マイコンボードや電子部品は、いまやスマートフォンから注文すれば数日で自宅に届く。深圳の倉庫からは数十円の部品が国境を越えて飛んでくる。しかし半世紀前、部品は「店に行かなければ買えないもの」だった。秋葉原や日本橋の店頭に並び、店員に教わりながら選ぶしかなかった部品が、なぜ世界中からワンクリックで届くようになったのか。その間に何が起きたのか。
Deep Fabはこれまで、公開資料と一次資料のリサーチで技術の歴史をたどってきた。今回はそこに、当事者への対面取材を加えている。訪ねたのは、東京・秋葉原の秋月電子通商、大阪・日本橋の共立電子産業、実店舗を持たないECとして生まれたスイッチサイエンスの3社。秋月電子通商営業部長の袴田氏、共立電子産業代表取締役社長の岩田健氏と部長の四元徹氏、スイッチサイエンス代表取締役の金本茂氏と取締役の小室真紀氏、合わせて5人の証言と独自調査から、日本の電子部品流通の半世紀をまとめる。
各社の歩みは単独のインタビュー記事に詳しいので、本記事では3社を貫く歴史の縦糸に焦点を当てる。海外の動向は要所で触れるにとどめ、国内の流通を中心にたどっていく。
焼け跡と商いの土壌から育った、東西の電気街
秋葉原の電気街は、戦後の闇市から始まった。終戦直後、神田の界隈には、米軍などから放出された真空管やラジオ部品、軍用無線機のジャンクを商う露店が並んだ。元通信兵が手にした知識と、焼け跡に流れた部品が結びついた場所である。近くの電機工業専門学校(現在の東京電機大学)の学生が部品を組み立ててラジオを作り、店先に置くと飛ぶように売れた。これを見た露天商が次々とラジオ部品商へ商売替えし、昭和25年ごろには神田の露店およそ120軒のうち半数近くが電器商だったという。
やがて行政がこの集積を動かす。1949年8月、GHQが公道の露店を一掃する露店撤廃令を出すと、露天商の陳情を受けた東京都は、1950年に臨時露店対策部を設け、国鉄と協力して秋葉原駅のガード下に代替地を用意した。1950年から翌年にかけて店々が高架下へ収容される。これが電気街の起点とされる。神田の電器商の移転先として、東京ラジオデパート、秋葉原ラジオセンター、ラジオガァデンが建設され、駅の周辺には小さな専門店を束ねた「部品商のデパート」が次々に生まれた。
いまも約36軒が軒を連ねる東京ラジオデパートは、日本で最初の電子部品の専門デパートをうたう。間口一間ほどの店がコンデンサーだけ、スイッチだけを商い、その集積が街になった。ガード下に並んだ放出品のジャンクが、この街の最初の商材だった。
大阪・日本橋の歩みは、秋葉原とは出自を異にする。日本橋は、戦前から古書や古物を扱う店が集まる土壌があった。もともと商いの根付いていたこの街が、戦後復興の中でラジオや真空管、関連部品を扱う店を増やし、電気街としての性格を強めていく。1948年には電器店40店が親睦組織「南大阪電友会」を結成し、高度経済成長期に家電と部品の街として地位を固め、もともと商いの根付いていたこの街が、戦後復興の中でラジオや真空管、関連部品を扱う店を増やし、電気街としての性格を強めていく。
真空管から半導体への移行は1950年代に始まり、1960年代を通じて広く定着していった。ラジオやテレビを自作するキット文化はそれより少し前、戦後直後から1950年代に広がり、やがて自作の重心は生活の実用品づくりから趣味や教育の領域へと移っていく。完成品を買えば高くつくものを、部品を買い集めて自分で組む。日本橋にはそうした部品を扱う小さな店が軒を連ねていた。共立電子産業の岩田氏は、創業当時を知る関係者から伝わる話として、こう振り返る。
「会長が新聞記事に書いていましたが、創業当時は電話帳を見ても『電子』と名の付く会社がなかったそうです」
その共立電子産業の創業は1970年8月。同じ年の11月、東京では、世田谷の自宅で土日にジャンク品を売っていた辻本昭夫氏の「信越電機商会」が秋葉原に店を構えた。のちの秋月電子通商である。東で秋月、西で共立。日本の電子部品小売を代表する2つの店は、示し合わせたわけでもなく、同じ年に生まれていた。
店員が検索エンジンだった時代
