逃した魚は籠の中
第二の人生でやり残した事やるぞ!ってやる気に満ちた司を、いいぞやったれ〜!って全力で加護家が応援してたら何か皆から寝取ったみたいになっちゃった話。
※いのりさん引退後の話
※若干のよだ→つか風味(一応タグ付けてます)
※加護家→→→司みたいな感じ
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父が蕎麦を打ち始めた。幼少期から趣味なんて無いような人だったけれど、突如として初心者蕎麦打ちセットを買ってきて拙い腕ながら蕎麦をあの狭い台所で打ち始めたらしい、と聞いたのは兄からだった。まぁその兄も聞いたのは母からだけど。退職後の男はやたらと蕎麦を打ちたがるというが、まさか自分の父もまた謎の蕎麦打ちの坩堝にハマるとは。なんて考えつつ、急に摩訶不思議な行動を起こし始めた父を司は久しぶりに訪ねてみようかと思った。まぁ急な出来事に少し心配だったのもある。
蕎麦を打ち始めて早一ヶ月と言うが、既に父の腕前は中々のものであった。熟練の職人の様に粉と水を回し、生地をこねて、均一な厚さに伸ばし、均等に切り揃える。何というか、あの穏やかな父にしては豪快なその仕草に司は呆気に取られつつ感心した。思えば、昔から父は妙に器用で、一度やれば何でもこなしてしまうような所があった気がする。茹で上がって冷水で締めた蕎麦は、確かに店で出せるレベルの味だった。因みに母はここ数日蕎麦ばかり食べてもう無理だと顔を顰めていた。
「どうだ?」
「美味しい、けど急に何で?」
司の問いに、父は思いがけない事を聞かれたとでも言うように目をはたと瞬かせて首を傾げた。息子達が突拍子も無い質問をした時によくしていた仕草だが、そんなに可笑しな質問だっただろうか。
「何というか、第二の人生とでも言うのかな」
「……店でも開くの?」
「そんな大層なものじゃないさ。ただまだまだ人生長いんだし、何かに挑戦してみるのも悪くないと思ってな」
「急に?」
「こう言うのは思いつきだぞ」
何処かおかしそうに笑う父に、そんなものかと司も釣られて笑った。父が何かに目覚めたのでは、なんて密かに心配していた母が聞き耳を立てつつホッと胸を撫で下ろす様子を横目に司は残りの蕎麦を啜った。成程、第二の人生。思えば父とてとっくに還暦を超えている。そんな中でも何かに挑戦しようと思えるのは良い事なのだろう。自分とて既に四十後半に差し掛かっている今、このまま安寧と過ごしていて良いのかなんて葛藤もある。
何かに挑戦、でも何に?
先日、長年共にスケートの道を歩んできたいのりが遂に引退した。数多の大会で活躍し、夢の五輪でも金メダルを獲得し、ライバルである狼嵜光と共に切磋琢磨しながら世界中の人々の心を燃やした彼女は多くの人達に惜しまれ賞賛されながら引退した。そりゃあもう司とて一生分の涙を流した気がする程にいのりの姿は立派だった。そんな彼女は現在、司と同じ道を歩み始めている。
ルクス東山のアシスタントコーチとして活躍するいのりは、その知名度もあって既にコーチを請け負って欲しいという希望が引っ切りなしに舞い込んでいるらしい。それはそれで保護者との兼ね合いが大変だと瞳が頭を痛めていたが。対する司は、まぁ何と言うかメダリストのコーチといえど相変わらずルクス内における人気はそれほどない。元々アイスダンス主体のクラブな上に、司の指導は基本に忠実すぎて子供ウケもあまり宜しくないので。と言うかアレについていけていたいのりが例外だったのかもしれないとさえ思っている。無論、メダリストを育てたコーチに見てほしいという声もあるにはあるが、司の指導法は複数人を並行してみるのに向いていない。かといって、また個人専任でコーチを請け負うのは、正直この歳では厳しい。いやまぁ、なんだ。流石にこの歳になるとアルバイトで生活費を補うのも中々に体にくるのだ。
コーチという仕事は楽しい、しかしこのまま惰性で続けていても良いのだろうか。幸いにしていのりのお陰もあり、今はそれなりに貯金も溜まっている。加護や洸平に勧められて資産運用だってしてるので当分の心配もない。ならば今こそ第二の人生とやらを歩み始めるきっかけでもあるのではないだろうか。自分がしたいこと、今までの人生でやり残したこと、後悔していること。なんてまぁ、一つしかないのだけど。
「やっぱりスケートだよなぁ」
