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月を目指す生き物/もりもりお肉くんの小説

月を目指す生き物

17,296文字34分

ある日突然猫になってしまったつかさがよだかに飼われる話です。
よだ→→(←)つか

✦後日談⬇️✦

司には困っていることがあった。それは――
あの日から使われていない、窓際にあるキャットタワー。それを物憂げに見つめる恋人。
「もう、また見てる」
「別に見てないよ」
「見てましたよぅ」
「見てない」
頑なに認めず、挙句の果てにはそっぽをむく夜鷹に司はため息をついた。
「……そんなに猫の俺の方が良かったですか」
拗ねたみたいな声を出すと、途端に夜鷹は慌てて振り向いた。
「そんなことない」
司は俯いて、何も返さずにいると表情を伺うようにうろつく夜鷹。あまりの可愛さに堪えきれず、ふふ、声を出して笑うと、夜鷹は眉間に皺を寄せた。
「そういう嘘はどうなの」
「すみません、つい。……飼います?猫」
「……いい」
「だって、せっかく物もあるし、猫飼いたいんですよね?」
顔を逸らした夜鷹だったが、司の視線に耐えきれず、諦めたように息を吐くと「そのうちね」と司の頭を撫でた。
「今は君で手一杯だから」

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『ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目ざめたとき、自分がベッドの上で一匹の巨大な毒虫に変わってしまっているのに気付いた。』

 変身/フランツ・カフカ 著 ・原田義人 訳



 その一文を目にした時、司は真っ先に、スマホの検索窓に「毒虫」と打ち込んだ。聞き慣れない「毒虫」という名のそれは、一体どんな虫なのか気になったからだ。
 短いローディングの後、画面いっぱいに出てきた、毒虫の一種であるムカデの姿に、司は慌ててスマホを伏せた。
 まさかムカデが出てくるとは。きちんと調べれば他にも種類はあるのだろうが、どちらにせよムカデが毒虫の一種である以上、司の中で毒虫の印象は最悪だった。
 司はグレゴール・ザムザが気の毒でならなかった。当然、続きを読めばグレゴールの成った毒虫がムカデではないことはわかったが、それでも司の脳内は悍ましいムカデの姿でいっぱいだった。
 司は思った。なぜよりによって毒虫なのか、と。どうせなるならもっと見目の良い生き物がいい。小動物は潰されてしまうリスクがあるから現実的に考えて難しいとして、犬、あるいは自由気ままに街中を飛び回れる猫がいい。そんな事を考えながら、まあ自分には関係のない話だとそのままグレゴールの生涯に没頭した。
 その後に待ち受ける困難のことなど、この時はまだ、何も知らなかった。


 ◇ ◇ ◇


 外から小鳥の鳴き声が聴こえる。暖かな日差しがレースカーテン越しにベッドの上に降り注ぎ、心地のよい陽だまりの中、司は過去に思いを馳せた。
 はて、グレゴールは朝目が覚めて、自分が毒虫になっていることをどう思ったんだったか。
 窓の外を見る。空には雲ひとつなく、快晴。今日は本当にいい天気だ。
 司は晴れが好きだった。外を歩いているだけでなんだか気分がいいからだ。
 大抵の人間は暗いより明るい方が好きだろう。そこまで考えて、司の脳内に「大抵」に当てはまらない一人の男が思い浮かび、慌てて頭を振って思考をかき消した。
 カーテンが微風に揺れている。今日だって意味もなく散歩をするには最適な日和なのだろう。――――こんなことになって居なければ。

 ――本当に猫になるなんて思わないだろ……!

 司は本日五度目、夢であることを願って鏡に映る自分の姿を見つめた。
 鏡に映るのはどこからどう見ても一匹の猫。司の特徴でもある長身な体躯、鍛えられた体、人よりも長い手足――鏡に映る姿にそれらの面影は一つもない。あるのは、長い尻尾、尖った耳、橙に茶色の縞模様がついた毛並み。誰がどう見たって「猫」そのもの。
 ――夢……だよな。いや、夢に決まってる!
 試しに頬を抓ろうとして前足を持ち上げる。頬に触れた感触に、抓る指がないことに気が付いた。溜息をつけば、喉から「にゃう」と甘えた声が零れる。今度はその声に驚けば、鏡に映る自身の尻尾がぴん、と立った。
 全てが、紛うことなき現実。
 悪夢のような現実から目を逸らすようにふるふると頭を振って、再び鏡を見つめる。本日六度目。鏡に映るのは、やはりどう足掻いたって猫だった。
 どうしたものか。途方に暮れていた時、扉の外から階段を上る足音が聞こえた。いつもより鮮明に聞こえるのは聴覚が優れているからだろうか。
 大きく響く足音は、その歩き方からして男性のもの。この家に暮らす男は自分を含んで二人。だとするとこれは、家主である加護耕一の足音だ。起きてこない司を心配して起こしに来たのだろう。
 こんな姿見られる訳には行かない。司は慌てて辺りを見渡すと、冷房代を浮かす為に開けていた窓に気が付いた。
 ――すみません、加護さん! 元に戻れたらちゃんと事情を説明しますから……!
 司は心の中で誠心誠意謝って、ぴょんと一飛び、窓辺に飛び乗った。階下を覗くとあまりの高さに頭がくらくらした。しかし、悩んでいる時間はない。
 グレゴールは部屋に閉じこもったが、自分は毒虫ではなく猫なのだ。
 ――猫なら余裕、猫なら余裕……!
 司は、そう自分に言い聞かせて、震える足を奮い立たせ、勢い良く庭木目掛けて飛び込んだ。


