2026.07.29 映画「ナミビアの砂漠」を観た
とある相互フォローの作家さんのエッセイに、よく登場する作品として「ナミビアの砂漠」という映画があった。
ちょっと興味があって、時間もあるので試しにみてみるか、と思ったら、開始10分で号泣する始末である。
というのも、主人公の女の子の言動が、これまで関わることが比較的多かった女の子たちの傾向にあまりにも近くて、強い共感あるいは庇護欲を覚えたからだと思う。
そして、彼女たちの悲しみ、寂しさ、苦しさ、あるいはそれが伝染したときの形容し難い種々の感情、そういったものが無秩序に混交しながら僕の端へと蘇ってきたからである。
同時に、これは過去の僕自身の話でもあると思って、開始10分には、もうすべてが予想できてしまい、続きをみる必要性がなく、同時に続きを「みたくない」という気持ちに襲われた。
今の僕は、このような虚無のなかで生きることを必死に拒んでいる。
そしてビデオを停止する。
まだ10分しか観ていないのに、まるで映画を見終わったあとの名残惜しさから起こす行動のごとく、「ナミビアの砂漠 レビュー」と検索する。
選民的で嫌な言い方になるが、「わかるひとにはわかる、わからないひとにはわからないだろう」という系統の映画だと思って、答え合わせの感覚でレビューを先に覗きたくなった。
案の定「理解不能」「くだらない」「意味不明」という類のレビューをたくさん拝むことができた。
レビューは題だけみて、中身はみなかった。
僕が開始10分ですべてを理解した「つもり」になっているのに比べ、あまりにも「わからない」というレビューの多さに、なぜか安心していた僕がいることを認めなければならない。
僕らの持っていた(あるいは、持っている)苦しみを「簡単にわかられてたまるか」という気持ちだったとおもう。
理解への拒絶というわけではなく、安易な消費への抵抗のようなものだ。
もちろん、そんなふうに思うことは希求にならないし、生産性も希望もない。観賞の態度としても、不適切寄りである。
しかも、思いだす必要は金輪際なさそうな記憶であるにも関わらず、それらに苦しんでいた自分や、自分の友人たちの過去を、特別視していたと自覚させられるのは不思議な感覚だ。
これは「世界に絶望していたとしても、愛を生きたい」という哲学の話であり、世界に絶望していなければこの作品の切実さや真髄はわからないだろう。
でたらめな、あるいは暴走や狂気にみえるはずだ。
また、一見無駄にもみえる描写には、主人公の諦念を理解するためのヒントが散りばめられているが、そのヒントはやや難解であり、理解できる者は限られると思う。
そうして僕はここまで文章を書き、ふたたび締め付けられた心臓のままで、乾きかけの瞳で、再生ボタンに手をかけた。
開始20分くらいのシーン。
主人公の女の子と不動産で働いている恋人が一緒にハンバーグをつくっている。
他愛ない話をしているなかで、女の子は恋人が出張先で上司に誘われて風俗に行くのではないか、それを断れるのかを懸念する。
そして、女の子は上司を演じ、自分の恋人に対して風俗に誘うシミュレーションが始まると、僕は大爆笑。とにかく不器用なふたりが笑える。
あんた、さっきまで泣いてましたよね?
僕自身は、彼女でもない女の子にこれをされたことがあって、どんなつもりでそれ言ってんの、なんて思いながら、風俗の誘いを断る演技をした。そんな過去を、的確に想起させてくる。
ちなみに僕は風俗に行ったことはない。
男社会を生きてきたので、誘われることはよくあった。ほほすべて断ったが、ほんの数回、友人との付き合いで行ったことはある。事情を説明し、プレイは拒否した。
性産業で働いている人を否定する意図はない。ただ、思想として性と金銭の交換を積極的に行いたくないが、場の空気を濁さないという価値と両立できたというだけだ。
恋人が働いているラウンジやキャバクラやガールズバーを覗きに行ったことを除けば、この歳の男性にしてはやや珍しい「風俗未経験者」だと思う。
結果からみれば、シミュレーションの成果は抜群だったということになるな。
しかし、このシミュレーションのあと、主人公の女の子はすぐ浮気するだろう、と思いながら観てたらその1分後には案の定である。ははは。
リアルすぎてしんどい。
そう、だから僕はこういうひとを決して「恋人」にはしなかった!
