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止まり木のひと/ちゃんの小説

止まり木のひと

25,591文字51分

☀️先生が🦅さんの家に入り浸る話。

※🦅さんがやさしい
※🦅さんが穏やか
※🦅さんが情緒すでに育ってる
※🦅さんがやさしい
※🙏さんの試合結果とかは自分の首を絞めそうなので濁している部分がありますが、最終的には🥇とります
※☀️くんの弟たちが出てきます、捏造です。
※🦅さんが戻ってきている謎の時空

🦅さんが☀️先生の人生に寄り添うお話を書くつもりでした……!

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 とどのつまり、夜鷹はいのりの実力を認めてくれたらしい。
 夜鷹は光のコーチを辞めたその足でいちど失踪していたようだが、紆余曲折あり戻ったあとも彼と狼嵜家の関係は続いてると、司は鴗鳥慎一郎から聞いた。その件について司はことこまかには知らないが、なぜか夜中の貸切リンクにも慎一郎とともに、司もたびたび呼ばれるようになった。いちばん初めの日は散々な夜であったが、二回三回と慣れてみれば司にとってもいい気分転換にはなるし、なにより大切な教え子のために、夜鷹というすばらしい見本を間近で見られるチャンスでもある。狼嵜光をさしおいて、という気持ちもあったが、夜鷹が言うには、光はすでに夜鷹から技術を吸い取れるだけ吸い取らせたので、つぎは彼女自身が師事すべきひとを選べばいいという。実際、夜鷹の一年毎というわけではないが、現在ライリーがいるスターフォックスFSCに在籍している狼嵜光は、つぎは海外クラブに移籍するのではという、うわさがある。ほんとうのところは誰もわからないが、それが彼女の選択ならば応援したいと、慎一郎も言っていた。技術向上のためクラブを変えるのは、トップ選手ではあることだ。
 夜鷹がいのりのことを認めた、というのは、先日行われたジュニアグランプリファイナルが終わったあとだ。いのりはSPの点数で光を超えた。そのあとFSでは逆転され、結果は光が金メダル、いのりが銀メダルをとった。しかし、ふたりの点数の差はわずかで、最後までどちらが優勝するかわからない状況であった。ひとときでも光の上に立てた嬉しさと、結果は負けた悔しさで、いのりと司はむせび泣いたが、そのあと光はいのりを連れ出して話をし、ずっとぎこちなかったいのりと光の仲はようやく改善した。話し合いのあと、ふたりが仲良く手をつないで帰ってきたのをほっとした顔で司とライリーは見ていた。
 その話を知っていた夜鷹は、ジュニアグランプリファイナルが終わって初めての深夜のスケート会(と、司は呼んでいる)で、いのりのことを初めて『結束選手』と呼んだ。いままではずっと『あの子ども』『きみの教え子』呼ばわりだったのに。
 雑談の中でさらりと入ったその言葉に、司はかなり喜び頭の中はお祭り状態、すぐに誰かに報告したい!と考えたが、もちろん本人のいのりに伝えるわけにもいかないので、バレないように下でグッと拳を握った。夜鷹がそれを言ったのは故意なのかそうでないかはわからないが、いのりは彼のなにかの一定基準を満たしたのだろう。べつに夜鷹が認めようが認めまいがいのりがすばらしいスケーターなのは事実であり今日まで気にすることはなかったが、やはり司にとってスケートの始まりであり衝動であった夜鷹に、いのりが認められるというのは、想像の百倍うれしかったのだ。自分がまだ滑れる、と言われたあのときよりも。
 もちろん結果がすべてである勝負の場では光が勝ったため、まだいのりの本懐を遂げたわけではない。なので今日も夜遅い時間までいのりのレッスンをし、そして解散後、そのままの身体で夜鷹の貸切にお邪魔させてもらった。
 完璧な夜鷹のルッツジャンプ。何回見ても美しいどころか、見る度に質が上がっている気がする。このひとはどこまで高みに行くのだろう、と末恐ろしいことを考えたが、夜鷹よりも司よりもまだまだ若いいのりにとっては、彼は希望とも言える。未だに〝鷹の目〟の継承は完全にはできていないが、いのりが自分で理解した感覚と実際のビジョンを共有し、そしてそのふたつを連携させることで、徐々にいのりも自身を俯瞰的に見ることに成功しつつある。なので、リンクにかける執念は人一倍、いや、人百倍のいのりは、目を使いこなせることができれば、夜鷹のように、二十歳を超え三十歳を超えても、ずっと跳び続けることができるかもしれない。二十歳のいのりさんも、三十歳のいのりさんも、きっとすばらしいスケートをするのだろうなあ。彼女の将来を想像すると涙腺が刺激されるが、いまはとにかく夜鷹のジャンプをものにするべく、司も助走に入った。
 
 その日、リンクから出てきたのは深夜0時だった。加護家か漫画喫茶か、どちらで夜を過ごそうかと考える。
 羊はいま受験生である。最近は、来年の一般入試に向けて夜更けでも勉強をしていることが多い。以前に司が夜中に帰ってきたとき、勉強をしていた羊が迎えてくれることがあった。「司くん、おかえり」と言って眠そうな目をこすりながら二階から降りてきた羊に、司は帰ってきた物音で集中力を切らしてしまったかな、と申し訳なく思った。謝ると、羊はたまたまだよ、と言ってくれたが、それがあってから夜中になるときは加護家に帰らず、漫画喫茶で夜を過ごし、朝に帰ることにしていた。加護と羊には気にしなくていいと言われたが、ただでさえお世話になり過ぎているのに、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。
 やはり今日も漫喫で、と歩いて駅前まで行こうと鴗鳥と夜鷹に声をかける。
 「お疲れさまでした!では俺はあっちなので」
 ふたりとも、不思議そうな顔をしている。
 「明浦路先生、タクシーで帰られないのですか?」
 「はい、今日はちょっと駅前の漫画喫茶に行こうかと……」
 鴗鳥に心配そうに問われたので濁すのも悪い気がして、理由を話した。司としては、年頃の娘がいる加護家にずっといるわけにもいかないと思っているのもあり、すこしずつ加護家離れをするいい機会だとも思っている。
 「そうなのですね、では明浦路先生が良ければうちに……」
 「イエイエイエ!さすがにそこまでは大丈夫です、ありがとうございます!」
 「しかし、ホテルでもないところで一晩明かすなど……」
 申し訳ないです大丈夫です、しかし理凰も喜びます、そんなやりとりを聞いていた夜鷹が、突然、司の腕をとった。
 「夜鷹さん?」
 「うちに来たら?」
 「ああ、それがいいですね!純くんのお家は大須のリンクからも近いですし」
 慎一郎がほくほくと喜んだ顔をしている。司は夜鷹の言葉を反芻して、確認のため言葉にした。
 「……俺が夜鷹さんのお家にお邪魔するってことですか?」
 「うん」
 「イエイエイエ、結構です、ありがとうございます」
 「なんで」
 なんでって。そんなの夜鷹純だから、以外ない。鴗鳥先生の家より絶対に緊張する。
 「純くん、明浦路先生をよろしくね」
 「わかった」
 「ちょちょちょ、本人なしで話を進めないでください!」
 「でも……そんな身体を伸ばせないようなところで泊まるのはさすがに心配です」
 鴗鳥が眉を下げて見つめてくる。彼は当てつけや、いやがらせを言う人間ではない。切実に心配しているのが伝わってくる。
 「ほんとうはうちに泊まって頂きたいのですが……やはり家族がいると遠慮されてしまうでしょう」
 たしかに、家族がいる鴗鳥の家よりひとり暮らしの夜鷹の家の方が気使いはマシ……かもしれない?
 「うちに来るの?それとも居候宅に帰るの?」
 鴗鳥と夜鷹のゴリ押しによりなぜか断れない状況になった司は熟考した末に決断した。
 「……今日は夜鷹さん家にお邪魔します」

