第96話 繋いだ縁が貴女たちに手を差し伸べる


 俺が変わるためには、手順を踏んだ儀式が必要だった。


 自分の愚行には、ケジメを付けなければいけない。俺の身勝手な言動で傷つけてしまった彼女に賠償ばいしょうをする事によって、俺は初めて前よりマシになったと言えるだろう。


 だから俺は酒はやらずに煙草を1箱使い切りながら一晩中考え込んだ。人間、自分の事でなら必死になれる。それがクズなら尚更だ。


 まぁしかし、どれだけ悩もうが全てを解決してくれる名案などは思い浮かばなかった。


 一応グリーフ遺族ケアだとかメンタルセラピーだとかを片っ端からスマホで調べてみたが、やはり俺にはそっち系のカウンセリングは不可能。付け焼刃の知識では、触れる行為自体が禁忌じみている。


 結局、一晩考え込んだ結論は”とにかく話をしてみるしかない”という事になった。


 そもそも、俺は安瀬の事をまるで知らない。何が好きで、何が嫌いか。どういう考え方をして、何を重んじるか。


 人となりを理解しながら、ゆっくりと正攻法で溝を埋めていくしか方法はないと思った。


 それにもう俺は底の底まで落ちたのだ。安瀬との関係はこれ以上はどうやっても酷くはならない。なら後は、覚悟を決めて登るだけだ。


 そうして、新入生オリエンテーション4日目の朝。


──バシャッ


「失せろ」

「………………」


 中央宿舎3階の特設自習室。そこで安瀬にお茶をぶっかけられる。


「馴れ馴れしく私の対面なんかに座るな」


 昨日の事を謝罪するために、俺は中央宿舎で安瀬を探し回った。そして自習室で勉強する彼女を見つけ、その対面に座した瞬間、このありさまだ。


「その顔を見ると反吐が出る。よく私の前におめおめと姿を見せられたな」

「あ、あはは……」


 人に壁を感じさせる敬語が、敵対者への物言いに変化している。ぶつけられる怒気が鋭すぎて、俺はもはや笑うしかなかった。


「あ、あのさ……まずは謝らせて欲しい。昨日は本当にすまなか──」


──バシャアッッ


「2度言わせるな。私の前から失せろ。お前のような奴からの謝罪なんて、私は求めていない」

「…………」


 びちゃ、びちゃ、と髪から多量のお茶が滴り落ちる。ペットボトルのお茶を半分以上使わせてしまい、少々申し訳なく思う。


(取り付く島もないな……)


 アレだけの事を言ったので当たり前だが、羽虫の如く嫌われている。


「と、とりあえず今日は出直してきます」


 頭からびしょ濡れだ。室内でこのまま話を続けるのは躊躇われた。


「来るな。次はこの程度では済まさない。必ず後悔させる」

「…………出直してくる」


 パシィンッ!!


「金輪際、私に近寄るな」


 追撃のビンタは、容赦がなかった。


***********************************************************


「はぁぁぁ……」


 自習室前の廊下で座り込み、深くため息をつく。


(このままでは会話も成り立たない……)


 ヒリヒリする頬を撫でながら、これからどうすればいいのかを必死に考えていた。


(ビンタの一発くらいじゃあ状況は改善されないよなぁ)


 暴力に該当されるが、俺が口にした言葉のナイフに比べれば軽傷も軽傷。むしろあと百発打たれても文句は言えない。


(どうしたもんかね……)

「あれれー、陣内?」

「ん?」


 聞き馴染みのある声に釣られて、反射的に顔を上げる。


 するとそこには、未だにホテル生活を続けているはずの猫屋と西代が立っていた。


「え? 2人とも、何でこんな所に?」

「いやいやー、それよりどったのー陣内? 昨日は連絡つかなかったのにー、今はこんな所でびしょ濡れで頭抱えてさぁー?」

「今日の天気は快晴だよ? ちょっと事情が想像できないんだけど……」


 2人は会って早々に、俺の異常な点にツッコミを入れてくる。


「えっと、これはな…………酔って正気をなくして、気が付いたら頭にお茶ぶっかけちまってた」

「は、はい?」

「こ、この真昼間から酒飲んで錯乱してたってー??」

(やっべ……)