アイスダンスをもう一度やる、は無理だ。それは瞳の協力あってこそなのだからコーチと家庭でただでさえ忙しい日々を送る彼女にこれ以上負担は掛けられない。シングル選手になる、いや無理。お金とか時間とか要因は色々あるけれど、もう既に司にとってはシングル選手になることは其処まで重要な事ではなくなってしまった。俺のスケートの原点、やりたかったこと。
「……夜鷹純に、なりたい」
14歳の時に彼に出会った瞬間の衝動、あの場に行って自分も彼の様に滑りたいと思った。それは何時しか氷の上にいて良いという証が欲しい、此処に居続けるための理由が欲しい、なんて思いに変わっていったけれど。でも、司の一番最初の願いはそれだった。今更失うものなど何もない。馬鹿にされるのも奇異の視線で見られるのも、もう十分に経験した。此処で恥の一つや二つ増えようがどうってこともない。生憎と丁度メダリストのコーチとしての肩書きも無くなったし。もし叶うならあの日見た夢の続きをもう一度、この歳で。
◆
司がルクス東山を辞めた。思い詰めた顔でもしていれば引き止められたのに、やりたい事が出来まして!なんて珍しく生き生きとした顔でいうものだから、瞳も洸平もいのりも引き止める事なんて出来なかった。だって、司が自分から何かをやりたいなんて言い出すのは本当に珍しい事なので。しかしどれだけそれは何だと聞き出そうとも、司は言葉を濁して逃げるだけだったので、それはそれで心配になった。いやでもプライベートだし、なんて葛藤しているうちに司は少ない荷物をまとめて引き継ぎをして颯爽と去っていってしまったのだけれど。
目指せ夜鷹純計画にはコーチが必要だ。だとしても、まさか四十後半に差し掛かった男のこんな馬鹿げた計画に付き合ってくれるような人物がいる筈もない。いやというか俺なんかに構っている暇があればその分現役の選手達を見てくれ!と言いたくもなる。ならば仕方ない自力で頑張るかぁ、なんて悩んでいた時に助けを出してくれたのが加護達であった。
カクカクシカジカでちょっと挑戦してみようと思って、なんて呆れられるかなと思いつつも世間話の様に話せば、耕一は一瞬呆けた後にその場に飛び上がった。え、何それ凄く面白そうやろう絶対司くんのスケート見たい!!なんてもう良い歳した大人が家の中で踊りださんばかりに歓喜するものだから、寧ろ司の方が呆気に取られた。そして何故か既に実家を出た羊にまで連絡をしだし、いやそれは流石にと止めていたら爆速で羊が家にやってきてノリノリで計画を立て始めた。最早当人は遥か彼方に置いてけぼりである。
リンク貸し切るから!なんて意気揚々と曰う羊に其処までしなくて良いと司は何とか縋るも、だって私お金持ってるもんの一言でバッサリと切り捨てられた。父の会社を引き継ぎ此処数年で発展させつつある女社長に逆らえるものはこの家にはいなかったのだ。となれば、貴重な貸切の時間を無駄にすることは出来ない。司は散々悩んだ末に、コーチとして働く中で出会った数人の知り合いに連絡を取った。既にコーチとしては引退して悠々と隠居生活を送りつつ暇を謳歌している人達ばかりだったが、だからこそ「何それ面白そうだね!」なんてノリで司のコーチを引き受けてくれた。
試合に出る訳でもない、誰かに見せたい訳でもない、何の目的もない、ただ少年時代に憧れたあの人の様になりたいという願いを叶える為に司は我武者羅にスケートをしている。馬鹿みたいだと自分でも思う。けれど、だからこそ無性に楽しかった。
司は滑りに滑り、踊りに踊った。スケートの美しさだけを突き詰める為のスケートに時間を忘れる程に夢中になった。途中からコーチ達に直接教えてもらう為に海外にも行った。そうして気付けば三年が経っていた。
◆
いや正直半年くらいで帰る予定だったのだ。それがアレもこれもと誘ったコーチ陣が乗り気になって、司も折角ならとそれに応じているうちに気付けば三年だ、そういやいのりのメディカルトレーナーを探す時もこんなノリだったと懐かしくさえ思った。海外生活の途中でうっかりスマホを壊してからというもの知人との連絡は取れていない。何とか覚えいていた加護家の電話番号にかけて事情を説明はしたので問題はないだろうけど。まぁ取り敢えず満足いくレベルにまでスケートを極めたしそろそろ帰るか!なんてノリで帰った司は、その足で世話になった加護家を訪ねた。
長期間の不在に羊は大分拗ねていたが、それでも急遽捩じ込んで取った貸切リンクで司が滑れば直ぐにその機嫌を直した。相変わらずのスケート好きは変わっていないらしい。なんか耕一に至っては何故か泣いていたけれど。
