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強い未練や後悔を抽象的にしか覚えていない(=ほぼ記憶なし)全員逆行の原作~未来軸のよだつか師弟IF
夜鷹さんが司さんにうっすら感じてる可能性(ありえない未練)のうち
① 選手時代に出会えなかった理想のコーチ
② 選手時代に競い合い、追いかけてほしかった同期の選手
③ 指導者として育てたい理想の選手 ←これを逆行で無理やり実現させましたという話です
ここでは司さんが主人公なので、夜鷹さんの未練はきっちり昇華されます
WEB版です(加筆修正したオフ本が出てます:novel/27101144)
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人間、生きていれば後悔なんてものはいくらでもある、と高峰匠は思っている。実際、自分にもあったし、今もある。小さなことでは昨日妻に頼まれていた特売品のトイレットペーパーを買い損ねた(忘れていたのではない。閉店ギリギリに店に行ったら売り切れていた)こと。取り返しのつかないことであれば十年前、指導を望まれたにも関わらず結局何も与えることができなかった元教え子のこと。後者はその後悔が二重になって、高峰の精神のわりと柔らかい部分をじんわりと締め付け続けている。
「アイスダンスなら育ててやる」
シングルを望んでいる人間にはさして魅力的に響かないだろう言葉を、あき…あけ、明浦路司は真正面から受け取ったようだった。ずっと伏せられていた視線がそこで初めて高峰を見て、明るい色の双眸にしっかりと力が宿っていることに少しびっくりする。妥協と消去法による選択肢を選ぼうとして人間の目ではない。
一般開放のリンクで滑っている初対面の司を呼びつけて経歴と名前を聞いたとき、高峰が感じたのは後悔だった。貸し靴を履いた彼に関する、起こってもいないことへの後悔。昨日のトイレットペーパーとは違い、霧の向こう側に感じるにも関わらず、それは確かに高峰を苦しくさせる。
純のときと同じだ。
夜鷹純からコーチングを求められる手紙を受け取った時、高峰はその時はまだ会ったこともなかった彼への後悔を感じ、そのれは一年後に実際の後悔になる。霧の向こうのそれは具体性を持もたず、対策を取ることができなかった結果だった。そもそも、後悔は後から悔いるから後悔と言う。先に感じるのなら直感とか天啓というものであって、高峰はその手の非物理的なものを信じるタチではなかったのだ。
誘いに頷いた明浦路司を、高峰はその週末には横浜に連れて行った。司の生活基盤は名古屋にあるので、そこはどうにかしなければと思いながらも、先にパートナーやクラブメイトとの顔合わせをさせるべきだと思ったのだ。
蓋を開けてみれば、高峰のクラブで司は一番年下だ。高峰は薄々自身の指導者適正を感じていたので、しばらく新しい生徒を取っていなかったのである。名古屋でのヘッドコーチの話も、名前貸しのようなものだと思っている。そこで見つけたのが司なので、話は聞いてみるものだ。
クラブメイトたちの前で司は月並みな挨拶をして、アイスダンス初心者であることをパートナー候補である瞳に向かって告白した。そして――一体どういう話の流れなのだか、おそらくリフトに関してだと思うのだが――非常に力強くこう言い放った。
「絶対に落としません!」
――あ、これ大丈夫かもしんねぇ。
正体の分からない霧が、その向こうの後悔ごと霧散したのを感じた。そう、これはそれほど深刻な話ではない。
いや無理じゃない? というのが高峰瞳の感想である。並んで新しいクラブメイトの自己紹介を聞いてた鴨川洸平と白鳥珠那も同意見だった。声には出さなかった。慈悲である。この、瞳の父が連れてきたシングルもアイスダンスも未経験だという年下の彼が、一生懸命であることだけは伝わってきたので。
父を伺うと、匠は司の隣で唖然としていた。強面で、どちらかというと泰然としている匠が見せるには珍しい表情だ。匠は真剣な司の横顔を数拍眺めて、そしてその決意らしきものを笑い飛ばした。
「大口叩いたな!」