 夜鷹の家は、端的に言うと快適であった。
 着のみ着のままお邪魔した司だったが、いつでも誰でも泊まれるよう、新品の寝着と下着、洗面道具、そして冷暖房も完備のゲストルームは清潔にされていた。加護家にあるものと同じくらい上質なベッドと布団で、司は酷使した身体を預けた瞬間、意識を失った。常温ではあるがペットボトルの水とお茶もたくさん用意されており、長期保存用の食事やプロテインなどもあった。どちらかというと防災用品のようではあるが、晩と翌朝はそれらにお世話になった。
 「……眠れた?」
 「ふぁいっ!?」
 加護家のものと同じくらいの広さのキッチンで、昨晩夜鷹からもらった賞味期限が二年後のパンをもそもそ食べていると、うしろから声をかけられ驚き変な返事をしてしまった。
 「……あ、夜鷹さんおはようございます。よく眠れました、ありがとうございました」
 「そう」
 夜鷹はペットボトルの水を開けながら相槌をうつ。このひとが持つとただの水でさえレストランで出てくるようなものに見えるなと思った。夜鷹は寝起きなのにいつも外出先で会うのと同じような、無駄のないセンスの良い格好をしている。
 「……きみはいままでいつも、その漫画喫茶っていう場所に行ってたの?」
 「そうですね、最近はだいたい……」
 司の言葉を聞いて夜鷹はすこし考え込んで言った。
 「じゃあ次からうちに来たらいい」
 結束選手の深夜練習も多いでしょ。言いながら司の隣に座った。
 「イエイエイエ、それは悪いですよ!」
 「でも、居候先を出るために貯金しているのに、その漫画喫茶とやらに行けばまた金がかかるんじゃない」
 「それは……」
 たしかに、長時間というほどではないからナイトパックは使えず、しかしそれなりの時間を過ごすために毎回意外とお金はかかってしまう。そのうえゆっくり休めるわけもなく、毎回寝不足で朝方に加護家に戻り、出勤する。いくら体力があるとしても眠いものは眠かった。それ比べて今日はかなりすっきりと起きられて、昨日の疲れもすかっと取れていた。
 「いずれ居候先を出るために貯金しているのに、そのために無駄金を使ったら本末転倒でしょう」
 「うっ!」
 司自身もすこし思っていた。高いなあ、と思いながら休めない部屋で寝るのは複雑な気持ちだった。だからと言ってビジネスホテルはもっとかかるし……と、司の体力気力だよりの生活をしていたのだ。
 「ここなら僕しかいないし、気なんて使わないだろ」
 気はかなり使いますが。そう言いたかったが、気なんて使っている暇がないほどあれよあれよとおもてなしをされ、挙句の果てには爆睡をかました司が言えるはずもなかった。
 しかし、司はなぜそこまで夜鷹が親切にしてくれるのかわからなかったので、思い切ってたずねた。
 「あの、なんで俺にそんな親切にしてくれるんですか?俺、夜鷹さんにそこまで気にかけてもらえるようなやつじゃないし……」
 「それは……」
 夜鷹は珍しく視線をうろうろとさせている。
 「……僕は、もし、慎一郎くんがきみと同じ状況だとしたら、同じことをすると思う」
 司は夜鷹の言いたいことがすぐにはわからなかったので、一生懸命考えた。なにせ今日は快眠ができて頭がすっきりしているので。そして答えを出した。
 『もし慎一郎が司と同様、なにかしらで家に帰れない状況であるならば、夜鷹は昨日、司を家に泊めたように慎一郎のことも家に泊めただろう。』
 おそらく、夜鷹が言うのはそういうことだろう。失礼かもしれないが、彼は誰にでも親切を振りまくようなひとではない。つまり、夜鷹にとって自分は、慎一郎のような立場ということだろうか。ふたりは親友と聞いていたが、司のことも夜鷹にとって親友のような立場だと思ってくれている?
 「……それって鴗鳥先生みたいに、俺のことを親友のように思ってくれているってことで」
 「きみは僕の親友じゃないよ」
 「ですよね!」
 食い気味で返された。親友はさすがに烏滸がましかった、調子乗ってすみません。
 「きみは、親友じゃない」
 今度はしっかりと目を合わせて指で顔を差されながら言われた。二回も言わなくても……と、しょんぼりする。でもまあ、友人……いや、ちょっと仲の良い知り合い程度ではあるのかな。そう考えると、生で演技を見るどころかすれ違うことも叶わないと思っていた人物と、結局一緒にスケートをして話もして家までお邪魔させてもらう仲になったって、よく考えたら奇跡だと思った。
 「次の深夜の練習はいつ?」
 「ええっと……」
 今後のいくつかの予定を聞かれる。司が流されるまま答えると、夜鷹も自身のスマホを触り始めた。メモされている気がする。
 「じゃあその日は下まで着いたら連絡して」
 夜鷹の連絡先を目の前に出される。それをつい目を細めて見えないようにしていたら、舌打ちされてスマホをひったくられた。
 「あっ!」
 「はい、僕の番号登録したから」
 電話帳には「夜鷹純」の名前と10桁の番号。俺の携帯に夜鷹純の番号が……と感動なのか恐怖なのかわからない感情で震えた。
 「いい?かけてこなかったらこっちからかけるから」
 そう言って目の前に出された夜鷹の電話帳には明浦路司の名前と番号が。早業すぎる。
 連絡先が交換されたからには、こちらから連絡しなければ夜鷹から来るのだろう。司は、夜鷹が親切心でやってくれているのはわかったが、お返しもしないのは許せなかった。
 「さすがになんの見返りもないのに家に泊めてもらうのは申し訳ないです。なにか俺にできることありますか?」
 司は金はないが体力のある身体は持っている。掃除でも洗濯でも力仕事でも犯罪以外ならばなんでもやるつもりだった。
 「……じゃあ、きみの好きな本を貸してほしい」
 「本ですか?そんなのでいいんですか?」
 「読書が趣味って、まえに慎一郎くんと話してたから」
 
 以前、深夜のスケート会の帰りみちで、慎一郎に聞かれたことがあった。
 『明浦路先生は、お付き合いされている方はいらっしゃるのですか?』
 なんの話をしていたかも忘れたが、おそらく慎一郎が妻の話をして、いいですね、のような相槌をした返しだったと思う。
 『いませんね。いまは特に恋人を作ろうとも思っていません』
 『そうなのですね、女性への接し方が紳士的なので長いお付き合いしている方がいらっしゃるのかと思っていました』
 『鴗鳥先生ほどではないですよ!でもありがとうございます』
 司のなかで最も紳士的な位置付けにいる慎一郎に褒められて嬉しくなり、つい話を続けてしまう。
 『いまはいのりさんをコーチをしているのが楽しくて、そういうのは考えられないなあ』と呟いた。
 これは決していのりを言い訳にしているのではなかった。どれだけまわりに魅力的で楽なことがあったとしても、いのりの成長を見守り支え導くことが、いまの司にとって誇りであり幸福だった。
 『そもそも出会いもないですしね』
 『おや、趣味とかでも出会いはありませんか?』
 『俺、読書とポイント懸賞が趣味なので、ぜんぶひとりで解決するんです』
 『素敵な趣味ですね』
 そして、この会話をしている横で夜鷹は黙々と煙草を吸っていたのを思い出した。

 「あの会話、覚えてたんですね……」
 司にとっても慎一郎にとってもとるに足らない会話で、いま夜鷹に言われるまで忘れていたくらいだった。夜鷹は意外と話を聞いているらしい。
 「僕はいま趣味といった趣味がない。だから本を読んでみようと思ったけど、面白くもない話を読む時間は苦痛だ。だからきみが面白いと思ったものを読むことにする」
 最終的に面白くなかったとしても司は最後まで読み、なにが気に入らなかったのかどうしてつまらなかったのかを考えるのも好きだが、夜鷹にとったらそれは時間の無駄であるらしい。司はお返しとしては弱いとは思ったが、夜鷹の役には立ちたくて、本を貸すことにした。
 司はまんべんなく色んなジャンルを読む。歴史小説からミステリー、ファンタジーやSF、それから実用書も。恋愛ものはあまり読まないが、きっと夜鷹も嗜まないだろうと思ったから問題なしと結論付ける。夜鷹に好みを聞き、そこから司の頭のなかで索引をした。何冊かヒットして安心する。
 「わかりました、こんなものがお返しになるとは思いませんが、次回お持ちします!」
 「うん」
 夜鷹は満足したようで、いつの間にか吸っていた煙草の煙を吐いた。

