むしかなく、夜鷹は何も言わなかった。
(今日は夜鷹さん、3回転アクセル飛ばなかったな)
リンク使用後の製氷中、明浦路の頭の中はジャンプの修正について頭がいっぱいだった。
高難易度ジャンプや連続ジャンプの習得には、踏み切りや足の振り抜きといった細かな技術までタイミングを合わせる必要がある。鷹の目をもつ明浦路とはいえ、一度や二度、夜鷹のジャンプを見ただけでは流石に修正が間に合わなかった。
(あともう一度だけお手本が見れれば…)
夜鷹と慎一郎の気まぐれで2人の時間に混ぜてもらっている自分は、次いつ声がかかるか分からない。
(くそ…もう少しだったのに…)
製氷の手に力がこもる。
「……先生、明浦路先生」
「…!!あ、はい!」
反省に夢中になっていた明浦路は慎一郎の呼びかけに反応が遅れた。
「今日も来ていただいてありがとうございました。純くんも明浦路先生が来てくださるといつもより楽しそうです。」
「いや…ははは、俺なんかを呼んでくださって…鴗鳥先生には本当に頭が上がりません。」
(夜鷹純、俺がいるときはいつも不機嫌そうだけどな…)
横目で見ると、見事な手際の良さで製氷をしている夜鷹純が目に入る。
油断をしていた矢先、慎一郎が爆弾を投下した。
「私は今日少し急いでおりまして。すみませんが先に失礼させていただきます。明浦路先生は純くんとゆっくり帰宅なさってください。」
「え“っ」
「このスポーツセンターの鍵は事務員さんが閉めてくださるそうなので、そのままで結構です。それでは。」
「ちょ、え、う嘘ぉ!?」
「純くんも、またね」
「………」
明浦路と夜鷹の微妙な関係に気づいているのかいないのか、天然銀メダリストは必死の明浦路を振り切り颯爽とリンクを後にした。
「………」
「………」
(き、気まず過ぎる……)
製氷作業を続ける夜鷹を尻目に、とりあえず明浦路も渋々製氷作業に戻る。
数分間、黙々と製氷の氷の音だけが広いリンクに響いていた。
(こんなものかな…)
顔を上げると既に夜鷹の姿は無く、明浦路ただ1人が取り残されていた。
(普通に置いて行かれた…)
急いでロッカーへ向かい、手早く着替える。
事務所を通り過ぎる際に、警備の事務員に使用が終わったことを丁寧に伝えて礼を述べた。
スポーツセンターを出て時間を確認すると、そこそこ夜の深い時間である。
人気も無くメダリスト達の圧力からも解放された明浦路は、その場に座り込んだ。
「あ“あ“あ“〜〜今日もアクセル飛べなかったよ〜〜〜!!!負けない!!いのりさんのために俺も頑張るからね!!!!」
「うるさい」
「ウワアアアアアアアッ!!!??」
声がした方に目を向けると、スポーツセンター駐輪場横、喫煙スペースの闇の中で夜鷹がタバコをふかしていた。
「す、すみませんでした…」
「………」
「………」
「…踏み切り」
「えっ」
「ワンテンポ遅い自覚あるでしょ」
「!?や、やっぱりそうですよね!他の3回転と比べてもまだ前方向の踏み切りに慣れていないせいかジャンプの前に一瞬力み過ぎてしまう自覚はあってそれを連続ジャンプの後半に組み込むとどうしても前のサルコウが終わった後に」
「静かにして」
「!?す、すみません…」
夢中になって喋りすぎた。金メダリストを前にジャンプについて知ったような口をきいたことが後になって自覚され、明浦路は少し赤面した。
しかしやはり自分の改善点については自覚していた通りのようで、夜鷹に指摘されたことがまさしく自分が脳内に描くトレースとずれている部分であった。
(あともう3回、いや2回見れば合わせられるのに…)
いのりの指導のため。それは大前提であるが、明浦路自身、技を習得することの久々の楽しさに、無自覚に興奮していた。
夜鷹と自分の認識が合っていた事実が嬉しく、心の中で淡い期待が生まれる。
「あの…烏滸がましいお願いであることは十分承知しているんですが…次の貸切りの時に3回転アクセルを見せていたけませんか…?」
「1回でもいいんです…!1回見れればズレを修正できるので…」
お願いします、明浦路は頭を下げた。
「………」
「………」
(流石に無理か…俺はあの夜鷹純に啖呵を切ったんだからな…)
「いいよ」
「え!?!??!?!?!?」
「うるさい」
「すみません!!!!まさか良いって言ってもらえるとは思っていなかったので嬉しいです、本当にありがとうございます!!!!!」
「見返りは」
「…え?」
「………」
「………」
「僕の見返り」
「い、今までは見せてくれてたのに…?」
明浦路が勝手に盗み見ていただけであるが。
(俺にできることなんて何にもない…)
明浦路は焦った。
スケートで夜鷹に差し出せるものなど何もなく、自身の取り柄といえば体力くらいだった。というか夜鷹純が飛ぶ最高難易度ジャンプに釣り合う見返りってこの世に存在する?