 ◇ ◇ ◇


 勇気を持って飛び出した外の世界は、初めてと驚きで満ちていた。
 とにかく楽しい――最初は楽しかった。すごく。
 建物はどれもこれもが大きく見えて、自分の体は自由自在。巨大なアスレチックのような街。驚異のジャンプ力に、いますぐリンクに行けたなら4回転ルッツだって跳べるのにだなんて思ったりもした。
 しかし、数時間経って興奮が冷めた頃、今度は行く当てのない不安が司を襲った。もうずっと、一生このままなのだろうか。司は一人、街の裏路地を行く宛てもなく彷徨った。
 司は、ふらふらと疲労を纏った体で歩きながら、助けて貰えそうな人はいないか知人を片っ端から思い浮かべた。しかし、思い浮かべれば思い浮かべるほど尚のこと孤独を感じてしまう。
 時刻は夕暮れ時。こんな時間には皆仕事の真っ最中だろうし、下手に迷惑をかけるのは司にとって本望ではない。頼れる人は、一人もいない。――――いや、一人だけいる。言い方は悪いが、昼間も働かず時間を持て余しているであろう人物が。
 司はくるりと方向転換して、それから躊躇するようにぴたりと歩みを止めた。
 その人物を頼るには問題が二つあった。
 一つ目は、その男は思い浮かべた知人達の中で、助けてくれる確率が一番低いであろうということ。二つ目は――ここ数日、司は彼を避けているということだった。


 ◆ ◆ ◆


 深夜、ここ数年で司の暮らしに漸く溶け込んだ、大須からは離れたスケートリンク。司が立っているのは、そこから徒歩数分の喫煙所だった。リンク帰りの体に、外の空気は生温かい。
 あたりに人の気配はまるで無い。車通りも少ないこんな状況下だと、彼の小さくて低い声も、司の耳にしっかりと届いた。司は男の言葉に目を見開いた。
「あの、仰ってる意味がよく分からないのですが……」
 黒い生地の良いワイシャツ。司には到底手の届かないブランド服に、臭いがつくことも厭わず煙草を吹かす男――夜鷹純は、司の混乱など他所にまるでなんでもない事のように振舞った。
「言葉通りだよ。君のことが好きだと言ってる」
 夜鷹は当然のようにそう言うと「何度も言わせないで」と溜息を吐いた。
 ――すき?スキ?隙?好き……?
 薄い唇がふぅ、と吐き出した煙は、あっという間に狭い喫煙所に霧散した。何も気にしない夜鷹とは対照的に、その匂いが安売りしてたTシャツに着くのが気になった。
「えーっと……俺も夜鷹さんのことは好きですよ? 俺を氷の上に導いてくれたのは貴方ですし、今でも衰え知らずなその技術は本当に尊敬していて……」
「違う」
「はい?」
「そういう好きじゃなくて、もっと違う好意の話をしている」
「違う、好意……?」
 惚けたように首を傾げると、夜鷹は眉間に、あからさまに皺を寄せた。
「はぁ……性的に好きってこと。君に男として好意をもっているって話で、つまりセッ――」
「わああ! 夜鷹純はそんな事言わない!」
 慌てて両手を振り回すと夜鷹はまた迷惑そうに顔を顰めた。わたわたと振り回した手が掴まれる。司の体は、一気に引き寄せられた。
「言うし、するよ」
 きっと氷のように冷たいのだろうと思っていた彼の手に、人並みの体温があることを、俺はこの時初めて知った。
 一気に情報を受け取った脳はパニックを起こして、目が回りそうだ。だというのに夜鷹ときたら「君、鈍すぎるな」などと呆れた顔をする。
 憎たらしい気持ちが強くなってつい、じとりと夜鷹を睨みつけた。
「……それ、好きな人に対する態度で合ってますか」
「それとこれとは別」
 そうですか。言いたくもない強がりも、この男の前では通用しない。今度は司が溜息をつく番だった。そもそも――――
「あの、それ勘違いでは?」
 司がはっきりとそう告げた途端、ガンッ、と大きな音が狭い喫煙所に響いた。思わず肩がびくりと跳ねる。夜鷹が灰皿を蹴り飛ばした音だった。音は数回反響して、それからぴたりと静寂が訪れた。
 ――この人、今告白した、で合ってるんだよな……?
 司は、あまりの恐怖にだらだらと汗を流しながら僅かに視線を上げた。そして、黒くて長い前髪の隙間から覗いた鋭い眼光に睨みつけられていることに気付いて、慌てて再び俯いた。
 この状況では口が裂けても言えないが、何も間違ったことは言っていないはずだ。だって、夜鷹が司を好きになるなんてこと、ありえないのだから。
 司は、想定外の告白にも心のどこかで冷静だった。当然、慣れているからとか、そんなことではない。純粋に、自分にあの夜鷹純が惚れるような魅力があるだなんて、全くもって思っていなかったのだ。
 夜鷹は贔屓目なしに見ても、それはそれは魅力的な男だった。多少暴力的な面があろうと衰え知らずの見目と才能。引退から10年以上経った今でもその魅力に囚われている人間は多い。彼が何もしなくても、彼を欲しがる人間は多くいる。彼にはもっと、その栄光に相応しい相手がいるはずだった。――こんな、何も持たない人間ではなく。
「……ねえ」
 感情の読み取れない呼び掛けに司は思わず顔を上げた。整った顔面が思ったよりずっと近い位置にあって、司は「わ」と声を上げて仰け反った。夜鷹は、司の腕を引くと、顔に向かってふう、と思い切り煙を吐き出した。嫌な臭いに顔を顰める。煙を吸い込んで肺が一気に苦しくなる。
「げほっ、げほ、なにするんですか……!」
「いいよ。待ってあげる」
 吸いさしを、灰皿に押し付けながら夜鷹が言った。
「な、なにを」
「君が、勘違いじゃないって認められるまで待ってあげる」
 どこか上機嫌な夜鷹が三日月のように目を細めた。


