「権現号」と神通力 〔奥山半僧坊大権現〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

テーマ:

・奥山半僧坊大権現 対 豊川荼枳尼天(豊川稲荷)の眷属

 

 “ここに掲げようとする伝説は、権現号の廃止にまつわるもので、心霊説話蒐集家であった故岡田建文氏の努力によるもので、その要領を掲げると、

 昔から三河の国の豊川稲荷(愛知県豊川市)の天狗と、奥山半僧坊の天狗との間には、その信仰の系列から種々の問題が勃発していたと伝へられている。ときは明治維新のころのことである。ここ奥山半僧坊の境内の大木が、つぎつぎと引き倒されるという珍事が勃発した。山の衆議は古くからの伝説を回顧して、その所為は豊川稲荷の眷属である天狗の悪戯であろうということに一決した。それと同時に半僧坊の天狗界から、この悪戯は豊川稲荷の所為であることは分かるが今ではこれに対抗するだけの通力の持ち合わせがない……というのであった。その理由を天狗界では、神仏分離以前では対等の力量を発揮することもでき得るが、神仏分離と同時に「権現号」が廃止されて終い、神通力を使用することができないというのである。今日的な常識から考えれば、想像するさへ困難な話題であるが、半僧坊の住職をはじめ、一山の衆僧は天狗の訴へに憤起したのは言うまでもない。彼等はまづ教部省の主任係官である芳村某(のちの神習教管長)を訪ね、その経緯を述べて権現号の允許を懇願した。しかし教部省としても手の施しようがない。しかし、あるいは天皇の勅許を得れば可能であるかも知れない。それには陛下に御親任のあつい山岡鉄舟にすがるがよい。芳村某はこのことを住職に入れ智恵したといわれている。半僧坊の住職が鉄舟に懇願したのは言うまでもない。間もなく、半僧坊の拝殿に再び大権現の金額が掲げられた。すると間もなく、今度は豊川稲荷の大木が、根っこから引き抜かれるという珍事が勃発した。言うまでもなく半僧坊の天狗の仕返しであると、一般から信じられたと言うのである。

 ここで考えさせられることは、半僧坊の天狗の活躍に「権現号」の有無が大きく作用しているということである。このことは秋葉山の三尺坊に允許された権現号が、単なる敬称ではなく、ひとつの称号であり、ある意味においての階級であると解するとき、その間の様子が理解される。

 さて、豊川稲荷の天狗と半僧坊の天狗との闘争は、権現号の允許によって解決したようであるが、山岡鉄舟が果たしてこの問題に介在したか否かと言うことである。岡田建文氏はこの伝説の末尾に、東京四谷荒木町附近にあった大火と山岡家の奇蹟とを結び合わせて、鉄舟がこの問題に関連して努力したであろうことを追想している。この半僧坊は秋葉山の三尺坊とともに防火の神として信仰を集めているが、山岡家が猛火に囲まれながらも、奇蹟的に類焼を免れたと言うのは、それは天狗の所為であるとしているのである。

 半僧坊で大騒ぎがあってから程なく、東京四谷荒木町附近に大火があり、山岡鉄舟の居宅も類焼の危機に瀕した。このとき鉄舟は宮中に参内していたと言う。陛下から急ぎ帰宅するようにとの御言葉があり、帰宅してみると猛火は既に隣家にまで来てをり、危機一髪というところであった。鉄舟が屋上を仰いでみると、隣家から襲い来る猛火を防いでいる多数の人夫がをり、却ってその重みで屋根が倒壊するのではないかとさへ思われたということである。鉄舟は急ぎ屋内に入り、人夫の労をねぎらうために酒肴の用意を命ずると、家人は不審な面持ちで「火の遠い間は随分遠方の人まで来ていたが、いよいよ火が近くなるにしたがって逃げ去り、今では一人も残ってをらず、屋上の人足も、すでに引き上げていないはずである」というのである。鉄舟が再び庭先に出たところ、急拠風の方向が変って危難をまぬがれ、類焼をまぬがれたというのであるが、このころ山岡家の屋上には一人の人影も無かったと言うのである。当時この附近では「陛下」の御親任のあつい山岡鉄舟であり、その御威光によって危難を遁れたのであろう……」という噂であったが、後日鉄舟がこの不審を芳村某に質すと「それは半僧坊の天狗に、大権現号の允許を斡旋した御恩返しである」と聞かされ感嘆されたとのことがある。と、岡田建文氏は、その談話の主として、鉄舟の側近九鬼復堂の名をあげて紹介している。”

 

(宇佐美景堂 「現代に生きる天狗」(霊相道書房)より) 

 

(「奥山半僧坊大権現」のHPより)

 

*江戸時代の霊界通信「幽顕問答」の中の宮崎神官と憑依霊との問答では、霊魂は現界で社を造って祀ってもらわねば神としての力を発揮できないなど、必ず「幽」と「顕」が一致する必要があることが説かれています。半僧坊天狗が、「大権現」の号が廃止されたままでは思うように神力を発揮できないというのも「顕幽一致の法則」からすると当然のように思われます。