これって遠回しに普通に断られてるってこと?
「携帯出して」
「あっはいどうぞ」
必死に考えていた明浦路は、気づいたら目の前に立っていた夜鷹に脳死でスマホを差し出していた。
だって俺ができることないんだもん。
夜鷹が無言でスマホを操作していく。
「な、何してるんですか?」
ずい、と夜鷹が目の前に画面を差し出した。
液晶の慣れない明るさに目を少ししばつかせると、そこには新規連絡先が1件、チャットアプリと電話帳に追加されていた。
「僕が必要な時に必要なものを買ってきて」
「パシリ!?!?」
「嫌ならアクセルは」
「やりまぁす!!」
コンプライアンス【意味】:法令遵守のみならず、社会倫理や道徳、モラルなどが含まれる。守るべきもの。特に大人が子供に接する時には気をつけるもの。尚、自分は除く。 出典:明浦路司辞書
普段、コンプラの塊としていのりに害を与えんとする大人に目を光らせている明浦路は、時には相手との関係次第で、自分も守られる側となる可能性を微塵も頭に入れていなかった。
そして普段ストッパー役となっている、高峰瞳や鴨川洸平はこの場に存在しなかった。
「契約だよ」
「え…?」
20代後半という年齢は、自分の身は自分で守れていると思っている実、当然ながら8歳年上から見れば相対的に子供なのである。
自分は大丈夫だと思い込んでいる人間ほど、詐欺にかかりやすいものはない。
そして、そこに敢えて手加減をしてやるという思いやりを、餌を前にした猛禽類に持てという方が酷であろう。
「これから毎回夜の貸切りに君を呼んであげる。ジャンプは勝手に見ればいい。その代わりちゃんとつきあってね」
************
翌朝、スマホを開いた連絡先に夜鷹純の名前を確認した明浦路司(正気)は、昨夜の自身の深夜テンションを猛反省した。それと同時に、あの夜鷹純の連絡先が自分のスマホにあるのを何度も確認して、ちょっとニヤつき羊さんに引かれた。倒すべき相手になったとはいえ、ファンはファンである。
そうして浮き足立っていたかと思えば、夜鷹純から何かとんでもない要求をされるのではないかと今更気づき、怯えて泣き出したため、羊さんに引かれた。
怯えながら過ごしてみたものの、夜鷹純からの連絡は待てど暮らせど無く、気になってスマホを確認する頻度が増えた。羊さんについに恋人でもできたのかと詰問された。
するとある日の夜、そろそろ寝るかと思い始めた時間に新着メッセージがニ件。
『タバコ』
1単語のみのメッセージとともに、どこかのマンションのURLが送られてきた。
場所は意外と遠くない、自転車か車を飛ばせばそれほど時間がかからない高級マンションのようだ。
え、何これタバコ買ってこいってこと?
明日の練習の後にでも向かうかとベットに入りかけた瞬間、今後は夜鷹の番号で電話がかかってきたものだから、明浦路はベットから転落した。
以降、夜鷹のリクエストは至ってシンプルで、大体がタバコ、次に栄養サプリだった。
毎日呼びつけられると言うことはなく、1週間で多くても2回。ただし、呼び出されれた時は早急に。
初めてタバコを買って行った時は、銘柄も何箱求められているのかも分からず、コンビニで人生史上初めて、「端から端まで全部ください」を発動した。無論夜鷹に1箱を除いて全て捨てられた。
ある時、喫煙頻度の多さが気になり、明浦路が「元金メダリストなんだから少し控えてはどうですか」と苦言を呈した時には、灰皿が飛んできた。
そうは言っても、憧れのメダリストの身体を蝕むものを自分が買い与えていることに耐えかねた明浦路は、タバコと一緒に健康食品を買っていくようになった。せめてもの抵抗である。
当然、夜鷹に「頼んでない」と一蹴され、ゴミ箱行きとなったが、何度か繰り返すうちにサプリなら飲むことが判明した。それでも「食事くらいたまにはとってください」と明浦路十八番の執念で、食べ物も贈り続けた。
ある時、台所に明浦路が勝手にストックしておいた健康食品の一つが開封されていたのを発見した時は、喜びGOE+5で褒めちぎったところ、今度はスマホが飛んできた。
一番困ったのが連絡が来るタイミングである。
これもパシリを始めて分かったことであるが、明浦路と夜鷹の生活リズムは真逆だった。
毎朝健康に目覚め、夜に就寝する一般的な生活を送っている明浦路と対照的に、夜から活動を開始する夜鷹からの連絡は深夜にきた。とはいっても、指導に熱が入りすぎる明浦路はルクス東山の夜の貸切練習後も、遅くまで残って作業していることが多く、ようやく帰路に着こうとした際に夜鷹からの着信履歴に気づくこともあった。
生活が噛み合わないのだからどうしたものかと夜鷹に相談した。
「じゃあこれ入れて」
