それはマイ・アイズ・オンリー
原作軸未来いiのiりさん金メダル獲りました時空、デキてるよだつかの話です。モブのカメラマン(名無し)の撮った写真についての話です
注意:とことん捏造ばかり、ヨダジiュンが牛乳を飲みます
朗報:デキてる
デキてくれという願いを込めました
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ユア・アイズ・オンリー(あなただけが見ればいい)
夜になったらカーテンを閉め、朝になったらカーテンを開ける。
朝七時。さえぎられるもののないガラス窓を通って、朝日は夜鷹の部屋へようよう注ぎ込む。
起床した夜鷹が目にしたのは、リビングの窓辺の床に座って司がタブレットを操作している姿である。
朝日が跳ね散らかった司の毛先に遊び、まだやわらかい影を伸ばす。
「あ、おはようございます!」
「……おはよう」
夜鷹を元気いっぱいの司の笑顔が迎えた。声はすこし掠れているなと夜鷹は感じた。そうであるべきだと思う。でないと昨日の自分が悔しい。
こたえる前に空つばを一つ飲んで、自分は喉を整えてから返す。そんな夜鷹の見栄など気にした風は、司に無い。
「良く晴れてます、今日もかなり暑くなりそうです」
「……そう」
名古屋の過酷な夏がもう始まった。夜鷹は当たり前のように夏が嫌いである、好きになれる要素が一つもない。
不機嫌に拍車がかかった夜鷹に「貴方は氷に好かれすぎちゃったんですね」と司は以前言った。それは、悪くなかった。
夜鷹を満足させる結果や正解をなかなか出せなかった司だが、最近はなかなか。
「あ、アイスコーヒー冷蔵庫に入れてありますよ」
これ、と司は床に直置きしていたコンビニのロゴ入りプラカップを取り上げて見せた。
朝起きてどうやらひとっ走りのついでにコンビニにも行ったらしい。
カップにはアイスコーヒーをあらわす濃紺のラベルがプリントされているが、中身は黒でなくたっぷりと牛乳を含んだ色をしている。
まだ氷の角が取れていないそれをごくごくと飲んでから、
「……最近のコンビニのコーヒーってすごい」
はじまった、夜鷹はこの司の独り言に聞き覚えがあった。
「……ちょっといいやつ買っちゃったしな……」
司はコンビニコーヒーを自由に買えるようになった。最近ではさらに、プレミアムクラスにも手を出した。
キリマンジャロブレンドのLサイズは240円だ。Rサイズのアイスコーヒーは120円、あまりに司が言うから夜鷹も覚えてしまった。
教え子の結束いのりをオリンピック金メダリストへ導いたコーチが発するにはあまりにもささやかすぎる幸せ。
冷蔵庫を開けると、夜鷹の分のアイスコーヒーが冷えていた。こちらはちゃんと、真っ黒である。
「いのりさん、ありがとう……!」
よくもまあコーヒー一杯にそんなに感激できるものだと夜鷹はいっそ感心する。あまり語りたがらない司の貧乏時代がどれほどのものか想像もつかない。
自分でも知らなかった嫉妬という感情を、夜鷹があの子供に捏ね続けてもう数年である。
「あ、牛乳貰いました、これ本っ当においしいです」
「……うん」
最後に、夜鷹へ笑いかける。ここまでがお決まりだ。
今回はプレミアムクラスのコーヒーなのでブラックしかない(これも司が詳しく熱弁する)が、普段であってもラテでなくアイスコーヒーを注文し、夜鷹の家の牛乳を入れるのが司は好きだ。
結局いまだに食事が苦手なままの夜鷹の家の冷蔵庫には、牛乳の紙パックが入っている。夜鷹は牛乳を飲む、味が好きと言うよりはプロテインと合わせるとカロリーが手軽に摂取できるためである。
低温殺菌・ノンホモジナイズドブランド牛乳。なんと1本1,000円を超えている。
最初に値段を知った司は、「せんえん」、とひらがなで言い、「せんえん……せんえん!?」三回ひらがなで言って、拝むようにして一口ふたくち飲んで「値段の味がする」と呆然と言った。
