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【夜明】リペア・1 名前を呼んで/羅繊の小説

【夜明】リペア・1 名前を呼んで

8,800文字17分

8~7巻時点で夜鷹に捕まる司の話。
夜間の交通整理のバイト中に発見した光を送っていったら夜鷹に会ってしまい、負傷していることがバレてマンションに連れ込まれる司。
夜鷹の言葉は優しくないけど、行動はどれも優しくて――

素敵な夜鷹の表紙は千鶴子さん(https://x.com/sabamiso9011)に描いていただきました!ありがとうございます!!

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  ひかるはたまに、夜行性の獣のようにふらっと出かけていく。慎一郎くんが『まだ帰ってこないんだ』と心配していたから、僕が代わりに待つと伝えて、慎一郎くんには休んでもらった。『夜の光を心配する必要はない』なんて言ったって、慎一郎くんにはわからないんだ。
 数本目の煙草を吸っていたところで、ローラーがアスファルトに擦れる音がして、光が戻ってきた。
「戻りました、コーチ」
「はぁっ、はぁっ、狼嵜かみさき、選手……っ」
 光の後ろからぜいぜいと息をしながら走ってきた男に目を疑う。先日、夜のスケートリンクで再会した、元アイスダンスの選手だ。僕のバックフリップを一度で再現できる能力を持ちながら、それを自覚した上で無駄にしている男。彼はつまらない子供のコーチを続けると言って、僕と光に勝つと無謀な挑戦をしてきた。
 彼は、どこかで見かけたことがあるような制服を着ていた。少なくとも、私服ではない。
「……彼は?」
「いのりちゃんの先生です。いらないって言ったんですけど、どうしても送るって聞かなくて」
「……っ、夜鷹、さん?」
 膝に両手をついて苦しげに荒れた息を整えていた彼が、ようやく僕に気付いたように顔を上げた。息の音が悪いし、何だか胸を庇っているようで様子がおかしい。
 彼は僕の姿を認めるなり、『しまった』というような顔をする。あからさまに『会いたくなかった』と言わんばかりの表情を向けられて不快になり、吸いさしの煙草を足元に捨てて靴の裏でにじり消した。
「……ええと、じゃあ俺はこれで……」
「待って」
 そそくさと帰ろうとした彼の腕を咄嗟とっさに掴む。
「い゛……っ、つ」
 大して力を込めたわけじゃないのに、彼は胸を押さえて苦痛が滲む声を上げた。それを聞いて、眉をひそめる。
「どこか怪我したの?」
 何か事情を知っていそうな光に目を向ける。
「さっき斜面から落ちて……、でも元から怪我してたみたいですよ」
「……怪我、ね。光は寝る前に慎一郎くんに声を掛けておいて」
 何を鈍臭どんくさいことをやっているんだ。彼が運動能力に長けているのを知っているだけに、苛立ちが増す。
「負傷してるのに、深夜の仕事を?」
「…………」
 よく見ると腕に反射材のベストを引っ掛けているし、これは交通誘導員の制服だ。コーチの仕事だけじゃ生活できないほど困窮しているのか?
 彼は俯いたまま黙り込んでいる。
「……来て」

 僕のマンションは慎一郎くんの家から徒歩数分の距離にある。
 少しふらついている男を強引に引っ張ってきて、エレベーターに押し込んだ。
「あの、放してください……」
 弱々しく訴えられて、男の顔をじっと見る。明るいところで見ると、顔色が悪いのがよくわかった。
「逃げない、ので」
 そう言われてようやく腕を放すと、額に汗を浮かせた彼は、痛みに耐えるような顔で胸を押さえて、エレベーター内の壁に力なくもたれる。
 僕に、挑戦するんじゃなかったのか。僕の知らないところで負傷して、無理を重ねて弱っている姿に、理不尽だと自覚しつつも怒りを覚えた。