「なんです、これ?」
「位置情報共有アプリ」
「位置情報共有アプリ!?!?!?!?」
マンションの一室に明浦路の声が響いた。
「仕事中は切ればいい。それ以外はプライベートと判断する」
「こ、これは流石に、俺のプライバシーに関わることなんじゃ…」
「僕のジャンプを見て上達しているくせに」
「ぐう」
流石の明浦路にもこれはまずいのではと言うサイレンが脳内で一瞬なりかけたが、それに見てみぬふりをするくらいには、スケートを上達させる楽しさに虜になっていた。
この契約をスタートさせて以来、夜鷹と慎一郎が2人で滑る時は言わずもがな、夜鷹が1人で滑る貸切りの時にも、たまにリンクに呼んでくれるようになった。わざわざジャンプのリクエストをせずとも、明浦路が練習しているジャンプのお手本を、夜鷹は気まぐれに飛んで見せた。
夜鷹純のスケートが生で見れるならそれくらいいいかな…鈍りに鈍った明浦路の自己保身能力は、既にこの程度の危険認識にまで落ちていた。
「わ、わかりました…仕事中は絶対に切りますから、連絡しないでくださいね。」
************
慣れというものは恐ろしい。
夜鷹との契約が始まってから数ヶ月後、明浦路はこの歪な関係性になんの疑問も持たないまま見事に適応していた。
当初こそ、やや後ろめたい気持ちがあるような、隠し事をしているような気持ちになり悩んだりもしたが、今はなんの疑問も持たず、あまりにも普通に暮らしていた。
そしてこれも鉄板であるが、人間慣れてきた時が一番危ないのである。
「司くん、ちょっと駅前のモール寄って行かない?」
日曜日の正午過ぎ、ルクス東山のコーチ用オフィスで、明浦路と鴨川洸平はいのりの振り付けについて打ち合わせを終えたところだった。今日はルクス東山の練習はなく、明日以降の貸切り練習へ向けてどうしても擦り合わせたい箇所があるとのことで、いわば2人とも休日出勤をしている状態だった。
普段ならば子供達や保護者で賑わっているリンクは人気がなく静まり返っている。
打ち合わせにキリがつき、たわいも無い話をしていたところ、洸平が明浦路に外出の提案をしたのだった。
明浦路もその後特に予定もなかったため快諾した。
「もちろんいいよ!買い物?」
「サポーターを買いたくてね、あとはついてからのお楽しみ。」
リンクを施錠し施設の外へ出ると、2人で中央駅に向かう。洸平と2人で出かけるなんて、現役時代を思い出された。
駅に向かうにつれ、休日らしく、すれ違う人が多くなる。
「そういえばモールに行くの久しぶりだなあ、加護さんになんか買っていこうかな」
「やっぱり?」
「最近は休日をずっと家か図書館で過ごしてたから。いのりさんの練習のデータとか、構成を考えたりしていると時間がすぐに無くなっちゃうんだよね。」
「そうだと思った。今日は良い息抜きになるんじゃない。」
中央駅につくと、まずは駅横の大きな商業ビルに向かう。ここのスポーツショップにはスポーツ用具やアクセサリー類の品揃えが良く、スケーター御用達だった。
用品店で目当てのものを購入した2人は、気の向くままにモールを歩き回った。
明浦路は図書館で借りて気に入った本と、加護家用にモールのデパ地下で焼き菓子を購入した。
「じゃ、こっちから出ようか。」
「そっち、きた方と逆の南口だけどいいの?」
「いいからいいから」
洸平に連れられて反対方向からモールを出ると、何かのイベントだろうか、駅前広場に白いテントが立ち並び、一角が人口の柵で覆われている。敷地内は人が徒歩スピードとは異なる滑らかさで動いていた。
「わああああ!スケートリンク!?!?」
「じゃじゃ〜ん!そうです!期間限定駅前スケートリンク!一昨日から設置されたみたいなんだ。」
「えっえっ滑っていいの!?!?洸平くん滑ろうよ!!!」
「はいはい司くん落ち着いて、リンクは逃げないからね」
簡易ロッカーに荷物を詰め、受付でシューズだけレンタルする。
リンクに入ると家族連れや恋人、小さい子供達が思い思いにスケートに触れ合っていた。
フェンスにしがみつきながら、なんとか氷の上を歩こうとしている人。慣れない氷の感覚に転倒している人。それを笑ってふざけあっている人。どこかのクラブに所属しているのか、中央付近で滑っている人など様々である。
「洸平くん!!!あの子あんなに小さいのにちゃんと体重を刃に乗せられてるよ!!!初めて会った時のいのりさんみたい!!!!」
「洸平くん!!!あの人めちゃくちゃ楽しそうにスケートしてる!!笑顔満点すぎる〜!!」
「司くんわかったから落ち着いて笑」
明浦路と洸平は邪魔にならないよう、人の少ないリンク中央に滑走した。