今では二口くらいブラックでコーヒーを飲んで容量を減らし、プラスチックの蓋を取らず飲み口からドボドボと注ぐのだから。
夜鷹の嫉妬も毎回ここで決着がつく。司の生活全体を改善するという勝負であれば、夜鷹もいのりも加護一家に負けている。
だが、司の生活に楽しみを与える勝負はまだ、夜鷹といのりにも勝ち目があった。
僕は彼に、一本千円の牛乳を飲ませているよ。
依然加護家に世話になっている司だが、さすがにそろそろ家を出る予定と言っていた。その時こそが本当の勝負になるだろう。
「うーん」
司がタブレットを覗きながら首を傾げた。どうせ結束いのりの練習動画でフォームの良し悪しでも見ているのだろう、せっかく恋人の家に来ておきながらいい度胸だと思いつつ、隣に腰を下ろした。
窓から差し込む朝日のかたちに床が温められていた、以前であれば不快だと感じたかもしれなかった。
だが温かいを通り越して熱い身体を持つ司とつきあううちに熱に対してもやや寛容になってきた、これは諦めではなく、受け入れの話だ。
「この写真とこの写真なんですけど、」
司がタブレットを持ち上げ、夜鷹に見えるような角度にした。おや、と夜鷹がまばたきを素早く一つ。
林檎のロゴのタブレットの、最新版ではないものの上位モデルだ。借り物もしくは備品かと思いきや、結束いのりが好むペンクマのステッカーや、理凰がプレイするゲームのステッカーなどなどがケースに貼られている。おそらくは私物。
思わず夜鷹は司の言葉を遮った、
「このタブレットどうしたの」
「え?ああ、知り合いの……友人が、最新機種を買ったからと、お下がりです」
足りないくせに与えたがりで、欲しがらない男が、十万円以上するものをそんな理由でホイホイ受け取るわけはない。
そうであれば加護も夜鷹も少女もどれだけが楽だったか。睨まれてその視線に気づいたらしい司が、
「その代わり、町内会のお祭りとかの手伝いをします。前払いみたいなもの、ですかね」
「ふうん……」
まだまだ知らない事ばかり出てくる。油断のならない男である。純くん、そういうのはね、目が離せないって言うんだよ。慎一郎が夜鷹へかけた言葉がよみがえる。
司はよく夜鷹へ「貴方のこと、知れば知るほど……」と顔を真っ赤にして言うが、こっちもこっちで大概なのだ。
本人は何一つ隠していませんという顔をしているのだから始末が悪い。
人生において嫉妬以上に縁のなかっただろう町内会について夜鷹はもう少し聞いておきたかったが、司はもうタブレットを操作していて、
「この写真はよくて、この写真がダメな理由、わかります?」
2枚の写真を交互に夜鷹へ見せてきた。どちらも結束いのりを撮影したもので、こちらへ向けて笑顔で手を振っている。数秒に渡って連続して撮影されたものと思われた。
特に興味はないので首を横へ振り、アイスコーヒーを一口飲んだ。
「わからない」
「ウーン、やっぱりそうか……」
やっぱり、の部分にチリッとカンが障ったが咎めるほどではない。司の問いかけが夜鷹へ答えを求めるというよりは、自分の方針を固めたい時に尋ねる時の声だったので。
「それが何」
「これ、この間言ってた、月刊フィギュアスケートストーリーの取材の時の写真なんですけど」
「ああ」
言っていたのを夜鷹は思い出した。言っていたというよりは騒いでいた。見なよ、俺の結束いのりさんを……!相当にうるさかった。
キリマンジャロコーヒーは煙草とは違った意味で苦みの強いものだ、カップを床へ置き、司のカップを手にする。
最近はどんどん景気よく牛乳の注いでいたようだが、今日のはまたコーヒーと牛乳の比率が逆転しかねないほど牛乳が入っている。コーヒー牛乳どころか牛乳コーヒーだ。
「あっそれ俺の……、もう~……」
口を尖らせる司の顔は夜鷹を満足させた。