 ダメだ。今のは流石に嘘だってバレる。咄嗟に適当な事を言いすぎてしまった。


「バ、バカだよねー陣内……。私が言うのもなんだけどー、お酒はほどほどにしなよー?」

「ほ、本当にね。異常者すぎて、僕普通に引いたよ」

「…………」


 な、何故だろう。誤魔化せてよかったと安堵すべきなのに、何故こんなにも腹立たしいんだ……。


「べ、別にいいだろ俺の事は……再度聞くけど、お前らこそ何でこんな所に居るんだ? 自習なんてする柄じゃあないだろ?」


 この2人は俺と一緒で、勉学意欲は皆無だ。何か目的でもない限り、酒盛りかパチンコが基本だろう。


「あ、いやぁー、そのー、ちょっと人を探しててさぁー」

「人探し?」

「あ……安瀬ちゃんをどこかで見かけなかったー?」

「っ」


 猫屋から発せられた意外過ぎる人名に、息が止まりかける。


「後ろの自習室にいるけど……なんでだ?」


 俺は慎重に彼女の意図を探った。


 猫屋と安瀬は、3日前にバチバチに言い争った。

 もしその続きがしたいと言うのなら、俺は断固として彼女を止めなくてはならない。一昨日までは、俺は猫屋寄りだったのだが……今はどちらの肩も持つし、どちらか一方に肩入れはできない。


「そ、それは、その、えっと、あのー……あはは、ちょっとねー?」

「?」


 俺の質問に猫屋は答えない。しどろもどろになりながら視線を泳がせている。


「猫屋はさ、

「え?」

「ちょ!? に、西代ちゃーん!?」


 西代のカミングアウトは、まさに予想外の物だった。


「べ、別にそんな事は言ってないじゃーん!? 私はただ……ただ、ちょっと話がしたいってだけでさぁー!!」

「はいはい、そうだね。ラブホ暮らしはもう飽きちゃったから、ペンションに戻りたいだけだもんね?」

「そ、そーいうことー!! か、勘違いしないでよねー陣内!! 私、別にそんないい子ちゃんとかじゃないからさー!!」

「あ、あぁ……」

「ふ、ふふふっ」


 無駄に悪ぶりながら、猫屋は恥ずかしそうにして頬をポリポリと掻く。その様子を見て、西代は肩をすくめてクスクスと笑った。


「あーもう、笑わないでよー。恥ずかしーなぁー……じゃあちょっと行ってくるからー、2人は喫煙所で煙草でも吸っててー」


 そう言って、猫屋は自習室に入って行った。


「…………」

「猫屋って、いいヤツだよね」


 意外な展開に呆然としていた俺に向かって、西代が語り掛けてくる。


「マッチポンプかもしれないけど、僕はそう思っちゃった。だって、僕なら死んでも謝らない。人に本気で頭を下げるなんて僕はごめんさ」

「……だな」


 俺も、変わろうと決意しなければ謝ろうなんて思わなかった。


 だから、思い悩んで自分の非を認められる彼女は、西代の言う通りいいヤツなのだ。


***********************************************************


──バシャァアッッ!!