インターネット以前、部品の情報は店にしかなかった。データシートも回路例も、紙のファイルと店員の頭の中にだけある。シリコンハウスの店頭に30年立ち続けてきた共立電子産業の四元氏が記憶するレジの後ろには、分厚い資料がずらりと並び、店員は客の相談に応じて手書きの図面を添えて部品を渡していた。「ネットが無かった時代ですからね」と四元氏は言う。検索エンジンの役割を、人間が果たしていた時代である。
この時代の店は、情報の非対称性の上に成り立っていた。だからこそ各店は個性を競った。秋葉原では、千石電商が「パーツとツールのスーパーマーケット」を掲げ、半導体から工具まで幅広く並べる店として成長した。若松通商のように、マイコンや半導体に強い専門店も軒を連ねる。一方、1952年から営業し「買えないネジはない」と評された西川電子部品は、「ネジの西川」の名で職人や研究者を引き寄せた。当時の雑誌広告はカタログを兼ねた情報インフラで、数多くの部品店やメーカーが誌面に型番と価格を並べた。秋月もモノクロ7ページに及ぶ広告を毎号出し、地方の読者はその誌面をめくって部品を選んだ。
日本橋の共立には2つの顔があった。メーカー正規品と測定器を扱うシリコンハウスと、余剰在庫と掘り出し物のデジットである。デジットはメーカーの余剰在庫やスポット商材を大量に仕入れ、衛星放送のチューナーユニットを定価の何分の1かで売るような商売で熱心な客をつかんだ。ただし、この商売の参入障壁は高い。
「ジャンクは、面白い商材との出会いが大きいんです。いまはそうした商材を集めるのも簡単ではありません。1970年代、80年代なら日本にブローカーが10人、20人はいたと思いますが、今はほぼいません。これから新規参入しようと思っても、商材の面で苦労すると思いますよ」(岩田氏)
秋月の磁力は、創業者の辻本氏自身だった。型番と回路図だけを頼りに、言葉も分からない海外サイトから面白い部品を見つけて買い付ける。属人的な目利きが、そのまま店の品ぞろえになる。創業以来、その嗅覚が秋月の安さと品ぞろえを支えてきた。後年まで、店の階段には商談待ちの営業が列を作り、辻本氏は首から携帯電話を3個ぶら下げて、立ったまま印刷も商談もこなしていたという。早朝5時に「考えていて寝れない」と電話がかかってくることもあった。店主の頭の中にある相場と人脈が、そのまま商売の競争力だった。
マイコンが街に行列を作った日
部品を売る街が熱を帯びた時期がある。1976年8月、NECがワンボードマイコン「TK-80」を8万8500円で発売した。インテルの8080互換マイコンに16進キーボードと7セグメントの表示器を載せた基板である。当初は企業の技術者向けの教育・評価用キットだったが、ふたを開ければ学生や個人が押し寄せ、月200台の予測に対して月2000台が売れ、発売から約2年で6万6000台に達した。
同年9月、NECは秋葉原ラジオ会館の7階にサロン「Bit-INN(ビットイン)」を開く。マイコンを買った客が集い、情報を交換する場となり、後にこのフロアには「パーソナルコンピュータ発祥の地」のプレートが掲げられた。ワンボードマイコンは東芝、日立、富士通、シャープなどからも相次いで発売され、1台10万円近いボードに、若者が貯金をはたいた時代だった。
この熱を支えたのが、紙の情報インフラである。CQ出版の「トランジスタ技術」は1964年10月に創刊し、誌面の多くを占めた広告は、地方の読者にとって部品のカタログそのものだった。
「初歩のラジオ」や「ラジオの製作」といった雑誌が自作の入り口を広げる一方で、学研は知育玩具「電子ブロック」を売り出す。ブロックを組み替えるだけで電気実験ができるこの製品は、1976年発売のEXシリーズで人気の頂点を迎えた。EX-150は46個のブロックで150種類の実験ができた。部品を買い、雑誌で学び、街で組む。秋葉原と日本橋は、その循環の中心にあった。
現金書留からEC、リアルからオンラインへのシフト
店に行けない人のための通販は、ECよりはるかに古い。秋月の通販の原型は、トランジスタ技術の誌面広告と現金書留である。地方の読者は広告をカタログ代わりに品番を選び、現金書留で代金を送った。送料は実費を出荷個数で割ってトントンにする方式で、この考え方は現在の同社の通販送料にもそのまま生きている。