彼女たちの底なしの虚無を、ひとりの男が埋められるわけがない。
と、いうふうに言い訳をして、傷ついてでもその人を愛し切る覚悟から逃げていた自分が思いだされた。
そうやって30年以上、僕は「浮気されたことがない自分」を守り続けていた。
結局、代替可能な範囲に居続けるほうが「無責任に」楽しかったというだけなのに。
ただ、傷つきたくないという一点のために。
その後、僕は全身にタトゥーが入った女性と寝ている最中に告白され、付き合ったら相手には別で彼氏がいることが発覚する。
彼女はその彼氏と主体的に別れたものの、後に僕は人生で最初の(そして最後だと思いたい)浮気されることになる。わかりきった未来だった。
だって彼女は世界のすべてに絶望していて、僕なんか普通に働いて、普通に友達がいて、普通に趣味(居場所)があって、到底、絶望を極めた彼女(それによって希望に対して不感症になった彼女)にとっての充分な世界になりきれないのだから。
なにもその子だけではない、僕が関わってきた彼女たちは、性的な側面を除いて、ほとんどに対して不感症であった。
その原因の多くは、繰り返されてきた失望にある。どれだけお金を稼いでも。どれだけ良い服を着ても。どれだけ良い食事をしても。どれだけ良い景色をみても。どれだけ身体を重ねても、結局はたいしたことじゃない。
孤独は、抜本的に解決しない。
僕らの欲しいものについて、お金で買えないことだけはわかっていたが、お金で買えるものすら買えないのに、それを思う権利がないような気がして、その時はお金を稼ごうと努めていた。
努めれば努めるほど、虚しさは膨らんだ。
夜の街で働いていた彼女たちは、いつしかお金で自分の価値を定めるしかなくなっていたが、それは上記自己防衛の結果であるに過ぎない。
そしてついに、それすらも完全に虚しくなると、残ったのは透明の指先だけになった。
僕らはお互いの透明の指先を触りあう。その温度だけを頼りに、昨日を生き続けた。
僕らはお互いを神格化し、この絶望を抜けるための唯一な光だと錯覚しあいながら、朝陽を待つ。
僕たちは孤独じゃない。
そんなおまじないを、唇だけで唱え合う。
日常は退屈だった。
正確には、日常という退屈は屈強だった。
今は意識的に日常を楽しもうとはしているが、あくまで「意識的に」という条件付きだ。
だが、この意識こそが僕らのような、つまり「ナミビアの砂漠」の主人公にある種の共感を抱けてしまう人種にとっては大切だと思う。
しかし、そこを意識するまえにこう思う。
――ユニークな愛だけが、僕らを退屈から救ってくれる。
だが、そのユニークな愛すらも、どんどん日常へと溶けていく。そのことは知っているはずなのに、それしかないと思い込んでしまう。脳は非常に残酷なアルゴリズムを持っている。
救うことではなく、救われることを望み続ける。
意味のある時間が、意味のある未来が、この愛の先にあると信じて掌を預ける。
しかし、残念なことに人生には意味がない。
たったそれだけのことに気付くための時間が、若き魂には必要だ。
だが、意味を付与することはできる。
その方法は、自分でつくりださなければならない。やはり、「意識的に」。
ユニークな愛など、所詮は処方箋に過ぎない。
日常を豊かに育むため、「意識」は必要不可欠だ。
主人公は浮気していた男にそそのかされて、恋人から逃げて、浮気相手と同棲を始める。
しかし、もちろん想定通りの未来が待っている。
男「30分待って」
女「さっきもそう言ってた」
男「向こうで映画みて待ってて」
女「映画なんかみて何になんだよ」
そして喧嘩。
相互尊重が不足していて、言葉があまりにも足りない。わかりあえないことだけがわかってしまうからこそ、不機嫌で意見を通す(コミュニケーション)するしかない悲しさ。