 カードキーでドアを開け、靴を脱いだのを確認してベッドルームに引き入れ、戸惑った様子の彼に抵抗する隙を与えずベッドに押し倒す。
「あああああの、な、何を」
 今更焦り出す無防備なところにもムカつく。
「斜面から落ちたんだよね、見せて」
 腰の上に馬乗りになって抵抗を封じ、制服のボタンを外して前を大きく開けた。中に着ていた白いTシャツを大きくまくり上げて、庇っていた胸の辺りを露出させる。
「……どうしたの、これ」
 昨日今日の負傷ではないが、治りきっていないのは明らかだ。広範囲に打撲して内出血の痕が治る最中の、紫と黄色が入り交じったような斑があばらの上に広がっていた。
「……ッ」
 慎重に指で辿ると、彼が痛みに顔を歪める。肌全体が熱くて、熱発しているようだった。どう見ても、深夜まで働いて全力疾走していいような状態じゃない。
「ちょっと……、転んで」
「君が、受け身も取らずに?」
 夜のスケートリンクで、彼が何度も転ぶのを見た。だけど、彼に限らずまったく受け身を取らずに転ぶことはそうそうない。スケートに慣れているのなら尚更。身体が大きい分、受け身を取るのには慣れていそうだったのに。
 上から肩を押さえてのしかかり、偽りも目を逸らすのも許さない、というように見下ろす。
「……っは、……うぅ」
 熱が上がってきたのか、この状況のせいか、組み敷いた彼の息が苦しそうに乱れる。
 この男の名は何というのだったか……慎一郎くんが呼んでいた苗字は長くて呼びにくいものだった。麦茶をかけていたあの教え子が呼んでいた名は確か……
「……司」
 名前を呼んだ瞬間、彼はひゅっと息を呑んで、信じられない、というような目で僕を見た。その瞳がじわりと潤む。
 今まで他人の名前なんてどうでもいいと思っていた。けれど、名を呼ぶのには力がある、と実感する。少なくとも、僕を苛立たせてくる、この男には非常に有効だ。
「司、怪我の理由は?」
「……っ、その……」
 彼は観念したように、コーチとしてジャンプの指導中に不慣れなハーネスを使って転倒し、肋骨にヒビが入ったことを明かした。
 何をやっているんだ、というのが正直な感想だった。勝利のために必要だと思ったからやったのだろうが、その結果がこれだ。
「……それで、病院からは安静にしろって言われなかったの?」
 交通誘導員の制服をじろりと見る。
「……ええと、これはたまたま」
「……司」
「うぅ、ハーネスを自前で買ったので、その、支払いが……」
 今度こそため息をつくしかない。コーチは慈善事業じゃない。フリーのコーチならまだしも、クラブに所属しているのなら、練習に必要な器具は経費で購入させるべきだ。
「もういいでしょう、帰らせてください……」
 どうにか解放されたい様子と疲れ果てた口調から、気力も体力も限界なのが見て取れた。
 今からでは終電もない。この身体で、ここから歩いて帰るつもりなのか? 到底看過できなかった。
「君は光を送ってくれた。今にも倒れそうな顔色してる君を、夜中に追い出すほど薄情じゃないよ」
 まくっていたTシャツを引き下ろして、頬に触れる。その体温は微熱の範囲を超えていて、随分と熱い。
「何か、欲しいものは? 鎮痛剤はいる?」
「……お願いします。水を……」
 掠れた声で請われて、彼の身体の上から降りる。全力疾走してきたのはわかっていたのだから、水くらい、もっと早く出してやれば良かった。

 消炎鎮痛剤とペットボトルに入れた電解水を出してやると、司は顔をしかめながら身体を起こして薬と電解水を一気に飲み干した。
「……もう寝ていいよ」
「はい……」
 彼は痛む場所を庇うようにのろのろと横向きに横たわった。さっき僕が仰向けで押さえつけていたのも痛かったのかもしれない。
 身体の負担にならないような軽い上掛けをかけてやる。
 同じベッドの上、ヘッドボードに背を預けて司を見る。彼は憔悴の色濃い顔で気を失うようにぐったりと眠っていた。
 その様を見ていると無性に苛々して、煙草を取り出して火を点ける。深く煙を吸い込んで、くすぶるような苛立ちと共に吐き出した。
 明日、熱が下がっていたら送ってやればいい。しかし、帰らせたらまた深夜に働きに行くのだろうか。
「う……、げほっ、……うぅっ、ぐ……」
 紫煙が部屋を漂い始めた頃、司が不意に咳き込んだ。その振動が肋骨に響いたのか、彼は呻き声を漏らし、痛みに耐えるように大きな身体をぎゅっと丸めた。
 僕は煙草を灰皿に押し付けて捻じ消し、窓を開けに行く。十分に換気してからベッドに戻り、司の隣に横になって、熱を帯びた頬に触れた。
 苦しそうに眉を寄せた司は、僕が触っても起きない。
 彼が弱っているのを見るのは胸がじくじくして嫌だな、と思った。
 無理やりここに引っ張ってきたけれど、彼は僕に『会いたくなかった』んだろう。煙草を吸っても、こうして触れていても、胸の痛みは増すばかりで消えてくれない。これを、どうすればいい。