海外では、カタログ通販がすでに巨大化していた。1972年に米国で創業したDigi-Keyの社名は、創業者がアマチュア無線家向けに売っていた電鍵キット「Digi-Keyer」に由来する。キットの余剰部品を「どんな少量でも売る」通販に転じたのが原点で、1964年創業のMouserと並ぶ世界規模の部品通販へ育った。
膨大な型番を在庫し、1個から翌日出荷するという商習慣は、日本の店頭文化とは別の発想に立っている。店員との対話で部品を選ぶのではなく、品番さえ分かれば人を介さず手に入る。情報の非対称性を前提にしない流通が、海を越えて近づいていた。日本には英国系のRSコンポーネンツが1998年(資料により1999年)に上陸し、この「型番で1個から翌日」という体験を持ち込む。
国内勢では、マルツ(現マルツエレック)が1947年に福井で戸板に電球を並べる行商から始まり、家電量販店との競争を機に電子部品専門へ業態転換した。2000年に通販サイト「マルツオンライン」を開設し、後に米Digi-Keyと提携して600万アイテム以上を1個から取り寄せられる体制を作っている。地方の作り手にとって、部品の距離は確実に縮まっていった。
国内のネット通販で早かったのは、大阪である。共立電子産業は1996年に通販サイト「共立エレショップ」を開設した。楽天市場の開設が1997年、Amazonの日本上陸が2000年だから、その早さが分かる。秋月がネット通販を始めたのは2001年。ただし、その後も長らく専門店の数は限られていた。3つ目の波が東京都内のマンションの一室から生まれるのは2008年のことだが、それは後の章で述べる。
30年後の現在、オンラインとリアルの力関係は完全に逆転した。秋月の売り上げは「オンラインと店舗でもう9対1」(袴田氏)で、サイトには1日延べ20万人前後が訪れる。共立も売り上げの9割以上がオンラインだという。それでも両社は、実店舗での営業も続けている。数字上の効率は実店舗のほうが低くても、現物を見たい客がいる限り店は開けておく、というのが、そろって示した姿勢だった。
老舗が口をそろえた転換点、PIC
今回の取材で印象的だった一致がある。秋葉原の秋月と日本橋の共立に「商売の潮目が変わったタイミングはいつか」と尋ねると、双方が同じ名前を挙げた。米Microchip Technologyの「PIC」マイコンである。
それまで電子工作の中心は、機能ごとに作られた専用ICだった。ラジオにはラジオのIC、時計には時計のICがあり、店はその品ぞろえで勝負していた。マイコンはこの構図を崩す。1つのチップにプログラムを書き込めば、用途は作り手が決められる。
PICの出自は地味だった。1976年、米General Instrumentが16ビットCPUの脇役として、入出力を補う周辺チップとして設計したのが始まりである。この半導体部門が1980年代末に独立してMicrochip Technologyとなり、PICは主役へと化ける。Microchipは、在庫していたPICの設計に書き換え可能なメモリーを組み合わせ、フィールドで何度でも書き込めるマイコンを数ドルで売り出した。MotorolaやIntelの競合が10ドルを超えていた時代の価格である。安いだけではない。書き換えできるPICは流通在庫として棚に置け、注文が来ればすぐ出荷できた。販売店にとって扱いやすい商品だったことが、普及の土台になった。中でもPICが効いたのは、書き込みの手軽さだったと四元氏は語る。
「フラッシュで書けて、オンボードで書き込める。それが革命的だったと思うんです。当時はライターで書いて、差し替える作業があったので、実装した状態でプログラムを書き換えられるのは、すごかった」
四元氏の言う「オンボードで書き込める」とは、チップを基板に載せたまま書き換えられるICSPという仕組みを指す。それまでは、チップをいったん外して書き込み機に挿し、また戻す手間が要った。転機は商品にも刻まれている。1993年のPIC16C84は、電気的に書き換えできるメモリーを積み、開発効率を大きく高めた。