素人だらけのリンクに突如プロスケーター2人が現れ、少し滑るだけで周囲から感嘆の声が上がった。
「な、なんかめちゃくちゃ見られてない?恥ずかしい…」
「大会に出てたのに今更?それより今日はコーチのことは忘れてさ、思いっきり滑ったら?司くん最近忙しそうだし、こん詰めすぎだよ」
「やさしい…涙出てきたあ…」
ぐすぐすと泣き出した明浦路を煽るように、洸平は滑走スピードを上げると人がいない開けた場所で簡易的なシットスピンを回って見せた。
周囲から驚きの声と、ところどころで拍手が鳴る。
「でた!洸平くんが得意なシットスピン!!!!」
明浦路もつられて滑り出した。
そこからは、夢中だった。
並走したり、アイスダンスのステップを踏んだり、緩くスピンを回ってみたり。リンクの人のどよめきと拍手に呼び寄せられて、リンクの外の人まで立ち止まり、楽しそうに滑る2人を眺めていた。
「お母さん、あのお兄さんすっごく綺麗!」
「ゆっくりなのになんかかっこいい…」
「選手とかー?」
「え、やばい」
普段とはうって変わった、静かな眼差しと緩急をつけた、丁寧で大きなステップ。
微細なエッジコントロールと、大きな円盤を思わせる幾何学的バランスの取れた安定感。
誰が見ても、美しい、そう思わせるスケーティングだった。
シニア選手のような、もう何十年もスケートシューズで氷に乗っていた人のような、美しいそれ。
それがどれほど驚異的な成長速度で生み出されたものなのか、その異常性を洸平は知っていた。
中央で踊る明浦路のスケートを少し離れたところで見ながら、洸平は周囲の反応に誇らしいような、寂しいような気がした。今後、日の目を見ることのないこの才能に、やはり歯痒い思いがする。
明浦路司のスケートは美しい。
この感動を、本当ならばもっと多くの人が、世界中の人々が知るべきだった。
ならばたまには見せびらかさないと、なんだかもったい無いような気がした。
滑り終わった明浦路と目が合う。
先ほどの静けさはどこへやら、途端にいつもの人懐っこい笑顔を浮かべ、汗を拭いながらこちらに向かってきた。
日が傾きはじめ、帰りはじめる人が多くなった。
明浦路のスケートが終わったことを察した周囲から、まばらに拍手があがる。明浦路は恥ずかしそうに頭をさげた。
「ごめん、夢中になりすぎちゃった…でもありがとう!すごい新鮮だったし気持ちよかったよ!!リンクからこう、ビルが見えるのもなんかすっごくいいし!」
「気分転換になったみたいでよかった、じゃあそろそろかえーー」
言いかけた途端。
2人は、周囲の人々が息を呑むのを感じた。
視界の端を、これまでとは段違いの新鮮な速度で、漆黒の人陰がリンクを駆けた。
競技を見慣れすぎた明浦路と洸平にとっては、目に馴染んだ速さ。
「え…」
フィギュアスケートを知らなくても、オリンピックの時期にテレビでやる特集を見かけたことがある。
朝のニュースでハイライトが放送されているのを何となく見ていた。
誰かしら、どこかで見たことがあるような予備動作。
ただしその一秒一瞬が、磨き上げられた技術の産物であることを、明浦路と洸平は知っていた。
誰もが息を呑み、全員が同じ予想をした。
あ、翔ぶ。
氷を鋭く割く音と、簡易リンクなのに飛ぶ氷の破片。ガラスのような破片が夕日に照らされて、足元を飾った。
一瞬のジャンプ。
長い滑空時間と滑らかな着地は、まるでその場所だけ重力が軽くなっているようだった。
見事な4回転フリップ。
これは。
「よ、夜鷹純…!?」
わっと周りから爆発的な歓声と拍手が巻き起こった。
「今のってジャンプ!?」
「あんなに人間って回れるんだ」
「え、あの人テレビで見たことある…」
「金メダリストの夜鷹純じゃない?!」
「えーどこ?」
歓声に飲み込まれた洸平が我に返り隣を見ると、明浦路は目を夜鷹に釘付けにして呆然としていた。
「な、夜鷹さん…どうして…」
すると、夜鷹は周囲の歓声をものともせず、まっすぐこちらに向かって滑走してきた。
「は、え???」
そのまま洸平の横、ー明浦路に向かって速度を落とさず突き進む。そして反射的に後ろに逃げようとした明浦路の胸ぐらを掴んだ。
後ろにのけぞったことと、胸ぐらを掴まれた勢いで明浦路の上半身が大きく後ろに傾く。
反射的に上がる足にまだ刃がついていることを認識している明浦路は、目の前の男に刃が当たらぬようなんとか下半身を捩り、結果盛大に仰向けに転倒した。
「司くん!!」
「いった……危ないですっ…!?!?」
身体を起こそうとした明浦路の顔の真横にブレードが突き刺さった。
スケートシューズの刃とはいえ刃は刃。包丁を顔の横に突き立てられたのと似た状況である。