そのあとも、ディスコミュニケーションは続く。
色々な思惑があって発した言葉、あるいは沈黙が、ことごとく裏目にでる。
このわかりあえなさ(予測不可能性)は、退屈を殺す刺激であり、同時にストレスであることを、幾度繰り返しても片面でしか捉えることができない未成熟な精神。
ナミビアの砂漠に映されたそれらは、理由もなく愛(らしいもの)を信じている僕らの苦い過去を、極めて等身大に、一寸の狂いもなく投射する。
なんだかんだで、結局は最後まで観た。
自分の喪失や虚無が解決されないフラストレーションの行き場のなさが、圧倒的なリアリティで描き切られていた。登場人物たちは、もはや「演技」を超えていた。
「今後の目標は生存です。――ねえ、あたしおかしいかな?」
「そんなことないよ」
「どっちかというと、おかしいのはあんただもんね」
この作品、実はそういった虚無を撮ったのではなく、虚無のその先を撮ったのだと、僕には感じられた。
なぜなら僕らは、この映画をみたあと、この先も生きることを前提とされているのだから。
この虚無の先に、見たことのない光があると無心で信じることへの警告であり、同時に、僕らはその光になれることを仄かに示していた。
この映画を通して、他人を試してばかりいる主人公。
自分の恋人を「あんた」と呼び、「ちげえだろ」と否定し、殴る蹴る。
自分を正当化したいのではない。間違っている自分を間違いごと受け入れてほしいだけなのに、それが叶わないから相手を変えようとしてしまう。
僕は何度かこういう女性と付き合ってきた。そしてその要因の片棒を担ってきた。
それに、僕自身にもその気配がまったくないわけではない。気が緩めば、程度の違いこそあれど、短絡するのは当然だと考える。
だからこそわかる。
自分の言動は、相手を大きく変えることができるという傲りを抱える限り、この先に明るい未来はない。が、まったく光がないわけではない。
虚空に向き合い続け、愛されるだけを望むのではなく、愛すことを望む時に、そしてその愛がありのまま受信されたときに、その光を確かに捉えることができる。
ラストシーン。
食卓を挟んだふたりの笑顔は、その光を掴みかけている瞬間だと解釈したい。これは蓋然性がある見方ではなく、僕の願望/観測に過ぎない。
だからこそ、僕はこのふたりの笑顔を忘れたくない。
この映画をアカデミックに批評するつもりは毛頭ないが、この映画を観た記録は残したいと思った。
はあ、涙が止まらんわ。
鼻水だらだらだよ。
始めの10分で、ぜんぶわかっていたのにね。
でも僕ならもう大丈夫。
ただ愛されることだけを望んでいないから。
ちゃんと、ひとを愛したいと心から思えているから。
今後の目標は、生存ではない。
ただ、心臓を動かすための明日に価値はない。
だれだって、そんなことはわかっているんだ。
慣性だけで明日を迎えることの虚しさを、木っ端微塵にするための愛を持っている。
この映画は、観るひとの感受性に大きく依存するものの、ひょっとしたら迷える僕らにその愛を気付かせてくれる傑作かもしれない。
これはあくまで、客観的な感想ではなく、非常に主観的な観測であることを念押しておく。
こちらが、冒頭の作家さん(斉藤あや氏)の小説のひとつ。
良い意味で、読んだあとになにも残らない。まさに砂漠だ。
僕はかなり好きだったので、興味のある方は読んでみてほしい。



ナミビア記事面白かったです☺︎ 開始10分でくらってるのも面白かった。 安易に理解されないからこそ、自由でいれるのかもしれないですね。簡単に関与されない領域があるということは、他人からの関与を拒むことができるので。それは生き方や考え方を他人に侵されないということですよね👀 つまり…
これ好きだよ もうみてるとおもった