 次に夜鷹の家に行ったのは、いのりの深夜練習が終わり、日付が変わってすぐの時間であった。今日は事前にわかっていたので、寝着のスウェットや着替えと下着、洗面道具を持参して夜鷹の背の高いマンションの前までやってきて、考えた。
 もし電話して、冗談だったなんて言われたらどうしよう……。
 想像したら恥ずかしすぎて穴を掘りたくなる。でも夜鷹がそういう冗談を言うとも思えない。それに連絡先も交換した。いざ!と勇気を出すために深呼吸し、見慣れない電話番号をタップする。
 『きた?すこし待ってて』
 コール音が1回鳴り切るまえに通話になり、要件を言うだけ言って切られた。司はひと言も声を出さないまま、夜鷹への連絡が終わってしまった。あまりの早さに呆然としていると、マンションの奥から夜鷹が出てくる。
 「あ、あの、こんばんは、すみませんが今日もお邪魔します」
 「うん」
 夜鷹は返事をすると、入口のオートロックにあるインターホンをいじっていた。中に入らないのかな、と思っていると、急に腕を捕まれ、インターホンの横についている黒い電子版に人差し指を当てさせられる。ピピッと軽快な音が鳴ったかと思ったら、〝指紋登録が完了しました〟と表示された。
 「えっ!?」
 「ここはコンシェルジュがいないから。さっきの指で次から入って」
 「ダメですよ!不用心すぎますって!俺が悪いやつだったらどうするんですか!」
 「きみは僕に悪いことできるの?」
 夜鷹は司をわがままを言う子どもをあしらうように言った。それはまあ、できませんけど!夜鷹はそれをどうでもよさそうに聞き流し、律儀にずっと待っていてくれたエレベーターに司を押し込んだ。

 二回目の夜鷹の家も、快適であった。
 前回はなかった冷蔵庫も導入されており、無機質な部屋に生活感がプラスされた。その中には常温だった水とお茶が詰め込まれている。お風呂上がりに飲む冷たいお茶は美味しかった。夜食と朝食は来る前に常温保存ができるものを買ってきていたのでそれを食べることにしたが、次回からは冷蔵のものを持ってきてもいいかもしれない。
 「冷蔵庫買ったんですね」
 「あると便利って気付いたからね」
 自分より長く生きているのにずいぶん気付くの遅かったんだなと思った。夜鷹は案外、すこし抜けているところがあるのかもしれない。

 それから司は、いのりの深夜練習と深夜のスケート会の終わりに夜鷹の家に寄るようになった。司の着替えや下着、洗面道具は置かせてもらうことになったし、いつの間にかほぼなかった食器が増えていたり、電子レンジがついていたりと快適度は増していき、次第に司も夜鷹の家に行くことを、こころ待ちするようになった。そしてそのたび本を献上した。本の内容について話せるのはいままで羊しかいなかったから、司も羊とは別の視点を持つ歳の近い相手と本の感想を言い合うのは新鮮で楽しかった。加護家からは最近あまり帰ってこないことに文句を言われたが、羊の受験が終わるまで、といったん期限を設けて納得してもらった。

 そしてついに羊の合格発表が終わり、加護家の一大イベントは落ち着いた。しかしやはり高校生になる娘とひとつ屋根の下に血のつながりがない成人男性がいるのはよくないため、司は加護家を出る決意をした。資金も貯まっている。どれだけ説得されても折れないぞ……と強い心を持ったつもりだったが、加護家も折れず、羊は最終手段に出た。
 「司くんはわたしたちが嫌いになっちゃったの?」
 「そんなわけない!俺がどれだけあなたたちが大切だと思う!?」
 「僕たちも司くんが大切だよ。じゃあこの話は終わりだね。今日は羊の合格祝いで焼肉に行くから帰りは司くん運転よろしく!」
 「もう、お父さん飲みすぎないでよー」
 「…………アレッ?」
 最終的に嫌いか好きかの議論にされ、そういった嘘は絶対につけないしつきたくない司はまた流されてしまった。
 

 「きみはほんとうに流されやすいね」
 「それは自分でもじゅうぶん自覚しています」
 今年に入っていつの間にか完備されていたこたつにふたりで向かい合わせに入り、司は加護家での出来事を話した。このこたつをはじめに見たとき、夜鷹純の家にこたつ……?とあまりの衝撃に幻覚を疑ったが、最新式で見た目もオシャレ、昔のように火傷しそうなくらい熱いものではなかった。なにより当の本人がぬくぬくと入っていたので、司は現実として受け入れた。こたつの天板の上には司が買ってきた海外のチョコレート。パッケージに黄色の目をした黒猫が描いてあり、食べないのはわかっているが夜鷹を思い出しお土産としてつい買ってしまった。ひとつ口に入れたが甘党の司でも甘すぎる。これまたいつの間にか増えていたお高そうな機械で淹れたコーヒーで砂糖にボコボコにされた口の中を落ち着ける。
 こたつもコーヒーメーカーも電子レンジも食器も、司が買ったんですね、と言うと、夜鷹はきまって冷蔵庫のときと同じように「便利って気付いたから」と返す。それがなんだかおかしく、いつもなにかが増えたらたずねてしまう。初めてひとり暮らしを始めた学生みたいでかわいく感じる。
 初めてお邪魔してから三ヶ月ほど経つが、夜鷹は思っていたより優しかった。意にそぐわないことがあると舌打ちをするが、それでもいつも快適に過ごせるように部屋を整えていてくれる。いつのまにか現れた本棚には司が泊まるたびに置いていく文庫本が並んでいる。はじめは貸すという約束であったが、急いで返してもらわないといけないものでもないし、司自身が頻繁に夜鷹家と加護家を行ったり来たりしているので、さしつかえはなかった。たまに羊とのあいだに、あの本貸して~、ごめん夜鷹さん家だ~、わかったまた持って帰ってきてね~という会話が発生するくらい。
 いまは、世界選手権が控えているシニア選手よりひと足先にオフシーズンに入ったので久しぶりにゆっくりしよう、と考えていた前日に深夜のスケート会があり、そのまま夜鷹の家に泊まった翌日の朝である。羊も受験が終わり加護家に帰っても問題ないのではあるが、ルーティンと言っていいほど慣れてしまった身体はスポーツセンターを出るとそのまま夜鷹とともに家に来てしまった。
 「それでまあ、今日はこうして来てしまったんですが、羊さんも受験が終わったので。夜鷹さん、ほんとうに三ヶ月間お世話に……」
 「加護家離れしないの?」
 「いやだから、それはまた流されたのでいつか必ず……」
 「きみはそう言ってつぎも流されるんだろうな」
 なんだか今日の夜鷹はやたら圧迫面接のようなことをしてくる。裏のない善意に流されやすいのは自覚しているし、反省もしているところだというのに……。自分をいつでも強く保っている夜鷹にしたら司のこういったところがイライラするのだろうか。落ち込んでいると夜鷹がため息を吐いて、また身体が震えた。
 「……僕は、すぐに物にあたる」
 「……はい」
 夜鷹は苛立つことがあればたしかに物に当たる。スマホを投げるし壁を殴る。足は決して使わない。この三ヶ月間、その様子を何度か見たことがある。そのことを言っているのだろう。
 「それを治したい。きみに手伝ってほしい」
 「…………えっと、つまり、俺はこれからもここに通ってもいいってことでしょうか」
 いちばん最初に夜鷹がスマホを壁に向かってぶつけようとしたとき、司は驚いて思わずその手をつかみ上げてしまった。そして『こら!危ないでしょうが!』と言った。夜鷹も驚いてぽかんとしていたが、『……そうだね』と言って腕を下ろした。それから何度かそういう場面を見たとき、司は初めとおなじように止めるようになった。
 「うん、きみの身体だったら僕を羽交い締めにできるから」
 「そんなことはしませんけど……じゃあ、協力します!よろしくお願いします」
 実のところ司も、最近は夜鷹の家が心地好くて離れ難いなあ、と思っていた。実家や親戚との縁が薄い司にとって、帰る場所が増えるというのはこころに平穏をもたらした。
 今後も帰りが遅い日は夜鷹宅に行くということを加護にも伝えると、『すこしさみしいけど良い友人ができて良かったね』と言ってくれた。友人……。夜鷹には否定されると思うが、追い出されずにむしろ歓迎されている雰囲気を見ると、悪くは思われていないようで、まわりのひとにそう名付けられるとくすぐったく感じる。そうして、司はまた、一週間のうち、時間に余裕がある日は加護家、遅くなる日は夜鷹宅に帰る日々を送った。
 