  ◆ ◆ ◆

 ぼんやりと目を開けると、知らない部屋にいた。ヒビが入った肋骨は相変わらずズキズキと鼓動の度に痛みを訴えて、頭はぼうっとしているし、目の周りが熱いような気がする。まだ、熱があるのかもしれない。
 煙草の匂いがするけど、このベッドマットすごくいいやつだな……下になっている側の身体があまり痛くない。負傷箇所がなるべく痛まない体勢で寝ると寝返りが打てないので、ここ三日ほど片側だけ身体が痛くなりがちだった。枕もいい感じだな、と頬を擦り寄せたところで、一気に昨夜の記憶を思い出した。
「は……ッ! いだだだだ」
 飛び起きようとして、痛みのあまりベッドに逆戻りする。これ、夜鷹さんの部屋だ。夜鷹さんのベッドで、夜鷹さんの枕に、夜鷹さんの布団。
 絶望の記憶が蘇る。
 狼嵜選手にもバイトしてることは知られたくなかったのに、よりにもよって夜鷹さんにまで知られてしまった。間抜けに転倒して負傷したことも白状してしまったし、絶対に呆れられている。
 家に連絡だけはしないと、と気力を振り絞り、寝たままごそごそとポケットを探ってスマホを取り出す。昨日、狼嵜選手に踏み割られなくて良かった。
 加護さんに心配させないように『友達の家に泊めてもらいます』とメッセージを送る。実際のところ『友達』と言えるような関係では絶対にない。じゃあ何だ。
 一方的に十四年も好きで、憧れていて、彼のように滑りたくて必死に真似をしたけれど、まったく届かなかった、辛くて苦くて重たい感情を呼び覚ます人。この前、生で滑るのを初めて見て、現役時代よりさらに磨きがかかったスケーティングとジャンプをずっと思い返しているくらいには、今でも彼のことが好きで好きで仕方がない。それでも、俺はいのりさんのコーチだから、あの人の言葉を受け入れるわけにはいかなかった。ついこの前『氷の上に絶対はない!』って啖呵を切ったばかりだ。
 到底、対等になんてなれないけれど、せめて虚勢を張っていたかったのに。
「……は……」
 痛みをこらえて仰向けになる。
 起きて帰らなきゃ、と思うものの上手く身体が動かなかった。
 自分が情けなくなってきて、ほろほろと涙が零れる。
 次の大会まで時間がなくて、俺はしっかりいのりさんのサポートをしないといけないのに、俺が怪我をしたせいで跳べていたジャンプまで跳べなくさせてしまった。
 人生をけて一生懸命やっているつもりなのに、上手くいかないことばかりだ。