***********************************************************


「…………た、ただいまぁー」


 頭からお茶を被った猫屋が、俺たちの元に帰って来る。


「お、おう。おかえり」


 ま、まぁ、猫屋はいいヤツではあるのだが……それを安瀬が許すかどうかはまた別の問題だよな、うん。ビンタされていないだけ、安瀬の行動は有情だ。


「はぁー……まぁ、そうだよねー……」


 ずぶ濡れの猫屋は、俺と同じように廊下に座り込んだ。


「あのさぁー、もしかして陣内も安瀬ちゃんに何かしたー?」


 間隣の彼女が、ややダウナーぎみに俺を見つめる。


「頭から濡れてるのって、安瀬ちゃんにお茶ぶっかけられたせいだよねー?」

「…………まぁな。悪い、嘘ついて」


 こうなれば当然、俺の雑な嘘は見破られる。


「いやぁー、それは別に気にしてないんだけどさー……」


 猫屋は中途半端な所で言葉を切る。きっと、俺がお茶を掛けられた理由が気になっているのだろう。


 ただ、俺はあの原っぱでの出来事を誰にも話す気は無かった。安瀬はあの時の自分を誰にも知られたくはないはずだし、俺もあの時の言動を知られるのは嫌だ。


「まぁ、ちょっと、あれだ……お前よりも、かなり酷いこと言った。だから…………死ぬほど後悔してる」


 追及されないよう短く、そして曖昧に言葉を濁す。こうすれば、猫屋はこちらの心情を察してくれるだろう。


「そっかー……あははー、バカだよねー、私達」

「そうだな……マジでバカだ」


 思った通り、猫屋はそれ以上追及しては来なかった。最低限、安瀬に迷惑を掛けたと理解してくれたみたいだ。


「「はぁぁぁ…………」」

「…………」


 2人揃って、自分の愚かさにため息をついた。


「……ねぇー、今からどうするー? ここに座り込んでても、仕方がないよねー?」

「風呂に入ってコインランドリーにでも行くか。服がお茶臭くなる」

「あぁーそうだねー。そうしよーかー」

「ねぇ陣内君、お酒は持ってるかな?」

「え?」


 びしょ濡れで縮こまった俺たち2人を見下ろしながら、西代が何故かお酒を要求してくる。


「そりゃあ持ってるけどよ。なんで?」

「ちょっと貸してくれないかな?」

「?」


 俺は不思議に思いながらも、彼女に酒が入った水筒を手渡した。


「おい西代どういうつもりだ? 酒なら、風呂を出た後にゆっくり飲もうぜ」

「僕、少し話をしてくる」


 西代は俺の問いかけを無視して、颯爽と自習室に入って行った。


「な、なんだアイツ?」

「なんだろねー? もしかしてー、お酒片手に腹を割って話そう、てきなやつー?」

「俺たちの代わりに? 西代が?」

「そーそー。ほらー、こういうのは当人より第三者の方が良いって言うじゃーん?」

「……確かに、そうかもな」


 西代の気遣いを受けて、俺はふと、ある考えに思い至った。


(仲良くなるのって、俺よりも西代の方が適任じゃね? この際、西代に頼み込んでみるのも悪くないよな?)


 ケジメを放棄して他人に責任を押し付けるわけではないが……安瀬を笑わせるのは俺でなくてもよいのだ。


 というより、嫌われている俺が彼女にすり寄って仲良くなろうなど、考えが甘すぎる。あそこまで酷い事をしたのだ。嫌悪感を拭うのには、きっと膨大な時間がかかるだろう。そうなると、俺は表に出る事はせずに、裏で橋渡し約に徹するべきだ。


 2人は内向的な性格をしていそうだし、相性は良さそう。きっとすぐに意気投合する。それに仲良くなるなら男の俺なんかより同性の西代だ。同性の方が、絶対に仲良くなりやすい。


「あの2人ってさー、相性よさげだよねー……!! なんか2人とも知的だしー、案外スパッと仲立ちしてくれるかもー……!!」

「だよな、そうだよな……!!」


 廊下に座り込んで顔を見合わせながら、猫屋と静かに同意し合う。どうやら猫屋も俺と似たような考えに至ったようだ。

 

 小さな期待感を胸に秘めながら、猫屋と一緒になって、わずかに開いた扉から室内を覗き込む。


「やぁ安瀬。こっちを向きなよ」 


──バシャァアッッ!!