 入学した高校はスポーツが盛んで、いのりの性に合っているらしく毎日楽しそうだ。彼女はずっとスケート以外のことはずいぶん不器用でそれを引け目に感じており、小・中学校では友人たちにほんとうの自分を出せなかったという。しかし、いまの学校ではいのりのように、スポーツが生活の中心の子どもたちが多く、いのりがいささか不器用でもまわりの生徒たちは優しい目で見てくれる、と言っていた。
 いのりは最近調子が良い。光のものを見てから焦がれていた4回転トウループの着氷率が、洸平の基準を満たして試合で使えるようになった。苦手なはずのトウジャンプをここまでの完成度にしたのは彼女の並外れた努力と執念と集中力の賜だ。シニアに転向するまでに、いのりにもあたらしい武器が必要だった。

 「明浦路先生、今日はいつもよりご機嫌ですね」
 「うえっ!?そうですかね?アハハ……」
 いのりの学校生活が順調と聞いたうえに本人の調子もとても良い。気分が上がり思い切ってシングルアクセルを跳んでみたら思っていたよりクリーンに着氷ができたところで、慎一郎から言及され司は焦った。今日も深夜のスケート会である。
 「ちょっとまあ、いいことがありまして……」
 「そうですか。良かったですね」
 慎一郎はきっといのりに関することだと気付いているのだろう、あまり深くは聞いてこなかった。思慮深いおひとだ、と司は改めて思った。
 「いまの、ダブルもできたよね」
 そしてここに、ぜんぜん思慮深くないおひとが。
 「ええ……これが精一杯ですよ」
 「自分でわかってるだろ、見てて」
 そうして、夜鷹は目の前で跳んだのは3回転アクセルだった。
 「見た?やって」
 「だからそんなホイホイ跳べるものじゃないですから!」
 そんなやりとりをしていると、慎一郎が声を上げて笑った。
 「ふふっ、仲良いですね」
 「えっ……そう、ですかね?」
 ほかの人の目から見てそう言われるのは、なんだか恥ずかしく、しかし嬉しくもあった。司も、なんだかんだで夜鷹と距離が近付いたと感じていたのだ。夜鷹は慎一郎の言葉を無視してひとりでまた滑りに行ってしまったけれど。
 「今日もこのあとは純くんの家に?」
 「はい、そうです」
 「そうですか、良かったです」
 慎一郎はずっとニコニコしている。機嫌がいいのは鴗鳥先生もでは?と思ったが、口には出さなかった。
 
 その日は夜鷹家に帰るまえに、夜鷹が珍しくコンビニに寄りたいと言った。煙草でも切らしたのかな、と思っていたが、ついて行った先はデザート売り場だ。夜鷹とはあまりにも似合わないものたちが目の前に並んでいる。
 「選んで」
 「なんで?」
 深夜も深夜なので、もう種類も数も少ないが、それでもケーキやらゼリーやらプリンやら、いくらかは残っている。最近のコンビニスイーツはすごいと聞いていたが、たしかにどれもケーキ屋のものと比べても遜色ない。
 「おめでたいことがあったら、こういうのを買って祝うんでしょう」
 おめでたいこと……。誰か誕生日だったかな、それか結婚や出産があったっけ。思い出そうとしていると、夜鷹がはあ、とため息をつく。
 「きみの生徒……結束選手が4回転トウループでも跳んだ。違った?」
 「なんでわかったんですか!?」
 「わかる、ずっと僕が跳ぶのを見てたから」
 僕にはわからないけど、きみの機嫌がいいからめでたいことなんだろう、と夜鷹は言う。
 たしかに、今日の司は夜鷹がトウループを跳ぶたびにいつもより集中して見ていた。着氷率は上がったが、軸をもっとブレないようにするには、身体を開くタイミングは、着氷後にスピードをすぐ戻すには、どうすれば。ひとつの不安もおそれもない、完璧な夜鷹のものを目に焼き付けていた。回転不足はもうとられたくない。祈るような気持ちでずっと見ていた。それで夜鷹は察したのだろうか。
 「そうですね……まあ、ほかにも色々いいことがありまして」
 「はい、じゃあ選んで」
 そうして夜鷹は、きらびやかなスイーツたちを指した。これは、夜鷹なりのお祝いなのだろうか。雰囲気も怖いし威圧感はあるのに愛想はないが、彼はなんだかんだでいつも良くしてくれる。司はなぜか身体があたたかくなってきて「アイスでもいいですか」と聞いたら、「べつになんでもいいよ」と返ってきたので、ありがたくカップのバニラアイスを選んだ。ふだんは絶対に買わない、ちょっといいやつ。いままで食べたアイスのなかではいちばん美味しかったので、次に遠征があるときに、本来これを食べるべきいのりさんに買ってあげよう、と思った。



