『貞明皇后』は-
о“九条節子は、正室の子でないことや、色黒すなわち容姿端麗ではないことよりも、先述の通り『黒姫』と呼ばれるほどに健康であることが重視され、1899年(明治32年)8月21日に婚約が内定した”
о“「容姿端麗ではない」とされた節子以外の女性に皇太子が興味を持たぬよう、皇太子は節子を含めた女性との接触を制限された”
о“大河原家にあった幼少期の写真は没収された”
о“1900年(明治33年)2月11日、満15歳(数え年17歳)で、5歳年上の皇太子嘉仁親王と婚約。同年5月10日、宮中の賢所に於いて、賢所大前の儀を執り行った。これは、前4月に制定されたs:皇室婚嫁令に基づく、史上初の神前挙式であった”
о“1901年(明治34年)礼法講習会が日比谷大神宮で二人の婚礼を模して神前結婚式を創始し、以後、ホテル結婚式・披露宴とともに広く普及していった”
о“ドイツ帝国からの「お雇い外国人」であるエルヴィン・フォン・ベルツは「東宮はお元気な様子、妃は大変お美しい」と評した”
о“節子の恩師である下田歌子は、「これという取り柄が無いが、未来の国母としてわずかな欠点も無い方」という主旨の評価を新聞に寄せた”
о“当時は、皇太子は後の時代よりはるかに自由に行動できており、嘉仁親王は単独で代々木の練兵場や葉山、大磯などへ赴いた。特に大磯と日光には鍋島直大侯爵の別邸があり、イタリア生まれで雑誌グラビアでも頻繁に取り上げられた鍋島伊都子(梨本宮守正王と婚約中)と頻繁に会い、親しく交友していた”
о“成婚後すぐに懐妊した”
о“1902年(明治35年)6月25日、節子の満18歳(数え年19歳)の誕生日に、第二皇男子(第二子)淳宮雍仁親王(のちの秩父宮)を出産した”
о“明治天皇と皇后が別々に行動した”
о“皇太子同妃はそろって博覧会を台覧し、また嘉仁親王が馬車の上下車の際に同妃節子の手を取ってエスコートする等、西洋式近代社会において一夫一妻の良きモデル像となりつつあった”
о“やがて皇太子妃節子は第一皇子の迪宮よりも、第二皇子の淳宮に対する愛情を深めていった”
о“大正天皇が病に陥り、執務不全後は夫の天皇に代わり皇室を取り仕切り、元老や重臣たちと渉り合った”
о“1923年(大正12年)9月15日、関東大震災の被災者を慰問、日本の皇后が(単独公務で)被災民慰問をする初のケース”
о“1926年(大正15年・昭和元年)12月25日午前1時25分、皇后の手厚い看護も空しく、療養中の大正天皇が葉山御用邸で崩御”
о“大正天皇の臨終の際には、妻の貞明皇后の意向で、生母の柳原愛子を傍に居させた”
о“大正天皇の崩御後、皇太后は日課の如く、朝食を終えると大正天皇の遺影を安置した御霊殿に向かい、その日の出来事や新聞のニュースなどを「生ける人に仕えるよう」に語られ、退出する時間はいつも午前11時半を回っていた”
о“1951年(昭和26年)5月17日、狭心症により大宮御所で崩御。享年66。皇太子妃時代に腸チフスに罹った以外は特に大病に罹らず健康であり、この日も恒例の勤労奉仕団への会釈(挨拶)を行う予定だったが、その準備をしている時に狭心症の発作が起き、そのまま死去した”
о“「姑として、嫁の香淳皇后には何かにつけて厳しかった」”
о“学齢まで高円寺近くの農家に里子として逞しく養育された貞明皇后とは、根本的に価値観の不一致があった”
о“皇太子妃良子が姑である皇后節子の前で緊張のあまり、熱冷ましの手ぬぐいを素手ではなく、手袋(今も昔も女性皇族は外出の際は手袋を着用する)を付けたまま絞って手袋を濡らしてしまい、「(お前は何をやらせても)相も変わらず、不細工なことだね」と言われ、何も言い返せずただ黙っているしかなかった”
о“頭脳明敏で気丈な性格の貞明皇后ではあったが、目下の者にも決して直接叱責することはなく、この一件を目の前にした女官たちに、「二人は嫁姑として全くうまくいっていない」と知らしめる結果になってしまった”
