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ふてくされた顔をした学生が増えている。
比率にすればクラスの1割から2割。決してたむろしたりかたまったりすることはない。ぽつりぽつりと、教室の中、そこだけ背の高い外来種の雑草が何かのひょうしに風に運ばれ生えてしまったような場違いの風情で、彼らは散らばっている。
単にふてくされるということだけなら、これまでもそんな学生はいくらもいた。それに、増えたと言ってもクラスの2割程度じゃないか、とも言える。だが、去年あたりからそれが急に眼に立つようになり始めたのは、単に量の問題だけではないはずだ。
とりわけ女の子に多い。教室だけではない。喫茶店で、サークルのたまり場で、いずれ世間の視線からはずさんに「若者」とひとくくりにされてしまうそんな不特定多数の場で、彼女たちはそういう顔つきをするしかないというどこかあきらめた風情で、へたりこむようにそこにいる。不機嫌がもうずっとあたりまえの状態になっていて、そのあたりまえの状態のままそれがすでにひとつの身についた衣裳になってしまった――敢えてことばにすればそんな印象だ。
彼女たちの眼には、「どうせ……」という文字が常にスクロールされている。その「どうせ……」とは、「どうせあたしなんか」であり「どうせわかってくれないんだから」であり「どうせそういうものなんだから」であり、何にせよそのあとにそういうフレーズを自然に引っ張り出してくるしかないような、そんな「どうせ……」だ。
といって、反抗的というのとは違う。ツッパリというもの言いも今やカビが生えてしまったが、そういう古典的な反抗の色にはひとまずほど遠い。“そういうもの”としてある眼の前の秩序や制度といったものにタイして、彼女たちは直角に向かって抗うことなく最も抵抗の少ない態勢をとって小魚のように自然にスッと流してしまう。その程度の世間知は充分に身につけているし、身につけられる程度には社会性もある。
なのに、表情がうまく眼に浮いてこない。うっかり見ていれば何を考えているのかよくわからない。ある種の仮面のようにも見える。しかし、自閉症的な仮面ではない。それは外側から見ている限りにおいて確かにのっぺりと均質な仮面に見えるけれども、少し静かに向かい合ってみればその背後には何か活力ある、それなりに確かな「自分」の輪郭を求めざるを得ないような内面がうごめいているのが見える。感情の流れを身体にうまく直結させることを知らないのだ。感情表現もまたある種の訓練と習熟の過程に宿るものだとすれば、そんな感情に足をつけた内面の表現を必要とするような切実な関係にも場にもこれまでちゃんと巻き込まれてきたことがないのだ。まわりからまるでほったらかされたまま手を充分にかけられていない「自分」など、やはりふてくされるしかないだろう。
そういうふてくされ方をした彼女たちのたたずまいに、たとえば「オヤジ」と呼ばれてしまうような内面を抱えた世の多くの大人たちは耐えられない。彼ら「オヤジ」は思う。あのコ、若いのにいったいどういう根拠であれだけドカッと腰を据えて世の中を眺めてられるんだろう、あれって世間をナメてるんじゃないか、だとしたら世の中そんなもんじゃないってことを教えないとまずい、第一、あんな顔つきと態度のままじゃまわりにしめしがつきゃしない、よし、ここは一発何かきっかけ見つけてガンと言ってやらんといかん……
しかし、彼女たちは「オヤジ」にたやすくつけ込まれるようなヘマはやらない。自分の能力の4割5割くらいで人並以上のことはやってゆける程度には優秀なのだ。それを「若いのに変に世慣れている」とか「さめている」とか「要領がいい」といったもの言いでいらだってみせても、彼女たちをそのような眼つき顔つきのままにしておく「オヤジ」の側の無責任なもの言いでしかない。それに、彼女たち自身、「やることやってんだから、そこから先はほっといてくれないかなぁ」という論理で防波堤を作っている。その防波堤を越えて、彼女たちのそのふてくされた顔つきそのものとなお向かい合うだけの論理とことばと覚悟を備えた「オヤジ」などまずいるわけがないし、第一、そういう条件を備えた大人はすでに「オヤジ」ではない。