 玄関の方からドアの開く音がして、誰かが帰ってきたのだ、とわかる。夜鷹さんがコンビニの袋を片手に下げて寝室に戻ってきた。
 物音を聞いて寝室のドアに目を向けたから、部屋に入ってくるなり俺を凝視した彼と、ばっちり目が合ってしまった。
 突然泊めてもらったにも関わらず、家主より遅くまで寝こけていた上に、ぐすぐす泣いているところまで見られてしまった。
 手のひらでごしごしと濡れた顔を拭って、歯を食いしばりつつ無理やり身体を起こす。動けないとか痛いとか言っている場合じゃない。いつまでも夜鷹さんに迷惑をかけるわけにはいかなかった。
「……っ、お邪魔してすみませんでした、帰ります。あの、何か弁償とか、クリーニング代とか必要だったら、請求してください……」
 高そうな枕を俺の涙で濡らしてしまった。それに今更だが、俺は交通誘導員の作業着のままだった。こんな格好で夜鷹さんのベッドで寝たとか、申し訳なさすぎて消えてしまいたい。
「ダメ、帰さないよ」
 ベッドから足を下ろしたところで軽く肩を押さえられ、退路を塞がれる。肩に触れる手は、すぐに振りほどけるくらい軽いものだったけれど、じっと見つめられ、ひやりとした手で頬や首に触れられて動けなかった。
「脱いで」
「え……っ!?」
 突然の言葉に動揺する。
「……それ、汗だくでしょ」
 確かに、発熱したせいで中のTシャツも作業着もしっとりと湿り気を帯びていた。そもそも、昨夜全力疾走した時から汗だくだったかもしれない。
「あっ、すっ、すみません、こんな、汗だくの作業着のままで夜鷹さんのベッドに寝たりして……っ」
「そういうのいいから、早く」
 夜鷹さんは、サイドテーブルに置いたコンビニの袋の中からボディシートのパックを出して渡してくる。
 既に多大な迷惑をかけている俺は急かされて逆らえず、作業着の上を脱いで、負傷した肋骨に響かないようにゆっくりTシャツを脱いだ。ボディシートで顔から拭っていたら、ベッドの上に乗り上げてきた夜鷹さんが新しいシートで背中を拭いてくれる。
 上体がさっぱりしたら、パイル地の黒いバスローブを着せ掛けられた。めちゃくちゃ肌触りの良いそれに腕を通して、前を合わせる。結局下着まで脱ぐように言われて、その途中で履きっぱなしだった靴下に穴が空いていたことに気付き、この場から消え去りたくなった。下着だってもう何年も履いてるよれよれのやつだ。
 加護さんに『新品にしなよ』と度々言われていたのにまだ履けるからと断り続けていたツケがきた。ごめんなさい、加護さん。あなたが正しかった。
「すみません……」
 憧れの人の前で醜態を晒しまくり、俺のメンタルはもうズタボロだった。あの夜鷹純が俺の足元に片膝をついて俺の脚を拭いてくれているというのも解釈違い過ぎてメンタルに追い打ちをかけてくる。
「これ、洗っていいの」
 夜鷹さんが俺の脱いだものと替えたシーツを抱えて立ち上がる。
「……はい、大丈夫……あっ、反射材のは洗ったらダメです」
「うん。それ、食べられるものがあったら食べて」
 夜鷹さんが洗濯物を持って部屋を出ていく。夜鷹純に俺の服を洗濯させてしまった……。
 コンビニの袋の中には、バランス栄養食、プロテインバー、ゼリー飲料、スポーツドリンク、水などがいっぱい入っていた。
 これ、わざわざ俺のために、買ってきてくれたんだ。
 俺はどんなに体調が悪かろうと落ち込んでいようと食欲が減退しないタイプなので、袋の中に入っていたゼリー飲料を吸い、ブロックタイプの栄養食をもそもそと食べて水分補給する。何があろうと食べられる時に食べておくのは信条なのだ。

「……あの、夜鷹さん」
 飲料以外は完食してベッドを降り、家主を探してリビングでパソコンを使っていた彼に声を掛ける。
「何」
「ごはん、ありがとうございました。トイレと洗面所をお借りします。あの、予備の歯ブラシとかってありますか……」
「うん」
 彼は洗面所に行って新品の歯ブラシと予備のコップを出してくれた。
 高額そうなドラム型の洗濯乾燥機がごうんごうんと音を立てて回っている。どうして俺は夜鷹純の部屋にいるのだろう。
 歯磨きしているところをじっと横から眺められ、いたたまれなくて今すぐ帰りたくなったが、ノーパンバスローブ姿では帰れない。
「……熱が下がるまで、休んでいって」
 夜鷹さんはそう言って洗面所を出ていった。彼が俺なんかに構う意味がわからない。
 ベッドルームのさらさらのシーツの上に再び横になる。
 何もかも現実感がなかった。眠って起きたら、全部夢だったらいいのに。