о“3人の弟宮の嫁達、秩父宮、高松宮、三笠宮の各親王妃(雍仁親王妃勢津子、宣仁親王妃喜久子、崇仁親王妃百合子)とは御所での食事や茶会を度々招いて、可愛がった”
о“特に次男秩父宮の妃であった勢津子はお気に入りであった”
о“毎年3月3日の桃の節句(雛祭り)の折には勢津子妃が実家からお輿入れした際持ち込んだ雛人形を宮邸に飾って、貞明皇后に見てもらうのが恒例行事であった”
о“長男の昭和天皇に反発し、自身の大宮御所では旧態依然とした宮廷制度を維持した”
о“「貞明皇后の愛情は、次男の秩父宮に傾きがちであった」”
о“貞明皇后と秩父宮の誕生日は同一日(6月25日)であり、そのことから「皇后は強い縁を感じていた」”
о“雍仁親王の婚姻に関しても、「妃に幕末維新で朝敵とされた松平容保の孫である勢津子(せつこ、旧名:節子、読み同じ)を強く推薦したのは貞明皇后で、勢津子との婚姻が成立したのも皇后の意向が大きく働いた結果であった」”
-というから、元老院の反対にも関わらず、
о良子との婚姻を押し切った
-という、
о不健康さ(頭が足りない)
-が、
о寡黙なヒロヒト
-とともに、
о嫌われた
-が、その分、
о次男夫婦が物凄く愛された
-のは、その、
о聡明さ
-からであった。
★貞明皇后(,1884年-1951年(66歳没))1941年(50歳)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
貞明皇后
第123代天皇后
在位期間
1912年7月30日 - 1926年12月25日
皇后:1912年(大正元年)7月30日
皇太后:1926年(昭和元年)12月25日
誕生:1884年6月25日
日本・東京府神田区神田錦町(現:東京都千代田区神田錦町)
九条殿
崩御:1951年5月17日(66歳没)
日本・東京都港区元赤坂 大宮御所
大喪儀:1951年(昭和26年)6月22日
諱:節子(さだこ)
旧名:九条節子(さだこ)
追号:貞明皇后
1951年(昭和26年)6月8日
追号勅定
印:藤
氏族:九条家(藤原氏)
貞明皇后(ていめいこうごう、1884年〈明治17年〉6月25日 - 1951年〈昭和26年〉5月17日)は、日本の第123代天皇・大正天皇の皇后(在位:1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日 - 1926年〈大正15年/昭和元年〉12月25日)。諱は節子(さだこ)。お印は藤。旧名は、九条節子(くじょう さだこ)。
昭和天皇の母、明仁(上皇)の祖母、徳仁(第126代天皇)の曾祖母にあたる。元華族。公爵・九条道孝令嬢。ハンセン病の予防など救らい事業や福祉事業、蚕糸業(絹糸)奨励などに尽力した。一夫一妻制での最初の皇后。藤原氏から立后する最後の例である。
生涯
生い立ち
同1871年7月、東京府東多摩郡高円寺村(現:杉並区)近郊の豪農である大河原金蔵、てい夫妻に里子に出され、『九条の黒姫様』(くじょうのくろひめさま)と呼ばれるほど逞しく育った。農家の風習の中で育ち、栗拾いやトンボ捕りをするなど裸足で遊んだ。
大河原家は高円寺地域の氏神である氷川神社の氏子であったが、大河原家の敷地内には稲荷神社の祠もあった。また、養母のていは仏教への信仰心も篤く、早朝から観音経(法華経の一部)を読経しており、節子もていと共に仏壇に手を合わせていた。
皇太子妃時代
1900年(明治33年)2月11日、満15歳(数え年17歳)で、5歳年上の皇太子嘉仁親王と婚約。同年5月10日、宮中の賢所に於いて、賢所大前の儀を執り行った。これは、前4月に制定されたs:皇室婚嫁令に基づく、史上初の神前挙式であった。