1998年のPIC16F84でフラッシュ化が進む。日本でこの波に火をつけたのは雑誌だった。トランジスタ技術は1995年12月号でPICを初めて特集し、数年で不動の人気商材に育てた。
秋月は「いまだに秋月イコールPICと言われるぐらい」(袴田氏)この波に乗った企業でもある。純正の書き込み機が3万円ほどした時代に独自のライターを4000〜5000円台で売り出し、累計数十万台を販売している。安い部品と安い道具がそろい、回路の機能をプログラムで決められる。1990年代後半、ものづくりの主導権が部品メーカーから個人へ移る素地が、ここで整った。なお、PICと並ぶもう一つのホビーマイコンが、1996年に登場したAtmelのAVRである。両者は8ビットマイコンの二大勢力として長く競い、2016年にはMicrochipがAtmelを35億6000万ドル(当時のレートで約4200億円)で買収して、ライバルは同じ傘の下に収まった。
群雄割拠の果てに――Arduinoとクローゼットの30個
マイコンが手に届くものになると、2000年代には「プログラミングが得意でない人でも扱えるボード」という同じ思想の製品が、各地でほぼ同時多発的に生まれた。
米Parallaxが1990年代から売っていた「BASIC Stamp」は、BASIC言語で手軽に動かせるマイコンモジュールとして教育現場に広がっていた。ただし、ボードと基本部品をそろえると100ドル前後、学生には軽い負担ではなかった。当時のレートで1万円を超える。
2003年には、イタリアのインタラクションデザイン専門大学院IDIIに在籍したコロンビア出身の学生Hernando Barragánが、修士論文として開発環境「Wiring」を生み出す。アーティストやデザイナーが電子回路を扱えるようにという発想は、のちのArduinoの直接の母体になった。Barragánは2005年に200枚の基板を発注し、1枚60ドル前後で売り出した。当時のレートで6000〜7000円ほどである。英ARMがこの時期に投入した「mbed」は、ブラウザー上で開発できる手軽さで組み込み技術者を引き込む。誰もが回路を動かせる入り口を、世界中の研究室やメーカーが競って作っていた時代である。
この群雄割拠には、店頭の商品の系譜を左右する分岐もあった。Wiringは当初、店で売れ続けていたPICを心臓に使う案もあったが、当時のMicrochipにはオープンソースの開発環境がなく、早々に見送られた。代わりに選ばれたのが、開かれた環境を持つAtmelのAVRである。老舗の棚で売れ続けたPICと、新世代のボードに採用されたAVR。二大ホビーマイコンは、この時期に別の道を歩み始めた。
国産の代表格が「Gainer」だった。開発したのは、岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー[IAMAS]の小林茂氏ら。2004年にIAMASへ着任した小林氏のもとには、センサーとコンピューターをつないだ作品を作りたいという学生の声が集まっていたが、既存のマイコンは専門家向けに偏り、ワークショップを開いても2回目の参加者が1人だけという状態が頻発していたという。当時、MakingThings(米国)が製造していたTeleoなど、初心者にも使いやすいマイコンボードは存在していたものの、輸入品であることから価格が高く、壊れた場合の修理対応にも苦労するなど課題があった。
デザインやアートの作り手のための道具を半年がかりで開発し、2006年3月の展覧会でお披露目した。袴田氏は、このボードに本気で惚れ込んだ一人である。「部品レベルで値段を考える癖のある」という袴田氏には、秋月で作ればもっと安くでき、もっと広げられるという確信があった。秋月版Gainerの実現には至らなかったが、こうした事例が示すように そもそも秋月自身が、30年来のマイコンボードメーカーでもあった。
「マイコンボード自体は古いんです。30年ぐらい前から、日立のマイコンをボード化していましたし、Arduinoはハード面では秋月のボードとあまり変わらない。けれど、ソフトウェアのライブラリーまで含めて売る、というコンセプトが新しかったんです」(袴田氏)