「「ふぁッ!!??」」


 気さくな挨拶の後、西代が安瀬に向かって酒をぶちまけた。


「…………っ」

「安瀬。これはただの憂さ晴らしだから、あまり気にしないでくれ」


 泥炭を想像させる漆黒の瞳が、怒りを着火剤にして静かに燃え上がっていた。


「君が僕の友人たちにした行為は、到底許容できない物だったからね。まぁ、身勝手で自己満足なってやつだ。再度言わせてもらうけど、あまり気にしないでくれ」

「ッ!!」


 安瀬が勢いよく立ち上がり、座っていた椅子がバタンと仰向けに倒れた。


 キレた2人は、完璧に敵対する。


 2人の身長差は8センチ。西代は下から安瀬を睨め上げ、安瀬は敵意を込めて西代を見下げている。顔との距離は僅か数ミリほどだ。


「西代……今、自分が誰に何をしたのか…………分かっているのだろうな」

「は? なに? 君にとって水をおっ被せる事くらい、何でもないんじゃないの?」

「貴様っ!!」

「「あばばばばばばばば!?」」


 俺たちは弾かれたようにして室内に飛び込んだ。


「は、はいはーい!! ストップ、ストップーー!!」

「止まれ!! 止まってくれ2人とも!!」


 喧嘩寸前である両御仁りょうごじんの間に、猫屋となんとか割って入る。


「お、落ち付こーね、安瀬ちゃん!! わ、私が西代ちゃんの代わりに謝るから!! 誠心誠意に謝るから!! ごめんね!! マジでごめんねー!!」

「俺からもごめん!! 本当にごめんな安瀬!! もうマジで色々とごめん!! 心の底からごめんなさい!!」


 西代を背に隠しながら、このまま2人で土下座でもしてしまいそうな勢いで謝り倒した。


「大丈夫、大丈夫だからねー!! お、お酒ってお茶とかよりも揮発性が高いからきっと直ぐに乾くよー!! ねぇー、陣内!!」

「あ、ああ!! 日本酒なんて、本当にすぐに蒸発するから!! いやぁ、ワインとか入れてなくてマジで良かったぜ!!」

「だ、だよねー!! だ、だ、だからー、あ、あんまり、あの、その、気にしないでくれるとー……」

「あ、あ、ありがたいん、だけど……な?」

「…………せろ」

「「え、はい。な、なんでしょう?」」 

「今すぐ……今すぐ私の前から消え失せろ、このゴミ共おおおおおおっ!!」

「「は、はいいいいいい!! すいませぇええええん!!」」


 安瀬の激昂を受けて俺と猫屋は、置物のように西代を抱え上げた。


「あ、ちょ──」

「「失礼しましたああああああああ!!」」


 情けない声を上げながら、俺たちは脱兎のごとく部屋を後にする。


「2人とも離しなよ!! さ、流石にこの格好は恥ずかし──」

「うるせぇ!! 何やってんだよお前!? いや、気持ちだけは嬉しいんだけどさぁあああ!!」

「でもこれじゃあ完全に逆恨みだよーー!? ど、どーしよぉおおおお!! 絶対、前よりも怒らせちゃったぁああああああ!!」


 俺と猫屋の悲痛の叫びは、宿舎中に響き渡った。


***********************************************************


「はぁああああああああああ」


 チャプンっと、深い湯船に身体を預け、重いため息をつく。


 安瀬に更なる迷惑を掛けてしまった後、俺は濡れた体を洗うため大浴場に赴いていた。


(どうしようかなぁ……)


 顔を半分ほど湯に浸し、ぶくぶくと気泡を吐き出だしながら思索に耽る。


 安瀬の好感度がマイナスを更新した。


 どん底だと思った場所よりもさらに下へ落ちる事になるとは、流石に思っていなかった。ここからどうやって巻き返せばいいというのだろうか……。


──ガラガラガラ


「もー、ああいう事したらダメだからねー西代ちゃん? 非があったのって、どう考えても私たちの方なんだからさー……」

「分かった、分かったよ、猫屋。ついカッとなってしまったんだ。今は反省しているよ」

「本当にー? それなら、後で一緒に謝りに行けるー?」

「絶対にごめんだ。なんで僕が頭を下げる必要がある」

「全然反省してないじゃーん……」


 浴室の大きな仕切りの向こうから、女性の声が響いて聞こえてくる。


「そんな事よりもさ、今はこのお風呂を楽しもうよ。ほら、ラブホのジャグジーなんかよりも大きくて、効能が豊かそうだよ」

「……まぁー、たしかにいい湯だねー。私、温泉って結構好きなんだー。昔は毎日通ってたくらいでさぁー」

「あぁ、君の地元群馬は温泉大国か。いいね、羨ましいよ」

(…………んん)


 本来なら水音や人の話声なんかで隣の女湯から声なんて聞こえないのだろうが、今はまだ昼飯前だ。俺たち以外の利用客はいない。雑音に阻まれる事なく声は通る。


(もう出るか)