「はい!」
笑われたことを気にもしないのか、司は匠に向き直って大きく頷いた。素直すぎる。匠はまるで瞳を見るときのように目を細めて、もう瞳にはしない少し乱暴な手つきで司の髪をかき回した。
「笑って悪かったな、って言うのは結果が出てからだ」
「はい、絶対なので大丈夫です」
頭を左右に揺すられながら司はさらに大口を計上し、瞳と洸平は変な子だぁと思ったし、珠那は口に出した。
「変な子だった!」
幸い練習後のことだったので、珠那のいつもの失言を聞いたのは瞳と洸平だけだ。
二時間ほどの練習で、司は未経験という自称と矛盾するスケーティングスキルを瞳たちに見せつけてくれたので、珠那のはそれも含めた感想だろう。
「よく分からない子だね」
洸平はさすがに少しマイルドな表現を使った。
「全部独学で、クラブはここが初めてで、コーチも匠先生が初めて。アイスダンスは触ったこともないのに、リフトは絶対に落とさない? だっけ」
「ムリじゃん」
驚くべきことに珠那は、主に洸平のせいでアイスダンスの女性側の経験が豊富だ。落とされる側なので説得力がある。
別に逆でもいいのだけれど、男性が女性を担ぎ上げるアイスダンスのリフトというプロトコルは、いかに女性側が上手く落下し、男性側は上手く落下させるか、を積み上げて完成させるものだ。瞳も落ちたいわけではないが落ちる覚悟はしているし、実際これまでに練習も含めれば何回落下したかなんて覚えていない。そういうものだから。
「でも実際、リフトだけなとこはあるよな、スケーティングもさすがにひーちゃんにはまだ追いつかなくともさ」
「めちゃくちゃ見込みがあるのはそうだと思う」
「うーん……」
珠那と洸平の評価がずいぶんと甘いので、瞳はとりあえず唸っておいた。自分で言うのもなんだけれど、パートナーがとっかえひっかえなのは、辛抱強く待ってもパートナー間の実力差が埋まってくれないからだ。瞳がランクを落とすわけにはいかないので、パートナーの方に上がってきてもらうしかない。裏切られ続けてきた期待を持ち直すことは、まだ瞳にはできていない。
「ま、お父さんが連れてきたんだし、将来性に期待するわ」
「でもあと四年しかないんだろ」
珠那のやや厳しい声に、瞳は曖昧に笑って返した。
結論として、瞳の新しいパートナー、年下のあき、あけ、司は、とんでもなく変な子だった。そして有言実行の男だった。
リフトに限らずだが、アイスダンスのホールドには型というかマニュアルというか、先人たちが落とし落とされ、転倒し巻き込まれ、ぶつかっては離れすぎ、とありとあらゆる失敗を乗り越えて成功を導き出した教えがある。ほぼ口伝なのが惜しい。とはいえリフトの男女側それぞれのタイミングなんて個人差がありまくりなものなので、完全マニュアル化されないも納得できる。
それを司は、一通りの説明を受けて、匠に実践で見せられてリフトされる側も体験し、陸上練習で危なげなく瞳を持ち上げた。カン良いのだろうなと、鏡の前でくるんと司の肩の上を回転しながら瞳は思った。それに、細く見えたけど乗る方が安心できる量の筋肉を感じる。
でもまあ、陸で上手く行っても氷の上でどうなるかなんて分からない。これは瞳の経験則だ。空気より摩擦のない氷に接地するたった三ミリのブレードに乗る、二人分の体重と慣性。失敗するときはいつも、人間って陸上の生き物なんだなと瞳は思う。でも、地面落ちるより氷に落ちる方が痛くないのだから、やっぱり氷の上に適応しはじめたのかもしれない。
だから初めての氷上でのリフトの練習で、あ、と思った瞳は覚悟した。失敗は肌で分かる。伊達にアイスダンスに青春捧げていないので。
けれど、瞳は氷に落ちなかった。ぐい、と重力に逆らって体が引き上げられる感覚。ついで回る視界。反射的に目を閉じた瞳を襲ったのは僅かな衝撃だけで、下敷きにしたものは暖かかったし、なんなら柔らかかった。遠くで匠の叫び声がする。顔を上げた瞳の下で、司が情けなく眉を下げていた。どうやら二人そろってひっくり返ってしまったらしい。
「す、すみません。けがは」
「大丈夫。司くんは?」
「大丈夫です!」