その新しいコンセプトを掲げて2005年にイタリア・イヴレアで生まれた「Arduino」が、結局この群雄割拠を制する。Banziらは、Wiringのコードをフォークし、より安価なATmega8を採用して安く作った。狙った価格は30ドル、当時のレートで3300円ほど。学生が買える値段である。当時主流の緑の基板と区別するため、Arduinoはあえて青く塗られた。
100ドルのBASIC Stampから60ドルのWiringを経て、30ドルのArduinoへ。入り口のボードは、世代を追うごとに安くなっていった。プログラミングに不慣れな美術系の学生でも電子回路を動かせるように設計され、回路図もソフトウェアもオープンソースで公開された。2007年には出荷1万台を記念したモデル「Diecimila」が登場。日本では限定カラー版に研究室ぐるみで応募する学生もいた。当時大学院生だった小室氏である。普及の裾野は書店にまで届き、2010年5月には学研の雑誌「大人の科学マガジン」が3200円(税別)でArduino互換機「Japanino」を付録に付けた。マイコンボードは、雑誌のふろくになるところまで来ていた。
このArduinoを2008年春に30個まとめて個人輸入し、自宅のクローゼットを倉庫にしてWebで売り始めたのが、ソフトウェア技術者だった金本茂氏である。事業計画はなく副業として始めた通販の売り上げは毎年2倍から3倍に伸び、2010年に法人化した。スイッチサイエンスの誕生である。この創業物語は単独記事に譲るとして、総集編として注目したいのは、当時の老舗と新興の関係だ。金本氏は秋月をこう見ていた。
「秋月さんがArduinoなどを扱うようになったのは、比較的最近の話です。それまでは基本的に部品屋さんで、うちとは方向性が違ったんです。重なり始めたのは最近ですね」
部品の秋月、ボードとモジュールのスイッチサイエンス。当初は競合ですらなく、それぞれ違う需要に応えていた。スイッチサイエンスがはっきりさせていたのは、新規参入の入り口を広く取る思想である。「あまり特別なものにはしたくありませんでした」と金本氏が語るとおり、電子工作にこれから触れる層を意識してサイトもドキュメントも組み立てた。学生だった小室氏が客として引き寄せられたのも、この間口の広さだった。
一方の秋月は、小ロット生産者や専門家の需要に長く応えてきた店である。かつてサイトに掲げていた「小ロット生産者と共に歩む」という標語はその歴史の表れで、いまとなってはあれもブランディングとして正解だったと思う、と小室氏は語る。
興味深いのは、当の秋月がこの標語を、客層の変化に合わせて自ら下ろしたことだ。個人にまで客が広がり、小ロット生産者だけではないという指摘が届くようになると、「じゃあ外しちゃえば」(袴田氏)とあっさり消した。新旧それぞれの店が、広がっていく客層に合わせて自分の看板を更新していった時代だった。Arduinoがもたらした客層の変化は、日本橋の店頭でも観測されていた。「ハードウェアをあまり知らない、アート系の若いお客様がすごく増えた時期がありました」と四元氏は振り返る。
同じころ海外では、2003年創業のSparkFun、2005年創業のAdafruit、2008年に深圳で生まれたSeeed Studioが、チュートリアルやドキュメントごと部品を売る商売を確立していた。「部品を売る」から「作り方ごと売る」へ。日本語ドキュメント付きのキットを育てたスイッチサイエンスを含め、世界の新興勢は同じ方向を向いていた。
Arduinoが開いた「すぐ試せるボード」の系譜は、その後、安価な無線を載せたボードへと続く。上海のEspressif Systemsが2014年に出したWi-FiチップESP8266は、3ドル未満という価格でIoT市場に衝撃を与えた。スイッチサイエンスはこのチップを載せた「ESPr Developer」を商品化し、同社が自社オリジナル製品の中でも人気のロングセラーと位置づける定番に育てる。2016年に無線とBluetoothを備えたESP32が登場すると、それを載せたボードが続き、ESP32を搭載した中国・深圳のM5Stackは、2018年にスイッチサイエンスが日本国内の総代理店として販売を始めた。数千円で無線までこなすボードが、店頭の主役になっていった。