 ◇ ◇ ◇


 結局あの夜、夜鷹の意図は全く掴めなかったが、待つと言っていた以上暫くは時間を貰えるのだと思った。が、そうではなく、夜鷹はその日から司の目の前にどこからともなく現れては、好きだなんだと当然と言う顔で言葉を並べて「そろそろ認めた?」と聞いてくる。
 司が「夜鷹さんの勘違いですよ」「なにか違う感情と間違えてるのかも」と、説得しようとすれば、いかにも面倒くさそうに長い溜息を吐いて「またね」とどこかへと消えていく。
 正直、もう来なくていいと何度も思った。最後の方は、夜鷹気に入りの銘柄をひと箱押し付けて「これあげるので帰ってください」なんて言ってみたりもしたものだ。夜鷹はそれを受け取ると驚くくらい素直に帰った。
 本当に何を考えているのかさっぱりわからない。しかし、背に腹はかえられない。今は前代未聞の異常事態。唯一見つけた希望の光をそう易々と手放してたまるものか。
 司は四足で地面を駆けた。
 とにかくなんとか室内に入れてもらって、食と住さえ確保できればいいのだ。それからは、一人で元に戻る方法を探して、方法を見つけ次第こっそりバレないように出ていけばいい。
 ――案外動物が好きかも知れないよな……。
 頭ではそんなことない、解釈違いだと面倒なオタクのようなことを思いつつも、そう考えないとやっていられないくらいに司の気は滅入っていた。
 兎にも角にも物は試し。司は、深夜のリンクへ向かう際、慎一郎と相乗りしたタクシーで、何度か立ち寄った事のある高層マンションへと辿り着いた。
 外から見ても煌びやかな、自身とは縁遠いエントランスに気持ちは落ち着かない。猫になっても不釣り合いな高級マンションを少し悲しく思いながら、司は近くの茂みに潜り込んだ。
 暫くすると、自動ドアが静かに開いた。中から出てきたのは、待ち望んでいた黒ずくめの姿だった。まさかこんな早く会えるなんて、なんたる幸運。
 司は今だ!と茂みから、夜鷹の前へと勢いよく飛び出した。びく、と僅かに肩を跳ねさせた夜鷹が、何事かと司を見つめる。
 こういうのは第一印象が大事なのだ。茂みに隠れた数分の間、司は第一声についてずっと考えていた。あとはシミュレーション通りにやるだけだ。
「――にゃあ」
 その喉から出たのは、計画通り、精一杯の猫撫で声だった。
「邪魔だよ」
 やたらと大きく、威圧的に見える夜鷹に見下ろされながら、司は、逃げたい気持ちを必死に堪えて長い尻尾をふるりと振った。できるだけ可愛く、魅力的に見えるように。そして、一生懸命媚びを売りながら思った。――――この人猫に話しかけるタイプなんだ、と。