 その日は本屋に寄りたくて、仕事帰りにいつもと違う駅で司は降りた。駅を出て向かう途中、背中に強い視線を感じ振り向く。するとそこにはいちばん末の弟の健がいた。
 「健」
 「兄ちゃん」
 司が実家を出てからいちども会っていなかったが、明浦路家共通の髪色に顔立ちは変わらずで、すぐに弟だとわかった。いまは高校を卒業しているはずだが、大学生だろうか、社会人だろうか。司は、弟ふたりのいまを何も知らない。司がなにか言うまえに、健は話し始めた。話すというより、一方的に司をまくし立てた。司が家を出てからどれだけ大変だったか、長兄は就職して家を支えたのに司はなにをしていたのか、まだいい歳して夢を見ているのか、自分たちを見捨てたくせに、といった司を責める内容であった。司はそれを聞きながら、ああ、実家を出ると言ったときもこんな感じだったなあ、と思い出していた。健の声をどこか遠くで聞きながら、今日はなんとなく、あの穏やかで優しい加護家に帰るのはすこししんどいな、と思った。健が「聞いてんのかよ!」と言って、司の腕を掴む。司も実家や弟たちに思うところがないわけじゃない。でもそれは、怒りか悲しみかまた別のものなのかは判断がつかない。それでも、目の前の大切だった弟を傷付けたのはほんとうの話だった。司は「ごめんな」と言うと、健は舌打ちをして去っていった。おんなじ舌打ちでも、あのひととは全然ちがうな、と思った。
 そのまま、司はどうしようかな、と考える。さきほど考えた通り、いつでも司を受け入れてくれる穏やかで優しい加護家に帰るつもりはなかった。久しぶりに漫画喫茶で過ごそうかと、加護に適当な理由を送るためにスマホを操作する。加護との最後のメッセージは、司の「今日は夜鷹さん家にお邪魔します」という内容だった。いまは深夜でもないから、夜鷹の家は行けない。でも適当な理由も思いつかなかったので、そのまま前回のメッセージをコピーして送った。すぐに既読がつき、OK!というスタンプで返事がきた。司はそのまま、駅前の漫画喫茶に向かった──はずだったが、気が付けば、夜鷹のマンションのまえにいた。
 ──いやいやいや、さすがに急に来られちゃ迷惑に決まってる。そもそも留守かもしれないし……。
 でも、もし家にいたら。急に来ても彼は受け入れてくれるだろうか……。なにか理由があれば。結局あのあと本屋に寄る気にはなれなかったが、無理にでもなにか買っておけば良かった。そうしたら、「これ面白かったからすこしでも早く渡したくて」なんて言って、会えるのに。そこで司は、夜鷹の家に行きたいのではなく、彼に会いたいのだと気付いた。なぜだろう、今日はとくべつに変わったことなんてなくて──スケートなんて一ミリも関係ない、末弟に会っただけなのに。
 近くに寄ったので、と言って、ひと目見て、すぐに引き返そう。そう思ってスマホを取り出し電話をした。3コールで出なかったら切ろう。いち……に……、『なに?』出た!
 「こんにちは、明浦路です。いまちょっと夜鷹さんのマンションの前にいまして。近くに寄ったので──」
 そのとき、電話の向こうでガタッとおおきな音が聞こえた。なにかをぶつけたような、落としたような音だった。
 「大丈夫ですか!?」
 『なんでもない、鍵は開けておくから入ってきて』
 そしてすぐに電話が切られる。ものすごい音がしたけど、大丈夫だったかな。でも、夜鷹が家に来てもいいって言ってくれたのにホッとして、司は慣れた手つきで入口の電子版に指を押し当てた。
 「お邪魔します……」
 鍵を開けておく、と言ったとおり、玄関ドアはすんなりと開いた。司はそうっと靴を脱ぎリビングに向かうと、夜鷹はソファで煙草を吸っていた。
 「急にお邪魔してすみません」
 「べつにかまわない」
 まわりを見ると、部屋の中はいつもより雑然としていた。掃除でもしていたのだろうか。夜鷹の隙を見ることができた気がしてうれしかった。
 「さっきの物音、大丈夫でした?怪我とかしてませんか?」
 「なんでもないって言ったよね」
 余程さっきの物音には触れられたくないのか、眉間にしわを寄せてしまった。かまいすぎて不機嫌になった猫みたいな顔だ。夜鷹の隣に座りながら灰皿を見ると吸殻が山盛りになっていて司は驚いた。
 「これ、吸いすぎじゃないですか?!」
 そう言うと夜鷹は不機嫌な猫の顔のまま、フーッと煙を吐く。
 「これは数日分が溜まっているだけで今日だけじゃない。捨ててないだけ」
 「あ、そうなんですね……」
 いつも灰皿が綺麗にされていたので気付かなかったが、ふだんはいちいち捨てるのが面倒で数日分溜めて一気に破棄しているらしい。それを聞いて司は安心した。
 「……それで、今日はどうしたの」
 ここでやっと初めて、突然きた理由を聞かれた。もちろん理由なんてないから司は焦って、やはり来ない方が良かったな、と後悔した。
 「えっと、とくべつな理由はないんです。ただ夜鷹さんの家の近くだなと思っただけで……」
 やっぱり帰りますね!突然来てすみませんでした。
 司はそう言って立ち上がったが、夜鷹は司の腕を掴んだ。さっき駅で偶然会った健よりも優しい掴み方だったのに、振り払えなかった。
 「かまわないって言っただろ」
 「でも……」
 「しつこい」
 そして司をまたソファに座らせた。灰皿に短くなった煙草を押し付けて司をじっと見る。
 「加護家には」
 「……今日は、帰らないつもりで」
 「わかった。食事はデリバリーでいい?」
 司はまた、いつものようにあれよあれよという間におもてなしを受けていた。いつの間にか晩ご飯が目の前にあり、いつの間にかお風呂に入れられていた。いまは、夜鷹が風呂から上がってくるのを待っている。
 「居心地良いなあ……」
 司が呟くと、後ろから「なにが?」と聞こえた。夜鷹が風呂から上がってきたようだ。
 「いえ、夜鷹さんの家、過ごしやすいなって思って。いつもありがとうございます」
 「……ふうん」
 夜鷹は頭をバスタオルでガシガシと拭きながら返事をした。乱暴に扱ってるのに、なぜこのひとの髪の毛はこんなに綺麗なんだろう、と司は思った。
 「なにかあった?」
 「へ?」
 「今日」
 今日は、末の弟の健と偶然会った。会ってしまった。邂逅でなく遭遇だ。双方にとってあまり良くないことだった。夜鷹に自分の肉親のことについてなんて言えばいいかわからず、また、つまびらかに話すつもりもなかった。
 「今日は偶然、末の弟に会ったんです」
 夜鷹から返事はなかったが、視線を感じたので続きを促されているのがわかった。
 「家出同然で出てきてしまったので、弟たち……、あ、俺、四人兄弟の次男なんですけど。下の弟ふたりはあまり俺のことをよく思ってなくて」
 「どうして家出したの」
 「……スケートを、したくて」
 夜鷹が怪訝な顔をした。スケートをするために家を出る、なんて彼からすると想像すらつかないのだろう。しかし明浦路家の経済事情は話してもどうしようもないと思ったので端折ることにした。
 「あまり仲の良くない弟と会ってしまって、そのときに一方的に責められて。なんか腹立ってきて、そのままの気持ちで加護さん家に帰るの申し訳ないなと」
 この言い方だと、じゃあ夜鷹ならいいのかという話になってしまう。あわてて司は弁解しようとしたが、夜鷹は気にしていないのか、表情は変わらない。
 「……今日は本、持ってきてなくてすみません」
 結局、言い訳さえ出てこずにまた謝った。
 「前回借りたものがまだ読み終わってないからいいよ」
 「……はい」
 夜鷹は特に気にした様子もなく、常温のペットボトルの水を開けた。
 「きみの家族は、きみのスケートを知ってるの?」
 「いえ、見たことも興味を持ったことすらないです」
 「へえ、もったいないね」
 司は息が止まるかと思った。夜鷹が、もったいないと言った。なにを?
 「もったいない……?」
 「?うん」
 「なにが……」
 もったいないって、なんだっけな……。そう考えるくらいには司は混乱していた。あの夜鷹純に、もったいないと言われた。
 「だから、きみが滑る姿を知らないなんて、もったいないことをしていると言っただけだ」
 さも当たりまえかのように、夜鷹は再度言った。
 いま夜鷹はたぶん司のことを褒めて、司はそれに混乱していた。以前、夜鷹にまだ滑れると言われたことがある。あのときは一瞬うれしかったが、今さらもったいないと言われるくらい惜しむほどのものではないと思っていた。
 司は、自分が氷上にいることを誰も望んでいなかった時間を知っている。自分がどうしても氷の上で生きたいと願っても、運命から見放されたのを知っている。
 夜鷹が司の目の前に来て、見下ろす。
 「僕は、自分の貸切につまらないスケートをするやつは呼ばない」
 そう言って、夜鷹はかなり体重をかけて司の隣に座った。ドスン、と高級なソファからは似つかわしくない音がする。
 なんか、すべてどうでも良くなってきた。べつにスケートをまったく知らない肉親にどう思われようとも、自分が氷上に乗ることを誰も望んでなくとも、運がなくとも、横にいる不遜な態度をとるこの憧れのひとが、司のスケートを知らないことをもったいない、と言ってくれて。それだけで、じゅうぶん報われたと感じた。すくなくとも、今日弟に言われたことは、受容することはできずとも流すことはできそう。
 「……僕は、スケートをしないきみを知らないから」
 司が黙っているからか、珍しく夜鷹が言葉を続けた。その言葉でさえも、司にとったら宝石のようだった。スケートをしない夜鷹純を知らないように、夜鷹も、スケートをしている明浦路司しか知らない。それでいい、それが良かった。きっと司のほんとうの人生は、14のあの日から始まったから。夜鷹純という存在は、それだけ大きい。
 「……きみはよく泣くのに、自分のことでは泣かないんだな」
 夜鷹がうつむく司の顔をのぞきこんで言った。そしてたぶん笑った。仕方ないなあ、の意味を込めた息の吐き方だった。風呂上がりの、乾きかけの髪の毛が下に流れる。彼の特徴的な、ひと房の白髪が見えた。その途端、司の身体からへんな音がした。どか、だとか、どん、といった類の。このひとは、全然まったくひとり暮らしを始めたばかりのかわいらしい学生なんかではなかった。そんな当たり前のことをいま、痛感した。