1901年(明治34年)礼法講習会が日比谷大神宮で二人の婚礼を模して神前結婚式を創始し、以後、ホテル結婚式・披露宴とともに広く普及していった。
成婚後すぐに懐妊したため、宮中祭祀等には出られなかった。20世紀の最初の年である1901年(明治34年)4月29日、満16歳(数え年18歳)で、第一皇男子(第一子)の迪宮裕仁親王(のちの昭和天皇)を出産した。しかし、このとき皇太子は葉山に滞在しており、4日後の5月3日になって義母の皇后美子が内孫と対面するのに合わせて帰京した。迪宮は生後70日の7月7日に、川村純義伯爵(海軍中将)に預けられた。
嘉仁親王は地方行啓や、御用邸への滞在で不在がちであった。節子妃は孤独の中で第二子を懐妊し、精神的にも深く落ち込んだ。この頃、下田歌子が神功皇后の故事にちなんで、節子妃を励ました。1902年(明治35年)6月25日、節子の満18歳(数え年19歳)の誕生日に、第二皇男子(第二子)淳宮雍仁親王(のちの秩父宮)を出産した。しかし、嘉仁親王は葉山に滞在して不在であり、7月22日に東宮仮御所に戻った。節子妃と淳宮の母子は、葉山で過ごしたのち、淳宮は兄迪宮と同様に川村伯爵に預けられた。
成婚当初、皇太子と同妃節子が揃って過ごす機会は少なかった。1903年(明治36年)5月26日から6月10日にかけ、第五回内国勧業博覧会への台覧のため、皇太子同妃は大阪へ行啓した。明治天皇と皇后が別々に行動したのに比し、皇太子同妃はそろって博覧会を台覧し、また嘉仁親王が馬車の上下車の際に同妃節子の手を取ってエスコートする等、西洋式近代社会において一夫一妻の良きモデル像となりつつあった。
帰京後の8月10日に第三子を懐妊するが、同月25日に流産した。翌1904年に再び懐妊し、1905年(明治38年)1月3日に第三皇男子(第三子)光宮宣仁親王(のちの高松宮)を出産した。前1904年に川村伯爵が死去しており、迪宮と淳宮は沼津御用邸に移っていた。3月22日、皇太子妃節子は光宮とともに沼津に行啓し、3人の子どもたちとの時間を持つことができた。光宮はそのまま沼津に、迪宮と淳宮は青山の東宮仮御所に隣接する皇孫仮御所に移った。皇太子妃節子は、別離の悲しみを和歌に残している。
ベルツは、帰国前の1905年(明治38年)の様子として、親子が同居していると誤解しているものの、皇太子妃節子が成婚以前の快活な様子を取り戻したことや、家庭を持った皇太子にも良い影響があったと記している。週に数日とは言え、家族の時間を持てるようになったことは夫妻にとって喜ばしい一方、やがて皇太子妃節子は第一皇子の迪宮よりも、第二皇子の淳宮に対する愛情を深めていった。
1907年(明治40年)10月、皇太子妃節子が長年師事した下田歌子(学習院教授兼女学部長)が、同年1月より学習院院長となっていた乃木希典と対立して退職した。翌1908年(明治41年)4月からは迪宮が、翌年からは淳宮が学習院に入学した。
1909年(明治42年)5月29日、皇太子同妃は横須賀に行啓し、戦艦敷島に乗艦して海軍の演習を台覧した。軍事演習を台覧するのは皇太子妃節子にとって初めての経験であり、関連する和歌を33首も残すほど強い印象を受けた。同1909年には、御成婚祝の新居として建設された東宮御所(赤坂離宮)が完成するが、皇太子同妃の二人には広大すぎることや、子どもたちとの距離が遠くなることから、皇太子同妃が暮らすことは無かった。
翌1910年(明治43年)頃になると、再び皇太子妃節子は精神的に落ち込んだことを示唆する和歌を遺すようになる。体重が減少した皇太子妃節子を心配した皇后が浜離宮や葉山へ誘った。翌1911年(明治44年)1月27日には、姉の大谷籌子(西本願寺法主・大谷光瑞夫人)が早世し、深い悲しみを受ける。籌子の葬儀から5日後の2月7日から葉山御用邸に滞在し、3月27日に発熱、3月31日に腸チフスの診断を受けた。4月4日以降、回復傾向と伝えられ、7月1日に全快した。長期の静養の間、皇太子や迪宮が葉山を直接見舞うことは無く、また皇后は自ら賢所で祈願した米(賢所御供米)を贈った。