だから、そのようにひとまずは何の落ち度もなく破綻も見せない“いい子”であり、“いい子”であるという意味においてまわりからくすんだ“その他おおぜい”にしか見えない彼女たちに、それでもなお関わろうとする場合、「オヤジ」は「世の中はそんなもんじゃないぞ」というそれ自体は理不尽で身勝手な根拠でしか関われない。しかも、「オヤジ」はその「そんなもの」の内実や成立ちなど説明できないし、しようとも思わないから何も説得できない。ただし、彼女たちの中でも一部の最も鋭敏な連中ならば、「ふ~ん、そうなの、なんかよくわかんないけど、だったらあんたたちの思う“そんなもの”に見合う程度ににこやかにしてみせりゃいいわけね、それくらいですむのなら、どうせあたしなんとここまでないがしろにされてきてるんだから、もう一発法(´・ω・`)の精神でやってあげられないこともないけどォ」といった具合に持前の仮面に“世の中らしさ”の上塗りをしてみせることぐらい、その「オヤジ」の前でだけは結構やってみせてもくれる。そして、そういう関わり方をしたことによって彼女たちのふてくされた顔つきがさらにひとまわりよじれてしまったことに、「オヤジ」は「オヤジ」であるがゆえに気づかなかったりもする。
かくて、彼女たちはますますほったらかされたままになってゆく。
学校屋会社といった社会的な場ではなく、私的な場、とりわけ親子関係の場合には、往々にしてここまで事態がこじれてしまっている。親の方は、扱いにくいところはあるけれどもまぁそれなりに“いい子”だと思っていて、外から見ている限りあまり問題もないという比較的高偏差値の娘の場合、この種の難儀は二乗三乗になっている。それは純粋に内面についての屈託であるがゆえに、家族であれ友人であれ恋人であれ、その彼女の内面について正面から気づくだけの関係が成立していない場においては、どうしたってほどくことのないような種類の難儀である。
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いま、僕は何度も「彼女たち」と言ってきた。
だが、これは決して女たちにのみ特徴的な現象というわけではない。女達の方により明快に認められる現象ではあるけれども、しかし、構造としては野郎だとて本質的に同じ土俵に乗っている。
ただ、野郎は多くの場合、そこまで現象として顕著になる前にさまざまな回路で問題がなしくずしに別なものにすり替えられてゆくようなところがあって、悲しいかないつまでもふてくされた顔ばかりもしていられないという事情がある。そうでない野郎は優秀な“おたく”となって医者や弁護士や学者や官僚、ないしはいわゆるギョーカイ労働といった場所に自信満々でもぐりこむ。それはそれでまたこの先ツケが回ってくる大問題なのだが、ともあれそれに比べて女たちの方は、そのふてくされた顔をむりやりつつき回されることが少ない分、学校をくぐった後までもその顔つきを抱え込んだままになる可能性が良くも悪くも高いようだ。
たとえば、20代半ばから後半かなけて転職や留学へと走る女たちのある部分に、このような顔つきを抱え込んだままの人をよく見る。あるいは、結婚して1年足らずでわけもなくフッと別れてしまう女性たちについても同様だ。その多くは高学歴高偏差値。ただ、間違ってはいけないのだが、それを「甘やかされてきたからだ」といったもの言いで安易に説明してしまっては、何ひとつ解決にはならない。ことは、おそらくかなり厄介なのだ。
学校的世界観において、彼女たちは間違いなく優秀な部類に入る。能力を全開しないでも人並み以上のことができる。その分余力がある。だが、余力を持った人間にその余力について自覚させ、応分の責任を負わせる仕掛けが今のこの国には乏しくなっている。これは別に学校に限ったことではない。だから、彼女たちはその余力を「自分」にフィードバックすることなく、その余力を抱え込んだことを持てあましすらして、ふてくされ続ける。
学校を中心にばらまかれていった悪しき「平等」幻想は、今や余力を持った人間たちが輪郭のぼやけた「自分」しか持てないまま社会の中の居場所を定められず浮遊する、という悪夢のような状態を招いているのだ。それでもなお社会に身を置け、せけんに棲めと言うだけの大文字の根拠は、文脈抜きの「人それぞれ」という暴力全盛の今のこの国には存在しない。かくて、いかに雇均法ができ、女性の社会進出が数字の上で進んだとしても、彼女たちのふてくされた顔つきはほどけないまま固まるばかりで、その表現の背後にある内面に可能性に世間が気づき、それを組み込んだ新たな世間をこの先作ろうという契機は生まれてこない。能力はあるがそれを律するだけの「自分」はない、というこの不気味な「個」の遍在の光景は、やわなシャーシに大排気量のエンジンを詰んでしまったクルマが軽自動車に交じって、しかも自身まわりと同じ軽自動車だと思いコマされたまま、渋滞した一般道をヨタヨタと不機嫌に流している。そんな危なっかしいものに僕には思えるのだ。
*1:『教員養成セミナー』1992年9月 (時事通信社) 掲載原稿。