「雨ですね。全部洗い流してもらってリスタートにしたい」
4月末日、車の窓についた水滴を眺めながら、思わず出た言葉だったのだろうか。ひかりさん(仮名)が辞表を手にして向かったのは、検事として長年勤めていた大阪地方検察庁だ。組織の元トップから性被害を受けたと訴え、復職を望んで闘った。しかし、その願いはついに叶わなかった。前日の夜は一睡もできなかったという。ひかりさんにとって、忘れられない一日となったに違いない。(読売テレビ 報道局:丸井 雄生)
■「これでお前も俺の女だ」“悪行”が明かされた法廷での謝罪から一転無罪主張へ
大阪地検の元検事正・北川健太郎被告(66)は2018年9月、酒に酔って抵抗できない状態のひかりさんに対し、職場上の立場を利用して性的暴行を加えた準強制性交の罪に問われている。
2024年7月に起訴され、同年10月には裁判が始まった。初公判で北川被告は起訴内容を認めたうえで、「被害者に深刻な被害を与え、深く反省し謝罪したい。検察組織や関係する人たちにも多大な迷惑をかけ、世間を騒がせたことを申し訳なく思っている」と謝罪の言葉を口にした。
検察側は、北川被告が犯行時に「これでお前も俺の女だ」と言い放ったことなど“悪質な言動”があったほか、ひかりさんに被害の“口止め”をしたと指摘していた。
しかし、その2か月後、弁護人の交代が明らかになると、一転して「同意があったと思った」と無罪を主張する方針が示された。以降、裁判は中断したままだ。
■「二次被害」検察内部で名前を吹聴された 組織と対峙する道を選んだ女性検事
事件をめぐっては、検察内部でひかりさんへの二次被害が起きていることも明らかになった。
法務省が認定した「二次被害」の事実は以下の2点だ。
①北川被告の秘書だった女性副検事が、ひかりさんの名前を複数の検察職員に伝えた
②副検事が、自分が事件の参考人として聴取されたことを北川被告の弁護人になろうとしていた弁護士に漏えいするとともに、自身のスマートフォンに保存されていた北川被告や弁護人との通信履歴を削除した
「不適切な行為だった」として、副検事は戒告の懲戒処分を受けた。
ひかりさんは、副検事を名誉毀損や国家公務員法違反などの疑いで刑事告訴したが、大阪高検は2025年3月、不起訴処分とした。
2023年12月にPTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断され、ひかりさんは休職した。北川被告の起訴後、少しずつ職場復帰をしようとしていた矢先、同じ職場にいた副検事の行為を知ったことで病状が悪化。再び休職を余儀なくされた。
ひかりさんは怒りをあらわにした。「副検事がこういうことをしなければ、私は北川被告を起訴してもらえて復職できていた。私は北川被告と同等に副検事を許せない」副検事がひかりさんの名前を言い広めていたとされる当時、検察幹部らはその行為を知りながら止めなかったとして、ひかりさんは2月、幹部らや国に対しても賠償を求め裁判を起こした。今後、検察組織とも法廷で争うことになる。
■“職を賭して”第三者委員会の設置を求めたが…辞表に綴られた心の叫び
ひかりさんは安心して働ける職場環境を整えたいと、検察側に対し第三者委員会の設置を求め要望書や8万筆を超える署名を提出してきた。組織内で起きた事件を検証し、ハラスメントの実態調査や再発防止策を講じるよう訴え、3月末までに十分な回答がなかった場合、辞職する意向を示したのだ。
検事の仕事は『誇り』だった。
(ひかりさん)
「大切な職場だったのに、検事正から被害を受け、副検事や検察からもひどい二次加害を受け、あの場所はもう私にとって、とても危ない場所で、良い思い出がすべて恐ろしい経験に塗り替えられてしまった。だけど、あそこで私が一生懸命やってきたこと、仲間と一緒に走り回って被害者のために戦ってきたことは消えないから、誇りを持ち続けたい」
しかし、ひかりさんの声は届かず、今の職場に居続けることは難しいと判断した。涙を流しながら筆を執った辞表には、心の叫びを絞り出すような言葉が綴られていた。
『検事の仕事を愛していました』
『悔しい。悔しい。悔しい。検事の仕事に戻りたかった』
『せめてこれからは、職員を守ってください』
書き終えた後、「守ってくれない組織の中で命がけで仕事をするのはもう無理だから、すごく無念だが、やめざるを得ない」と涙ながらに話した。
■辞表を提出「生き地獄から解放されたかった」
4月30日、ひかりさんがまず向かったのは検察審査会だ。名誉毀損や国家公務員法違反などの疑いについて副検事の不起訴処分は不当だとして、審査を申し立てた。