全てを飲み込んだRaspberry Pi
Arduinoが客層を広げたとすれば、「Raspberry Pi」は競合を駆逐した。2012年、35ドル(当時のレートで約2800円)の教育用コンピューターとして英国で生まれたこのボードの直撃を、日本橋で受け止めたのが岩田氏である。当時、米国生まれのシングルボードコンピューター「BeagleBone」に力を注ぎ、無線がつながらないというクレームに米国までメールを送って対応し、ようやく売れる態勢を整えたところだった。
「ラズパイが出てきて、1年ぐらいですべて駆逐していきました」
決定打は2016年の「Raspberry Pi 3」だったと四元氏は見る。Linuxの知識が前提だった初期と違い、無線LANとBluetoothを基板に標準搭載し、キーボードとマウスをつないで「コピペしたら動く」ものになって、電子の知識がない層へ一気に広がった。
BeagleBoneが外付けのドングルや追加設定でつまずいていた無線まわりを、Raspberry Piは標準装備で吸収してしまった。このころから法人のまとめ買いが目立ち始め、教育用に生まれたボードは検査装置やデジタルサイネージ、工場の試作ラインなど産業の現場へ静かに入り込んでいく。安価な民生品を産業が転用するという逆流は、それまでの「産業用は高い専用品」という常識を崩した。
流通にも新しい型が生まれる。電子部品商社のケイエスワイ(KSY)は、1998年の創業で、RSコンポーネンツと代理店契約を結びRaspberry Piの正規販売代理店となった。産業用途の安定供給を支える存在になる。
取材した3社のうちスイッチサイエンスも、早い段階から供給側に回った。2013年に流通在庫を仕入れる形で販売を始め、2014年にはelement14とリセラー契約を結ぶ。2016年には財団CEOのEben Upton氏と直接会ってRaspberry Pi Zeroの日本展開を話し合い、2017年のZero発売にあわせて財団公認のリセラーになった。
Raspberry Piの供給は、財団の主導でRSコンポーネンツとelement14の2社がそれぞれ製造販売を担う特殊な形態を採ってきた。日本の販売各社は、そのどちらかから仕入れて国内へ流す。RSコンポーネンツは2022年ごろに製造販売から退いている。教育用として設計されたものが産業に浸透する流れは、パーソナルとエンタープライズのものづくりが近づいていく、その後の10年を先取りしていた。
一方、秋月もまた財団に生産を直接打診し、断られ、最終的にコロナ禍が明けたころ正式な代理店契約を結んでいる。PICで始まったマイコンの民主化は、Arduinoで客層を広げ、Raspberry Piで産業まで届いた。
AliExpressの奔流と、変わった仕入れの方程式
2010年代後半、流通の前提そのものが変わる。2010年に始まったアリババグループの越境EC「AliExpress」は世界200以上の国と地域をカバーするまでに拡大し、深圳の部品が数十円から個人の郵便受けへ届くようになった。部品専門では、2011年に深圳で創業したLCSCが2600超のメーカーの56万点以上を在庫し、登録顧客400万超、1日平均約1万4000件の注文を処理する規模に育っている。「値段のところだけで考えると、絶対に勝てません」と四元氏が言い切る環境が、常態になった。
ただ、奔流は店を押し流しただけではない。部品が世界中から細かく買える時代は、仕入れる側のリスク構造も変えた。袴田氏が明かす変化が興味深い。
「昔は数が多いと値段交渉が効いたんです。1万個で2ドルのものを、10万個買ったら半額になることもあった。だからうちの会長は10万個買ってしまう。今は1万個と10万個で価格がほとんど変わらないので、1万個ずつ刻んで勝負できる。大バクチをする必要がなくなりました」
創業者の豪快な賭けで成り立っていた商売が、誰でも小さく試せる商売に変わった。これは個人の作り手に起きた変化と相似形である。