 まだ入ったばかりだが、少しだけ居心地が悪い。風呂なんていつでも入れるのだ。また夜にでもゆっくりしよう。


──ガラガラガラ


 俺が湯船から上がろうとしたその時、仕切りの向こうから再びガラス扉を開く音が聞こえた。


「……っち」

「……ふん」

「あ、安瀬ちゃん!?」

「っ!?」


 隣から聞こえてきた名前に、凍り付く。風呂から出ようとした足が止まってしまった。


「ははっ、安瀬じゃないか。偶然だね?」


 西代の明るい挨拶が耳に入って来る。表所は見えていないが、恐らく顔だけはニコニコと笑っているのだろう。


「こんな昼間のお風呂場で会うとは思ってなかったよ。どうしたんだい? まさか、誰かにお酒でもぶっかけられたのかな?」

「西代」


 あからさまな挑発に、安瀬は低く答える。


「あまり私を怒らせるな」


 敬語を取っ払った彼女の冷たい声。『最終警告だ』とでも言わんばかり。


 何故だか分からないが背筋にとんでもなく寒い物が走ったので、俺は反射的に湯に浸かりなおした。


「私はこれまでの人生で、自分を虚仮にした人間を許した事は無い。誰一人としてだ」

「ははっ、人目がないからって、ここで取っ組み合いの喧嘩でもするつもりかな? 威勢がいいんだね、口先だけは」

虚仮威こけおどしかどうか試してみるか?」

「ちょ、ちょ、ちょっ!? 2人とも喧嘩はダメだよー!?」


 隣の湯で唯一、俺の胃に優しい存在が喧嘩を止めに入る。


「喧嘩になったらー、小っちゃくて体重軽そーな西代ちゃんがワンパンで負けちゃうに決まってんじゃーん!! 見るからに虚弱なんだからさーー!!」

「猫屋、君はどっちの味方なんだい……あと、背に関しては結構気にしているから言わないでくれないかな」

「え、あ、そーなんだ…………でも可愛いーよ、西代ちゃん? お肌が真っ白で、雪みたーい。ほんと、綺麗だよねー」

「そ、そうかな……。君のような文句なしの美人に言われると、なんだか素直に嬉しいよ」


 …………酒を入れておくべきだった。俺は酒を入れないと普通の男なのだ。どうしても、邪な妄想が頭をよぎってしまう。


「女同士で何を褒め合っているのですか、気色悪い……はぁ、付き合っていられませんね」


 ペタペタと、素足で石床を歩く音が聞こえてくる。どうやら安瀬は、2人から離れていくようだ。


「なんだい安瀬、自分から因縁を付けておいて逃げるのかい?」


 西代の一言で、足音はピタリと止まった。


「…………そんな幼稚な挑発に、私が乗るとでも?」

「なら無視すれば?」


 西代は嘲るようにして安瀬を挑発し続ける。


「僕の挑発を幼稚だと鼻で笑って、自分に向かって大人の対応をしたんだって言い聞かせてなよ。勉強だけが取り柄の真面目ちゃんには、相応しい自分の慰め方だ」

「愚行権を行使する事こそをアイデンティティにしていそうな社会的弱者は発言まで負け犬じみているのですね。それって自分の無能を際立たせているだけですよ?」

「君って器量良しだから外から眺めている分には悪くなかったけど、いざ口を開くと高慢ちきで鼻につくね。ここが風呂場であっても、全身から性根の腐った匂いがする」

「貴方は見た目から芋臭いですものね。もしかして、自分は何もしなくても美しいと勘違いしていませんか? 飾らない美しさ、というのは計算して作り上げるものです。貴方みたいな無精者には、常に人から馬鹿にされている自覚がないのでしょうね」

「すまない、言葉足らずだった。君ってそんなゴミ溜めみたいな性格だから、ただ存在しているだけで集団から排斥されてるんだ。いつも1人きりで惨めったらしい理由がよく分かったよ」

「本を嗜む割に語彙が乏しいのですね。あぁでも落ち込まないでください。それは貴方のせいではありません。生まれついての出来の悪さは努力ではどうにもなりませんから」

「人でなしのクズめ、殺してやろうか」

「やってみろ、根暗もやし」

「ちょ、ちょ、ストップ、ストップ、ストップ!!?? 2人ともお願いだから止まってよーー!!!!」

(う゛ぅ゛ぉ、おえ゛っ!!)