 健と遭遇した日から司は、深夜じゃない日も夜鷹の家に行くようになった。手ぶらで。つまり行く頻度が増えた。それを夜鷹はなにも言わずに許してくれた。だから最近は、司は夜鷹の親友になれたのではと思っている。これまでこんなにも他人と昵懇の仲になることはなかったので、司は自分にも夜鷹にも驚いたが、そのうち自然とそれを受け入れた。



 いのりがシニアに転向しもうすぐ二年目。今年度はシニアのデビュー年にしてはいいスタートを切ることができた。来年度は光をはじめとした同年代の強敵たちもどんどんシニアに転向してくるだろう。次の年も一緒に頑張ろうね、と気合いを入れた矢先のことであった。いのりが怪我をした。
 フィギュアスケートのシーズンが始まる直前に開催されるアイスショーで足首の挫傷を負った。すぐに病院へ行き、全治約2ヶ月と言われた。絶望的な顔のいのりの横で、五里の教えを思い出した司はいつもとおなじ態度でいられるように努めた。いのりもしばらく呆然としていたが、いままでふたりで乗り越えてきた壁はいくつもある。絶望を回避するために鍛えてきたものがある。いのりは安静に過ごした数日のあいだで精神を持ち直し、そのあとは金弓の力を借りテーピングをして、ジャンプに制限をかけて練習を再開した。
 どれだけ入念にストレッチやトレーニングをしていても、怪我というのは予測がつかない。もちろんいのりが油断をしていたというわけでもない。スポーツ選手の怪我というのは、天災は全員に等しいというそれとおなじだと、司は思っている。
 最近、夜鷹は光と会ったらしい。いまでも光の直接指導はしていないが、昔馴染みに会うように、定期的に一時間ほど喫茶店でお茶をする。話の内容は試合のことから慎一郎をはじめとした周りの人間のこと、あとは昔のことを振り返ったりする。光はいのりのことをずいぶんと心配していたという。
 「結束選手に渡してって、光から」
 そう言って司に託されたのは、薄い水色をした封筒だった。その大事なものを、司はすぐにリュックにしまう。きちんとクリアファイルの中にも入れた。
 「光は、結束選手のことをやたら昔から認めていた」
 いのりの前では表情や態度には出さないようにはしていたが、夜鷹の前では取り繕えていなかったのかもしれない、夜鷹のその言葉がなぐさめにも聞こえてしまったから。その日の司は自分でもわかるくらい口数が少なかったが、いつもと変わらないふたりの時間を過ごした。
 翌日、いのりに光の手紙を渡した。いのりはすこし考えてから「読んできていいですか」と言い、更衣室に行った。しばらくすると出てきたいのりは「光ちゃんが世界選手権で待っているって」と言ってすぐに身体をあたためにいった。もちろん司は手紙の内容は知らないが、光の言葉で背中を押されたようだ。向こうから、いのりの気合いを入れる声が聞こえた。


 司にとって、加護家も夜鷹の家もどちらも居心地が良いが、それぞれは温度がちがうと考えている。加護家は、凍てつくくらい寒い冬の日に、布団に入れられた湯たんぽのような、じんわりとした熱さ。夜鷹の家は、冬の早朝に、むしむしともたついた空気の部屋の窓を開けたときに入る、きんとした、氷のような冷たさ。その温度がリンクのものと似ていて、自分とスケートはどうしても切っても切れない関係なのだと安堵する。同時に、夜鷹にとっても自分のそばにいるのがわずかにでも心地好いと感じてくれていればいいな、と思っている。



 二十歳になったいのりはオリンピックイヤーを迎えた。グランプリファイナルと全日本で好成績を残し、当然のようにオリンピックに出場した。しかし世間は、両大会ともに金メダルをとった光に期待をしていた。そして光はその期待に応え、いのりは表彰台落ちをした。無責任な世間は、結束選手は引退か、というという声も出していた。しかしそこからのいのりはすごかった。悔しさをバネに天高く跳び上がり、光に食らいついた。それはもう、いのりの執念や狂気が大好物の光でさえも恐怖を感じるほどの気迫であった。司はそれにときどきブレーキをかけながら、次のオリンピック出場までいのりの隣を走った。

 いのりが二回目のオリンピックに出場するまでのあいだ、明浦路家にもイベントがあった。それが三番目の弟、誠の結婚である。
 いちばん上の兄の肇から司は確認された。誠が結婚するらしいけど、お祝いどうする?
 頻繁とは言えないが、唯一連絡をとっている肇からきたこの連絡で、司と明浦路家は集まることになった。
 はじめ司はお祝いをいくらか包み、肇に預けるだけにしようとしたのだが、気が変わった。それは夜鷹に雑談のつもりで話したことがきっかけだった。
 「今度弟が結婚するらしいんですよね」
 「四番目?」
 「三番目です」
 ふうん、と夜鷹は興味なさそうな返事をした。司もとりわけこの話を広げるつもりはなかったが、言い出したからには続けた。
 「いちど家族で集まるか、って話があったんですけど、兄貴に御祝儀だけ渡してもらうことにしました」
 「僕も用意しようか」
 でも相場がわからないな……と呟いている夜鷹に司は驚く。夜鷹さんが?なんで?そして、加護もおなじことを言ったことを思い出した。
 
 『それはおめでたいね!それで僕はいくら包めばいいかな?』
 『なんで加護さんが御祝儀用意するんですか』
 『だって司くんの家族は僕の家族みたいなものじゃない』
 ここはもうひとつの実家みたいなものでしょ、と加護はウインクをしていた。

 「……はは、どうして夜鷹さんも用意するんですか」
 「さあ……いつもきみがお世話になっています、みたいなことかな」
 めずらしく夜鷹が冗談を言った。司は吹き出して、「ふつう逆なんですけど」と答える。
 「いきなり夜鷹純から御祝儀がきたらうちの家族はひっくり返るので遠慮します。ありがとうございます」
 「そう、残念」
 せりふの割には平坦な態度で呟く。
 「……弟たちと、会ってみようかな」
 「好きにしたらいいんじゃない」
 「そうします」
 司は、弟たちと会って関係がどう変わっても、ここは変わらず夜鷹が待っているのだと思うと、会ってもいいかなと思った。
 結果から言うと、完全に関係修復にまで至ることはなかった。
 両親は司がオリンピアンのコーチであるという一点で昔より態度はやわらかくなっていた。それもどうかと思ったが司はなにも言わなかった。誠にはギクシャクしながらもお祝いの言葉をかけると、ひかえめに笑ってお礼を言われた。健とはずっと目が合わなかった。
 「司、気張れよ。応援してるからな」
 肇だけは昔から気にかけてくれていた。司は、おう、と答えて実家を背に向けた。

