第95話 全てを救え


さくら


 あれは結局、何という名前の病気だったのであろうか。


 幼い頃、母が病気で入院した。


「髪を結ってあげるから、こっちに来なさい」


 病室のベットでほほ笑む母は、病の暗い気配を感じさせないほど明るくて、優しかった。


 まるで、どこにも不調なぞ感じさせないよう。


「うん!!」


 父方の祖母に預けられた我と兄は、この、週に一度の面会が待ち遠しくて仕方なかった。


 でも今日は少し毛色が違った。兄は柔道の大会で、今週は来ることができない。


 だからこの日は、お母さんを独り占め。


「お義母さんに迷惑はかけてない? あんまり、無茶苦茶をやってはダメよ?」

「あははは!! この前、ばぁばと一緒にポテトキャノンを作って暴れまくってやった!!」

「はぁ、まったく……もう少し、御淑やかにしていなさい。女の子なんだから、ね?」

「えぇー、そんなの詰まんない!!」


 病名も、辛さも、母は何も語りはしなかった。


 我が知っていたのは……脳に腫瘍ができてしまったという事だけ。


 とても幸いな事に、早期発見できたお蔭で腫瘍は小さかったらしい。およそ半年間の入院の後、母の病気はあっさりと治り、元の日常へと戻った。


 それからの10年間は、病気の遍歴など感じさせないくらい、母は平然と暮らしていた。


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 何故、忘れていたのであろうか。


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「母上、帰ったでござる」


 大学受験を目前に控えた高校3年生、12月の冬。クリスマスを3日ほど過ぎたばかりであり、高校は既に冬休みに入っている。


 時刻は夜の10時過ぎ。


 塾から帰宅した我は、帰宅した事を伝えるために台所へと顔を出した。


『おかえりなさい、桜。ご飯出来ているけど、どうする?』


 これが、母との最期の会話だった。


「いらぬ。疲れて食欲が湧かんのじゃ。今日はもう、寝るからの」


 我は冷蔵庫から適当な飲み物を拝借し、台所から出て行った。


 ──がた。


「?」


 廊下に出た際、不意に、母の居る台所から物音が響いた。


「……? 母上?」


 呼びかけたが、母は何の返事もしなかった。


「………………」


 勉強で疲れていた我は『聞き間違いであろう』などと思い、2階の自室へと向かった。


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 死亡診断書


 Ⅰ.直接死因


 くも膜下出血


 Ⅱ.直接には死因に関係しないがⅠ欄の傷病経過に影響を及ぼした傷病名等


 てんかん発作


 (その他特に付言すべきことがら)


 患者は10年前に脳腫瘍の病歴があり、外科手術にてそれを摘出。

 後遺症は見られなかったが、過去の施術がダメージになっていた可能性が高い。

 脳動脈瘤の破裂時、てんかん発作を併発して意識を失っていた。


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 眠るように、母は亡くなった。


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 助かる可能性は、十分すぎるほどにあったのだ。


 あの時、疲労などを理由にして確認もせずに立ち去りさえしなければ、きっと助かった。病院だって、家からそれほど遠くはなかった。


 だから、絶対に、助かった。我さえ、ちゃんとしていれば、死ぬ事は無かった。


 皆は、口を揃えたように言う。


『よくある事故なんだ。仕方がなかった』


 医者か、あるいは葬儀屋は。


『不幸な事故でした』


 と言った。


(……違うよな)


 私だ。私が悪い。


 ごめんなさい。



ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。



 通夜と葬式は、自責の念で泣けなかった。


 だけど、火葬かそう


 外傷がないため生前となにも変わらない姿をした、おか■さ■が火にくべられ燃える。


 数日前まで話をして、ご飯を一緒に食べて、動いていたのに、お■■■■はざらついた灰と白い骨にだけになった。


 無にしてしまった■■■■■を見て。


「ぁぁあ、ぁ、ごめんな、さ、ぅ、う、いや、いやぁ……いやぁぁ」


 涙は止まらなくなった。


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 母がこの世を去ってから、私の生活は大きく変わる事になる。


 私は高校を卒業してから家事に専念するようになった。


 これまで家庭を支えてくれた母の代わりになる事を、私は望んだのです。


 進学を諦めた私に対して、父は特に文句は言ってはきませんでした。……何も言わずに私のやろうとする事を見守ってくれました。


 2年ほど続いた私の家事手伝い。忙しい、と感じたのは家事に慣れない3月ほどの間だけでした。


 母が居なくなり、兄は仕事が忙しいらしく半年に1回程度しか帰って来なくなった。そのため、私が支えるべき家族は私を含めてたった2人だけ。……これでは、母の代わりを務めているとはとても言えない。