 ◇ ◇ ◇


 怯えながらも精一杯アピールする司を他所に、夜鷹は司を避けて、スタスタと歩みを進めた。
 黒いジャージを羽織った装いからしてランニングか散歩の予定だったのだろう。司は短い足を何度も何度も動かして必死に夜鷹の後を追った。
「にゃ。にゃう。にゃあ」
 少し後ろで一生懸命、何度も短く鳴いて見せると、夜鷹は案外あっさりと足を止めてくれた。勢いよく振り向いて、足元の司を見るなり怪訝そうに目を細める。
「……にゃあ」
 駄目押しの猫撫で声だった。何度出しても、こんな甘えた声を自分が出しているのだと思うと照れくさくて落ち着かなくて、ついつい長い尻尾がくるりくるりと動いてしまう。
 夜鷹は細めていた目を今度はキョトンと目を丸くして、司をじっと見つめた。その眼差しには、僅かに困惑の色が滲んでいた。
 思い返せば以前、深夜のリンクで、動物に嫌われるという話をした記憶がある。迷い犬によく出会う話から、司は夜鷹に、なにか動物は飼っていないのかと聞いた。夜鷹は飼っていないし、飼う気もない、そもそも昔から動物には嫌われる、と。その時は、動物は贅沢だなくらいの感想しか無かったものだが、今になってわかる。恐らく夜鷹にとって、懐いてくる動物は未知数なのだろう。
 無感情に見える目が、じっと司を見つめている。無言の時間が耐え難い。
 もう一声なにか、かわいこぶってみせたほうがいいだろうか。そう司が思案していると、夜鷹がきょろりと辺りを見渡した。そして、誰もいないことを確認すると躊躇なくその場にしゃがみこんだ。
「君、なんで着いてくるの」
 ――うわ、うわ、夜鷹純が猫と喋ってる……!
 その猫が自分であることは棚に上げて、ファン目線で変に感動していると、反応が無いことに夜鷹が首を傾げた。
 ――夜鷹さん、動物に話しかけても応えは返ってこないですよ……! 俺は人間だから言葉判るけど! そうだ! 俺は言葉判るんだ!
 感動でIQの上がった司は考えた。「俺はいま、言葉がわかるから期待に応えられる上に、猫の姿できっと可愛いはずだからメロメロにさせて家まで連れて帰って貰おう」と。
 我ながら天才的な作戦だと、司は大急ぎで近くのベンチに座り、片手でたしたしとベンチを叩いた。
「……そこ座れってこと?」
 伝わったことが嬉しくて「にゃ」と満足げに声を上げれば、夜鷹は大人しく司のいるベンチに腰掛けた。恐るべき猫効果である。
 司はどうすれば可愛いと思って貰えるかを真面目に考えて、一先ず太ももにスリスリ頭を擦り付けてみることにした。それが司に考えられる精一杯の可愛い仕草だったから。
 心の中で「失礼します」と唱えながら、恐る恐る頭を寄せる。いざ頭が夜鷹の足に触れた途端、夜鷹はびくっと身体を震わせた。そして何故か、それっきり固まって動かなくなってしまった。
 ――やばい。もしかして俺可愛すぎたか……?
 結局やめ時がわからないまま同じ動作を繰り返していると、夜鷹がゆっくり、ぎこちなく右手を上げた。近づく手のひらに、撫でてくれるのだと悟った司は、その手のひらに頭を近付け、耳をぺたんと倒した。夜鷹の白くて細い指先が、短く揃った毛先にふわりと触れる。
 ――あ、冷たい。……けど、ひんやりして気持ちいい。
 司は、やたらと大きく感じる手のひらにその身を委ねた。
 夜鷹は不器用な、割れ物に触れるような手つきで優しく司の頭を撫でた。
 穏やかな時間が流れる。何度も頭の上を往復した手は、次第に慣れて来たのか今度は喉に触れた。その時、夜鷹の手の中でゴロゴロと気の抜けた音が鳴り、司は眠りかけていた目をぱちりと開いた。
 恐る恐る見上げると、目を丸くした夜鷹がいた。夜鷹の手がさらりと動く。また、司の喉からゴロゴロ、ゴロゴロと音が鳴った。
 ――な、な、なんで勝手に! こんなの、恥ずかしすぎる……!
 逃げ出したい気持ちをグッと堪えてされるがままにしていると、司の意思に反して喉はゴロゴロと上機嫌に鳴り続ける。流石に苦言を呈すため「にゃう」と短く鳴いて見せると、夜鷹が「ふ」と声を出して笑った。
「変な子だね」
 これまで見たこともない柔らかな微笑みに、思わず目が奪われる。
 それからも夜鷹は、上機嫌に司を撫で回した。心臓がとく、とく、と急ぐように音を立てているのがわかった。恥ずかしくて、逃げ出してしまいたかったけれど、あまりにも幸福な時間を司は目的も忘れて堪能した。
 1時間ほどそうしていると、夜鷹は徐ろに時計を確認した。それから、何の未練もなく「じゃあね」と短く告げて立ち上がった。
 ――やばい置いてかれる……!
 漸く目的を思い出した司は、慌てて夜鷹の後を追った。夜鷹は先程来た方向へと戻って行く。
 やはりランニングに行く途中だったんだろうか。体の調整には人一倍気を遣っているこの人の貴重な時間を奪ってしまった罪悪感に胸が傷んだ。
 司は一生懸命後を追って、「夜鷹さん! 待って! 夜鷹さん!」と呼びかけたが、口から出るのは「にゃ、にゃ」という情けない鳴き声だけだった。
 エントランスが視界に入り、もう無理かと諦めかけた時、夜鷹が突如足を止めてくるりと振り向いた。そしてさっきと同じように、周りを確認した後その場に座って、司に話しかけた。
「もしかして……君、帰る場所がないの」
「――にゃあ」
「……そう」
 ――うわっ、えっ? 会話成立した!
 場違いな司の喜びなどつゆ知らず、夜鷹は少し考え込むようにした後、僅かに首を傾げて、司の顔を覗き込んだ。
 これまで何度も見て来た、冷たそうに見えるこの人の些細な行動に滲む優しさに胸がきゅうと締め付けられた。
 夕日の透けた細い黒髪が、さらりと風に靡く。
「僕の部屋、来る?」
 その口から飛び出したのは、今日ずっと待ち望んでいた言葉だった。
 司は感動のあまり、勢いよく夜鷹の胸に飛びついた。夜鷹は不器用な手で、その小さな体を受け止めた。司は、それが何より嬉しかった。