「ここは、いのりさんがノービスの時代から目をかけてくれてたんですよね、今回は金メダル獲得記念になんと!4ページも!狼嵜選手も2ページでしたね」
「声が大きいよ」
「ヘヘ……」
しれっとニヤつきながら自分の勝利も口にのぼらせてくる。いい気になっているようだね、
かわいげばかりの男かと思いきや、ちゃんとまだ夜鷹に挑むことも諦めないのだからたまらない。
「100枚近く写真を送ってくれたんですが、ここ」
写真の納められたフォルダの一覧を見ると、『日付_no001』のファイル名がズラリと並んでいる。
並んでいるが、ところどころファイル名に凹凸がある。凸の部分をよく見れば末尾に『日付_no001_ng』と「ng」の文字があった。
「NGっていうのは向こうから不採用になった写真で、顔に髪の毛がかかってるとか、ちょっとバランスが悪いとか……ここはちゃんと不採用のデータも送ってくれて、その上で不採用の理由も書いてくれるんです」
再び司は二枚の写真を表示した、どちらもNGはついていない。
「どちらもカメラマンの人はOKだったのに、こっちは瞳さんがNGを出したんです」
「……」
「ここ、NGの方は肌襦袢がズレて、脇の下が見えてるんです。ほんの少しですけど。これが理由だって」
すぐに司はNGの写真を閉じた。OKの方の、NGと少しも変わりないように見える笑顔の写真を開く。
「ああ」
指摘されて夜鷹はひとつ頷いた。女子のスポーツにつきものの問題だった。
夜鷹が牛乳コーヒーを飲むのに、司はもう文句を言わない。
少しばかり司は元気がないようだ。この青年が元気を失う多くは、自分の無力感に対してだ。
「匠先生はもうほんとに、親バカで……。小学生時代から瞳さんの写真にはものすごく厳しかったそうです、これはダメだ、俺の娘にふさわしくない写真を撮るな、って」
これはダメだ、のところは声を少し真似て司は言った。
夜鷹と司はある意味で兄弟弟子と言ってもいい関係である、匠の声と表情が容易に想像がついた。
「小学校高学年のあたりからもうすごかったそうです」
『本ッッッ当にすごかったんだから!あれはダメこれはダメって、でも、……』
『私の写真がどう扱われるかについて、父親があれだけ怒ってくれるっていうのは嬉しかった』
『今でこそ何歳だろうが慎重にってなってるけど、昔は保護者の人が勝手にネットにアップとかもあったしね』
『あったのよ、女子のスパイラルの瞬間だけシャッター音が増えるの。本当よ、……私のリンクメイトも一人それで辞めちゃったな……』
『だから』
『私が絶対にいのりちゃんの……いえ、生徒さんの写真は全部チェックします、司くんが気づけないところまで、絶対に見逃さない!』
「だから瞳さんはたまに五里先生や、……あ、岡崎いるか選手のコーチです、五里先生とか他クラブの男性コーチから相談も受けたりしてます……」
司が黙ったので、夜鷹は促すように頭を司の肩へ軽くぶつけた。
「……俺は気づけなかったんですよね」
「それは無理」
「でも、」
「どうあっても、違う生き物だ」
「……」
「役割の分担をすることは別に君の不足というわけじゃない」
司が笑った、やや、驚いているようだった。それはそうだろう、何もかも一人で成し遂げて来た夜鷹からはかけ離れている。
「……ありがとうございます」
夜鷹は夜鷹で、柄にもなく優しい声が出たことに自分で驚いていた。僕はこんな声が出るんだって知ってた?って、光は知っているのか、今度聞いてみようと思った。
『たまにですけど、コーチはちゃんとずっと優しかったですよ』
これはちょっと先の未来の話。
「でもこのカメラマンさんはすごいんです!今回が初めてなんじゃないかな……向こうがOKでこっちがNGになったの」
「男?」
「はい!」
司はすっかりもう元気が出ている、司は夜鷹のアイスコーヒーをガブガブ!と飲んだ。カフェインよりも僕の方が効果があったけどね。