 聞こえてきた罵り合いのせいで胃液がせりあがる。


(か、勘弁してくれよぉおお!? これ以上、安瀬との関係を悪化させないでくれぇええええ……!!)


 酒以外の理由で吐きそうになったのは本当に久しぶりだ。今の言い争いはそれくらい酷かった。


「ご、ごめんってぇ!! 全部全部、私が悪いからー!! 私が全部悪いんだからそんなに喧嘩しないでぇえええええ!! 私が何度でも謝るからぁあああああ!! お願いだからぁぁああ!!」


 1つ壁を挟んだ向こう側から、猫屋の悲痛な叫びが聞こえてくる。


(猫屋、頑張れ……超頑張れ)


 頑張ってくれ、猫屋。風呂から出たら俺もがむしゃらにフォローするから。ぶん殴られても何をぶっかけられてもヘラヘラ笑って仲裁に入るから……!!


「猫屋、ダメだよ。僕にここまで舐めた口を利いたんだ。中途半端じゃ許さない。この女とは、絶対に白黒つける……!!」

「望むところだ、西代。貴様のその尊大な態度ごとねじ伏せてやろう。この私に喧嘩を吹っ掛けた事を必ず後悔させてやる……必ずだ」

「え、ええええ!? な、なんでぇえええ!? 何でそーなるのー!? そんなに喧嘩しなくてもいいじゃーん!! 数少ない女生徒同士仲良くやろーよぉおおおおおお!!」


***********************************************************


「というわけだ、陣内君。今からこの性格が終わっているクソ女と一勝負する事になった」

「……ふん、誰がクソ女だ。この醜婦め」


 数十分後、俺たち4人は大浴場を出てすぐにある野外喫煙場で集結していた。


「んぐっ、んぐっ、ぶはぁ……そうか、そうかぁ。何でこうなっちゃうんだろうなぁ……」

「すぅー……ぷはぁー…………あぁー、ニコチンが胃に沁みるぅー」


 風呂上がりの一杯と一服。俺と猫屋は、心が安らぐ嗜好品に身を預けていた。


「猫屋、とりあえずお疲れ様。俺、お前の事マジで尊敬するわ……お酒、飲むか?」

「いるー……。陣内もー、このニコチンマシマシな手巻き吸うー……?」

「あぁ、貰うわ。……ありがとなぁ、猫屋。本当にありがとなぁ……」

「安瀬、あの面倒そうな課題には手を付けたかい?」


 猫屋と嗜好品を交換し合って現実逃避する中、西代は無情にも話を進めようとする。


「……いや、まだだ。そろそろ手を付けなければいけないと思ってはいる」

「そう。なら丁度いい、あれを賭けの対象にしよう」


 西代はモノトーンなパッケージを取り出して、シガレットに火を点ける。


「すぅ、ふぅー…………難易度が高い3つの課題。それの出来高の良し悪しで勝敗を決めよう。ジャッジは佐藤先生に頼む……それでどうだい?」

「……悪くないな。分かった、それでいいだろう」


 2人の勝負内容を聞いて、俺は少しだけ安堵した。


 西代の事だから、どちらかが破産するまでギャンブルするとか、お酒でぶっ倒れるまで潰し合いするとか、そのような破滅的な勝負を仕掛けると思っていた。


「それよりも、西代。負けた場合は、本当に土下座して詫びるんだろうな」

「安心しなよ。僕は勝負ごとの結果を誤魔化そうとはしない」


 苛烈な問いかけを、西代は涼しい顔で受け流す。


「例えスロットで10万負けたとしても、吐きそうになりながら実直に帰宅する。損失を受け入れ享受する姿勢こそ、博徒に必要な誠実さだよ」

「そ、そうか……。何を言ってるのか分からないが、きっと頭がおかしいのだろうな」

「はっ、凡夫には理解できない考え方だろうね」


 俺にも理解できなかった。ギャンブラーのイカれた矜持を理解する事は不可能だ。


「それじゃあ、安瀬。とっとと猫屋か陣内君のどちらかを選びなよ」

「は?」

「「え??」」


 急に話を振られたので、無関係だと思っていた俺たちは目を点にする。