 ◇ ◇ ◇


 慣れた手つきの夜鷹が、カードキーを翳してエントランスをくぐり抜ける。
 司の目の前には、時々ポストに投函されている「買えるわけないだろこんなもの」と言いたくなるマンション販売のチラシでしか見たことの無い光景が広がっていた。司は、夜鷹の腕に抱かれながらキョロキョロと辺りを見渡した。
 夜鷹は司を抱えたまま我が物顔でロビーを通り、音のしないスムーズなエレベーターに乗り込んだ。
 高層階へと向かうエレベーターでの時間は、貧乏性の司には耐え難い程に長く、真っ先に考えたのは「忘れ物した時最悪だな」だった。
 音もなく動き出したエレベーターは、司がそんな失礼なことを考えているうちに音もなく止まった。フロアにあるひとつの扉を前に夜鷹がまたカードキーを翳す。黒い遮音性の高そうな扉を開けた先にあったのは、司ならここで生活できそうな広さの玄関とそこにポツンと並べられた一足の革靴だった。
 ――わ、わ。これが、夜鷹純の部屋……。
 汚れもなければ飾り気もないフローリング。壁にも写真の一つすら飾っていない。無機質な雰囲気がかえって彼らしい。
 いちファンである自分が、詐欺のような形でこの部屋に足を踏み入れてしまったことに対して後ろめたい気持ちも当然あったが、それよりも好奇心が勝ってしまう。
 ――ごめんなさい。戻ったらちゃんと謝罪しますから。
 司は飽きずにキョロキョロと室内を見渡した。
 夜鷹は司を抱えたまま丁寧に靴を揃えて脱ぐと、これまた生活感のないリビングを横断して一番奥の扉を開いた。
 その部屋には、カーテンすら付いていなかった。無数に積み上げられたダンボールがあるだけで他には何もない。まるで引っ越したその日のまま時間が止まっているようだった。
 夜鷹はその部屋の床にそっ、と司を下ろすと司が動くよりも早くさっさと部屋を出ていった。
 バタン、と大きな音を立てて扉が閉まる。外からはコツコツとなにやら身支度をする物音が聞こえた。
 司が唖然としていると、もう一度バタン、と扉が開いて、扉の隙間からなにかが投げ込まれた。それは、夜鷹が先ほどまで着ていた黒いジャージだった。
 理由も分からずその場に立ち尽くす。今度は遠くでガチャン、と重厚な扉の閉まる音がした。まるで、先程聞いた玄関の開閉音のような……。
 ――え、え、え……え!? でか、でかけた!? あの人もしかして出かけたのか!?
 贅沢を言うつもりはないが、信じられない。猫を拾って、何もない部屋に置いて、そのまま出かけた。夜鷹純が捨て猫を拾うよりも衝撃だ。
 混乱のさなか、なんとか、落ち着け、落ち着けと自分を宥める。平静を取り戻した時、司を包んだのは、静まり返った冷たい空気だけだった。
 優れた聴覚でも拾えない程、何も物音のしない空間。どこまで広がっているかわからない孤独。
 ――俺、これからどうなるんだろう。
 ここに来るまで、考えないようにしていた思考が脳裏に浮かぶ。
 元に戻る方法があるのかな。戻れなかったらいのりさんは悲しむかな。まだ金メダル、取らせてあげられてないのに。加護さんはきっと大丈夫だろうけど、悲しむだろうな。羊さんは、ちゃんとご飯食べられるのかな。最近ようやく元気になってきたのに。
 雪崩のように押し寄せる恐怖に司は今にも泣いてしまいそうだった。未知というのは、こんなにも怖い。
 ふと、部屋の隅に転がる、雑に放り投げられた夜鷹の上着が目に付いた。地面に投げ捨てられ、皺になったいかにも高そうなそれ。司は恐る恐る歩み寄ると、くん、と鼻を鳴らした。煙草と汗と氷の匂い。それは、夜鷹の匂いだった。
 少し悩んで、その上でくるりと丸くなってみる。その空間は、司に、さっきまでいた夜鷹の腕の中を思い起こさせた。少しづつ気持ちが落ち着いていく。
 今日は朝からいろんなことがありすぎた。一度落ち着くと、途端に疲労を自覚してしまう。
 ――あー、このままだと寝ちゃうなぁ。
 そう思いながらも落ちてくる瞼に抗うことは出来なかった。司はそのまま、ゆっくり目を閉じた。ただ、薄くなる意識の中で、あの人が早く帰ってきますようにとせつに祈った。


 ◇ ◇ ◇
 

 目が覚めると、体は温かい何かに包まれていた。
 いつの間にか眠ってしまっていたらしい。重い瞼をゆっくりと持ち上げた。
 ぼやけた視界の焦点が徐々に合って来る。どのくらい寝ていただろうか。視界が随分と暗い。暗いというより黒い。黒い何かが覆いかぶさっているのだ。これは————
「起きたの?」
 夜空に浮かぶお月様の瞳が、真っ直ぐに司を射抜いた。
 ――わ、わ! 夜鷹さん……! 膝!? 夜鷹純の膝!?
 まさかの事態に司は跳び起きた。目が覚めたらそこは憧れの夜鷹純の膝上でした、なんてとてつもなく心臓に悪い事態だ。慌てて膝から降りようと、寝起きの体でじたばたと藻掻く。逃げ出すように膝から降りるその瞬間、爪にガリッ、となにやら嫌な感触がした。
 夜鷹が「あ」と声を上げる。——その手には四本の赤い線が走っていた。
 思考が、停止する。頭が真っ白になって、それから、じわじわと布に水が沁み込むみたいに、少しずつ状況を理解した。爪が当たって、それから、夜鷹の手には傷が。司はビクッ、と大きく体を跳ねさせた。
 ――ど、ど、どうしよう……! 身体に傷を……!
「にゃ、にゃっ、にゃう」
 どうにかして謝罪しなければ。それから病院に!
 その口からでるのは甲高い鳴き声だけ。すみませんでした。まずは消毒しましょう。それから病院に。司にはそれを伝える術がなかった。すぐに病院に連れて行きたいのに、運転どころか一人ではこの部屋を出ることも、手当することもできない。
 司は「せめて」と傷ついてしまった夜鷹の手に鼻先を寄せた。――舐めれば何とかなるだろうか。それとも痛いだろうか。舌はざらついているだろうし、しない方がいいのかもしれない。けれどできることがなにもない。
 結局どうすることもできず、夜鷹の周りをくるくる、くるくる、と歩き回ることしかできない。途方に暮れていると、夜鷹が「ふ」と息を漏らした。
「君、随分気が小さいね」
 その眼差しはどこまでも穏やかで、楽しそうにすら見えてくる。思えばこんな表情をしている夜鷹は初めて見るかもしれない。夜鷹は、骨ばった手で司の頭を撫でて、自身の膝をポンと叩いた。
「こっちおいで、つかさ」
 心臓がドクン、と大きく脈打った。
 ――バ、レた……!?
 司が慌てて顔をあげると、そこには変わらず人形のように整った顔があるだけだった。見たところ気づいている様子はない。よかった。ならば「ツカサ」というのはきっと——
 夜鷹は相も変わらず司の頭を規則的に撫でている。
「名前、気に入らなかった? 君にそっくりな、僕の————好きな子の名前なんだけど」
 普段より心做しか穏やかそうに見えるのは、相手が動物だからだろうか。だと言うのに、その顔がいつもより少しだけ寂しそうに見えるものだから、司の胸がつんと傷んだ。
 夜鷹は司の顎下を指先でさらりと撫でて、もう一度「つかさ」と短く呼んで見せた。落ち着いたテノール。たった三文字。優しい声音に、息が詰まった。
 聞いたことがなかったのだ。こんなにも愛おしそうに、自分の名を呼ぶ人の声を。
 司はその時、初めて自分が猫でよかったと思った。だって、もし今人間だったならきっと酷い顔をしていただろうから。
 司が応えるように喉の奥で「にゃあ」と小さく鳴くと、夜鷹は嬉しそうに目を細めた。
 ――知らなかったな。……猫でもこんなに心が温かくなるんだ。