突然水をドッと流されたホースみたいに、夜鷹の感情の行先も強弱も不安定だ。
タブレットを受け取った夜鷹の指が何気なく次へ次へと写真を送っていく、NG、OK、OK……と脳内で答え合わせをしながら。
夜鷹は写真を撮られるのが好きではない、過去においては必要なので撮影を許した、それだけだった。
『写真は、世界の一部を切り取り、無力化する行為』と何かで読んだ時にこれだとも思った。
写真とは被写体を現実から距離を置かせるようなものなのだ。
自分のあずかり知らぬところで姿だけが残されるということが不愉快なのは今も変わらない。
そこに対して「自分が許した人間の手元に置くのはまあ、いいよ」そうなっただけである。
司の写真や動画がネットにありはしないかと思うぐらいには、夜鷹も人間になった。
結束いのりが満面の笑顔でガッツポーズをしている写真の右端に、見慣れたパーカーの色が切れ写りこんでいた。写真はNG、まあ、そうだろう。
「あッ俺ゾーンだ」
もう一枚進むと、これまた画面いっぱいにガッツポーズで満面の笑顔の司の写真である。今度は結束いのりの握りこぶしが見切れている。NGだ。
視線を横へずらすように、一連した写真。さらに進めば、ちょっと引きの構図でガッツポーズする司の写真。
「何ゾーン?」
「俺ゾーンです、ここから俺の写真……」
言葉を途切れさせた司は勝手に赤面し、違うんですとばたばた手を振った。
「ア、違うんです!ノービス時代からいのりさんは必ずどのカメラマンさんにも俺の写真も撮るように言っていて……でも俺はオマケだから、もちろんオマケでいいんですけど!目を閉じてたりちょっとブレてたり、見切れてたり、変な顔してたりすることも多かったんですよね」
でも、と司が横から写真を一枚送った。
笑顔ではあるものの、カメラに向けてではなく先程のものと違って真剣に結束いのりを見守る横顔の写真だった。
「このカメラマンさんはちゃんと、俺ゾーンって感じで、だから俺がそう勝手に呼んでるんですけど、ちゃんと俺を撮ってくれてるんです、うわ、今回は4ページだからかいつもより多いな……」
自分の横顔や、教え子へ指先のしぐさを実演で指導する姿や、座ってスケート靴の紐をきつく結んでいる姿などが連続して現れるうち、司はモロモロとうろたえ始めた。
夜鷹の目に自分の切り離された過去を映らせているのが恥ずかしいのだろう。
司は目に見えて赤くなり、ビャビャッと写真を送ろうとするが、手汗のせいか失敗している。
夜鷹は評価した、
「悪くないね」
言葉を掴み損ねて司はただコクコク!と素早く頷く。
「……抜けてる」
「え?」
「こことここ、番号が飛んだ」
少し戻る、リンクの手すりを右手で掴んだ司の写真はNO_008で、今度は左手で手すりを掴んだ写真はNO_010だ。
おそら両手で手すりを掴み、ルッツジャンプの足の抜き方を指導しているだろう部分が抜けていた。
カメラの位置的に背中を向ける構図になるからだろうかと一度は夜鷹も考えたのだが、結束いのりの写真はNGとOKで区分され、テキストでどこがNGだったか補足もされている。
「ああ、そうなんですよね」
「そう?」
「俺ゾーン、そういえばいっつも番号が抜けてるんですよね、まあ俺はオマケだから気にしてなかったんですが」
「……今までの写真を見せて」
「え、なんで」
「いいから」
「……俺ゾ、……俺の写真、ですよね」
「当たり前だよ」
以前の司であれば、いのりさんに興味を持ってくれたんですね!などとヌケヌケ抜かすところだったが、それなりに深まってしまった今では違うと気づいたらしい。
「……もしかして」
ハッと司は何かに気付いたようで青ざめ固まっている、いいから早く出しなよと夜鷹はイライラし始めた。そう言えばまだ今日は煙草の一本も吸っていないのだ。