「このままじゃあ3対1だ。公平性に欠ける。だから2対2の形を取ろうじゃないか」

「要るか、こんな昼行灯ども。仮に貰ったとしても、邪魔にしかならない」

「そうだよ? だから、公平性を保つために引き取れって言ってるんだ」

「え、マジ? 俺たちってそんなに役立たずなのか??」

「そ、そんな訳ないじゃーん? あははー、西代ちゃん冗談きっつーい」

「冗談じゃないよ? 人差し指でキーボードを叩くような人間が、一体何の役に立つって言うんだい? 普通に考えて邪魔だよね」

「「………………」」


 ずぅぅぅぅぅぅぅぅん、と猫屋と一緒になって落ち込む。


 そ、そこまではっきりと言わなくてもいいじゃん。事実なんだろうが、普通にへこむ……。


「ほら、安瀬。早く決めなよ。それとも、ハンデがないと僕には勝てない?」

「ぬかせ、クズめ」


 安瀬は面倒そうに俺と猫屋を見比べる。


 その際、彼女と目が合った。


「………………」

「………………」


 3秒ほど見つめ合うが、安瀬から感じられる感情は嫌悪のみ。ゴキブリや蛆虫を見る目と同じだった。


「……猫屋、来なさい」

「っ!! はいはーい!! え、私でいいわけー!?」

「目クソ鼻クソどっちがマシか、と言うだけです」

「は、鼻クソ……私、鼻クソかぁー……」


 まぁ当然だわな。例え逆の立場であったとしても、猫屋の方を選ぶ。


「……話し合いはこれで終わりだな。それなら私はもう行く。精々、無様を晒さないよう努力しろ、西代」


 安瀬はしっかりと捨てセリフを吐いてから、喫煙所から去ろうとする。


「あ、待ってよー、安瀬ちゃん」


 ササッと煙草をもみ消して、猫屋は安瀬の後を追って行った。


「こ、これからよろしくねー、安瀬ちゃん……まぁ、頭脳労働は役に立てないだろーけどー、パシリくらいなら任せてよー。私、バリバリ働いちゃうからさー……!!」

「貴方、それ自分で言ってて悲しくないのですか……」

「…………」


 俺は去って行く2人の背をボーっと見つめていた。


 横一列になって歩く2人の距離感は、一昨日に激しい言い争いをしたとは思えないくらい近い。


 嫌悪の比重が俺に偏った結果なのだろうが…………猫屋にとっては、良い兆候だと思う。オリエンテーションが終わるまで2人で課題に取り組むことになっちゃったようだし、その間に仲良くなってくれると助かるなぁ……。


「さて、これでお望みは叶ったかな?」

「え?」

「ああいうタイプは強引に巻き込まないとダメだよ、陣内君?」


 そこまで言われて、ハッとする。


 西代のおかげで、歪であろうが安瀬と関われる理由が、いつの間にか出来上がっていた。


「お、お前、これまさか、全部計算ずくか? お、俺たちのために、ここまでの流れを?」

「ふぅー…………半分だけね」

「お、おまっ、おま、マジ!?」


 紫煙の奥で微笑を浮かべる彼女。その策略高さに、度肝を抜かれた。あの風呂場での醜い罵り合いでさえ演技だったというのなら、もはや畏敬の念を抱かざる負えない。


「あぁでも勘違いはしないでくれよ? 君たちが安瀬に許してもらうのと、僕が彼女に土下座させるのは全くの別件だから」

「え?」

「くっ、くくく……あのクソ女…………ぼ、僕に向かって、社会的弱者だの、芋臭いだの……こ、こ、この僕に、よくあれだけの暴言を吐いた物だよ……」


 プルプルと怒りに震えながら、彼女は瞳の中をヘドロ色に変化させていく。


「か、必ず、土下座させる……。僕を見くびるとどうなるか、骨の髄まで叩き込んでやろうじゃないか……!! あのすました顔を地面に押し付けて、後頭部から踏み抜いてやる!!」

「………………」


 いや、あの…………『ありがとう、西代』って素直に言い辛いんだけど……。

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