政治学者の宇野重規さんと、『バラバラな世界で共に生きる』著者の朱喜哲さんの対談イベントレポート後編です。
リベラリズムは、そもそも「善」を語らない思想として出発しました。何をよしとするのかは人それぞれなのに、私たちに共通する善があるとして、それを国家や社会が一つにまとめようとすれば、排除や抑圧、場合によっては暴力につながってしまう。だからこそロールズは、善ではなく「正義」を語り続けてきました。
しかし宇野さんは、『政治とは何か』の終盤で、あえて「共通善」という言葉を使っています。朱さんはそれに驚きをもって反応しました。なぜいま、共通善を語るのか。そこにはどんな危険があり、それでもなお語るべき理由とは。注目の対談、後編です。
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リベラリズムはなぜ「善」を語ってはいけないのか
朱 今回、宇野さんの『政治とは何か』で驚いたところがありました。最後にパトリック・デニーンなども引かれつつ、「共通善(common good)」とおっしゃるんですね。
宇野 言ってますね。あ、言っちゃった、という感じです。
朱 なぜ驚いたかというと、ロールズは正義やリベラル的な価値観を立て直した人ですが、そのロールズは「善というのはみんな絶対に違うし、バラバラなんだ。必ず利害が対立する。だから善にもとづいて一緒にやるのは無理だ」と考えたわけですよね。ここでの「善」とは、何をよい、悪いと思うかといった個々人の価値観のことです。
こうした個々人の善が対立するなかで、なんとかうまく回っていくための仕組みをつくる。それが正義(justice)なんだ、と。だからロールズは、正義の内実を、ほとんど手続きに限定していくわけですね。等しいものを等しく扱い、理由なく差をつけない。そこでは個々人の善は問わない。「何を考えてもいいんだ」というのがロールズ的な「正義と善の区別」だったし、ローティもそこに乗っている。
これを踏まえると、リベラリズムの泰斗である宇野先生が「共通善」と言うのはなかなか衝撃的です。みんなが何をいいと思うか、共有できることから始められる可能性があるのではないかとおっしゃっておられる。
「共通善」は一見いい言葉ですが、安易に善による結びつきを肯定してしまうと、それを共有しない人は相容れない他者になってしまいます。
『政治とは何か』でも、アレント的な、つまり「一人の人間が誕生することで世界が誕生する」という複数性や多元性を基礎にした政治哲学と、シュミットのような「友/敵」という分類から始まる政治が両極に置かれていますよね。
共通善と言ってしまうと、結局「我ら」の外に「奴ら」を置いてしまうことになるのではないか。これはリベラリズムと言うには相当まずいのではないかと思ったんですが、いかがですか。
宇野 どこから答えたらいいかな。共通善に踏み込むのはリベラリストとしていかがなものか、とおっしゃるのはわかります。
朱さんが説明されたように、ロールズ的なリベラリズムにとって、善は一人ひとりの個人の選ぶものです。「何が共通の善か」を言い出したら、折り合えなくなってしまう。
そもそもリベラリズムは、近代の宗教戦争などから生まれたものです。「これが善だ」「いやそれは違う」と言い始めたら折り合えない。究極的には殺し合いになってしまう。だから、共通善を語ってはいけない、「善は一人ひとりの人間が考えればいい」というのが、リベラルのある種の共通了解だと思うんです。
ロールズは、善と正義を明確に区別します。一人ひとりが違う善を追求しているが、そのためにも各人が善を追求することを可能にする社会のルールが必要になる。それが正義です。正義はそれ自身が善ではなくて、複数の善が成り立つための共通の基盤を作るものです。
『正義論』と『政治的リベラリズム』で違いはありますが、その点に関しては変わらない。『正義論』に関してはある種の思考実験の印象がありますが、『政治的リベラリズム』では西洋社会で歴史的に形成された「重なり合う合意」を論じます。個別の善や包括的教説ではなく、それとは区別される政治的正義を追求するという点では一貫しています。
朱 まさにその観点で書いたのが、最初の私の単著になった『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす』という本でした。同書はロールズの皮をかぶったローティという仕立てでリベラルのあり方を論じました。ローティは「正義というのも、ある意味では偶然で、普遍的ではなく、西洋社会において歴史的に形成されてきたものに過ぎないんだ」と考えますが、『政治的リベラリズム』のロールズもそれに近しい。とはいえ、そのロールズといえども、共通善とは言いません。
宇野 その意味で、「共通善」はリベラリズムの一線を超えてしまうところがある。それでも、今、自分たちは「共通善」を語らなければならないと思ったんですよ。