 狭くも、広くもなかった家は、空いた空間から寒風が吹いているように寂しくて……その喪失を少しでも埋めるためか、私と父は2人きりで度々外出をするようになりました。


 父は『たまの贅沢だ』なんて言って、私を豪勢な外食に連れ出してくれました。


 美味しい物を食べていたら突然、涙が溢れ出した。


 母が生きていたのなら、一緒に、一緒に、味わえたのに。母も、こんなにも美味しい物を楽しめたのに。ふとした瞬間にそう思って、悲しくなってしまった。


『今日と明日はいい天気だ。どこかに出かけよう』


 父が言葉足らずにも、私を家族旅行に誘った。


 静岡の土肥金山まで赴き、冒険心を刺激されるような坑道を巡った。私の歴史好きは父譲りの物。なので、父と娘という間柄にしてはやけに意気投合して楽しんでいました。


 だけど、遊んでいる最中、涙は流れ落ちる。


 母だって、生きていたのなら、この楽しさをまだ何度も味わえた。父と一緒に花見に出かけ、海に行って、映画を見て、何だって、何だってできた。


 でも、もう母はこの気持ちを覚える事はない。


 一度そう考えてしまうと、坂を転がり落ちるように涙と悲しみは止まる所を知らず…………結局、私は旅行をぶち壊した。


『なにか、なにか……そうだな、新しい趣味を見つけなさい。お、お前が……昔みたいな馬鹿をやれるような』


 父に言われて、趣味を探した。


 筆頭に上がったのは生け花。献花けんかを綺麗に繕うために花を学び始めました。


 相変わらず、涙は絶えない。同じように花を習う生徒たちは、私を心配していたが、すべてを無視しました。私の涙は、憐みを持たれるべき物ではありません。


 1年ほど経ってから、父から生け花を辞めるように命令され、私は親に逆らわずに習い事を辞めた。


 ……亡くしてから、知った事があります。


(楽しくない)


 死とは、消失でした。


(何も、楽しくない)


 だって、こんなにも苦しい。


(笑えんよなぁ)


 許せない。許して欲しくない。


(当たり前であろう?)


 許せないのですから。


『これは父親としての命令だ。もう……つぐないはやめなさい』


 そうして、父は家から出て行けと言った。


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「お前のようなクズに、私の……私の何が分かるっ!!」


 大粒の涙を絶え間なく流しながら、彼女は俺を睨みつけた。


「なんで、なんでっ!! あんなに大勢の母親は生きていて。なんで、お前のようなクズの母親が生きていてッ!! 私の母はこの世に居ないっ!!」

「────え?」


 突然、安瀬桜が決壊した。


「あ、ああああ!! ああああああああああああっ!! なんで、私だけぇ!! なんで、なんで、あんなに早く!! わ、私がもっと、気を付けていればっ、ま、まだ母さんは若かったの、に、ぁ、あ、あ、ああああ、ああああああああああ!!」


 俺の目の前で、1人の人間が壊れようとしていた。


「あ、あんな死に方はあんまりじゃないですか!! あんな悲しくて、ひとりぼっちで死んでいい人じゃなかったのにっ!! 誰も、傍に居ないで、最後を迎えていい人じゃなかったのにっ!!」


 薄赤い長髪を振り乱して錯乱する彼女は、俺が知っている人柄とはかけ離れていた。


「っ、あっちに行けえええええ!!」


 呆気に取られていた俺を絶叫が貫く。


「嫌いだぁあああああ!! お前も!! あの場に居た奴らも!! みんな、みんな、大嫌いだぁああああああ!!」


 子供の駄々に、大人だけが知りえる苦痛を交えた罵倒が木霊する。


「失せろクソボケ!! 私にかまうな!! みんな消えてしまえぇええええええええええ!!」

「っ」


 あまりの剣幕に、俺は表情を固めたまま後ずさった。


「はぁ、はぁ……はぁ、はぁ」


 がなり散らした彼女は、肩を大きく上下させながら必死に呼吸を整える。


「…………ぁ」


 ひとしきり激情を発露させると、彼女ははっとした表情で俺の顔を見つめた。


「ぁ、ああぁぁ」


 そうして、安瀬は泣き崩れる。


「ぁ、あぁ、あああああ…………」


 力なくその場に座り込み、羞恥と嗚咽を隠さずその場にうずくまった。


みじめだ……」


 ぽつりと漏らされた後悔は、言葉通りに酷く惨めで、目をそむけたくなるほどに哀れだった。


 安瀬は、俺なんかに怒鳴り散らした事を心の底から恥じていた。


「お願いです、から……お願いですから、今は、1人にしてください」


 地面に伏したまま、安瀬は大嫌いであろう俺に向かって泣きながら懇願を始める。


「こ、こういう日は、自分を、自分を、制御できないんです……そんな事を思ってはいけないのに、他人が羨ましくて、妬ましくって……自分が許せなくて…………死にたくなって。そんな事を、そんな事を、思ってはいけないのにっ……」