瞳がさっと立ち上がると、司もスムーズに後に続いた。完全に彼の上に乗ってしまっていたけど、お互い問題なさそうだ。近づいて来ようとする匠を手で制して、瞳は最初からね、とパートナーを促した。練習でのこの程度失敗のうちにすら入らない。
二回目、上がり切れなかった瞳を何とか氷に降ろしてから、今度は司一人でひっくり返った。
三回目、上がり切ったけれど今度は勢いが付きすぎてずり落ちそうになる瞳の体を、追いかけてきた司の腕がそのまま瞳を抱え込もうとした。外側に体が振られる感覚があったので、瞳の方から反射的に腕を伸ばす。遠心力に耐え切れなかったらしい司がそのままバックで滑って、勢いを殺してからぴたりと止まった。するりと降ろされて、瞳のブレードが氷上に戻った。
思わずぽかん、として見上げると「すみません」と恐縮しきっている顔の司。足元にはまん丸に描かれたエッジの跡。
絶対に落としません。あの一生懸命な声を思い出すともう駄目だった。
「――あははは!」
瞳はこみあげてきた笑いを我慢せずに、声を上げて笑った。瞳さん? と困惑する司の腕を叩きながら、腰を折って笑った。顔を伏せたのは滲んできた涙を気づかれないように拭うためだ。嬉しさゆえの泣き笑いだったので、涙を勘違いされたくなかった。
「司くん、すごいね」
顔を上げると、眉をハの字にしてこちらを見下ろしてくる司の視線とぶつかった。
「自称初心者なのに、スケートがこんなに上手くて、リフトもここまでできる」
「でも失敗ばかりで。すみません」
「謝らない。司くんは宣言通り私を一度も落としてないんだから。できないのは片方が悪いんじゃない、二人が揃ってダメなの。アイスダンスってそういうものよ」
諭すわけではないけれど、アイスダンスでは瞳の方に一日以上の長がある。明るい色の双眸を覗き込むようにすると、司は真っすぐに瞳を見返してくる。最初からそうだった。瞳が、クラブメイトが司の実力と決意を少しだけ疑っていても、彼は絶対に視線を逸らさなかった。
「成功も失敗も、実績も賞賛も二人のもの。アイスダンスってそういうものなの」
「……はい」
「私きっと、貴方の決意を本気にしてなかったんだわ。ごめんなさい。でもそれは私が貴方と、貴方と一緒に立つ氷の上に対して本気じゃないってことじゃないの」
それぞれの練習をしながら、仲間たちがこちらをそっと伺っているのが分かる。匠はすぐ近くのリンクサイドにいるから、この会話も聞こえているはずだ。
「だから改めて私も宣言するわね」
自分と自分のパートナーのコーチである父の存在を意識して、瞳はやや声を張り上げた。
「私も、絶対に落ちないから!」
パッと司の顔が輝いた。
「はい!」
なんとなく彼を見ていたときに感じていた霧のようなものを、晴らす笑顔だと思った。
高峰匠は腹を括った。むしろ、どうしてそうしなかったのかが今となっては不思議である。明浦路司には、コーチとしての時間も、支援者としての金銭も、つぎ込む価値がある。高峰がまず頭を下げたのは、愛する妻だった。彼女は笑って夫とそして娘の選択を信じてくれた。次に司に頭を下げた。彼には大学を辞めてもらう必要があったからだ。
「辞める……」
「とにかくお前に必要なのは時間だ。氷に乗る時間、それだけだ。あとは俺が補える」
親の意向で国立に通い、奨学金とスカラシップを受けているというのだから優秀なのだろう。司の両親が、その方面での息子の栄達を望んでいるのも分かる。しかし今のように、平日は名古屋で授業とバイトをこなしながら自主練をして、週末だけ横浜に来るのでは駄目なのだ。
「すまんが親御さんとの時間をセッティングしてくれ。俺が頭を下げる」
「先生にそんなことさせられませんけど!?」
「いや、する。筋は通さなきゃならならんからな……その前に通す筋があった」
「その前に通す筋」
「お前のこれからの四年、その四年で失うかもしれない人生を、俺に、瞳にくれ」
「じ、人生を」
「そうだ。次のオリンピックのために」
おろおろと復唱していた司がぴたりと口を閉じた。
「瞳は次のオリンピックイヤーで現役を引退する。こればっかりはあの子の中で譲れない線らしくてな。これまでのキャリアで報われることのなかった子だ。コーチとして……親として、何に代えても最高の舞台に最高のパートナーと立たせてやりたい」