 「ハァ~~~……つかれた……」
 実家をあとにした司はそのまま夜鷹の家に向かった。慣れというのは怖いもので、まるで自分の家のように靴を脱ぎそのままソファへなだれ込んだ。
 「おかえり」
 「ただいま、です……だめだ、気力がもうない……」
 「きみの好きな肉屋の弁当でもたのもうか」
 「はああ……ローストビーフ丼でおねがいします……」
 すいません……と言って、司はそのままソファで意識を失った。実家に行くことは、自分の試合よりも、いのりの試合よりも、精神的に疲弊した。
 目を覚ますと、ブランケットが身体をあたためてくれていた。夜鷹がかけてくれたのだろう。
 「おはよう」
 「おはようございます……夕方ですけどね」
 夜鷹は隣で煙草を吸っている。机の上には司が寝るまえに辛うじて声に出せたローストビーフ丼らしきものがあり、それを目の前に手繰り寄せた。
 「注文してくれたんですね、ありがとうございます」
 「うん」
 司は黙々とそれを食べた。ローストビーフは生ぬるくなっていたが、いまの司にとってはそれがとても美味しく感じた。
 「……ふふ」
 「なに」
 「いえ、なんでも」
 ローストビーフを本来は冷蔵すべき食べ物だということを知らない夜鷹が、かわいくて、愛おしくて、なぜか目のおくが熱くなった。


 いのりの二回目のオリンピックイヤー、世間は光の二連覇を期待していた。しかし、もうひとつの声も上がっていた。
 ──結束いのり選手、狼嵜光選手を越えて五輪での初金メダルを目指す
 そんなタイトルのネットニュースを毎日のように目にする。世間にそこまで注目されるくらい、いのりはこの四年間、光とあらゆる大会で金メダルを争っていた。
 最近は、まだ光がジュニアに転向したばかりの頃にインタビューで答えた彼女のあるインタビュー記事が話題になっている。
 『わたしが常に意識しているのはいのりちゃん※です。わたしたちはお互いに最高のライバルで、友人です。※結束いのり選手(ルクス東山FSC所属)』
 シニアになってから、好成績を残していたとはいえいのりが光に追いつくことはなかった。一度目のオリンピックで入賞さえできなかったいのりを、世間は見放した。しかし、ここにきていのりは何度も光に〝勝てる〟選手になった。このインタビューは今年になり何度も掘り返され、光が昔からいのりの実力と才能を認めていたことが世間に知れ渡ることになった。



 司は、いま世界でいちばん幸せ者かもしれないと感じている、いのりがオリンピックで金メダルを首にかけて、司の隣で笑っているから。彼女がずっと欲しがっていたもの。間違いなくいのりと司は、この瞬間世界でいちばん最強で幸せな選手とコーチであった。
 
 オリンピックが終わり数ヶ月後、つぎにやりたいことを見つけたから、といのりはあっさり選手を引退した。プロに転向するのかと思っていたら、つぎは指導者になるという。
 「わたしのように否定されるのがこわくて一歩を踏み出せない子どもたちの、背中を押してあげられるようなコーチになりたいです」
 司先生みたいに!いのりはそう言って、司の胸をあたたかくした。いのりの言葉で、かつてのなにも成し遂げることができなかった大嫌いな自分を、ようやく受け入れられるような気がした。
 いのりの決意を応援しようと実務経験を積んでもらうべく、今度はちがう師弟関係になるな、と楽しみにしながら準備を始めた瞬間、司にとっては衝撃的なことを言われた。
 「え、研修期間はライリー先生のところで!?」
 「はい!」
 「どうして……なんでそんなこと言うの……じゃあ俺は、いのりさんが今度は指導者として成長するところを間近で見られないってこと……?」
 「ワアアア!司先生、泣かないでー!」
 いのりが一生懸命タオルを顔に当ててくるが涙は止まらなかった。瞳は苦笑いをしている。ヘッドコーチだから前々から知っていたのだろう。司の涙が落ち着いた頃、いのりは言った。
 「はじめは司先生のそばで学ぼうと思ったんですが、それじゃあクラブのためにならないと思って」
 ルクス東山FSCには年々、シングルの生徒が増加している。言うまでもなくいのりの活躍のおかげだ。いのりは、アイスダンス出身の指導者の元でオリンピック金メダリストになるまで強くなった。それは間違いないが、結果を出せたのはいのりがその指導方法に合っていたというのが圧倒的に大きい。スケーティングに重心を置いた練習、PCSを意識した構成、一点特化ではなく基礎の底上げを重視する戦術。いのりは自分の先生たちがどれだけきれいな踊りをするのかを知っている。美しいステップは難しいジャンプより格好良い。そしてそれを理想にできた。しかし、そういう生徒ばかりではない。ジャンプを格好良く決めたい、3回転アクセルが早く跳びたい、4回転をもっと揃えたい、生徒たちからそういう声は少なくない。ジャンプはもちろん勝つために大事であり、シングルを選んだからには避けられることではないが、そこにばかり時間は割けない。その結果、前述したルクス東山の特色であると言える指導方法についていけず(とくに厳しいスケーティング練習について)、シングルの選手が他クラブに移籍するということも起こった。
 「スターフォックスは、バランスがいいんです。怪我をしないように陸トレを多くはしていますが、そのぶん氷上での練習を貴重なものとして大事にしていて、質が高い。そして4回転ジャンパーも多い」
 いまのままだと、ただスケーティング練習が辛いという理由だけで、ルクス東山は貴重なシングルの強化選手候補を逃してしまうかもしれない。だからといってアイスダンスの選手もいるためいまのやり方を変えるつもりもなかった。
 「わたしは、このクラブに恩返しをしたい。そのためにも他クラブの長所、とくにスターフォックスでの氷上練習のやり方を学んで、戻ってきたあとにここで活かしたいんです」
 ライリーにもいずれは戻ることは伝えているらしい。瞳いわく、いのりがそういった打診をしたところ『オリンピック金メダリストのコーチなんて歓迎するに決まってるじゃないですか~!アハッ!超うれし~☆』とのこと。
 「司先生の……このクラブの役に立ちたいんです。だから、たくさんの経験をして、戻ってきますね!」
 
 そう言っていのりは東京へ旅立った。


 「いのりさん……いまなにしてるかなあ、辛いことはないかなあ」
 「司くんまた言ってる」
 「そろそろ弟子離れしなさいよ」
 「ハァ~~~……」
 いのりのひとり立ちは、想像よりも司に喪失感をもたらした。己の半身がなくなったような、片翼がもがれたような、こころにぽっかり穴が空いたような。ずっと一緒にいた彼女を心配しないわけがないのである。しかし、そうは言ってももう立派な大人だ。個人的な連絡先も持っているし、なにかあれば連絡してきてくれるだろう。そして連絡がないということは、なにもないということだ。司はそれがすこし寂しい。自分がもう必要とされていないようで。
 この十数年、司の生活の中心はいつだっていのりだった。何者でもない自分をずっと信じてついてきてくれて、ずっと隣で強さを証明してくれた。コーチとしては情けないが、いのりに勇気をもらい救われたことがたくさんある。それを司は、いまもこころの奥底に大切にしまって、たまに取り出してはお守りにしている。
 司は現在、数人のシングルの選手を受け持っている。いままでもいのりの活躍で、司に直接指導をつけてもらいたいという選手はいたが、司の献身的で入れ込んだやり方ではこれ以上生徒を増やすのは厳しいと瞳に判断され、引退するまではいのりひとりであった。今回は数人受け持つにあたり、瞳に「いのりちゃんほど入れこまないこと。きっちり線引きはしてね、司先生?」と言われている。そうは言われても、生徒たちはみな、えらくてすばらしくて天才なのだ。入れこまない、の線引きがよくわからない司は、とにかく褒めたい尽くしたい、という欲をできるだけ抑えながら指導をしている。