「司くん、これ何処かで披露しないの?」
「えぇ?いやぁ、これは俺の自己満足だし」
「じゃあ動画撮って会社のSNSに上げて良い?」
「それ何の意味が?」
「スケート好きに刺さるかもでしょ」
まぁ加護家には散々お世話になったので、恥ずかしいなぁなんて思いながらも了承した司は、羊の指示のまま何曲か続けて踊った。この広いスケートリンクでその美しさに気付いていないのはただ一人だけだ。
名古屋にあるとある会社のSNSにその動画は上がった。多種多様な業務を請け負うその会社のSNSは元々業務的な内容を紹介するだけであったが、社長が変わってから所謂ネタツイというものも度々上がる様になり、密かにそのフォロワー数を伸ばしつつあった。そんな最中、突然アップされたその投稿は一夜にして瞬く間に拡散される事になる。
照明がやや落とされた貸切のリンクで舞う男性。この会社の社長は無類のスケート好きで、時折スケートに関する投稿も見られたのでまたこれもその一環か、なんて予想は直ぐに覆された。小さな画面越しでも分かるほどのスケーティングの美しさ、見間違える事のない程に完璧な高難易度ジャンプ、もしかして“あの”選手かと思いかけて画面を拡大させ、その予想はまたしても裏切られる。
『これ司コーチじゃない?』
『結束選手の?』
『夜鷹純かと思ったんだけど』
四十過ぎとは思えないほどの軽やかな動きに一番呆気に取られたのは、それを見たSNSの人達ではない。何よりも司と親しい者達だ。何故音信不通の筈の司が明らかに数年前とは遥かに異なる程に上達したスケートでこうして踊っているのか。というか此処まで上達するなんて一体何をしたのか。何故こんな計画に自分達は関わっていないのか。司と親しいという自負がある者ほどその衝撃は大きかった。
いのりは自分のコーチのスケートに見惚れつつ、自分の知らない間に司の演技を見逃したという事実に血が出るほど唇を噛み締めた。瞳と洸平はスケートに関する事で一切の相談がなかったという事実にこれまた衝撃を受けた。慎一郎を始めとしたコーチ陣は、ジャンプを習得するに当たって頼られなかったという事実に密かに落胆した。いやだって一緒にスケートした時はあんなに目を輝かせてスケートについて聞いてきたのに。言ってくれたら一緒に構成とか色々考えたのに。
そうして一番衝撃を受けたのは夜鷹だった。記憶に残るスケートをして、自分がアレだけ言ったにも関わらず氷の世界に戻らなかった、そんな司が何故か急にスケートをし始めたと思えば、明らかに上達しており何処からどう見ても夜鷹そっくりの演技をしているのだ。いやだから早く戻れって言っただろうとか、何でそんなに僕そっくりの演技をしているんだとか、夜鷹純を模範にしたのなら何でそれなりに親しくなった筈の自分に一言もないんだとか、というか其処まで滑れるならもう選手になれよとか、言いたいことはそれこそ山のようにあるけれどでも何よりも今は彼のスケートに一言物申したい。だって、自分のスケートを模範としているのならまだ改善点がある。というかジャンプの姿勢だって他人の手垢がべっとりとついていて実に不愉快だ。
何時の間にか繋がらなくなった司の携帯が忌々しい。連絡さえ取れれば今直ぐにでも彼の元に跳んで、自分のスケートに染まるまで散々跳ばせてやるのに。苛立ちのままに携帯を壁に投げかけるも直前で何とか堪える。仕方ない、と夜鷹は先ずは動画をアップした会社の連絡先を調べ始めた。
◆
「あははっ、凄い大混乱」
「言ってる場合羊さん!?」
鳴りっぱなしの会社の電話に此処の主は実に楽しそうに笑うだけだ。いやマジで笑っている場合じゃないって、と司が如何に顔を青褪めようが飄々としている辺り社長としては実に頼もしいが、当事者としては申し訳ないやらで胃が痛い。というか、羊だけでなく耕一も何故そんなに笑っていられるのだ。従業員の皆さんなんて最早遠い目をしてソッと電話を切っているというのに。
「まぁ予想してたし?」
「な、何でこんな事に……」
「そりゃあの動画見ちゃえばねぇ〜」
「ねぇ〜」
妙に息ぴったりに首を傾げて顔を見合わせる親子が今ばかりは何だか憎たらしい。というか予想していたのなら止めてくれ。これでは仕事もままならぬではないかと切々と訴えるも、宣伝になるから別に良いとこの場の最高責任者は司の言葉を取り合わない。
「誰が一番最初に来るかな」
「夜鷹くんじゃない?」
「えぇ〜?」
「……何の話?」
「逃した魚は大きかったんだよって話」