刃に反射した自分と目が合う。後頭部からじんわりと氷の冷たさが感じられた。
恐る恐る目線を空に上げると、自分の胸ぐらを掴みながら馬乗りになる夜鷹で視界が覆われた。怖すぎ。
「どういうこと」
「え…??」
「GPS 今仕事してないよね」
「……あっ!!」
完全に失念していた。
今日の打ち合わせでオフィスに入った時にスマホの電源を落とし、そのまま洸平と喋って夢中になってスケートしていた為、今の今に至るまでスマホの電源は消しっぱなし。すなわち位置情報共有アプリも消しっぱなしだった。
リンクにひどく打ちつけた尾骶骨がじんじんと痛い。
「………」
「電源…つけ忘れてて…」
「ちょっと、あんた何してるんですか!」
駆けつけた洸平が明浦路の胸ぐらを締め上げている夜鷹の手を払った。
「なに」
「それはこっちのセリフですよ!夜鷹純、あなたこそ司くんになにするんですか!」
「………」
洸平には目もくれず、夜鷹の鋭い眼光が明浦路を射抜く。
「楽しそうだったね」
「…え…あ…ははい…」
「今は僕が優先でしょ」
「す、すみませんでした…?」
「ちゃんとつけて、GPS」
「は!?!? GPS??司くんどういうこと???」
明浦路は頭を抱えた。
背中に当たる氷の感覚が、今日は一段と冷たく感じられた。
************
「「よ、夜鷹純と位置情報を共有してた!?!?!?!?!?」」
翌日。
ルクス東山のコーチ用オフィスに、瞳と洸平の悲鳴が響き渡った。
仁王立ちの2人の間には縮こまった明浦路が青い顔で正座をして座っている。
「司くんなに考えてるの!?!?自分がなにされてたかちゃんとわかってる!?!?」
「スケートバカなのはわかってたけどまさかここまでとは…」
「あなたにもプライバシーがあるでしょ!?!?どうしてそんな危ないことしてるの!!」
「司くんって学生の時道徳の授業サボってた?」
「「司くんちゃんと話聞いてる!?!?」」
「はい…すみませんでした…」
烈火の如く怒るリンクメイトかつ同僚に、明浦路はますます小さくなるしかない。
昨日、あれから無言で立ち去ろうとする夜鷹純を引き留めようとした洸平をなんとか宥め、ことの背景を告白したところ、ドン引きされもちろん瞳にもチクられた。
お説教は明日するからと電話越しに瞳から怒られ、本日すごすごと出勤したところ、仁王立ちで明浦路を待ち構えていた瞳を前に、明浦路は平伏した。
もちろん練習開始前の生徒がいないタイミングでである。
「司くん、私たちはあなたのことを考えて怒っているのよ。自分のこととなるとどうしてそんなに自分を大切にできないの。」
「美味しいお菓子あげるから家においでって言われてついて行ってる子供と同じだよ…」
「た、確かに…」
「大体、夜鷹純はどういうつもりなの!?うちの司くんをなんだと思って!!」
「そうだよ、大体、夜鷹純に何でそんなことさせられてるの?」
「あ、あの純くんがどうかしましたか?」
突然の声に3人が慌てて振りかえると、入り口に最悪のタイミングで最高の人物、鴗鳥慎一郎が困惑しながら立っていた。
それもそのはず、仁王立ちの瞳と洸平、正座をさせられている明浦路だ。
「昨日総太くんがうちに泊まっていたので、今日ここまで送りに来たのですが…」
「鴗鳥先生ちょっとお話しがあります」
瞳の逃さんとばかりの満面の笑顔に、流石の銀メダリストもたじろいだ。
************
深夜。
鴗鳥邸の中庭に3人の重苦しい沈黙が流れていた。
「………」
「………」
「………」
だらだらと冷や汗を流しながら、明浦路司は目の前の冷め切ったお茶を凝視する。
前頭に突き刺さる目の前からの視線が痛すぎて、頭が上げられない。
タバコの煙が吐き出される微かな空気音がする。
明浦路の向かいにはこの威圧感の支配者、夜鷹が闇と煙を纏いながら、足を組んで座っていた。
煙を吐き出す頻度が普段と比べて多い。
それは本人の鬱憤バロメーターと比例関係にあることを、明浦路は知っていた。
あまりの気まづさに耐えかね、隣に座る瞳に僅かに目線をやると、瞳は目の前の男の威圧感を物ともせず、凛と前を睨みつけていた。元パートナーのなんと頼もしいことか。
パチン、とライターの蓋が閉まる金属音に、明浦路の肩はビクッと揺れ、脂汗が背中を伝う。
また一段、この場の空気が冷えたような気がした。
今日はこの場に洸平を連れて来なくて正解だったのかもしれない。
「すみません、お待たせしました。」
自分の茶器を持った家主、鴗鳥慎一郎が家の奥から現れた。
「こんな夜分遅くにすみません。高峰先生にもいらしていただいてしまって。」
「いえいえ!うちの司くんに関する大切なお話ですから。」
うふふ、と瞳が声だけの笑いで応じる。