一方で、価格以外の土俵づくりは各社各様だった。共立は、量産車とクラシックカーのたとえで店の存在意義を語る。乗るだけなら量産車が圧倒的に便利でも、一点ものに価値を見いだす人は必ずいる。同社が縮小の続くクラフトオーディオの部材をあえて手放さないのは、「趣味でやるなら、まず共立よね」(岩田氏)という選択肢であり続けるためだ。
秋月は目利きに徹する。データシートを確認し、自分で試した部品しか売らない「八百屋」を自認し、楽天やAmazonへの出店は一切しない。「部品は電気を通したら中古品になりますし、普通の一般販売のものとは違うので、対応しきれないと思うんです」(袴田氏)。創業期から続く「買い占め禁止」も、誰かの回路が部品1個で止まらないようにという、八百屋なりの品質保証である。
この目利きと在庫哲学は、コロナ禍の半導体不足で真価を見せた。秋月は流通が止まる前に通常の4倍に当たる2年分の発注をかけ、部品が消えた2021年から2022年に過去最高の売り上げを記録している。
スイッチサイエンスにとっても試練はブームの終わりではなく供給だった。2017年ごろにメイカームーブメントが落ち着いても売り上げは伸び続けたが、半導体不足では個人向けの商品が後回しにされ、1年弱ほど業績が伸び悩んだという。そして今はメモリである。Raspberry Piに使われるLPDDR4の価格は2025年からの1年で7倍に跳ね上がり、Raspberry Piは2025年12月以降、立て続けの値上げを迫られている。財団も販売側も利益を圧縮して値上げ幅を抑える消耗戦が続く。
それでも、3社が互いを敵と見ていないことは強調しておきたい。スイッチサイエンスの金本氏は同業者をこう語る。
「この業界は、秋月さんとか共立さんとか、競合しながらも仲良くやっているんですよね。健全な競争はいいんですけど、どこにでもある商品を扱って戦うのは、やりたいことじゃないんです」
秋月は競合品を自社の棚に並べ、1社独占を嫌う。共立は「みんなそれぞれお客さんの層が違うので、うまく協業できれば、足を引っ張り合うことではない」(岩田氏)と語り、実際に英Farnellと連携して50万点規模の部品を取り寄せられる仕組みを作った。海外の巨大カタログを競争相手と見るのではなく、連携によって自社の品ぞろえに生かしていく発想である。パイの奪い合いではなく、市場そのものを守る。その意識の背景には、街そのものが縮んできた半世紀がある。
趣味としての電子工作やアマチュア無線の人口は、1990年代半ばを境に減り続けてきた。総務省の統計では、アマチュア無線局の数は1995年に136万局を超えてピークを打ち、2025年末には33万局あまりまで落ち込んでいる。秋葉原の象徴だったラジオ会館でも、2001年に第一家庭電器、2006年にサトームセンが姿を消し、フロアは部品店から漫画やトレカの店へと入れ替わった。2011年にいったん閉館し、2014年に建て替わった新しいビルに戻った旧店舗は半数ほどだった。秋葉原ラジオストアーのような名店も、2013年に長い歴史を閉じている。客が減り、店が減る。その流れの中で生き残るには、店どうしが潰し合っている場合ではない、という共通の感覚がある。
それは街の新陳代謝にも表れている。2023年、71年の歴史を持つ「ネジの西川」が廃業を決めたとき、ネジ販売の業務を引き継いだのは千石電商だった。同社は「秋葉原からネジはなくしません」と表明している。1本数円のネジを売る商売に大きな利幅はない。それでも引き継いだのは、街から1つの機能が欠けることが、巡り巡って電気街全体の価値を削ると知っているからだ。
半世紀で下がり続けた、挑戦のコスト
半世紀の取材を終えて振り返ると、この物語には一本の線が通っている。ものづくりに挑むためのコストが、下がり続けてきたという線だ。
部品を組んでテレビを作っていたころ、完成品は何十万円もした。自分で組めば安く済むという、それでも決して安くはない挑戦から、この街の商売は始まった。PICの時代には、純正で何万円もした書き込み機を、秋月が四、五千円のオリジナルライターに置き換えた。