ゴギュッ!とアイスコーヒーを派手に喉仏を鳴らして飲んで、意を決したように、
「……もしかして、し、心霊写真……」
とうとう夜鷹は司の背中をパアン!と叩いた。「痛ぇ!!!」天井が高いので響き、いい音がした。尻だったらもっと、いい音がするのを夜鷹も司も知っている。
そろそろと灼熱の名古屋が本気を出してきた。
『はい、月刊FSS編集室でございます』
電話口に出た女性の声が低く落ち着いていたので夜鷹は少し安心した。電話自体が嫌いなのに、きんきんと響く女性の声を食らわされたらたまったものではない。
「夜鷹純と申します」
『……ご用件をお伺いいたします』
一気に女性の声が固くなるのがわかった。
名乗ってから夜鷹はしまったなと思ったがもう遅い。一般成人男性としてではなくスケート界においてその名前はあまりにも重いのだ。
「結束いのりの撮影をしたカメラマンへの取次ぎを。出して」
いっそかしこまらずぶっきらぼうな方がメディアの思う夜鷹純の像と重なるかもしれないと、口調を取り繕うのを止めた。
バックナンバーにカメラマンの名前はない。取材の際に名刺を貰っているだろう司には聞かなかった。
『カメラマン直接のお取次ぎは出来かねます、一旦こちらで内容をお伺いいたします』
逆に電話口の女性は調子を取り戻したようだった。クレームや問い合わせに慣れているのだろう、テンプレートを読み上げるような調子である。
「わかった。『明浦路司の欠番データについて話がある』こう言えばわかる」
『……少々お待ちください』
保留音はヴィヴァルディの四季、冬の第二楽章だった。夜鷹の脳内で滑走が始まる。スケーターというのはどうも曲を聞くと構成を考えてしまう生き物なのだ。
夜鷹の脳内で滑る存在は長らく夜鷹自身たったひとりだったが、いつからか司を滑らせることも増えた。最近では光や慎一郎、理凰や結束いのりも参加させたりもしている。
だが、司にアイスダンスを踊らせる時の相手だけは絶対に譲らない。
もちろん言わない、夜鷹だって、それを言えばあまりに浮かれすぎていることがわかる。
『大変お待たせいたしました。ぜひお会いしたいそうです、日時についてですが――』
「いつでもいい」
後半のコンビネーションジャンプの最中で保留音が途切れたので、集中力の切れた司は転倒した。しっかりしなよと夜鷹は小さく鼻を鳴らした。
全ては夜鷹の脳内の話である。
指定された出版社応接室の古びた合皮ソファの上で、カメラマンを待ちながら夜鷹は組んだ脚を解く。
灼熱の名古屋を昼日中に出歩かされて機嫌が最悪ではあったが、令和なのに安っぽいとはいえ応接テーブルに灰皿がある事に少しばかり機嫌が直る。
出版社の本社は東京だが、支部が名古屋にあったのは幸運だった。相手が東京からやってくるという可能性については夜鷹は考えない。
時間になった、さてどんな人間が来るかとドアを睨んでいると、チャッ……と隙間のように開いた。
「……こ、んにち……は」
冴えない男だ、夜鷹は手短に評する。猫背の、夜鷹とは違う方面でこの季節に長袖黒一色の痩せた男である。
カメラマンは隙間風のようにひょろりと入ってきて、対面へ落ち着かない様子で腰を下ろした。
軽やかではなく重みのない、落ち着きではなく覇気のない、マットではなく艶のない黒髪の、白を選べないだけの黒服の男。
「ょ、よだかじゅんだ……」
「うん」
先程の声とも言えないような挨拶と比べれば、まだ聞き取れる声でカメラマンは言った。軽く頷くと、弾かれたようにペコペコと頭を下げてくる。
「データを見せて」
単刀直入というにしても言葉を費やさなさすぎる物言いだったが、男は罪人のようにうなだれつつタブレットを応接テーブルへ出した。
スタンドを立てて、タブレット画面を夜鷹へと向ける。
大型の茶封筒を脇に抱えたまま動作を行うのでぎこちないが、この様子では抱えてなくてもさほど変わりはないかもしれない。