皇后時代
1912年(明治45年・大正元年)7月30日、明治天皇の崩御に伴う、夫・嘉仁親王の皇位継承(践祚)により皇后となる。3年後の1915年(大正4年)11月10日に京都御所にて御大典が行なわれたが、皇后は第4子(澄宮、のち三笠宮)を懐妊中のため欠席した。
1915年(大正4年)12月2日、第四皇男子(第四子/末子)澄宮崇仁親王(のちの三笠宮)を出産。
昭憲皇太后の後継者として、蚕糸・絹業を奨励し、自身も養蚕(皇后御親蚕)に取り組んだ。救癩事業(ハンセン病)に尽くし、灯台守を支援したことでも知られる。皇室や神道祭祀のしきたりや伝統を大切にした一方で、野口幽香、後閑菊野など近代女子教育の研究家を相談相手に宮中に招いた。
大正天皇が病に陥り、執務不全後は夫の天皇に代わり皇室を取り仕切り、元老や重臣たちと渉り合った。
1923年(大正12年)9月15日、関東大震災の被災者を慰問、日本の皇后が(単独公務で)被災民慰問をする初のケースであった。
1926年(大正15年・昭和元年)12月25日午前1時25分、皇后の手厚い看護も空しく、療養中の大正天皇が葉山御用邸で崩御。摂政を務めていた皇太子裕仁親王(昭和天皇)の皇位継承および皇太子妃良子(香淳皇后)の立后に伴い皇太后となる。大正天皇の臨終の際には、妻の貞明皇后の意向で、生母の柳原愛子を傍に居させた。
皇太后時代
大正天皇の崩御後、皇太后は日課の如く、朝食を終えると大正天皇の遺影を安置した御霊殿に向かい、その日の出来事や新聞のニュースなどを「生ける人に仕えるよう」に語られ、退出する時間はいつも午前11時半を回っていたという。また、皇太子明仁親王を含む7人の孫(昭和天皇の皇子女7人と三笠宮崇仁親王の子女2人)の成長を楽しみとし、孫からは「おばばさま」と慕われた。特に、甯子内親王と寛仁親王はたびたび御所に訪問したことから、一緒に羽根つきやままごと遊びを付き合った。
1951年(昭和26年)5月17日、狭心症により大宮御所で崩御。享年66。皇太子妃時代に腸チフスに罹った以外は特に大病に罹らず健康であり、この日も恒例の勤労奉仕団への会釈(挨拶)を行う予定だったが、その準備をしている時に狭心症の発作が起き、そのまま死去した。
家系
父親は九条道孝。孝明天皇の女御である英照皇太后は伯母(父の姉)にあたる。
母の野間幾子(1849-1946、二条家家臣野間頼興娘、京都生まれ)は15歳で九条家に仕え、道孝の側室として、九条道実、菊麿王妃範子、大谷籌子、節子(貞明皇后)をもうけた。
皇子及びその妃たちとの関係
香淳皇后自身は、かなりおっとりした性格で、学齢まで高円寺近くの農家に里子として逞しく養育された貞明皇后とは、根本的に価値観の不一致があった。
宮中で仕える女官長や女官が実際にその衝突を目撃したのは、大正天皇崩御の数ヶ月前、すでに摂政となっていた皇太子裕仁親王(昭和天皇)と同妃良子(香淳皇后)夫妻が療養先である葉山御用邸に見舞いに訪れた際である。皇太子妃良子が姑である皇后節子の前で緊張のあまり、熱冷ましの手ぬぐいを素手ではなく、手袋(今も昔も女性皇族は外出の際は手袋を着用する)を付けたまま絞って手袋を濡らしてしまい、「(お前は何をやらせても)相も変わらず、不細工なことだね」と言われ、何も言い返せずただ黙っているしかなかった。頭脳明敏で気丈な性格の貞明皇后ではあったが、目下の者にも決して直接叱責することはなく、この一件を目の前にした女官たちに、「二人は嫁姑として全くうまくいっていない」と知らしめる結果になってしまった。