 小さく、むごたらしくて、とても見ていられなかった。


「お願いですから……私の事は、放って置いて……」


 俺はその場から、わき目もふらずに逃げだした。


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 熱にでも浮かされているような気分だった。


「な、なんだよ、あれ。マジで意味が分からねぇ」


 思考が纏まらない。


 木々が生い茂る後悔の道を、ひたすらに駆け抜ける。恐ろしい幽霊から逃げるように全速力であの場から離れようとした。


「この年になって、あんなに泣いて、ヤバいよ、アイツ」


 自分の口から、みっともないクソが飛び出していた。 


「訳が分かんねぇ……訳分からないって、ははっ」


 彼女の激情を思い出し、手は震え、呼吸がバラバラのまま足が虫のように蠢く。


「はは、はははは………………は、は」


 乾いた笑いは罪悪感で直ぐに止まった。必死で回していた足も、段々と速度を落としていく。


「…………なんだよ、それ」


 混沌と渦巻く感情が、どこまでも俺を叩き落とした。


 たしかに、俺と同じで、安瀬には鬱屈した腐敗はあった。考え方や生き方を変えてしまうほどの辛い過去があった。


 だが、彼女の考えなんて、俺ごときに理解できるはずが無かったんだ。


「親が死ぬって、なんだよ」 


 共感できない事象が、俺を揺さぶり恐怖させる。


 太陽がいきなり消えてしまうような事だろうか。今踏みしめている地面がバラバラに砕け散ってしまうような事だろうか。


 どのような例えを思い浮かべても、そんな感覚、そんな衝撃が、俺に理解できるわけがない。だって俺の両親は、元気に生きている。


(お、俺は……)


 自分に問いかける。


(俺は、なんだ?)


 俺にできる事は自問自答くらいだった。


(あんな、あんなに苦しそうにしているヤツに、俺は、なんて言ったんだ? 何を思った? 俺は今まで……どんな態度で安瀬に接してきたんだ?)


 斜に構え、彼女を軽んじていた自分に、吐き気がする。


(俺はどこまで、人として道を踏み外せば気が済むんだ?)


 クズで最低な自分が本当に嫌になった。


(それに、それに……)


 安瀬桜に比べて、俺の過去はどれだけ陳腐で下らないのだろう。


 俺はただ、女に裏切られ、努力と時間を無駄にしただけ。たったそれだけなのに、女性を理不尽に目の敵にして、見下し、あまつさえ口に出して馬鹿にする。


(ダメだろ、それじゃあ)


 こんなのじゃ、俺はダメだ。俺は、ダメになる。


 このままでは、俺は今よりも、もっともっと取り返しのつかないクズ以下になる。


(なにかを、変えないと)


 漠然としていて、向かう先の見えない悲しみが俺を支配する。今すぐ何か行動を起こすべきだと、強い焦燥感が俺を突き動かそうとした。


「…………何を、どうすれば」


 だが、俺ごときに何ができる。


 俺が今から言葉や行動を改めて、彼女の傷心を少しでも払拭しようと一念発起いちねんほっき


(無理だろ……)


 断言するが、そんな事は絶対に不可能だ。


 何が起ころうとも、それだけは絶対にあり得はしない。少し考えれば、分かる事だ。


 彼女に残された親族は、安瀬に寄り添って必死に慰めただろう。

 長い時間を共にして、傷心を癒そうとしたはずだ。


 それに対し、知り合って一月しか経っていないような部外者の俺に一体何ができる?


「俺みたいなのが、何を……うぉっ!?」


 樹木に足を取られて、盛大にすっ転ぶ。


 悪路だというのに、思惑に引きずられて足元の注意が散漫になっていた。


「………………ははっ」


 ダサくて間抜けで愚かな自分に呆れ果て、笑みがこぼれた。


(安瀬は……)


 寝ころんで仰向けの状態のまま、俺のような最低の人間にできる事を、必死に考える。


(安瀬はこの大学に入学して、一度でも笑っていたか?)


 大学に入学してから、安瀬とは度々顔を合わせた。


 だけど、安瀬が笑った所を俺は一度も見たことが無かった。


「…………」


 安瀬に反して、俺は笑った。


 西代と猫屋気が合う女友達のおかげで、俺は何度も、何度も笑わせてもらった。


(少しでも、何かを……些細な事でも、やらないと……)


 何だっていい。笑っていると、辛い事を忘れられる。


 それだけは、俺のような人間とも同じなはずだ。


(けじめをつける)


 愚かだった俺と決別するために。


(俺は……変わらないと)


 俺がこれからも憂いなく楽しい大学生活を続けるために。俺が変わるために。


 少しでもいいから。彼女が他の大学に移るまでの間でいいから。


 安瀬の大学生活を、楽しい物に変えよう。

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