瞳の額にも青筋が浮かんでいるのが分かり、明浦路はさらに青くなる。
美人は怒るととんでもなく怖い。
慣れているのか分かっていないのか、慎一郎は夜鷹の威圧感を物ともせず話しかける。
「純くん、こちらはルクス東山のヘッドコーチ、高峰瞳先生だよ。明浦路先生のアイスダンスの元パートナーなんだ。」
「はじめまして、夜鷹さん。うちの司くんが最近はお世話になっています。」
「………」
「…えっとね、純くん。今日来てもらったのは大切なことを確認させてもらうためなんだ。」
「………」
「その、高峰先生とも話し合ったのだけど…最近のその…純くんの行動がね、明浦路先生の負担になっているかもしれないと言うことで…」
「………」
「少し…明浦路先生のことも考えてあげないと、先生が大変になってしまうんじゃないかと思うんだけど…どうかな。」
「………」
親友の提案をものともせず、夜鷹は新しいタバコを箱から取り出した。
ライターが着火し、その美しい顔に深い彫りを落とす。
炎の点灯も束の間、再び辺りが真っ暗になると、吐く息とともに新しい煙を口から立ち上らせた。
「あの子供の指導に支障が出てるの」
その声に、再びビクッと明浦路が肩を揺らした。明浦路が言葉を発するより先に、瞳が切り込む。
「いいえ。司くんはそんなことはしないわ。いのりちゃんの練習は順調です。」
「じゃあ何」
「普通の人間関係として一線を超えていると思うの。位置情報とかパシリとか、健全だと思えないわ。」
「嫌なの」
「あなたの良し悪しではなくー」
「君に聞いてるんだけど」
ドクン、と心臓が大きく跳ねる。
おそるおそる重い頭を上げると、髪の間から金色の視線に刺された。
「君は僕が嫌なの」
「嫌なわけ無くないですか?俺が何年あなたのファンやってるか知ってま(早口) ヘブッ!
バチン!!!と隣の瞳に平手打ちされた。
「しっかりして司くん!!質問すり変わってるから!!」
「ハッ…!!」
夜鷹はタバコの先を灰皿に擦り付けた。
「報酬だって毎回あげてる」
「そうなの?純くん」
「うん。4回転ルッツ」
「「4回転ルッツ???????」」
「アクセルだって見せたよ」
「「アクセル??????」」
明浦路は申し訳なさそうに頷いた。
「司くんにとってジャンプって何でもカードなの…?」
最近夜の貸切で明浦路先生がいる時にやたら高難易度のジャンプばかり飛んでいるのはそういうことだったのか。慎一郎は1人で納得し、瞳は明浦路を再度引っ叩いた。
ハア〜〜〜〜と夜鷹は訳が分からないと言った様子で長く煙を吐き出す。
「い、位置情報の件は?!いくらなんでもプライバシーの侵害です!洸平くんとも揉めたって聞きましたけど!?」
「便利だから」
「「便利???????」」
位置情報共有アプリには便利という形容詞が相応しいのか。慎一郎は感心し、瞳は理解するのを放棄した。
もうこの人はダメだ。変な人からは離れましょう司くん。
「…それに」
「恋人のことは何でも知りたいと思うんじゃないの」
……………………………え??
一瞬、その場の3人が全員静止した。
なんて?
慎一郎と瞳は明浦路に目線をやり、明浦路は頭をもげそうなほど横に振った。
「じ、純くん?」
「………」
「純くんはその…明浦路先生とお付き合いされているのかな」
「………」
「………」
「そうだって言ってる」
「………」
しんと裏庭が静まり返る。
ゆらゆらと上るタバコの煙とは真逆に、明浦路は後ろにひっくり返った。
************
「え、待ってごめん回想終わり?」
瞳は頭を抱えた。
「これ以上は本当にマジで思い当たる節がありません…」
明浦路は再度、夜鷹との契約関係に至った経緯を詳細になぞって2人に説明した。
そして急に顔面蒼白になり、震えながら瞳を振り返った。
「ひ、瞳さんすみません、お、俺が全ての元凶だったみたいです……」
「何言ってるの司くん。どう考えてもおかしいのは夜鷹純よ。」
「お、俺がスケートの事ばかり考えているせいで瞳さんや洸平くんにまで迷惑を……」
「だから自分のことになるとめちゃくちゃ卑屈になるの禁止!!」
明浦路は震えながら夜鷹を見た。
「え、というか夜鷹さん、冗談ですよね?ふざけて言ってますか?」
「………」
「ただの都合が良いパシリが欲しかっただけですよね??」
「………」
「無敗の金メダリスト夜鷹純の恋人が俺…?ハハハ…あり得ない、というかファンとして普通に解釈違いなんですが」
「………」
夜鷹は視線を定めたまま、静かに煙を吐いた。
「は、話が通じない…」
無敵の金メダリストを目の前に、言葉のキャッチボールは敗北した。
どうにかしてください鴗鳥先生!!!親友なんでしょ!!!