 ◇ ◇ ◇


 夜鷹の少し冷たい手に司の体温がすっかり移った頃、家のチャイムが音のない部屋に鳴り響いた。
 夜鷹は先程出かけた時と同じくあっさりとその手を離し、司を一人残して部屋を出た。さっきと違うのは扉を閉める寸前「少し待ってて」と声をかけてくれたことだった。
 暫くしてまた扉が開く。扉から顔をのぞかせた夜鷹は、しかし部屋には入ってこなかった。扉の隙間からじっと無表情で司を見つめるだけだ。
 司はここ数カ月で、すっかり培われた理解力で「ああ、出てきて欲しいのかな」と思い至り、のろりと体を持ち上げた。
 案の定、夜鷹は少し眉間を上げて、満足げにそのまま部屋を出ていった。
 夜鷹のあとを追って、恐る恐る部屋をでる。今いた部屋よりも煙草の匂いが濃いことに、夜鷹の生活が透けて見えるようだった。
 この家に入ったとき、一瞬だけ覗いた風景となんらかわらない、段ボールが乱雑に放置された部屋だ。違うことがあるとすればそれは————
 「慎一郎くんが教えてくれたんだ」
 夜鷹が窓際の「塔らしきなにか」を指差した。司は数秒遅れでそれがデザイン性の高いキャットタワーだと気が付いた。
 ――い、いくらするんだこれ!?
 モノクロで統一されたそれは、台座部分がファーになっていて、いかにも高級ですと言う見た目をしている。
「カラフルなのが多かったけど、何か意味があるのかな。変なものを置いて光と慎一郎くんに笑われたら嫌だからこれで我慢して」
 誰も笑わないし、笑えないが、それはひとまず置いておこう。あと、カラフルに意味はない。恐らく。
 夜鷹は、慌てる司には目もくれず、積み重なった段ボールのうちの一つを開封し始めた。先程より部屋に段ボールが増えていたらしい。全くもって気付かなかったわけだが。
 あの夜鷹純が段ボールを開封している。この家に来てから司は、夜鷹に驚かされてばかりだった。
 雑に剥がしたガムテープを床に放り投げた夜鷹は「駄目なんだった」と言ってそれを拾うとごみ袋に捨てた。段ボールの中身は言わずもがな猫用品ばかりで、しかもどれもがその道の最高級品であることが窺えた。
 「ああ、これ。本当にいるのかわからないんだけど」
 そう言って取り出したのは、先に鼠のぬいぐるみがついた猫じゃらしだった。説明書を熟読し終えた夜鷹が袋から取り出したそれを司の目の前でふるりと振った。夜鷹は意味がないと思っているのか、特段興味もなさそうだ。
 これで司が本物の猫であれば、猫じゃらしに食いつき、夜鷹を喜ばせることが出来たのだろうか。
 司は己が本物ではないことの不甲斐なさを嘆き、せめてふりでもいいから夜鷹を喜ばせる動きをせねば、と決意した。夜鷹の振ったそれが目の前を通り過ぎる。よし。
 ——ヒャッホーーッ!
 途端、司の目が、手足が、勝手にそれに釣られて素早く動いた。
 ——わ、わ! 勝手に、な、なんだこれっ――楽しすぎる!
 夜鷹がふるふると規則的に揺らすそれをただひたすら、我も忘れて夢中で追いかける。夜鷹は何故か司の動きを学習し、その手捌きはみるみる上達していった。そして体がそれに慣れた頃、司の手は、ついに鼠を捕えた。
 ついにやった。やってやった。えもいえぬ達成感を感じながら、鼠を爪でひっかいたとき、ばちり、夜鷹と目が合った。そして思い出した。ここが夜鷹の家で、この鼠は夜鷹の手によって動かされていたことを。
 夜鷹はにやりと口角を上げた。その瞬間、司の中に一気に羞恥心がこみ上げた。穴があったら入りたい。そんな気持ちと、お高いキャットタワーの穴に入るのはまだ恐れ多い気持ちがある。究極の二択だった。これが人間だったらきっと顔を真っ赤にして逃げ出していたことだろう。
 鼠を抱えたまま固まる司を気にもせず、夜鷹はその手の鼠を再び段ボールにしまうと、またガサゴソと箱の中身を漁った。
「次は……、ご飯にしようか」
 箱から出て来たのは、小さな缶。黒いラベルが司には馴染みのない高級感を生み出している。タワーマンションのチラシくらいの高級感だ。
 ——俺の選手時代のご飯代より高そうなキャットフードだ……。
 夜鷹はぎこちない手際で蓋を開けると「はい」と缶のままのそれを床に置いた。お恥ずかしながら散々はしゃいでお腹も空いてた司は、ありがたいなあとそれに口をつけようとしてふと気づいた。
 グレゴールは毒虫になってから人間の食事を受け付けなくなった。そうして徐々に人間らしさを失っていったのだということを。
 司の胸にまた黒い靄がかかる。
 ——これが美味しかったら、俺はもう、人間に戻れないのだろうか。
 葛藤する司の胸中など知らない夜鷹は、ぴたりと止まってしまった司を不思議そうに見つめた。夜鷹が慣れないながらに用意してくれた食事。司はとうとう、悩みを振り切ってそれに口を付けた。
 ——まっず!
 形容しがたい味。ぐちゃぐちゃの食感。生臭い。憧れの人が折角用意してくれただとかそんな思考は一瞬で消し飛んだ。とても食えたものではない。
 不味さに苦しみながらも、夜鷹の気持ちに応えるべく数口食べて、結局司は食べるのを諦めた。
 夜鷹に申し訳なく思いつつも、キャットフードが不味い事実に少し安心してる自分がいた。
「おいしくないの?」
 痺れを切らせた問いかけに、控えめににゃあと鳴く。
 返事をしかと受け止めてくれた夜鷹は、少し考えて、立ち上がると台所に姿を消した。パタン、パタンと冷蔵庫が開いて閉じる音。いや、以前冷蔵庫はないと言っていたから冷凍庫か。
 台所から戻った夜鷹の手には、なにやらラップに包まれた塊。夜鷹は、凍って捲りづらいラップを剥がし、何枚かが重なったそれの一枚をべりっ、と雑に剥がした。
「はい。これは食べられる?」
 差し出された得体の知れないそれの正体は、凍った鶏肉だった。
 司は、以前慎一郎が夜鷹に言った言葉を思い出していた。
『純くん。こんな説教じみたことは言いたくないけれど、たまにはちゃんとしたものを食べないと体に悪いんじゃないかな』
『料理ならしてる』
『バケツに低温調理器と一緒につっこんだだけの味のしない鶏肉は世間では料理って言わないんだ』
『低温調理器に失礼だよ』
『き……、だってそれじゃあ、サラダチキンを買うのと変わらないだろう』
『サラダチキンは味が付いているから嫌だ』
『それがサラダチキンだからね!』
 あの時は「今、鴗鳥先生『君に言われたくないよ』を飲み込んだな」くらいにしか思っていなかったが、これが噂のディストピア飯か。
 司は差し出された1口大のそれを見つめながら、まあ案外美味しいのかもしれない、と考えてみる。肉は好きだ。肉が不味かったことはない。なら、これもきっと。
 司は、恐る恐るそれに噛み付いた。
 ——冷たい。固い。味しない。口の中で溶けてもさもさしてる。
 もう一口食べてみる。不味い。
 夜鷹が普段食べてるであろうそれは、何度咀嚼してもやっぱり美味しくなくて、人間のご飯でもこんなに美味しくないことがあるんだ、と司は思った。
 唸りながらも少しずつ全部食べ進めると、安心したのか夜鷹が嬉しそうにするから、つい釣られて司も嬉しくなってしまった。
 キャットフードより美味しくないこれが、この人をつくってる。