ひかりさんは、「現職の検事として最後にできること、やらなければいけないことだと思った」と心中を語った。
審査が申し立てられたことについて、副検事の代理人弁護士に取材を複数回試みているが、いずれも「事務所に不在」として、5月5日時点では回答を得られていない。
申し立てを終えたひかりさんは、辞表を提出するため大阪地検へ移動した。向かう車内で辞表を示しながら、「国民の方を見て、適正な検察権を行使してほしい。人権を守らない体質であり続けているので、権力にあぐらをかかず国民のために仕事をしてほしい」と改めて検察の在り方を問いかけた。
庁舎の前では、ひかりさんの思いに共感した大勢の一般市民がプラカードを掲げて待っていた。「ひとりにさせない」「なぜ被害者を追い出すのか」支援してくれる人たちに見送られながら検察庁に入るひかりさんは泣いていた。この時の心境について、「一人で心細かったが、救われた気持ちになった」と後に明かした。
ひかりさんは、20分ほどして庁舎から出てきた。検察側の対応は冷ややかだったという。
(ひかりさん)
「私が所属している上司も誰も出てこなかったし、形式的なチェックとこれからの退職手続きの流れだけ説明されて帰された。辞めたくないのに、仕事をしたいだけなのに、辞めざるを得ないのがすごく悔しい」
辞表の提出を受け、検察庁は報道機関に対しコメントを出した。
(大阪地方検察庁・上野正晴 次席検事)
「辞職に関する書類を受け取ったことは事実であるが、職員個人の情報に関することについては、コメントを差し控えさせていただきます」
(最高検察庁)
「個別の人事に関するコメントは差し控える。一般論として、検察庁では、かねてより、ハラスメントの防止・根絶をはじめ、職員が働きやすい職場環境を整えることに努めており、引き続き、そのための取組を行ってまいりたい」
辞表を提出した直後、ひかりさんは会見を開き、胸の内を語った。
(ひかりさん)
「検事の仕事が大好きで、本当に寝ても覚めても仕事のことばかり話しているぐらいだった。私は辞めたくなかった。絶対に戻りたかった。でも、訴えが全部無視され、声が届かず、自分が存在していない透明人間のように扱われていると感じてすごくつらかった。もう耐えられない、生き地獄から解放されたいと思い、辞表を出さざるを得なくなった」
■副検事が証人出廷へ「被害が原因でPTSD」“致傷”への訴因変更求め裁判所に嘆願
5月5日時点で、次回の裁判期日は決まっていない。関係者への取材では、北川被告側の請求で副検事が証人として出廷することが分かった。さらに、ひかりさんにも証人請求しているという。
ひかりさん側は現在、被害が原因でPTSDを発症したとして『準強制性交罪』から『準強制性交致傷罪』に訴因変更することを求めている。実現すれば裁判員裁判が開かれることになるが、検察側からは「訴因変更はしない」と拒否されたため、ひかりさん側は3月、裁判所に『訴因変更命令・勧告』を出すよう嘆願書を提出した。
弁護団によると、過去にも性犯罪事件で被害者がPTSDになったことをとらえ「致傷」を認めた訴因変更の判例が複数存在するという。ひかりさんの代理人の1人、2025年に退職するまで大阪高検の検事だった田中嘉寿子弁護士は、30日の会見で次のように訴えた。
(ひかりさんの代理人・田中嘉寿子弁護士)
「ひかりさんは提訴した検察庁と利害関係が対立する構造になっているので、裁判所は検察官が当事者主義で適正な裁判活動ができない状態にあるということをよく踏まえ、職権発動をしていただきたいと切に願っている」
■「被害者のために…やめても一生検事」検察理念『被害者の声に耳を傾ける』の意味とは
今後手続きを経て、まもなく『検事』ではなくなるひかりさん。辞表を提出する前日、読売テレビの取材に対し、辞職した後も「被害者を守る仕組み作りに取り組みたい」と決意を新たにした。
(ひかりさん)
「被害者が正しく守られる活動をこれからもしていきたい。被害者の方々が全員救われないと、救える仕組みを作らないといけないと思った。そのために被害者をきちんと保護する、検察庁とは別の“被害者庁”のような第三者の組織が必要だと思っている。辞めようが辞めまいが私は一生検事。検察に自分はいないが、自分の中で検事としての矜持を持って、被害者の方々に寄り添って、少しでも力添えできることを死ぬまでやっていかないといけない」
検察が掲げる理念に、次の一文がある。
『犯罪被害者等の声に耳を傾け、その正当な権利利益を尊重する』
なぜ、被害を訴える側が職場を去る決断をしなければならなかったのか。ひかりさんは声を上げ続ける。