Arduinoは登場時に3000円ほどで手に入り、それまで電子工作と縁のなかったアート系の学生を電子部品ショップへ呼び込んだ。Raspberry Piは35ドル、当時のレートで約2800円という値付けで世に出て、教育用に生まれたこの一枚が、やがて産業の検査装置やサイネージにまで入り込んだ。
製品が一つ現れるたびに、ものづくりに踏み出す入り口の値段は下がっていった。いまでこそ半導体不足やメモリ高騰でその価格は反転し、Raspberry Piは値上げを重ねているが、それは裏を返せば、これらのボードが一度はそれだけ多くの人を呼び込むほど安く広まった証でもある。数十円の部品が深圳から翌日届くという現在の感覚そのものが、半世紀をかけて入り口のコストが何桁も下がった結果だ。
下がったのは、作り手のコストだけではない。仕入れる側のリスクも、同じように小さくなった。袴田氏が語った変化を思い出したい。かつては10万個をまとめ買いして半額を引き出す、創業者の豪快な賭けで成り立っていた商売が、今は1万個ずつ刻んで勝負できる商売に変わった。個人が小さく試せるようになったのと同じ構造の変化が、店の帳場でも起きていた。作る側と売る側のコストが同時に下がっていく過程こそ、パーソナルなものづくりとエンタープライズのものづくりが近づいてきた半世紀の正体だろう。
コストが一段下がるたびに、それまで入ってこなかった人が現れた。自作キットの愛好家、PICをいじる学生、Arduinoを手にした美大生、ラズパイで初めてLinuxに触れた人。新しい客層の出現が、街の店を半世紀延命させてきたと言ってもいい。だとすれば問いは一つに絞られる。次にコストを下げるのは、何か。
スイッチサイエンスの小室氏は、未踏ジュニアのメンターとして若い作り手を見てきた立場から、こう言う。
「何でも教えてくれるからこそ、作った人のほうが強いんです。今年はほぼ全員がAIでプロトタイプを作ってくる。だからこそ、作っていない人は逆に目立つんです」
設計を手伝い、エラーの原因を教え、回路の定石を示す。かつて店員が紙のファイルと記憶で果たしていた「検索エンジン」の役割を、今はAIが肩代わりしつつある。四元氏がレジの後ろの資料を繰って客に答えていた半世紀前と、画面の向こうのAIに設計を相談する現在は、地続きだ。知識のコストもまた、下がっている。
ただし、3社が口をそろえて言うのは、コストがどれだけ下がっても消えないものがある、という点だった。手を動かして、現物に触れる経験である。金本氏は「やりたいことを全部やってみたらいい。たいていのものはそんなに高くないので」と背中を押す。
共立がハードウェア専門ハッカソン「テックシーカー」を部材提供で支え続けるのも、四元氏が「店に来てほしい」と店の扉を開けておくのも、根は同じだ。テックシーカーは、ソフトウェア中心のハッカソンで養生テープ巻きの作品を見た岩田氏が「ちゃんと作ってよ」という思いから始め、2025年には100人規模に育った。腰を据えてハードウェアを作り込むハッカソンとして、国内でも大きな部類に入る。安く速く作れる時代だからこそ、最後にものを言うのは、実際に作った経験だという確信が、世代も街も超えて共有されている。
締めくくりは、半世紀前から部品を売り続けてきた秋葉原の言葉に譲りたい。
「可能な限り、はんだごてを触ってください。部品に触れる環境を作りたいし、面白いと思ってもらえる品ぞろえをしていきたい。それはうちのメンバー全員が持っている思いです」(袴田氏)
自作キットの何十万円から、深圳から翌日届く数十円の部品まで。半世紀をかけて挑戦のコストは何桁も下がり、その一段ごとに新しい作り手が生まれてきた。近ごろは半導体やメモリの高騰で価格が上を向く場面もあるが、それでも、何かを作り始めるための敷居が半世紀前より格段に低いことは変わらない。次の一段はおそらくAIが下げる。それでも、最後に基板へはんだごてを当てるのは人間の手だ。
スマートフォンで注文すれば数日で部品が届くという今の当たり前は、コストを下げ続けてきた半世紀の上にあり、その先で部品店が守ろうとしているのは、誰もが手を動かして何かを作れる入り口そのものなのである。
※本企画は、スイッチサイエンス取締役の菊地仁氏のお力添えによって実現しました。記して感謝いたします。