 ◇ ◇ ◇


 こういっちゃあなんだが、夜鷹は意外と面倒見が良かった。
 食事の後は少し遊んでくれたし、ストレッチの時も気にかけてくれた。膝の上で一緒にスケートを見て、気が付けば夜が更けていた。
 夜鷹は、明日は昼に出掛けるだとかなんとかで、いつもより短いスケート鑑賞に不機嫌な気配を漂わせていた。区切りのいいところまで観終えて、観足りないのか少し葛藤した後、時計を一瞥して煙草を片手にベランダへ。なんとも人間らしいことだ。
 司は、それだけで様になる夜鷹の喫煙姿をぼうと眺めた。
 窓がカラカラと音を立てて開く。冷たい風と共に、強くなった苦い香りが漂ってくる。
 戻った夜鷹は、先程から四次元ポケットのような役目を果たしている段ボールの中から、今度はタグの着いた大きなクッションを取り出した。見るからにふかふかそうだ。
 それをタワーの横に置くと、満足げに「よし」と言う。
 司に向かって、口を開く。その口は言葉を紡がずにピタリと止まる。そして数秒。夜鷹は、何か思案した後、蚊の鳴くような声で独り言のように「おやすみ」と言って寝室へと消えた。
 夜鷹純が、おやすみだって。
 無意識のうちとはいえやはり緊張していたのか、司は一人になった後、全てから解き放たれたように深く息をついて、夜鷹が置いた真新しいベッドに寝転んだ。
 体も疲れていることだし、きっとよく眠れるだろう。今日はもう休むとしよう。
 司は、そのまま瞳を閉じた。
 


 まんまる月明かりが、カーテンのない窓から差し込む。ごろり。寝返り一つ。
 広く生活感のない部屋は物音ひとつしない。ごろり。寝返り二つ。
 司は冴えきった頭で、ふかふか高級ベッドの上、ころころ、ころころと動き回った。
 ——駄目だ。全然眠れない。
 きっと明るすぎるせいだ。司は、夜空で煌煌と光る満月をじろりと睨んだ。当然、睨んだところで電球のように明るさを落としてくれたりはしないが。
 物静かな空間は別に慣れているはずなのにどうにも落ち着かない。部屋が広いせいだろうか。夜鷹が消えた寝室の扉はぴくりともしなければ、中から物音すらしない。気が付かないふりをしてはいるが、胸がざわついている。これはきっと孤独感なのだろう。
 司は寝るのを諦めて、その場に立ち上がった。ぽつんと一人。寝転んでいるよりもずっと孤独を自覚する。
 先程までうざったらしかったはずの、暗い空に浮かぶ月が、まるで夜鷹の瞳を彷彿とさせて、少し安心してしまう自分がいる。夜鷹の瞳、夜鷹の瞳だ。司は彼の目が笑う時、満月が欠けるみたいになるのが好きだった。それに彼の瞳は月のようで、彼を象徴する金メダルのようでもある。
 ——そう考えたら月って、金メダルみたいだ。
 夜鷹の瞳でもあり、金メダルでもある。月。司はなんとなく近付きたくて、キャットタワーに登ってみた。もちろん、距離が縮まるはずもない。いや、縮まってはいるのだろうが、大きくなることすらないので近づいている実感がわかない。
 ——金メダルみたいだ。……届かないところまでそっくりだ。
 何を弱気なことを。司の脳裏に月を取らせると誓った少女が浮かんだ。今の弱気は、彼女に失礼だ。司は、滅入った気持ちごと振り払うようにぶんぶんと頭を振った。
「なにしてるの」
 突然、後ろから声をかけられて司は思わず跳ねあがった。勢いよく振り向いて「にゃ、にゃ」と伝わりもしない言い訳を並べる。
 そんな司に、夜鷹はそっと両手を伸ばすと、優しく司を引き寄せ、抱きかかえた。
「ひとりは寂しかった?」
 司は何も言わなかった。それをどう受け取ったのか、夜鷹は司の頭を撫でてそのまま司を寝室へと連れて行った。