一方で3人の弟宮の嫁達、秩父宮、高松宮、三笠宮の各親王妃(雍仁親王妃勢津子、宣仁親王妃喜久子、崇仁親王妃百合子)とは御所での食事や茶会を度々招いて、可愛がったそうである。特に次男秩父宮の妃であった勢津子はお気に入りであったらしく、お互い親交が深く、毎年3月3日の桃の節句(雛祭り)の折には勢津子妃が実家からお輿入れした際持ち込んだ雛人形を宮邸に飾って、貞明皇后に見てもらうのが恒例行事であったそうである。
女官制度の廃止など宮廷改革を進めた長男の昭和天皇に反発し、自身の大宮御所では旧態依然とした宮廷制度を維持した。
「貞明皇后の愛情は、次男の秩父宮に傾きがちであった」と囁かれる。貞明皇后と秩父宮の誕生日は同一日(6月25日)であり、そのことから「皇后は強い縁を感じていた」とも言われる。上記の雍仁親王の婚姻に関しても、「妃に幕末維新で朝敵とされた松平容保の孫である勢津子(せつこ、旧名:節子、読み同じ)を強く推薦したのは貞明皇后で、勢津子との婚姻が成立したのも皇后の意向が大きく働いた結果であった」と言われる。
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東京都区部出身の人物
1884年生
1951年没
-『貞明皇后』は、
о“日本の第123代天皇・大正天皇の皇后(在位:1912年〈明治45年/大正元年〉7月30日 - 1926年〈大正15年/昭和元年〉12月25日)”
о“昭和天皇の母、明仁(上皇)の祖母、徳仁(第126代天皇)の曾祖母”
о“元華族。公爵・九条道孝令嬢”
о“一夫一妻制での最初の皇后。藤原氏から立后する最後の例”
о“公爵九条道孝の四女として、生母の野間幾子の実家である東京府神田錦町(現:東京都千代田区神田錦町)に誕生”
о“道孝は明治4年(1871年)に正室和子を亡くしており、幾子は道孝の側室だった”
о“1871年7月、東京府東多摩郡高円寺村(現:杉並区)近郊の豪農である大河原金蔵、てい夫妻に里子に出され、『九条の黒姫様』(くじょうのくろひめさま)と呼ばれるほど逞しく育った。農家の風習の中で育ち、栗拾いやトンボ捕りをするなど裸足で遊んだ”
о“養母のていは仏教への信仰心も篤く、早朝から観音経(法華経の一部)を読経しており、節子もていと共に仏壇に手を合わせていた”
о“華族女学校では下田歌子、石井筆子、津田梅子らに師事した。中でも、石井筆子との師弟関係の絆は強く、公私の交際は生涯に亘って続いた”
о“西欧列強と並び立つためにキリスト教文化圏の一夫一妻制を導入する必要性がある”
о“九条節子は、正室の子でないことや、色黒すなわち容姿端麗ではないことよりも、先述の通り『黒姫』と呼ばれるほどに健康であることが重視され、1899年(明治32年)8月21日に婚約が内定した”
о“「容姿端麗ではない」とされた節子以外の女性に皇太子が興味を持たぬよう、皇太子は節子を含めた女性との接触を制限された”
о“大河原家にあった幼少期の写真は没収された”
о“1900年(明治33年)2月11日、満15歳(数え年17歳)で、5歳年上の皇太子嘉仁親王と婚約。同年5月10日、宮中の賢所に於いて、賢所大前の儀を執り行った。これは、前4月に制定されたs:皇室婚嫁令に基づく、史上初の神前挙式であった”
о“1901年(明治34年)礼法講習会が日比谷大神宮で二人の婚礼を模して神前結婚式を創始し、以後、ホテル結婚式・披露宴とともに広く普及していった”
о“ドイツ帝国からの「お雇い外国人」であるエルヴィン・フォン・ベルツは「東宮はお元気な様子、妃は大変お美しい」と評した”
о“節子の恩師である下田歌子は、「これという取り柄が無いが、未来の国母としてわずかな欠点も無い方」という主旨の評価を新聞に寄せた”
о“成婚当時は教育係の老女官・万里小路幸子らに宮中における礼儀作法を厳しく躾けられ困惑したという”
