「希望」もまた誰かを傷つけるのならば
宇野 この話に入る前に、ジュディス・シュクラーの話にも少し触れておきたいです。私はシュクラーについてはローティと同じくらい不勉強で、あまり語る資格はないんですけれども、昔から気になっていました。
というのも、昔、「希望」について考えた時期があったんです。希望というと心の持ちようのように言われますが、社会科学もまた希望について語れるのではないか、という問題意識から、仲間たちと「希望学」という学問をスタートしました。でも、希望学を始めて、あちこちの中学校や高校を回ったときに、よく言われたんですよ。「私、希望がないんです。ないといけないんでしょうか」って。言われてドキッとしました。
希望を語ることには、ある種の暴力性があります。希望があることが前提になってしまうと、「希望がないといけないのか」と思ってしまうからです。希望を語ること自体が、残酷なことになってしまうかもしれないと気づきました。
そこでシュクラーの「希望ではなくて、残酷さを回避することが大切なんだ」という主張が気になりました。
積極的に「これが希望だ」と語るのではなく、むしろリベラルが考えなければいけないのは、先に述べたように、いかに残酷さを回避するかではないか。この問題意識にはピンとくるものがありました。
今の世界では、文字通りの暴力が人命を奪っているし、言葉によって人が切り刻まれている。そんなことが日々起きている時代において、まずは残酷さを回避することが大切だという主張は説得的です。
朱 共通善と希望には、少し通じるものがありますよね。
宇野 あるかもしれません。
しかし、そのうえでなお、私の中に、最近、ある種の変化が生じているのです。例えば、ルソーの「一般意志」を、もう一度正面から語る必要があると考えるようになりました。今まで私は、ルソーではなくトクヴィル派だったので、一般意志なんて全体主義的だし、中央集権的だし、抑圧的だと思っていたにもかかわらず、です。
それでも私は、今の時代こそ一般意志を語るべきじゃないか、と思うようになったのです。かなり逆張りですよね。共通善は語るわ、一般意志もきちんと考えほうがいいと言うわで、明らかに逸脱行動をしている。
ただ、みんなが「何が善かわからなくなった」、「社会の中で一つの共通の善があるなんてとても思えない」と言う時代に、別に唯一の答えがあるわけではないけれど、「それでも善はあるかもしれない」、「社会的にも何か共通の善があるのか、少なくとも語ってみる価値はある」と私は言いたいんです。
もちろん、それは一つの共通善ではないかもしれません。一般意志なんて一つに確定できるものではないかもしれません。それでももし何か、共通善や一般意志らしきものがありうるなら、それは何か、一度みんなでそれを語ってみてはどうかと訴えたくなったんです。最初から「そんなものはない」と言い切る前に、自分の中で少し考えてみる。「どうせみんな特殊意志しかない、人間は何も共有できないんだ」と決めつけるのではなく、「少なくとも、一人ひとりの頭の中で、何が一般意志かを考えることはできるんじゃないか」と考えてみたいのです。
そういう意味で、私はルビコン川を渡って、「一般意志」や「共通善」を論じてみようと言っているわけです。