 

 “宮崎 「邪心を転じて正心となれば善き神となり社々に祀れる神々と同等とならるるか」

 

 霊 「顕世の法(律)をもって社を造り、その法を貫き、お上(かみ)よりその社と定まり人民みなその通りに承知せば同等なり。幽と顕が互いに一致せざれば成就し難し」”

 

(近藤千雄編「古武士霊は語る 実録 幽顕問答」潮文社より)

 

*一般に、「天照皇大御神」と「天照大御神」は全く同じ神様のように見なされていますが、「霊界物語」第47巻『総説』の中で、出口王仁三郎聖師は

 「天照皇大御神様と天照大神様とは、其の位置に於て、神格に於て、諸種の御神業に於て、大変な差等があることを考へねばなりませぬ」

と書いておられます。言霊学上、『皇(スメ)』の一字の有無は、半僧坊大権現の「大権現」の有無と同じく重大な意味があります。

 

*同じくスサノオについても、単なる八百万の神々の一人である「素盞嗚尊(すさのをのみこと)」と、主神の救世神としての顕現である「神素盞嗚大神(かむすさのをのおほかみ)とは、その御神格に大変な差異があります。私は、スサノオは、救世神としての御神力を発揮されることができるよう「神素盞嗚大神」の御神号で礼拝されるべきであると思っています。

 