瞳と明浦路からの圧力を感じた慎一郎は、意固地になれば何がなんでも絶対動かないであろう親友に、焼石に水であることは百も承知で声をかける。
「と、とりあえず、明浦路先生と純くんが思い違いをしていた…のかな。明浦路先生にはお付き合いをされている認識は無かった…と」
「………」
「僕と彼は契約した」
「………」
「僕はちゃんとつきあってねって言ったよ」
「…そ、それは」
言ったけども。
というか夜鷹純にとって付き合う=位置情報共有とパシリなのか?どういう常識?
3人は同じクエスチョンマークを頭に浮かべた。
「続ける気がないならもういい」
「………」
「あの男と滑ってれば」
「そうじゃありません。」
自分と滑っていた時間のほうが無意味なのだろう、という言い方をされたような気がして、明浦路は即座に反論した。
「あなたは俺が、あなたとのスケートの時間をどれほど大切だと思っているか分かっていません。」
あなたのスケートが俺の人生を変えたのに。明浦路のスケート熱に火がついた。
「やります…俺」
「ちょっと司くん!?」
「恋人でもパシリでも、形式はなんだって構いません。あなたはどうせすぐ飽きるでしょうから。でもその気まぐれが終わるまでの短い間だって構わない。目指したい、超えたいと思ったあなたのスケートに1秒でも近づける時間があるなら、俺はなんだってやります。あなたの、夜鷹純のスケートは俺にとってそれくらいの価値があるものなんですよ。」
「そう」
「………」
「これでいいでしょ。話は終わり。」
夜鷹は立ち上がり踵を返した。
「あっ純くん…」
「ち、ちょっと…!」
そのまま立ち去るかと思いきや、ガレージの端で夜鷹は立ち止まり振り返った。
小さな蛍光灯の人感センサーが反応し、逆光となって夜鷹の表情を完全に隠す。
「…そういえば司。来週末、光の練習で夜にリンクを貸し切るから。光は日曜の昼に帰らせる。」
夜来るよね。
闇に溶けた夜鷹の輪郭に、猛禽類の眼光だけが輝いた。
「アッ…はい…わかりました……」
司?
今あの人しれっと下の名前で呼ばなかった?え、本当に恋人ごっこやろうとしてる?
実感が湧き出した頃には、明浦路は事態の壮大さが飲み込めなくなっていた。
「俺なんかがあの夜鷹純の仮にもこいびと?不敬すぎて地獄に落ちるかもしれない…ていうかつきあうってなんだっけ?瞳さん俺とりあえずタバコ買えばいいかな?」
情報過多にショートしている。
来週末?その言葉に慎一郎は違和感を感じた。
光はじき東京のクラブへ移転する。そのためか、最近夜鷹は週末に東京のリンクの貸切枠を確保するよう狼嵜家に要請しているようだった。来週末の光の練習も確か東京のリンクのはずだ。
そこに明浦路先生を呼びつけるとなると、泊まりになるのでは?