「……こちらです」
夜鷹に向けたままの状態でも生白い手がせわしなく動いてタブレットを操作し、写真を選んだ、
「……うん、そうだね」
「……」
煙草を唇に咥えたまま、夜鷹は納得の呟きをひとつ放つ。煙が対面の男へそろりと襲い掛かった。カメラマンはもうこれ以上うなだれる余地はない。
夜鷹の予想通り、明浦路司がカメラに背を向け、両手で手すりを掴んでルッツジャンプの足の抜き方を腰をひねって教え子に実演している最中の写真だった。
それだけの写真だった。
だが、
「これを君は隠した、NGとすら、しなかった」
「……」
それだけの写真、それだけの瞬間を現実から切り離したもの。だがその手も視線も湿っている、詰めていた呼吸も熱いのだ。
その腰を前からだけではなく背後から何度も掴んだことがある夜鷹にはわかった。
これは情欲・劣情だ。
自分に向けて司の締まった腰を突き出させている、司の両手は手すりを掴んで自由が利かず、その全身を視線という手のひらくまなく撫で回すことができる。
ああ次の瞬間、熱と涙にぐずぐずとろけた顔で振り返ってくれたら!そんな願望までもが伝わってしまった。
夜鷹がわかるということは、もちろん撮影者であるカメラマン本人にもわかってしまうはずだ。
カメラマンは確かに誠実だった。結束いのりの写真を全て撮影する時に性的な目で見ることは一切なく、それ以上に、「そう見えるかもしれない」までもを吟味し、手元にある証拠を全て送って証明し続けた。
劣情や、無害を装うような取り繕いがあれば高峰瞳が見逃さない、彼はずっと無罪だった。だがそれは結束いのりに対してだけだった。
無罪だったが見なかったフリで自分を許すこともできなかった、データを削除することもまた。
うつむいたままカメラマンの不健康そうな爪がカツッと画面を叩いた、ずっと指が震えていた。
自分でも知らなかった情欲がシャッターを切った瞬間に形になり、データを見てもいないはずの人間に言い当てられる。それは恐怖だろう。
「……あけうらじつかささんはあなたのふぁんだとずっといっていて……」
明浦路司さんは貴方のファンだとずっと言っていて……
とにかくぼそぼそと聞き取りづらい、夜鷹のはっきりとした眉が寄せられ、またそれにカメラマンは委縮し、言葉を続ける。
「おふたりが……とく、とくべつななか、……うわさもあって」
お二人が特別な仲という噂もあって。
夜鷹は今度こそ眉を寄せるだけでなく跳ねさせた。
言ってはいないが隠しているわけでもない、出所はどうせ結束いのりがいつも言う「私が氷の上に居続ける限り、先生を夜鷹さんに渡しません」に決まっている。
カメラマンはいまだに一度も夜鷹と視線が合わないまま、また一枚の写真を開いた。日付からして、結束いのりが金メダルを獲るよりだいぶ前のものである。
「こ、」
これ。
額の汗を拭う明浦路司を斜め向かいからとらえた写真だった、黒のハイネック長袖の練習着姿でこちらも特に露出などがある訳ではない、だがこれは。
ふうっと司がこぼした熱いため息が耳元をくすぐるような感覚を夜鷹は覚えた。
司の表情はありありと悩まし気で、重くだるい身体を無理やり動かしているのがわかる。
動いているとわからないが、切り抜かれたその一瞬には腫れの残る瞼と唇がなまめかしい血色を透けさせていた。
今度こそはカメラマンに罪のない写真だった。
夜鷹は知っている、このハイネックのぎりぎり、一枚剥けば急所という急所は夜鷹のつけた吸い痕や歯形だらけだ。
見えるところは止めてくださいなどと懇願された、それはむしろ夜鷹にとって逆効果だ、見えないところを埋め尽くす。
カメラマンの彼が夢想したように、腰に指痕が残っていたかもしれない。もう無理ですと8歳も若いくせにへなへなと弱音を吐かれて、張りのある尻を叩いたことだって一度や二度でない。