 ゆるゆると優しく髪を撫でられている。この年になると頭を撫でられる機会なんてない。だから心地よくて自分から擦り寄って……目が覚めた。
「……っっ!」
 夜鷹純に髪を撫でられている。それを認識した瞬間驚き過ぎて頭を引き、反射的に動いたせいで肋骨が痛んで胸を押さえた。
 ベッドに座って俺を撫でていた当人は何だか不機嫌そうな顔になる。
「……熱は。……まだ、熱いね」
 追いかけるように額に手のひらを当てられ、するりと首にも触れられる。
「あっ、あの、俺、平熱が高いので……っ、もう、下がったと思います」
 いいベッドマットでたくさん寝たおかげで、気分は大分すっきりしている。それより、夜鷹さんの手に触れられているというだけで体温が上がりそうだ。
「…………」
 俺の言葉を信じかねているのか、夜鷹さんがじっと俺の顔を見てくる。
「本当に……っ、体調が悪くなくても、三十七度超えてることもあるくらいで……」
 信じてもらえるように必死に言い募る。
「だから、半袖だったんだ? ……氷の上で、寒くなさそうでいいね」
 夜鷹さんに羨ましがられることが自分に一つでもあったとは思いもせず、ドッドッと鼓動が速くなる。このままここにいたらおかしくなりそうだ。
 『夜鷹さんは寒いんですか』とか、憧れの人とスケートの話がしてみたくなってしまう。
「ええと、体調も良くなったので、帰ります」
 ベッドの上で身体を起こして、夜鷹さんと向かい合う。
「……今日の予定は?」
「えっ」
 何を訊かれたのかわからなかった。どうして夜鷹さんが俺の予定なんか気にするんだ。
「……司」
 昨日のは幻聴じゃなかった。夜鷹さん、本当に俺の名前を覚えててくれたんだ。
「あっ……はい、十七時から二十一時まで、クラブレッスンといのりさんのレッスンが……」
「その後は?」
「……交通整理のバイトに」
 もうバレているので取り繕っても仕方ないかと正直に答えると、夜鷹さんの目がじとっと俺を見る。
「……一応聞くけど、それって何時から何時までなの」
「二十二時から、翌朝六時……ですね。昨日途中抜けしてしまったので、謝らないと……」
「バイトは今すぐキャンセルして。レッスンに間に合うように送って行くし、レッスンが終わる時間に迎えに行く」
「そっ、そこまでしていただくわけには……」
「……慎一郎くんにバラすよ。君の恩人の司が生活に困窮していて、スケートに関係ないバイトをたくさん入れてるって」
「ひっ、酷い」
 あんまりな言葉に泣きそうになる。
 俺はスケートのコーチなのに、コーチ業だけじゃ生活していけない、と他の人に知られるのは嫌だった。だから人目に付かない夜間のバイトを選んだのに。加護さんのところに居候させてもらって家賃の支払いがなくても、全然お金が足りないんだ。
 夜鷹さんが大きなため息をつく。呆れさせてるんだ、と思うと痛い胸が更に疼いた。
「……じゃあ、何。……僕が、君の身体が心配だから行かないでほしいと思ってる、って言えばやめてくれるの」
 自分の耳を疑い、夜鷹さんの正気も疑った。
 彼の顔を見ると、冗談を言っているようには見えない。
「……俺には、あなたに心配されるような価値なんて」
 真っ直ぐなその目を見ていられなくてうつむく。
「僕の中の君の価値を、勝手に決めないで。……僕は、どうでもいい相手にわざわざバックフリップを見せたりしないし、今にも倒れそうだとしても、捕まえて家に上げて世話をしたりしない」
 確かに、夜鷹純はそんなことしないだろう。
 だけどその理屈で言うと、彼にとっての俺は『どうでもいい』相手じゃなく、『特別』ってことになってしまう。
「バイト先に、キャンセルの電話をして。今日だけじゃなく、全部だよ」
 ベッド上に放られていた俺のスマホには、いつの間にか充電コードが差されていた。優しい。
 俺の肌に触れたひんやりと冷たい夜鷹さんの指先を思い出す。強引だったけれど、俺に触れる手は存外に優しかった。
 口に出す言葉は優しくなかったりするけれど、彼の行動は、いつも優しい。夜のスケートリンクでも、俺が練習しているのを見て、何度も同じルッツジャンプを見せてくれた。
 鎮痛剤もくれたし、朝ごはんもわざわざ買ってきてくれた。着替えさせて、身体を拭いてくれた。
 ひとつずつ思い返すと泣きそうになってしまう。どうでもいい相手にしないことの数々だってことくらい、俺にもわかる。
 スマホからコードを抜いて、電話を掛けて、肋骨にヒビが入って医者から安静を指示されたから行けなくなったと謝り、入れていた夜間のバイトを全部キャンセルした。
「……キャンセル、しましたよ」
 夜鷹さんの手が俺の頭を優しく撫でる。これは、褒められているのか?
「うん。昼食にしよう。……朝の、あれだけじゃ足りなかったんだね」
「えっ、いや、あの、すみません」
 全部食べ尽くしたことを言われているのだと気付いて、恥ずかしくて頬が熱くなる。
「僕は遠慮されたり遠回しに言われてもわからないから、言いたいことがあったら、はっきり言って」
 熱くなった頬に、ひんやりとした手が触れた。夜鷹さんは、指先まで綺麗でかっこいい。この人が俺を『特別』だと思ってくれるなら、ほんの少しだけ、自分のことも好きになれそうな気がした。
「色々、気遣ってくれて、心配してくれて、……優しく、してくれて、ありがとうございます。既に、色々と迷惑をかけて呆れられてると思うんですが……、あなたの好意に甘えすぎていたら、言ってください」
「いいよ、もっと甘えて」
「……ッ!!」
 頬を撫でられながら、ふと微笑まれたのは、俺にとって致死量の供給だった。

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コメント

  • 瓏玲
    2025年10月2日
  • 夜猫
    2025年8月19日
  • しげみー
    2025年8月1日
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