 “最上天界即ち高天原には、宇宙の造物主なる大国常立大神(おほくにとこたちのおほかみ)が天地万有一切の総統権を具足して神臨し給ふのであります。そして大国常立大神の一(また)の御名を天之御中主大神(あめのみなかぬしのおほかみ)と称へ奉り、無限絶対の神格を持し、霊力体の大原霊と現はれ給ふのであります。この大神の御神徳の完全に発揮されたのを天照皇大御神(あまてらすすめおほみかみ)と称へ奉るのであります。そして霊の元祖たる高皇産霊大神(たかみむすびのおほかみ)は、一名(またのみな)神伊邪那岐大神(かむいざなぎのおほかみ)又の名は日の大神と称へ奉り、体の元祖神皇産霊大神(かむみむすびのおほかみ)は一名神伊邪那美大神(かむいざなみのおほかみ)又の名は月の大神と称へ奉るのは、此物語にて屡(しばしば)述べられてある通りであります。又高皇産霊大神は霊系にして厳(いづ)の御霊(みたま)国常立大神(くにとこたちのおほかみ)と現はれ給ひ、体系の祖神なる神皇産霊大神は、瑞(みづ)の御魂(みたま)豊雲野大神(とよくもぬのおほかみ)又の名は豊国主大神(とよくにぬしのおほかみ)と現はれ給うたのであります。この厳の御魂は再び天照大神(あまてらすおほかみ)と顕現し給ひて天界の主宰神とならせ給ひました。因(ちなみ)に天照皇大御神様と天照大神様とは、その位置に於て神格に於て所主の御神業に於て大変な差等のある事を考へねばなりませぬ。又瑞の御魂は、神素盞嗚大神(かむすさのをのおほかみ)と顕はれ給ひ、大海原の国を統御遊ばす神代からの御神誓である事は神典古事記、日本書紀等に由つて明白なる事実であります。然るに神界にては一切を挙げて一神の御管掌に帰し給ひ宇宙の祖神大六合常立大神(おほくにとこたちのおほかみ)に絶対的神権を御集めになつたのであります。故に大六合常立大神は独一真神にして宇宙一切を主管し給ひ厳の御魂の大神と顕現し給ひました。扨(さ)て厳の御魂に属する一切の物は悉皆(しっかい)瑞の御魂に属せしめ給うたのでありますから、瑞の御魂は即ち厳の御魂同体神と云ふ事になるのであります。故に厳の御魂を太元神と称へ奉り、瑞の御魂を救世神又は救神と称へ又は主(す)の神と単称するのであります。故に此物語に於て主(す)の神とあるは、神素盞嗚大神様の事であります。主の神は宇宙一切の事物を済度すべく天地間を昇降遊ばして其(その)御魂を分け、或は釈迦と現はれ、或は基督となり、マホメツトと化り、其他種々雑多に神身を変じ給ひて天地神人の救済に尽させ給ふ仁慈無限の大神であります。而して前に述べた通り宇宙一切の大権は厳の御魂の大神即ち太元神に属し、この太元神に属せる一切は瑞の御魂に悉皆属されたる以上は神を三分して考へることは出来ませぬ。約(つま)り心に三を念じて口に一をいふことはならないのであります。故に神素盞嗚大神は救世神とも云ひ、仁愛大神(みろくのおほかみ)とも申上げ、撞(つき)の大神とも申し上げるのであります。この霊界物語には産土山(うぶすなやま)の高原伊祖(いそ)の神館(かむやかた)に於て神素盞嗚尊が三五教(あなないきょう)を開き給ひ数多の宣伝使を四方に派遣し給ふ御神業は、決して現界ばかりの物語ではありませぬ。霊界即ち天国や精霊界(中有界)や根底の国まで救ひの道を布衍し給うた事実であります。ウラル教やバラモン教、或はウラナイ教なぞの物語は、大抵顕界に関した事実が述べてあるのです。故に三五教は内分的の教を主とし其他の教は外分的の教を以て地上を開いたのであります。故に顕幽神三界を超越した物語と云ふのは右の理由から出た言葉であります。主の神たる神素盞嗚大神は愛善の徳を以て天界地上を統一し給ひ、又天界地上を一個人として即ち単元として之を統御したまふのであります。譬へば人体は其全分に在つても、其個体にあつても千態万様の事物より成れる如く天地も亦同様であります。人間の身体を全分の方面より見れば肢節あり機関あり臓腑あり、個体より見れば繊維あり神経あり血管あり、斯くて肢体の中にも肢体あり部分の中に部分あれども個人の活動する時は単元として活動する如く、主神は天地を一個人の如くにして統御し給ふのであります。故に数多の宣伝使も亦主神一個神格の個体即ち一部分として神経なり繊維なり血管なりの活動を為しつつあるのであります。天人や宣伝使のかく部分的活動も皆主神の一体となりて神業に奉仕するのは恰も一個の人体中に斯の如く数多の異様あれども、一物としてその用を遂ぐるに当り、全般の福祉を計らむとせざるはなきに由る如きものであります。即ち全局は部分の為に、部分は全局の為に何事か用を遂げずと云ふ事はありませぬ。蓋(けだ)し全局は部分より成り部分は全局を作るが故に、相互に給養し相互に揖譲(いふじょう)するを忘れない。而して其相和合するや部分と全局とに論なく何れの方面から見ても統一的全体の形式を保持し且つ其福祉を進めむとせないものはない。是を以て一体となりて活動し得るのである。主神の天地両界に於ける統合も亦之に類似したまふのである。凡て物の和合するは各其為す所の用が相似の形式を踏襲する時であるから、全社会のために用を為さないものは天界神界の外に放逐さるるのは当然である。そは他と相容れないからであります。用を遂ぐると云ふ事は総局の福祉を全うせむために他の順利を願ふの義であり、そして用を遂げずと云ふは、総局の福祉如何を顧みず、只自家の為の故に他の順利を願ふの義である。此はすべてを捨てて只自己のみを愛し、彼はすべてを捨てて只主神のみを愛すと云ふべきである。天界にあるもの悉く一体となりて活動するは之が為である。而して斯の如くなるは主神よりするのであります。諸天人や諸宣伝使自らの故ではない。何となれば、彼等天人や宣伝使は主神を以て唯一となし、万物の由りて来る大根源となし、主神の国土を保全するを以て総局の福祉と為すからであります。福祉といふは正義(ただしき)の意味である。現世に在つて、国家社会の福祉(正義)を喜ぶこと私利を喜ぶより甚しく、隣人の福祉を以て自己の福祉の如くに喜ぶものは、他生に於ては主神の国土を愛して之を求むるものである。そは天界に於ける主神の国土なるものは、此世に於ける国家と相対比すべきものだからである。自己の為でなく、只徳の故に徳を他人に施すものは隣人を愛することに成るのである。天界にては隣人と称するは徳である。すべて此の如きものは偉人であつて、即ち高天原の中に住するものである。三五教の宣伝使は皆、善の徳を身に備へ、且つ愛の善と信の真とを体現して智慧と証覚とを本具現成(ほんぐごんじょう)してゐる神人計りである。何れも主の神の全体または個体として舎身的大活動を不断に励みつつある神使のみで、実に神明の徳の広大無辺なるに驚かざるを得ない次第であります。願はくは大本の宣伝使たる人は神代に於ける三五教の宣伝使の神業に神習ひ、一人たりとも主の神の御意志を諒解し、国家社会の為に大々的活動を励み、天国へ永住すべき各自の運命を開拓し、且つ一切の人類をして天国の楽園に上らしむべく、善徳を積まれむことを希望する次第であります。太元神を主神と云つたり、救世神瑞の御魂の大神を主神と云つたりしてあるのは前に述べた通り太元神の一切の所属と神格そのものは一体なるが故であります。読者幸に諒せられむことを。” 

 

(「霊界物語 第四十七巻 舎身活躍 戌の巻」 『総説』)

 

*あと、この11月27日からカトリック教会でのミサの式文が改訂され、たとえば「天のいと高きところに」が単に「天に」、「万軍の神なる主よ」は「すべてを治める神なる主」となります。何だか力ある言葉が排除されつつあるような気がするのですが、そういえばもう何年も前に聖変化の際に跪くことも禁止されてしまいましたし、私には日本の司教団はカトリックの霊性を自ら投げ捨てようとしているようにしか思えません。いったい信徒の方々はどのように考えておられるのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 


人気ブログランキング

瑞霊の眷属さんをフォロー

ブログの更新情報が受け取れて、アクセスが簡単になります