 ◇ ◇ ◇


 リビングや居室の雰囲気から想像した夜鷹の寝室は、高級なベッドにこれまた高級な布団が掛かっていて、寝るだけだからと電気ははなからついていない。そんな部屋だった。
 夜鷹に抱えられ、初めて入った彼の部屋は、想像よりも遙かに整っていて司は思わず目を疑った。
 黒を基調としたホテルライクなベッドにはなぜか枕が四個ある。カーテンもついているし、電気ももちろんついていた。サイドテーブルには見慣れた煙草の箱があるが、灰皿やライターは見当たらない。
 夜鷹は、ベッドにある二つの枕をくっつけて並べて、その上に司をそっと降ろした。そしてそのまま、先程まで寝ていたであろう皺になったベッドの片側にごろんと寝転がった。優しい手つきが、寝付かせるように司を撫でる。
「ねえ、君はどこから来たの」
 さっきまで本当に寝付いていたのか、半分夢の中、うとうとしながら夜鷹が尋ねた。
 司は「にゃあ」と短く鳴いた。質問に答えたわけではない。どうせ通じないから鳴いてみただけだ。
 今にも瞼が落ちそうな夜鷹の向こうにあるサイドテーブルを見ると、夜鷹も釣られて振り向いた。それから「ああ、これ」と煙草の箱を手に取った。
 吸うのだろうか。猫になってから全部の臭いがきついので、煙草はご遠慮いただきたいところだ。
 夜鷹が箱を開けると、中身は空っぽ。ただの空き箱だった。すぐ横にゴミ箱があるのに。
 そんな疑問を抱いていると、夜鷹はそれを大切そうに、祈るように額に寄せた。
「僕の好きな子がくれた唯一のものなんだ」
 心臓が、小さく鳴った。
 夜鷹はこれまで一度も見たことがないような、柔らかな笑みを浮かべていた。いや、違う。気付かないふりをしていただけで、彼はこれまで何度もこんな、暖かな眼差しで司を見ていた。
「朗らかで、実直で、一緒にいると調子が狂う。ちょうど君と同じ髪色で、」
 白い手が伸びてきて、司の毛並みを宝物に触れるように撫でた。
「ああ、そうだ。こんな色。————金メダルみたいだ」
 さっきから、夜鷹の声が、よく聞こえない。
「煙草の空き箱も捨てられないなんて。こんな気持ち、現役時代に知りたかったな。そしたら僕はもっと……」
 夜鷹はそのまま目を瞑った。長い睫毛に覆われた瞼は完全に閉じてしまった。聞こえるのは、夜鷹の寝息と、それから自分の心臓の鼓動。司は、この体の小さな心臓が破裂してしまうのではないかと思った。それほどまでに司の心臓は激しく脈打っていた。
 ——俺が、なれるのか。この人の、金メダルに。
 月に手の届くこの人が、自分を求めることがずっと許せなかった。手を伸ばしてばかりで、何にも届かない自分に、この人に欲しがってもらえるような価値はないと思っていたから。
 それでもこの人が、俺を金メダルだというのなら。それなら、俺はこの人のものになりたい。だって————金メダルを取れない夜鷹純なんて、解釈違いもいいところだ。
 まだ間に合うだろうか。こんな盗み聞きのような形でこの人の心に触れた自分を、この人は許してくれるだろうか。もし許してくれたら、伝えたい。司はそっと近寄って、夜鷹の薄い唇に、口付けるように鼻先を寄せた。
 ——俺もずっと、あなたしか好きじゃないんです。
 
 心臓がどく、どく、と激しく鼓動し体が熱くなる。
 ――う゛ッ、苦しい! なんかアニメで見たことあるやつだ……!
 味わったことはないのにやたらと既視感のある現象。司は、耐えるようにぎゅっと目を瞑った。燃えるような痛みは、長くは続かなかった。体が楽になった頃、恐る恐る目を開けると目線が先程とは全然違う。
 咄嗟に手を伸ばすと、二十数年共に歩んだ、見覚えのある手があった。足もある。指もある。分厚い体毛はない。尖った耳もない。完全に——
「も、戻った〜!」
 司は感動のあまり、自分の体を抱きしめた。
 ——今まで無理させてごめんな。これからはもっと大切にするから……!
 一日ぶりの身体との感動の再会に涙を流していると、後ろでごそりと布擦れの音がして、司は慌てて振り向いた。
「……司、くん?」
 夜鷹は、目をこれでもかと見開いて、唖然としていた。
 司が夜鷹に憧れていたことは夜鷹も知っている。要するに。
 突然自分のファンが目の前に現れました。深夜。寝室。全裸。
「はっ……! あ、あの、違うんです! 不法侵入とかでは決してなくて、あの、事情がっ!」
 夜鷹は寝室をきょろりと見渡すと、いない猫といる司という事実だけで状況を理解したらしかった。柔軟なことだ。全てを察した男は、視線をもう一度司に戻すと、片手で目元を被って顔を背けた。それから、大きなため息をついた。もう片方の手が、クローゼットを指さす。
「……とりあえず服を着て。それから————僕にキスした理由から聞こうか」
 言い逃れはできないらしい。もうすぐ俺は、月を取る。
 

コメント

  • ナツキ
    6月26日
  • みりん
    6月21日
  • rururi
    6月20日
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