親友が何を考えているか分からないが、さすがに止めたほうがいいのかもしれない。
慎一郎が言葉を発するために目線を上げると、夜鷹の鋭い視線とかち合った。
「!!……っ」
釘を、刺されている。
「純くん…」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
静止する瞳に目もくれず、夜鷹は今度こそ闇に消えていった。
ガタガタとショートして壊れている明浦路先生と、そんな明浦路先生をゆすって必死に正気に戻そうとしている高峰先生。
それもそのはず、あまりにもやり方が強引すぎたのだ。
親友に恋人ができた(?)ことは喜ばしい限りであるが。
来週末、大丈夫だろうか。
慎一郎はため息をついた。
とはいえ相手は慎一郎が信頼している明浦路先生である。この人の常識力と言語化能力があれば、純くんを任せられる。純くんも経験が無いからあまりよく分かっていないだけで、明浦路先生に無理に無体を働くようなことはないだろう。2人とも大人だし。
来週だっていつものように純くんが好きなようにリンクを滑って、明浦路先生が見て…。場所が東京というだけで、いつも3人で滑っているのと変わらないのでは無いだろうか、そうに違いない。
慎一郎はつい先ほど、その明浦路の常識力が夜鷹の前で無能と化し、夜鷹がその明浦路を見事に丸め込んだことを忘れていた。
取り残された慎一郎は夜の空を見上げ、眠りについているであろう愛しい息子の笑顔を思い返した。
「理凰になんて説明しよう…」
************
「光」
「…! はい。」
リンク中央で時間ギリギリまで連続ジャンプの練習をしていた狼嵜光は、リンクの時計を確認し練習時間がとうに終わっていることを理解した。
この後は自分が滑りたいのだろう。
練習時間後は、あまり自分が長居することを師は好まないと、長年の経験から身にしみて理解している狼嵜光は、額から流れる汗を拭いながら手早く着替え、荷物をまとめた。
「今日もご指導、ありがとうございました。」
「うん」
完全に東京に移籍するのは後数ヶ月後である。
明日の昼の新幹線で名古屋に帰らなければいけないため、今日はホテルに帰って早く休まなければ。
リンクから出口に向かおうとすると、雑談を好まない師から珍しく呼び止められた。
「…光」
「…?はい。コーチ。」
次の貸切練習までのメニュー内容は先ほど確認したはずだ。
「自分に夢中になるべき人が他の人間に目を奪われてたらどうする」
なんですかその質問。
そう問いただしたところで、師の機嫌を損ねるだけである。
今の光に求められているのは師からの問いに愚直に答えることのみであり、こういう場合は逆質問は許されていない。
狼嵜光は素直に「自分に夢中になるべき人」を思い浮かべた。
茂みの中で出会い、スケートを始め、氷上でしか生きられない可愛い女の子。
その氷にかける執念だけが、自分を孤独から忘れさせてくれる唯一の好敵手。
そして想像した。
万が一にもあり得ないが、自分以外の第三者が金メダルを手にしたとして、その誰かの演技に目を輝かせ、自分を忘れる好敵手の姿を。
「許しません。」
純粋で、野生的で、獣さながらの独占欲が爆発する。
「私の持ちうる全ての術を持って、あの子の世界を奪って見せます。それが氷で戦う私のやり方です。」
「うん」
「コーチ?」
「やはり僕は間違ってない」
「…?」
「もういいよ、帰って」
「分かりました。ありがとうございました。」
狼嵜光はリンクを後にした。
後ろから器物損壊音が聞こえてこないあたり、自分の回答は師の満足を得たようだ。
「大丈夫、ちゃんと待ってるからね、いのりちゃん。」
先ほどの獣性はどこへやら、いつもの朗らかな少女に戻った狼嵜光は、いつかの日の大舞台で彼女と再び戦うことを夢見て、夜の街に消えていった。
************
教え子がリンクから立ち去ったことを見届けると、夜鷹は自身のスマートフォンを確認した。
ホーム画面右下の、緑色の無機質なアイコンをタップする。
周辺地図とともに青色のカーソルが表示され、かすかに移動しながら点滅しているのを確認した。
場所はこのリンクの駐車場付近。
街の中心部から離れているこのリンクまで、電車と徒歩だけで来るのは難しい。車でもレンタルしたのだろう。
律儀にこんなところにまでやって来る辺り、あの男は本当に夜鷹純のスケートに惚れている。
そういえば慎一郎くんが、彼は昔から僕の大ファンとか言っていたっけ。
別にスケート目当てだって構わない。
氷と自分自身は不可分のものだと思ってきたし、夜鷹は今更それと自分を分けようとは思っていなかった。
夜鷹純の人生は氷上に始まって氷上に終わる。
陸の上ではろくに息ができない自分が、有利な氷上で戦って何が悪いというのだろう。
ただ今回の件を通じて、夜鷹にも学びはあった。
陸の上でも息ができるあの男は、こちらが注意していないとすぐに消える。
夜鷹は先日見た、人混みの中で他の男と心底楽しそうに滑るあの男の姿を思い出していた。
自分ではない他の誰かの原因によって、あの男が氷上に舞うのを夜鷹は心底嫌った。
氷上では自分から一時も目を離さない癖に、陸に上がるとすぐ自分のことを忘れる。
どうしてそう思うのか、なぜあの男にここまで拘るのか、夜鷹自身には分からなかった。
ただあまりにも不平等だと思ったので、陸での自由を少し制限しただけだ。
しかし陸の世界では、そうするために社会的契約が必要らしい。
契約とは両者の合意によって成り立つもの。
簡単に破棄できてしまうそれに、少しの強度をつけるため、夜鷹には別の一手が必要であり、夜鷹はその算段をきちんと立てていた。
ただ、独占欲だけでは説明しきれない夜鷹の今の心の内を、夜鷹自身がスケート以外で表す術を知らなかったのと、陸の上での常識に少し、疎かっただけである。
************
翌朝。
夜鷹純と空前絶後の朝チュンを果たした明浦路司が、清く正しい恋人関係とは何かを懇切丁寧に説明しながら陸での生き方を教えていくのは、また別の話。