 「それで、生徒が引退するたびにこんな感情になるのかと思うとさみしくて」
 「ヘッドコーチが言う通り、たしかにきみはいちいち生徒に入れこみすぎだ」
 「そうなんですかねえ……」
 司は夜鷹の家にいた。最近は、一週間のうち4~5日はここに帰ってきている。加護家より職場が近い、夜でも気軽に帰れる、深夜のスケート会にも参加しやすい。条件も居心地もいいこの家は、いまや司のもうひとつの帰る家になっている。加護は『息子は家庭をもって娘は仕事と趣味一筋で家にひとがいない……これが老後……』と、早すぎるセカンドライフに入ろうとしていたが、そもそも司は結婚をした覚えはないし、羊も家を出たわけでもない。しかし加護がなんだかさみしがっている雰囲気だったので、そのうち夜鷹を加護家に招いてみようかなと思っている。
 「それで、いまはようやく結束元選手はきみの手から離れたんだね」
 「そうですね……さみしいですが」
 さみしいが、司も自分でわかっている。いのりはつぎの人生を前向きにあゆみ始めているから、司もこのようなことばかり言ってないで前を向かねばならない。
 司は机に突っ伏した。寂寥感以外に、達成感もあった。いのりに出会ってから必死だったこの十数年。クラブには強い選手になりたい生徒たちがいるから、司は必要とされる限り、全力で生徒たちを勝利に導くだけだ。しかし結束いのりという最初の生徒は特別だったのかな、と司は思う。いのりにとって光が特別なように、司にとってもいのりは特別な生徒だ。こればかりは否定できなかった。
 ちょっとしんみりしていると、頭の上になにかが降ってきた。たぶんこれは夜鷹の手だ。そのままもしゃもしゃと髪の毛を混ぜられる。え、これはもしや撫でられてる?そうっと頭を上げると、夜鷹と目が合った。いつもよりうんと優しいまなざしだった。見慣れた金色が水面に映った月のように揺らめいていた。
 「おつかれさま」
 たったのそのひと言で、司はようやく肩の荷が降りた気がした。
 ──俺、いのりさんのコーチをやり終えたんだなあ。
 そしてほっと息をついたら涙が出てきた。コーチとして研鑽を積んでもやっぱり涙腺は鍛えられない。たぶん、きっとこれからも、生徒たちが引退するたび、こんな気持ちになるんだろう。

 

 「きみがあの子のコーチを終えるまで待っていたことがあるんだけど」
 司は涙が止まりお茶をすすっていた。泣いたらすっきりして、ようやくつぎへ進めるぞ!と気合いを入れたあとだった。自分でやっておいてなんだが失恋後みたいな行動だったな、と思っていると、夜鷹がちいさな声で言った。
 「?はい」
 「まえに、結束いのりのコーチであるあいだは恋人は考えられない、って言っていたね」
 そんなこと言っただろうか。司は覚えていなかったが、まあ自分は言いそうだなと思い頷いた。
 「いまはどう?」
 「どうって?」
 「鈍いな。今日は流されていいよ」
 夜鷹は司の手を取り、恭しく甲に口付けた。
 「は」
 「僕はずっときみが好きだった」
 「……えっと、それは」
 「もちろんそういう意味で」
 なにを言っているのだろう。なぜ、ずっとっていつから?いやでも、やたらはじめから彼は司に優しかった。でも、はじめっていつ?初対面は厳しかった、二回目も。そしていちど失踪して、そのあと再会して、それから?ぐるぐるとした頭を必死に働かせた。
 「僕が光の指導と氷上から降りて姿を消したことがあったでしょう」
 「……はい」
 「そのあとまた戻って、深夜の貸切で、慎一郎くんと──なんとなくきみを呼んだ」
 「……ありましたね」
 「そのときに、きみが僕に〝おかえりなさい〟って、言ったんだ」
 ──こころの底から、うれしそうな顔で。
 夜鷹は司の両手を優しく握った。
 「そのとき僕は──やっと、羽を休められた気がした。心地好かった。ずっとそこにいたかった」
 司はそのときのことを実はあまりよく覚えていない。きっと、貸切に誘ってくれたのは気まぐれで、またキツイ態度取られるんだろうな、と思いかなり緊張していたから。でも、心底ほっとした感情は覚えている。夜鷹純が戻ってきたことに。
 「それから──どうしたかな。どうしても欲しくなって、部屋に招きたくて。きみが来るのを想像して、整えたりしたのかもしれない」
 反対に、司は初めに夜鷹の家にきたときのことはよく覚えている。あのときはリラックス出来たから。
 「家電も家具も、きみを通わせるには便利なものだった」
 「そのうち急に来るようになって、掃除が間に合わなくて焦ったこともあった。いつの間にかきみがするようになったけど」
 「……夜鷹さん、掃除下手ですもんね」
 「いつもクリーニングを入れてたからね」
 司も夜鷹の手を握り返す。
 「でも慎一郎くんに相談したら、がっついてはいけないって言われた」
 「は!?慎一郎先生に相談しちゃったんですか!?」
 「?うん。ほかに相談できるひといないから」
 いつもニコニコしてらっしゃったのはそれでか……!司は今度会うときどんな顔をすればいいのか悩んだ。
 「だから、いつもバタバタして忙しないきみが、せめてここでは休めたらいいと思った。きみのそばにいる僕みたいに」
 今日の夜鷹はたくさん喋る。慣れてないからか、疲れてきたのか、話すスピードもこころなしか遅く感じた。
 「だから、きみがあの子のコーチを終えるのを、ずっと待った」
 「……十年も?」
 「うん」
 「よく飽きませんでしたね……」
 夜鷹が不思議そうな顔をした。
 「欲しいものを手に入れるには我慢も犠牲も必要だ。飽きる飽きないじゃないだろう」
 「へ、へえー……」
 なにを我慢して、なにを犠牲にしたんだろう。聞きたかったがやぶへびになりそうなので止めておいた。
 「ずっと待って、すべてを終えたら、口説こうと思っていたんだけど……手間が省けたようだ」
 司はいま、燃えるように顔が赤いという自覚があった。このままだとほんとうに火が出てしまいそう。走って熱を発散して、あたまを整理させたい。さすがにこの状況では口に出せないけれど。恥ずかしくなりうつむくと、夜鷹がのぞきこんでくる。珍しく、口角を上げているのが見えた。
 「僕になら、好きなだけ入れこんでいいよ」
 入れこむ……。たしかに司は褒めたくて尽くしたいタイプだと思っていたが、この圧倒的にうわてだった相手にそんな隙はあるのだろうか……。
 「名前を呼ぶのも我慢した、呼んだら言ってしまいそうだったから」
 「…………なにを?」
 「司が愛おしいって」
 ほら、やぶへび。とても顔を上げられない司はやっぱり口に出してしまった。
 ──いったん走ってきてもいいですか……。
 


 深夜のスケート会である。
 「慎一郎先生、こんばんは!」
 「こんばんは、司先生、……と、純くんの距離がだいぶ近いですね」
 「慎一郎くん、ちゃんと待って手に入れたよ」
 「ちょっと、慎一郎先生になに言ってるんですか!」
 「ひとところに落ち着いたようですね」
 慎一郎はきょうもニコニコしている。いつ見ても穏やかで安心する笑顔だ。
 「はい……その節はお世話になり……」
 「いえいえ、こちらこそお礼をさせて頂きたく……」
 夜鷹は慎一郎と司がお辞儀をし合っているのを無視してまたひとりで滑りに行ってしまったけれど。最近、夜鷹はジャンプの回転数を落としている。伝説のスケーターでも老いには勝てない。それでも司にとってスケートへの衝動そのものである彼は、ずっとずっと美しいまま。司の生徒たちもこんなふうに、望むだけ好きなだけ、氷上にいられますように。
 「いまの見た?やって」
 「だからそんなすぐに出来ませんって!」
 「ははっ、仲良いですね」
 慎一郎に言われた言葉に、司はとても恥ずかしかったが、おおきな声で答えた。

 「はい、仲良いですよ!」

コメント

  • 鳴海

    最後まで読んで、タイトルの秀逸さに唸りました。まさに止まり木、司先生の…!夜鷹さん…! こんな穏やかで優しい十年愛があるなんて…さすが夜鷹純、純愛が似合う男でした。報われて良かった。末長く一緒にいてください…

    6月17日
  • たうねぇ
    1月26日
  • ひめぞう
    2025年12月19日
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