今、それでも『共通善』を語るために 宇野重規×朱喜哲対談「バラバラな世界で、私たちは何を共有しうるか」後編【バラバラな世界で共に生きる】

「共通善」が内包する危うさ

 今のお話を受け止めつつ、戻したいところがあります。

リベラリズムもプラグマティズムも、ある意味ではカウンターの思想ですよね。リベラリズムは宗教戦争の時代を経て、お互いの信仰のような内面の重要なものに介入してしまうととんでもないことになるから、なんとかそこに自制をかけて、寛容であろうとした。「寛容」とは、日本語の字面で想起される思いやりや優しさというより、「頑張って無関心であろう」とする態度だと言うべきなんです。

宇野 面白いな。「頑張って無関心である」。言い得て妙ですね。

 私たちはつい他人の内心に関心を持ってしまいます。だから、積極的に無関心であろうとする必要がある。

ロールズの思想の一つの根幹には、mutual disinterest、つまりお互いに利害関心を持たないように頑張る、ということがあると思います。お互いの善に対して、必要以上に踏み込まないようにする。それはかなり大事なポイントだと思っています。

そう考えると、本来、「リベラル」と「保守」という対比は実はおかしいんですよね。リベラリズムが言う自由は、何でも信じていいという積極的な自由というより、むしろ放っておいてもらえる自由、介入されない自由に近い。

たとえば日本国憲法では第20条にある「信教の自由」も、何でも信じていいと国が保証してくれている、というより、国や組織から信仰心を強要されたり、宗教的儀式への参加を強要されたりしてはいけない、という自由です。つまり、個人の信念に介入されないことを守ろうという立場です。その意味では、保守とリベラルは必ずしも矛盾しない。

「何を大事にするか言ってくださいよ」という論法と、「それを放っておいてもらうことが大事ですよね」という論法は両立する。その両輪でやっていらっしゃるのかなと思ったんですが、どうでしょう。

宇野 そうなんですね。今日の議論で言うと、私と朱さんはたぶんかなり近い。ローティの理解もすごく共通しているし、シュクラーの残酷さを回避したいという点も、我々の間で一致している。ただ、微妙に違っているところもある。その正体を明らかにするのが大切だと思います。

一人ひとりが、残酷さから自分を守るところから出発する。そこまでは共有している。でも、私はそこから何か外に出て、言葉を介してつながっていきたい。「何が共通善か」「何が一般意志か」を議論したい。それが政治だという考え方があります。

一方で朱さんは、そこは頑張って無関心でいることが、リベラルのリベラルたるゆえんだと言う。どこか違いますよね。その違いが一体何なのか、ということです。

 そうですね。ひとつ具体的に話すと、共通善の話を日本語圏で考えるとかなり怖いところがあるのではないかというのが私の見解です。

アメリカで common good に相当するものとしては、信仰であるとか、アメリカの建国理念、すなわち自由や平等といったものが候補になり得る。もちろん、そこでもメンバーシップの問題はあります。

でも日本的な文脈で共通善と言うと、どうしても民族主義や家父長制など、危ういものが潜んでしまうことがままある。だから共通善の話は、特に日本語圏では怖いのではないかと率直に思ってしまいます。

宇野 共通善と言われた瞬間に恐怖を感じるというのは、よくわかります。

common good という言葉は、「これがcommon good だね」と言っている人間によって、どこかでそれに乗れない人を排除するメカニズムを持っている。特に日本的な土壌で共通善と言われた時に、それは自分を排除する論理だと感じてしまう。その恐怖感は本当によくわかります。だから私は「これからは共通善だ」と皆さんに押し付ける気は全くありません。

それでも、なぜ共通善のようなものを論じたいのか。