о“当時は、皇太子は後の時代よりはるかに自由に行動できており、嘉仁親王は単独で代々木の練兵場や葉山、大磯などへ赴いた。特に大磯と日光には鍋島直大侯爵の別邸があり、イタリア生まれで雑誌グラビアでも頻繁に取り上げられた鍋島伊都子(梨本宮守正王と婚約中)と頻繁に会い、親しく交友していた”
о“成婚後すぐに懐妊した”
о“1901年(明治34年)4月29日、満16歳(数え年18歳)で、第一皇男子(第一子)の迪宮裕仁親王(のちの昭和天皇)を出産した”
о“節子妃は孤独の中で第二子を懐妊し、精神的にも深く落ち込んだ。この頃、下田歌子が神功皇后の故事にちなんで、節子妃を励ました。1902年(明治35年)6月25日、節子の満18歳(数え年19歳)の誕生日に、第二皇男子(第二子)淳宮雍仁親王(のちの秩父宮)を出産した”
о“成婚当初、皇太子と同妃節子が揃って過ごす機会は少なかった”
о“明治天皇と皇后が別々に行動した”
о“皇太子同妃はそろって博覧会を台覧し、また嘉仁親王が馬車の上下車の際に同妃節子の手を取ってエスコートする等、西洋式近代社会において一夫一妻の良きモデル像となりつつあった”
о“1904年に再び懐妊し、1905年(明治38年)1月3日に第三皇男子(第三子)光宮宣仁親王(のちの高松宮)を出産した”
о“1904年に川村伯爵が死去しており、迪宮と淳宮は沼津御用邸に移っていた。3月22日、皇太子妃節子は光宮とともに沼津に行啓し、3人の子どもたちとの時間を持つことができた。光宮はそのまま沼津に、迪宮と淳宮は青山の東宮仮御所に隣接する皇孫仮御所に移った”
о“ベルツは、帰国前の1905年(明治38年)の様子として、親子が同居していると誤解しているものの、皇太子妃節子が成婚以前の快活な様子を取り戻したことや、家庭を持った皇太子にも良い影響があったと記している”
о“やがて皇太子妃節子は第一皇子の迪宮よりも、第二皇子の淳宮に対する愛情を深めていった”
о“1907年(明治40年)10月、皇太子妃節子が長年師事した下田歌子(学習院教授兼女学部長)が、同年1月より学習院院長となっていた乃木希典と対立して退職した”
о“1909年(明治42年)5月29日、皇太子同妃は横須賀に行啓し、戦艦敷島に乗艦して海軍の演習を台覧した。軍事演習を台覧するのは皇太子妃節子にとって初めての経験であり、関連する和歌を33首も残すほど強い印象を受けた”
о“1909年には、御成婚祝の新居として建設された東宮御所(赤坂離宮)が完成するが、皇太子同妃の二人には広大すぎることや、子どもたちとの距離が遠くなることから、皇太子同妃が暮らすことは無かった”
о“1910年(明治43年)頃になると、再び皇太子妃節子は精神的に落ち込んだことを示唆する”
о“体重が減少した皇太子妃節子を心配した皇后が浜離宮や葉山へ誘った。翌1911年(明治44年)1月27日には、姉の大谷籌子(西本願寺法主・大谷光瑞夫人)が早世し、深い悲しみを受ける。籌子の葬儀から5日後の2月7日から葉山御用邸に滞在し、3月27日に発熱、3月31日に腸チフスの診断を受けた。4月4日以降、回復傾向と伝えられ、7月1日に全快した”
о“1912年(明治45年・大正元年)7月30日、明治天皇の崩御に伴う、夫・嘉仁親王の皇位継承(践祚)により皇后となる。3年後の1915年(大正4年)11月10日に京都御所にて御大典が行なわれたが、皇后は第4子(澄宮、のち三笠宮)を懐妊中のため欠席した”
о“1915年(大正4年)12月2日、第四皇男子(第四子/末子)澄宮崇仁親王(のちの三笠宮)を出産”
о“昭憲皇太后の後継者として、蚕糸・絹業を奨励し、自身も養蚕(皇后御親蚕)に取り組んだ。救癩事業(ハンセン病)に尽くし、灯台守を支援したことでも知られる。皇室や神道祭祀のしきたりや伝統を大切にした一方で、野口幽香、後閑菊野など近代女子教育の研究家を相談相手に宮中に招いた”