司は夜鷹に、見えるところに色を残すなとは言ったが、吸われたり擦れた肌にはひりひりと熱となり残って、動きのたびに司に朝まで続いた夜をじくじくとけしかけた。
前後の写真がちゃんとコーチの顔をして、教え子を精一杯導いている写真である。
好青年が一瞬だけ見せた私生活のゆるみを切り取ったとも言えるが、逆に、こんな事後まるわかりな顔をする奴が取り繕ってコーチやってると意味づけることもできてしまうだろう。
この写真を隠すことで、彼は司を守ったとも言える。
もはや声も音も無く、一枚の写真が表示された。
司が練習を終え、結束いのりを見送っているところをやや遠く、横から写したものだ。クラブの入り口で、もう深夜に近い時間に見えた。
二枚のうち一枚は心地よい達成感と疲労感、明日への期待や不安のような、タイトルをつけるのであれば無難な『おつかれさま』あたりだろうか。
次の一枚はこの直後のものと思われた、が、司の表情ががらりと一変している。
司の目が輝いていた、口元が「ワ」のかたちにぱかっと開き、ぎゅっと手を拳にして、今にも飛び出しそうな、さんぽ、という単語を聞きつけた大型犬のような。
遠く、クラブの入り口に何を誰を見つけたかなどと考えるまでもない、だってこの顔を夜鷹は知っている。横顔ではなく、真正面を。
この数秒後には本当に飛びつかんばかりに走って来た。わぁ!迎えに来てくれたんですか、嬉しい!声までが聞こえる。
別に欠番にする必要のない写真のはずだった。
「――は、」
夜鷹は少し笑った。
撮る側も撮られる側も思いもよらないところを暴かれて、写真というものは、思った以上におそろしい、だから、おもしろい。
「もうやめます、――あなたにきづかれた――あなたでよかった」
もうやめます、貴方に気付かれた、貴方で良かった。
空気漏れのような声でカメラマンはつぶやいた。ようやく上がった顔からはべったりと張り付いていた憑き物が離れ、すがすがしく沙汰を待つ罪人の表情をしている。
夜鷹に見つけられたことで彼はようやく、ファインダー越しに切り取り続け、生き埋めにし続けた下心に『恋』と名前を付けて別れることができるのだ。下心だけでなく、内に心のある『愛』も確かにあった。それは夜鷹は言わない。
「続ければいい」
「え」
夜鷹は新しい煙草に火を点けた、彼の技術と精神に敬意を払って、門出に手向ける煙でもあった。
「もう僕が君を見た、これからは、君は僕の視線をもとに欠番を作りなよ」
「――でも」
「それ」
カメラマンの肌の白さとは違う、内側からほのかに輝くような夜鷹の白い指が封筒を指さした。
「それは僕に渡すつもりだったものだね、ちょうだい」
「は、い」
渡された封筒しっとりとした重みがある。開けなくてもわかる、彼が隠し続けた写真たちが入っている。
紐を巻き付ける古風な留め具は厳重に幾重にも巻き付けられ、夜鷹だけに紐解かれるのを待っていた。
「うん、――僕だけが見ればいい」
捧げられたユア・アイズ・オンリーはようやく夜鷹のマイ・アイズ・オンリーになったというわけ。
「……僕の話は終わりだけど、君は何か言う事がある?」
「いつか、お二人の写真を撮ってみたいと思いました」
子供のころからのどもりが今は今だけは鎮まった。カメラマンは夜鷹純の写真嫌いを理解している。
だが言わずにおれなかった。
ひたりと夜鷹の金色の瞳がカメラマンを見据える。
「……気が向いたらね」
お互いを視線に納めた状態で、どんな風に切り取られるのか、それは夜鷹の鷹の目をもってしても予想がつかない。
面白いかもしれないね、返事は保留になった。
「わ~~今回も心霊写真ある……」
「へえ」
今も司の俺ゾーンには毎回、欠番つまり夜鷹のマイ・アイズ・オンリー心霊写真が含まれ続けている。
それはマイ・アイズ・オンリー、僕だけが見ればいい。