「……その最高のパートナーに、俺はなるんですか」
「そうだ」
とんでもないことを押し通そうとしている。一人の若者の人生を狂わそうとしているとんでもない大人だ。犠牲を払うのは司であって高峰ではない。だから絶対に後悔はさせない。
司の氷に抱く執念を利用してそう言った高峰に、そんなことは問題ではない、と彼は眉を下げて笑った。
「俺の人生、そのあたりはもう狂っちゃってますから」
司は高峰の懇願を受け入れた。最初からそのつもりだったという風に、これからの四年を瞳とのアイスダンスに全て捧げると、あっさりと首を縦に振った。親の意向に逆らうのだから疎遠になるかもしれない。もう成人してますし、兄はきっと分かってくれると思うので大丈夫です。今の生活を全て捨てることについても気にも留めない。あらゆることに執着の薄い性質なのだろうと思う。ただスケートを除いて。高峰にとっては幸いなことに。
ただ、と司が深刻そうに肩を落とすので、他には何が心配だ、と高峰は慌てて尋ねた。
「俺、ほんとに金はなくて。頑張って貯めたんですけど、活動資金はあと二年分くらいしか、」
「バカ、そんなもんは俺が出すんだよ」
食い気味に言ってしまってから、高峰は「それはとっとけ、これからの四年分は出世払いな」と付け足す。この手の感覚が実に常識的で善人的な司には、そう言っておくことが大切なのだと学びつつあった。
司の執念と信念と才能を誰も疑わなくなる一年半を経て、瞳は司とカップルデビューを果たした。
一年目、とにかく司にリンクでの練習時間を確保させるという匠の方針は変わらず、試合は全て翌年への準備と割り切った。最低技術点を満たし、成績を残さなければ連盟の強化選手指定も、派遣枠も得られない。できればファンも得ておきたい。そのあたりは瞳の知名度がだいぶ功を奏したし、反面、ぽっと出にしか見えない司は叩かれた。分かっていたことだし、案外図太い司はけろりとしていたが、すっかり彼に入れ込んでいた周囲が怒った。一番怒ったのはもちろん瞳で、それを見た司はますます「代わりに怒ってくれてる」と笑った。メンタルが強くて結構なことだが、暢気がすぎる。
満を持した二年目、オリンピックイヤー。シーズン前半の全ての試合で瞳と司は勝った。ニュースには「歴史に残る快進撃」の決まり文句が踊り、誰が言い始めたのか「一度も失敗のないカップル」と囁かれるようになった。実際、最初の誓いを守って練習でも司は瞳を落とさなかったし、瞳は落ちなかった。スケーティングに関する心配は元々していない。匠は二人のために完璧なプログラムを用意し、振付師としてもその名を売った。
結果、その年最後の試合、全日本選手権では表彰台の三分の二を匠の教え子たちが占めることになり、今季の成績による連盟の選考規定に従って、瞳と司は四大陸選手権、世界選手権、そしてオリンピックへの派遣されることが決まった。
*
後悔というものをしたことがあっただろうか、と夜鷹純は考える。思いつかないのでないのかもしれない。
選択をしなければならなかったとき、間違えば後悔するだろう、という直感が働いたことは何度もある。当然思考に思考を重ねて最良の選択肢を選び続けてきた。夜鷹にはあずかり知らぬことだが、かつての師である高峰匠は直感・天啓の類を信じない。夜鷹純はどちらかというと信じるタチである。なにせ犠牲の女神の信望者であるので。
現役を引退し、業界から離れてだいぶ経つ今でも、夜鷹には国内といくつかの海外の主要大会のチケットが融通されている。それはほとんどが未使用のままで終わり、稀に今回の全日本選手権のように別の用件のために使用されることがあった。
夜鷹は人の演技を見ない。自分のものでさえ分析のために渋々見るくらいだ。好きなものしか見られないのに、好きなものが極端に少ない。好きと嫌いがどの要素で決まるか自分でもよく分かっておらず、世界トップクラスの演技が行われているリンクの横にいたとしても、一瞥をくれて通り過ぎたことしかない。教えている光のものを別にすると、直近に観たフィギュアスケートは鴗鳥慎一郎のオリンピックFSになるのではないだろうか。慎一郎本人が聞いたら苦笑するに違いない。