о“大正天皇が病に陥り、執務不全後は夫の天皇に代わり皇室を取り仕切り、元老や重臣たちと渉り合った”
о“1923年(大正12年)9月15日、関東大震災の被災者を慰問、日本の皇后が(単独公務で)被災民慰問をする初のケース”
о“1926年(大正15年・昭和元年)12月25日午前1時25分、皇后の手厚い看護も空しく、療養中の大正天皇が葉山御用邸で崩御”
о“大正天皇の臨終の際には、妻の貞明皇后の意向で、生母の柳原愛子を傍に居させた”
о“大正天皇の崩御後、皇太后は日課の如く、朝食を終えると大正天皇の遺影を安置した御霊殿に向かい、その日の出来事や新聞のニュースなどを「生ける人に仕えるよう」に語られ、退出する時間はいつも午前11時半を回っていた”
о“皇太子明仁親王を含む7人の孫(昭和天皇の皇子女7人と三笠宮崇仁親王の子女2人)の成長を楽しみとし、孫からは「おばばさま」と慕われた。特に、甯子内親王と寛仁親王はたびたび御所に訪問したことから、一緒に羽根つきやままごと遊びを付き合った”
о“1951年(昭和26年)5月17日、狭心症により大宮御所で崩御。享年66。皇太子妃時代に腸チフスに罹った以外は特に大病に罹らず健康であり、この日も恒例の勤労奉仕団への会釈(挨拶)を行う予定だったが、その準備をしている時に狭心症の発作が起き、そのまま死去した”
о“母の野間幾子(1849-1946、二条家家臣野間頼興娘、京都生まれ)は15歳で九条家に仕え、道孝の側室として、九条道実、菊麿王妃範子、大谷籌子、節子(貞明皇后)をもうけた”
о“「姑として、嫁の香淳皇后には何かにつけて厳しかった」”
о“皇族出身(久邇宮家の嫡出の女子で、身位は女王)であった香淳皇后に対する家柄への妬み(貞明皇后は名門公家藤原氏五摂家の九条家の出身ではあるものの、嫡出ではなく庶子である)と、周囲の人間から考えられていた”
о“学齢まで高円寺近くの農家に里子として逞しく養育された貞明皇后とは、根本的に価値観の不一致があった”
о“皇太子妃良子が姑である皇后節子の前で緊張のあまり、熱冷ましの手ぬぐいを素手ではなく、手袋(今も昔も女性皇族は外出の際は手袋を着用する)を付けたまま絞って手袋を濡らしてしまい、「(お前は何をやらせても)相も変わらず、不細工なことだね」と言われ、何も言い返せずただ黙っているしかなかった”
о“頭脳明敏で気丈な性格の貞明皇后ではあったが、目下の者にも決して直接叱責することはなく、この一件を目の前にした女官たちに、「二人は嫁姑として全くうまくいっていない」と知らしめる結果になってしまった”
о“3人の弟宮の嫁達、秩父宮、高松宮、三笠宮の各親王妃(雍仁親王妃勢津子、宣仁親王妃喜久子、崇仁親王妃百合子)とは御所での食事や茶会を度々招いて、可愛がった”
о“特に次男秩父宮の妃であった勢津子はお気に入りであった”
о“毎年3月3日の桃の節句(雛祭り)の折には勢津子妃が実家からお輿入れした際持ち込んだ雛人形を宮邸に飾って、貞明皇后に見てもらうのが恒例行事であった”
о“長男の昭和天皇に反発し、自身の大宮御所では旧態依然とした宮廷制度を維持した”
о“「貞明皇后の愛情は、次男の秩父宮に傾きがちであった」”
о“貞明皇后と秩父宮の誕生日は同一日(6月25日)であり、そのことから「皇后は強い縁を感じていた」”
о“雍仁親王の婚姻に関しても、「妃に幕末維新で朝敵とされた松平容保の孫である勢津子(せつこ、旧名:節子、読み同じ)を強く推薦したのは貞明皇后で、勢津子との婚姻が成立したのも皇后の意向が大きく働いた結果であった」”
-という。(つづく)<記2021年1月1日>〈24,132Byte〉
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