それが、足が止まってしまった。スタンド上の通路を歩きながら、曲がかかり始めたリンクに一瞥を投げて――そのまま、体ごとリンクに向き直った。
まず目を惹かれたのは、指先だと思う。スタンド最後列の席のさらに後ろから見下ろす位置だ、リンク上の選手の指先など米粒よりも小さい。けれど演技の開始を知らせるためにゆったりと振り下ろされる腕が、肘に続いた手とその指先が、丁寧に空を撫でるのが分かってしまった。
「アイスダンス……」
思わず口からこぼれた競技のは夜鷹には縁のないものだ。同じフィギュアスケートだから技術は分かる。表現も、評価点も理解はしているが、きっと正しく評価はできない。だからただ「いいな」と思って、腰を据えて眺めた。
視力は良いので、カメラが寄って演技者の顔が見えた時以外はモニタを必要としない。サングラス越しでも妙に眩しく見えるリンクで踊るそのカップルの、彼の演技を夜鷹は追いかけて、そしてふと思い出した。次のリフトは失敗する。
思い出した? 初めて見るのだから思い出すも何もない。いつもの直感だ。このリフトは失敗する。いや、自分のことでもないのに直感も何もないのではないか。思考が一瞬混乱して、その間に氷の上ではステーショナリーリフトが流れるように決まった。
「……は…?」
そんな呟きは歓声と拍手に紛れ、それから夜鷹は呼吸も忘れてただその演技に見入った。リフトの失敗がない、以降も完璧に統制された演技だ。コレオ・ムーブメントに入ったところで彼らの勝ちを確信したし、「脚が、長いな…」などと思ったりもした。ここぞとばかりに男性側をメインにした振り付け師の高笑いが聞こえてくるようだ。聞き覚えのある声のような気がしたが、幻聴である。
ノーミスで演技が終わった。スタンディングオベーションが当然の演技だった。
夜鷹は挨拶をするカップルから視線を引き剥がす。顔を上げて見た先は、選手の名前がずっと表示されているはずの壁面モニタだった。前回はそうせずに、盛大だけれどどこか不満げな拍手を背にこの場を去ったから、彼の名前をずっと知らなかった。……前回?
高峰瞳/明浦路司
なんて読むのだろう、珍しい苗字だと思ったのは一瞬で、頭の中に自分の声が響いた。
あけうらじつかさ、だよ。あれだけの未練を忘れるなんてどうかしてるんじゃないの。
未練。そうか、未練だ。
夜鷹純の未練が人の形をして、氷の上で夜鷹の理想と同じスケートしている。その名を明浦路司と言うのだった。
アイスダンスひとつかカップルは――この名前を妙な具合に略してくっつけて呼ぶのどうにかならないのか――当然のことだが、オリンピックイヤーの日本代表に選出された。つまり、四大陸選手権、オリンピック、世界選手権の連戦になる。夜鷹は埃をかぶっていたパスポートを引っ張り出し、チケットは例によって勝手に融通されていたので、航空機と宿泊先の手配をした。
四大陸では全日本より構成の難易度が上がり、オリンピックでは振り付けが洗練されていた。世界選手権でも台乗りして今シーズンを終え、その全てを現地で観た夜鷹は、おそらく生まれてはじめて「これでいい」と思った。
パートナーが高峰匠の娘であること、彼女が引退すると聞いたときには少し残念だなと思った。彼の演技は彼女のためにあるものだったのは明白だったからだ。だが、彼の技術であれば新しいパートナーとのチューニングも容易いはずだ。
十年前の自分が、今このときに氷の上に彼がいれば、と恨みがましく言い続けるけれど、その声も今の彼のスケートを見るたびに小さくなっていった。夜鷹は陸上で多少息がしやすくなり、何も知らない光にも「良いことあったんですか?」と聞かれるほどだった。今度会ったとき、慎一郎には明浦路司という名前を教えてあげよう。シングルでなくても、アイスダンスでもいい。司が氷の上で純にその滑りを見せてくれるなら。
そう思っていたのに、パートナーを追うようにして、明浦路司の引退が報じられた。
「は?」
我ながら地獄の底から湧き上がるような声が出た。